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January 2612001

 猟銃も女も寝たる畳かな

                           吉田汀史

題は「猟銃」から「狩」につなげて冬。作者がいるのは、山の宿だ。たぶん、猟場に近い土地なのである。夕食もすんで、ひとりぽつねんと部屋にいる。「さて、寝るとしようか」。と、立ち上がったときの着想だろう。宿屋だから、これまでにいろいろな人が泊まった。「猟銃」を持った男も泊まったろうし、女の客もあったにちがいない。いずれもが、この同じ「畳」の上で寝たのである。その連想から「男」を消して「猟銃」を生かし、「女」をそのままにしたところが、揚句のミソだ。硬質な「猟銃」と柔らかい「女」身との取り合わせが、ほのかなエロティシズムを呼び起こす。もとより作者の頭の中のことではあるが、この見知らぬ「女」の生々しさはどうだろうか。作者とともに、ここで読者もあらためて「畳」に見入ってしまうことになる。揚句で、思い出した。原題は忘れたが、たしかジョセフ・ロージーの映画に『唇からナイフ』というのがあって、タイトルに魅かれて見に行ったことがある。女の「唇」と冷たい「ナイフ」。ポップ感覚に溢れた作品だった。『口紅から機関車まで』という本もあった。揚句は、こういった流れを引き継いだ発想と言えるだろう。一方では、たとえばマリリン・モンロー主演の『荒馬と女』が連想される。このタイトルが「美女と野獣」の系列にあることは明らかで、これもエロティシズムをねらったタイトルだが、「猟銃と女」には及ぶまい。生身と生身とではなく、いわば「機械」と「身体」が反射しあうとき、より「身体」は生き生きと不思議な輝きを帯びるのである。「俳句研究」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


July 0672002

 青柚子や山の祭に海の魚

                           吉田汀史

語は「祭」で夏としてもよいが、青蜜柑や青林檎などと同様の使い方の「青柚子(あおゆず)」で夏としておきたい。まだ十分には熟していない柚子。歳時記には載っていないようだけれど、句では青柚子の季語的な役割が大きいと見て、当歳時記の新項目として追加した。句意は明瞭だ。山国の祭のご馳走に、青柚子を添えた「海の魚」料理が出された。刺し身だろうか。ただそれだけの情景であるが、この皿の上には、ご馳走やもてなしに対する人々の歴史的な考え方が凝縮されて盛られている。作者はここで、当地ではなかなか入手困難な素材を使い、それをさりげなく提供することで、客人への厚いもてなしの表現としてきた歴史を感じているのだ。いまでこそ山国でも海の魚の入手は楽になったが、つい半世紀前くらいまでは、容易なことではなかった。海の魚が口に入るのは、それこそ祭のときくらいだった。そうした歴史があるから、いまだにたとえば山の宿などでは、夕食には必ず海の魚をご馳走として添えて出す。山国なのだから山の物づくしにすればよいと思うのは、都会ずれしたセンスなのであって、そう簡単にもてなしの伝統を変更するわけにはいかないのだ。山国で出される海の物は、鮮度も落ちているし、正直言って美味ではない。このときに、そこらへんから取ってきた青柚子ばかりが輝いている。しかし、この両者が一枚の皿の上に乗せられてはじめて、山の人のもてなしの心が伝わってくる。この心をこそ、客は美味として味わうべきだろう。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


August 0982002

 七夕をきのふに荒るる夜空かな

                           吉田汀史

語は「七夕」、昔は陰暦七月七日(または、この日の行事)を指したので秋に分類。仙台七夕など各地の月遅れの祭りは終了したが、昔流に言うと、今年は今月の十五日にあたる。句は、七夕が過ぎたばかりの空が、急に荒れだした様子を描いている。台風でも近づいてきたのだろうか。「きのふ」の七夕の晴夜が嘘のように、黒い雲が走る不気味な空を見上げて、作者が思うことはおそらく「祭りの果て」「宴の後」といったことどもだろう。一抹の寂しさを、荒れはじめた夜空がさらに増幅している。これを単なる自然現象による成り行きと言ってしまえばそれまでだが、こういうときに人は、自然現象にも人ならではの意味を読んできた。「ハレ」と「ケ」の交互出現、良いことは長くつづかぬといった考えなどは、みな自然現象から読み取ったものだ。俳句様式はまた、こうした読み取りを得意としてきたのだった。ところで、三鷹市にある国立天文台では、昨年から「伝統的七夕」の復活を呼びかけている。新暦でもなく月遅れでもなく、旧暦による七夕を祝おうと、今年も十五日には市内でイベントが予定されている。天体の専門家たちによる提唱ゆえ、やがて全国に波及していく可能性は高いだろう。俳誌「航標」(2002年8月号)所載。(清水哲男)


September 2692002

 猿の手の秋風つかむ峠かな

                           吉田汀史

ながら、よく描かれた墨絵を思わせる品格ある句だ。この「秋風」は、肌に沁み入るほどに冷たい。群れを離れた一匹の「猿」が、「峠(とうげ)」で懸命に掴もうとしているのは何だろうか。かっと目を見開いて身構える孤猿の「手」を、作者は凝視しないわけにはいかなかった。掴みたいものが何であれ、しかし何も掴めずに、風を、すなわち空(くう)を何度も掴んでいる姿には、孤独ゆえに立ち上がってきた狂気すら感じられる。そんな猿のいる峠は、したがって、容易に人間の立ち入れるような世界ではないと写る。異界である。ところで、作者自註によれば、実はこの猿は檻の中にいた。「剣山の見える峠のめし屋。錆びた鉄格子を狂ったように揺する一匹の老猿」。掴んでいるのは実体のある鉄格子だったわけだが、その鉄格子を風のように空しいものと捉えることで、作者は猿を檻の外の峠に出してやっている。出してやったところで、もはや老猿の孤独が癒されることは、死ぬまでないだろう。だが、出してやった。いや、出してみた。単純に、自然に返してやろうというような心根からではない。檻の中の一匹の猿の孤独が、実は峠全体に及んでいることを書きたいがためであった。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


October 15102002

 樫の實や郵便箱に赤子の名

                           吉田汀史

語は「樫の實(実)」で秋。ドングリの一種。ただし、真ん丸いクヌギの実のみをドングリという場合もある。前書に「舊川上村」とあるから町村合併で村の名は失われたのだろうが、旧名からしていまなお人家の少ない山里の地が想像される。よく晴れた秋の日に、作者はたぶん出産のお祝いで、知人の家を訪ねたのだろう。玄関先に立つと、もう生まれたばかりの「赤子の名」が「郵便箱」に黒々と書かれていた。落ちてきた「樫の實」が、いくつか郵便箱の上にも乗っている。赤子とドングリ。この自然の取りあわせが、なんともほほ笑ましい。むろん、作者も微笑している。郵便箱に赤子の名を書いたからといって、赤子宛に郵便物が届くはずもないけれど、当家には家族が一人増えましたよというメッセージを世間に伝えているわけだ。そこの家族全員の喜びの表現である。昔はよくこんなふうに家族全員の名前を書いた郵便箱を見かけたが、最近はとんとお目にかからない。物騒な世の中ゆえ、家族構成が一目でわかるような情報を世間に晒すなどはとんでもないと考えるようになったからだ。我が集合住宅の郵便受けにもそんな表記は一つもないし、戸主のフルネームすら書いてない。すべて、苗字だけである。むろん、私のところも(苦笑)。そのうちに、苗字すらもが暗号化されるイヤ〜な時代がやって来そうだ。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


February 0622003

 鯛焼のはらわた黒し夜の河

                           吉田汀史

語は「鯛焼(たいやき)」で冬。冬は、あつあつに限るからだろう。ところで、掲句の鯛焼は、どう考えてもあつあつとは思えない。むしろ、もう冷めきってしまっている。だから、黒いのは餡ではなくて「はらわた」なのだ。せっかく求めた鯛焼を、何故いつまでも持ち歩いて食べなかったのか。句からは何も事情はわからないけれど、その事情を読者に想像させずにはおかないところが、作者の手柄だと思う。女連れだ。と、これは私の想像だ。そうでなければ、まず男一人で鯛焼を買うことはないだろうし、第一に、寒い夜の河畔にたたずむこともあるまい。たわむれに、二人で鯛焼を買ったまではよかった。が、歩いているうちに込み入った話になり、だんだんお互いに無口になり、気がついたら河畔に立っていたというわけだ。すっかり気まずくなった雰囲気を断ちきろうとするかのように、鯛焼を二つに割ってはみたものの……。「はらわた」のような黒い餡が目に沁みて、なおさらに重苦しい気分に落ち込んでいる。かすかに水面が見えるだけの「夜の河」も、あくまでもどす黒い。その昔、吉村公三郎がはじめて撮ったカラー映画に『夜の河』(1956・松竹)がある。もしかしたら、作者は、この映画を思い出して作句したのかもしれない。道ならぬ恋の二人の間に立ちはだかった動かせないものの象徴として、このタイトルは付けられていた。俳誌「航標」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


April 0542003

 逃水に死んでお詫びをすると言ふ

                           吉田汀史

語は「逃水(にげみず)」で春。草原などで遠くに水があるように見え、近づくと逃げてしまう幻の水[広辞苑第五版]。ときに舗装道路などでも見られる現象で、蜃気楼の一種だという。掲句を読んですぐに思い出したのは、敗戦時、天皇陛下に「死んでお詫びを」した人たちのことだ。敗戦は我々の力が足らなかったためだと自分を責めて、自刃を遂げた。あれから半世紀以上が経過した今、彼らの死を無駄であったと評価するのは容易い。「逃水」のような幻的存在に、最高の忠誠心を発揮したことになるのだから……だ。戦時中の私はまだ幼くて、空襲の煙に逃げ惑い機銃掃射におびえたくらいの体験しかないけれど、すでに祖国愛みたいな感情は芽生えていて、皇居前の自刃の噂にしいんとした気持ちになったことを思い出す。少なくとも、無駄な死などとは感じなかった。そうなのだ。人はたとえ幻にでも、状況や条件の如何によっては、忠誠を誓うことはできるのだ。ここで、かつての企業戦士を思ってもよいだろう。掲句は、そうした人のことを「と言ふ」と客観視している。しかし、冷たく馬鹿な奴めがと言っているのではない。むしろ、その人の心持ちに同調している。同調しながらも、他方で人間の不思議や不気味を思っている句だと、私には読める。作者が句を書いたのは、イラクの戦争がはじまる前のことだし、戦争のことを詠んでいるのかどうかもわからない。つまり直接今度の戦争には関係ないのだけれど、いまの時点で読むと、こんな具合に読めてしまう。最近の戦争報道でも、やたらと「忠誠」という言葉が出てくる。俳誌「航標」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


May 0252003

 原節子・小津安二郎麦の秋

                           吉田汀史

優と監督と映画の題名(正確には「麦の秋」ではなく『麦秋』[1951・松竹大船]だが)を並べただけの句だ。しかし、こうして並べるだけで、ある世界がふうっと浮かんでくるのだから不思議だ。その意味で、手柄はやはり並べてみせた作者にあると言うべきだろう。良し悪しや好き嫌いはともかくとして、血縁や地縁などがまだ濃密に個人に関わっていた時代の世界。そこに漂っている静かな空気は、小津が好んだ中流以上の階級のものではあるけれど、常に懐しさと優しさに満ちていて、よくぞ日本に生れけりの感を観客にもたらしたものだった。ご存知のように、小津映画にはさしたるドラマ性はない。『麦秋』は、婚期を逸した原節子(といっても、二十八歳という設定だ)が、周囲の暗黙の反対を押しきって、妻を無くした医師の後添えとして結婚を決意するというだけの話だ。小津は、このようなどこにでもありそな日常をきめ細かく丁寧に描くことで、凡百のドラマ映画をしのぐ劇映画を撮りつづけた。ストーリー性よりもディテールの描写を大切にしたところは、どこか俳句作りに似ていないだろうか。事実、小津は俳句もよくした人であり、百句以上の句が残っている。たとえば「小田原は灯りそめをり夕心」などは、あまりにも小津映画的な句と言ってよいだろう。映画のタイトルに「麦秋」「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」など季節の言葉が多いのも、俳句との仲の良さを色濃く感じさせる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


May 2652003

 尺蠖に瀬戸大橋の桁はずれ

                           吉田汀史

語は「尺蠖(しゃくとり・尺取虫)」で夏。パソコン方言(?!)で言うならば、普通の(笑)を通り越した(爆)の句だ。「瀬戸大橋」は見たことがないけれど、先日、その三分の一ほどの長さの明石海峡大橋を眺めてきたばかりなので、句集をめくっているうちに、句が向こうから飛び込んできた。瀬戸大橋の構想は既に明治期にあったそうだが、架橋によって発生した諸問題はひとまず置くとして、人間というのは何とどえらいことを仕出かす生き物なのだろうか。というのが、明石大橋を間近に見ての実感だった。この句に企んだような嫌みがなく素直に笑えるのは、作者がまず、そのどえらいこと自体に感嘆しているからだ。全長約10キロに及ぶ長い橋に体長5センチほどの「尺蠖」を這わせて長さを測らせるアイデアは、簡単に空想はできても、空想だけでは「桁はずれ」とは閉じられない。なぜなら、「桁はずれ」とはあまりに出来過ぎた言葉だからだ。空想句の作者だと、そのことがひどく不安になり、なんとか別の言葉で少しでもリアリティを持たせようとするだろう。が、掲句の作者は堂々と「桁はずれ」とやった。大橋のどえらさを、実感しているからこその措辞である。このどえらさを前にしては、出来過ぎも糞もあるものか。そんな心持ちが伝わってくる。あるいは読者のなかには、「桁はずれ」に「(橋)桁外れ」の黒いユーモアを読もうとする人もありそうだが、そこまで斟酌する必要はないだろう。直球一本句として読んだほうが、よほど愉快だ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


July 0672003

 乳いろの水母流るるああああと

                           吉田汀史

語は「水母(くらげ・海月)」で夏。もしも「水母」が鳴くとしたら、あるいは啼くとしたら、なるほど「ああああ」でしかないように思える。「ああああ」は「ああ」でもなく「あああ」でもなく、人間にとっての究極的かつ基本的な絶望感の表現に通じている。おのれの弱さ、無力を自覚させられ、絶望の淵に沈み込んだとき、言葉にならない言葉、言葉以前の言葉である「ああああ」の声を発するしかないだろう。その意味では、この「ああああ」は、逆に言葉を超えた言葉でもあり、あらゆる言葉の頂点に立つ言葉だとも言える。水母の身体の98パーセントは水分であり、寿命の短い種類だと誕生後の数時間で死んでしまうという。まことにはかなくも希薄な存在だ。そんな水母が波に漂い翻弄され、「ああああ」と声をあげている様子は哀切きわまりない。多くの水母は、実は自力で泳いでいるのだけれど、私たちにはそうは見えない。また、獰猛としか言いようのない肉食生物なのだが、そうも見えない。見えないから、私たちには「ああああ」の声が自然に聞こえてきてしまうのである。となれば、たとえば反対に、水母から見た人間はどうなのだろうか。私たちは自力で歩いているのだが、彼らにはただ風に漂い翻弄されているだけと映るかもしれない。それも、やはり「ああああ」と啼きながら……だ。句からは、水母のみならず、生きとし生けるものすべてが「ああああ」と流されていく弱々しい姿が、さながら陰画のように滲んで見えてくる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


August 2582003

 三伏の肉のかたまり船へ運ぶ

                           吉田汀史

語は「三伏(さんぷく)」で夏。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する意。夏の極暑の期間。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の第一の庚の日を末伏という。時候の挨拶で、極暑の候をいう[広辞苑第五版]。暦的にはとっくに過ぎてしまったが、このところの暑さはまさに三伏の候を思わせる。やっと梅雨が明け、本格的な夏がやってきたというのが実感だ。東京の暑さも昨日が今年最高で、蝉時雨なおしきりなり。そんな暑さのなか、白昼「肉のかたまり」が「船」へと運ばれている。どんな肉なのか、どのくらいの大きさのかたまりなのか。あるいは、どんな船なのか。肉はたぶん船内での料理のために使われるのであろうが、一切の具体性は不明だけれど、掲句には猛暑に拮抗する人間のエネルギーが感じられる。情景の細部を省略し、一掴みに「肉のかたまり」とだけ言ったところに、言葉のエネルギーも噴き出している。真夏の太陽の直射を受けて立とうという気概があり、たとえ激しい労働の一情景だとしても、受けて立つ健康な肉体の喜びまでが伝わってくるようだ。しかも「船」には前途がある。港のこの活力は、ここだけで終わるのではない。未来につづくのだ。団扇をバタバタやりながら掲句を読んで、久しく忘れていた酷暑のなかでの爽快感を思い出した。若い日の夏を思い出して、とても気分が良くなった。こういう句は、作者もよほど体調がよくないと書けないだろうな。そんなことも、ふっと思ったことでした。俳誌「航標」(2003年8月号)所載。(清水哲男)


September 1992003

 寂鮎を焼けくちびるの褪せぬ間に

                           吉田汀史

語は「寂鮎」で秋。寂鮎の表記は初見だが、錆鮎(さびあゆ)を雅びにひねった当て字かと思われる。鮎は産卵期になると川を下ってくる(落鮎)が、体に刃物の錆びたような斑点が現れるので錆鮎の名が生まれた。句は、歌人の吉井勇が大正期に書いて大ヒットした「ゴンドラの歌」(作曲・中山晋平)を踏まえている。♪いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱き唇 褪(あ)せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを。戦後では、黒澤明が映画『生きる』で使ったことから、愛唱する人が増えた。この句を、私は最初、抱卵した鮎を美少女に焼けという、ちょっと屈折した愛情表現かなと思ったのだが、眺めているうちにそうではなさそうだと思い直した。焼けと言った相手は、昔の美少女に対してなのだと。そう読めば、こうなる。いつまでもぺちゃくちゃ喋っていないで、その口の乾かぬ間に、つまり鮎の鮮度が落ちぬ間に早く焼いてくれよ……と。むろんどちらにも取れる句だが、後者の方が俳諧的なサビが効いている。それに、現在ただいまの美少女に対してならば、単に「くちびる」とは言わずに、やはり「朱き」の形容詞は外せないところだろう。とはいえ、いやあ、こうなると昔の美少女も形無しだななどと読んではいけない。作者は相手が美少女であったことを認めているのだし、だからわざわざ「ゴンドラの歌」を持ち出したのだし、こちらのほうがよほど屈折した愛情表現と受け取れるからだ。男なんてものは、たいていがこうである。もう一句。「七輪を出せこの秋刀魚俺が焼く」。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


November 30112003

 サルトルもカミユも遥か鷹渡る

                           吉田汀史

語は「鷹」で冬。一般的に長い距離は移動しないが、種類によっては寒くなると南へ「渡る」のもいる。眼光炯々として姿態清楚な猛禽が、群れをなして「遥か」彼方へと去っていく。ちょうどそのように、熱い情熱で時代を告発し説得しつづけた「サルトルもカミユ」も二人ともが、既に故人となり、その思想も「遥か」な地平へと没してしまったかのようである。昨今の世の動きを見るにつけ、彼らが火をつけ世界中に共鳴者を獲得した思想とは何だったのかと思う。単なる郷愁句ではなく、作者はやりきれない思いの中で反問しているのだ。私もまたサルトルやカミュに強い共感を覚えた一人だっただけに、彼らの思想を一時のファッションとしてやり過ごすわけにはいかない。当時、ある人が「実存主義とは何か」という問いに答えて、こう言った。「郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも、みんなアタシのせいなのよ。これが実存主義さ」。むろん小馬鹿にした揶揄の言だけれど、あながち当たっていないこともないだろう。なぜなら、実存主義最大の主張はアタシ(個人)の存在と尊厳をあらゆる価値の最上位に置くことだからだ。簡単な例で言えば、いかなる事態にあろうとも、常に国家よりも個人が大切ということである。そのためには、他方で当然数々の困難をもアタシが引き受ける思慮と勇気とが必要となる。第二次世界大戦の悲惨な熾きがまだくすぶっていた時代のなかで、出るべくして出てきた考え方だ。なんだい、そんなことなら「常識」じゃないか。今日、サルトルもカミュも読まない世代の多くは言うだろう。その通りだ、「常識」なのだ。言うならば、当時だって当たり前の言説だったのである。が、この「常識」は、今の世の中でいったいどこでどういうふうに機能し通用しているのかね。つらつら世の中を見回してみるまでもない。「あれよあれよ」の間に、どんどん実質的には非常識化している現実に怖れを抱いてしかるべきではないのかね。それこそ私の常識は、実存主義の鷹がいまや絶滅の危機に瀕していると告げている。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


December 08122003

 軍艦と沈んでゐたる海鼠かな

                           吉田汀史

語は「海鼠(なまこ)」で冬。十二月八日と聞いて、なんらかの感慨を覚える人も少なくなってきた。かつての開戦の日だ。私の世代はまだ幼かったので、実感的に思い出せるのは七十代以上の人たちだろう。句は直接この日を詠んだものではないが、戦争の悲惨を静かに告発している意味で挙げておきたい。海深く沈没させられた軍艦の周辺に、物言わぬ海鼠が寄り添うように「沈んで」いる。多くの海鼠は陸地に近く棲息するから、句の海鼠は死んでいるのだろう。それはさながら、軍艦と運命をともにした兵隊たちの精霊のようでもあろうか。地上の人間からはとっくに忘れ去られた闇の世界に、いまなおゆらめく恨みをのんだ霊魂か。想像するだに、あまりにもいたましい情景だ。句で思い出されたのは、開戦後二年目(1943年)の今日の日付で封切られた映画『海軍』(田坂具隆監督・松竹)である。十数年前に、ビデオで見た。海軍報道部の企画で作られた映画だから、完全な国威昂揚を目的とした作品だ。鹿児島の雑貨屋の息子が家業のことを気にしつつも、お国のためにと海軍兵学校に進学する。無事卒業していまや中尉となった主人公は、十二月八日のこの日、特殊潜航艇に乗り組み、真珠湾近くの深海に身を潜めていた。作戦どおりにやがて静かに艇を浮上させ、潜望鏡で覗いた真珠湾には、空からの奇襲の被害を免れた敵艦の姿があった。ここで映画は終わる。いや、本当はこれから彼が華々しい戦果をあげるシーンがつづくのだが、戦後に米軍がこの部分のフィルムを没収して持ち帰り、行方不明というのが真相らしい。しかしここで終わっているほうが、むろん海軍情報部の意図には反しているけれど、戦争の悲惨を訴えるがごとき余韻が残る。史実はともあれ、奮戦の甲斐もなく潜航艇が大海の藻くずと化すシーンも、十分に暗示されていると思えるからだ。そこで私のなかでは、映画と掲句とが結びついた。勝手な連想でしかないことは承知だが、しばしば人のイマジネーションはこのように働く。加えて俳句の様式自体が、読者の自由な連想を喚起する装置として機能する以上、勝手な連想の居心地もよいというものだろう。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


January 1012004

 餅を食ふ三十三年前の父

                           吉田汀史

語は「餅」で冬。なぜ「三十三年前」なのだろうか。前書はないのだが、何か理由があるはずだと、句集の作句年代を見てみた。1977年(昭和五十二年)の冬に詠まれている。この年の三十三年前は1944年(昭和十九年)であり、すなわち敗戦の前年にあたる。この年、作者は十三歳。冬なので、まだ国民学校(小学校)6年生だったろう。こう見取り図を描いてみると、黙々と「餅を食ふ」父親像が浮かんでくる。作者がその姿をよく覚えているのは、食料難の時代だったからだ。配給の糯米で搗いたのか、あるいは他家よりのお裾分けなのか。比較的豊かな稲作農家であれば話は別だが、普通の家庭であれば潤沢に餅があったとは考えにくい。少しの餅を、家族で少しずつ分け合って食べた。それを少しも嬉しそうにではなく、むしろ不機嫌そうに食べていた父親。いまにして思えば、父親の不機嫌の理由は理解できるが、当時は何もわからなかった……。いま作者も餅を食べていて、ふっと当時のことを思い出し、家族を抱えて前途暗澹、さぞや苦しかったであろう父親の胸中を思っているのである。知らず知らずのうちに、作者もまたそのときの父親の顔つきで「餅を」食っていたのだろうなと想像される。あのころの父親は、そしてもちろん母親もまた、まだ若い時代を、ただ苦労するためにだけ生まれてきたようなものだと思う。憎んでも憎みたりないのは戦争である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


March 0332004

 雛の日の鱗につつむ死もありぬ

                           吉田汀史

語は「雛の日(雛祭)」。その命すこやかにと、女の子の息災を祈って行われる行事だ、桃の節句とも言われるように、春開花の季節のはなやぎが行事の本意によくついて色を添える。そのはなやぎの中にあって、しかし作者のまなざしは同時に、どこか遠くの海での孤独な命の終焉に向けられている。「鱗(うろこ)につつむ死」とは魚のそれであるが、単に「魚の死」と言うよりも、「死」をより生々しいものとして読者に訴えかけてくる。鱗がつつんでいるのは、もはや魚とは言えない存在である。それを「死」そのものでしかないと掴んだときに、雛の日のはなやぎの中に、あたかも実体のように「死」は突きだされたのだ。古来、はなやぎの中にさびしさを見出すという感性は珍しくはないけれど、掲句のようにさびしさの根拠を明確に、いわば物質的に指示した例は珍しいと言えよう。しかも作者は、漠然たる思いつきで海での死を思い描いたのではない。雛の日を終えた雛たちは、やがて女の子の命と引き換えに、海の彼方へと流されてゆく運命にある。流し雛。すなわち両者はそれぞれの死を媒介にして、海中で出会うのである。句は、そういうことを暗示している。何というさびしさだろうか。同じ作者に「わが父の舟とゆき逢へ流し雛」がある。まるで子供みたいな発想だと、笑うこと勿れ。「わが父」がこの世の人ではないと理解するならば、夢まぼろしの世界でしか実現しない願いを、作者は「鱗につつむ死」同様に実体化したいのだと気がつく。祈りとは、そういうものだろう。かつて能村登四郎は、作者の特質を「現実のものを夢幻の距離で眺めて詠む」ところにあると言った。至言である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)


July 0472004

 駆け落ちをしての鮨屋や鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)の皮」で夏。鱧といえば関西だ。最近は東京あたりでも出す店が増えてきたが、本場には適わない。鱧がないと、夏のような気がしないという。身は天ぷら、蒲焼き、蒸し物などにし、皮も強火であぶったり二杯酢にして食べる。作者は徳島の人だけれど、鱧を珍重することでは徳島も関西と変わらないのだろう。行きつけの鮨屋で注文もしないのに、箸休めとして、鱧の皮が出てきた。主人からの粋な夏の挨拶なのである。彼は「駆け落ちをして」この地にたどり着き、苦労の末にこの店を開いた男だ。近隣の噂話でか、あるいは問わず語りに聞かされたのか、作者は知っており、彼は苦労人であるがゆえに客への気配りは申し分がない。季節ものをいち早くすっと無言で出すところなども、大いに気分がよろしい。「夏は来ぬ……か」と、作者は微笑しつつ箸を付け、ちらりと主人の顔を見て、彼の来し方に思いを巡らせたことだろう。まるで短編小説のような味わいのある句で、「駆け落ち」と「鱧の皮」との取り合わせが、東京とはまた違った人情の世界を浮かび上がらせている。ご年配の方ならば、この句から上司小剣の代表的な短編小説『鱧の皮』を連想された方もおられるだろう。句とはシチュエーションも違うが、男女関係に発する人情に触れているという点では共通している。この小説でも実に鱧の皮がよく効いていて、田山花袋が絶賛したというのもうなずける。なかに「『あゝ、「鱧の皮を御送り下されたく候」と書いてあるで……何吐(ぬ)かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。/『鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。』」という会話が出てくる。俳誌「航標」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


August 0482004

 蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた

                           吉田汀史

の声、しきり。八月になると、どうしても戦争の記憶が蘇ってくる。といっても、私は敗戦時にはまだ七歳で、先輩方に言わせればぬるま湯のような記憶でしかないことになるのだろう。それでも、東京に暮らしていたから、連日の空襲の記憶などは鮮明だ。白日の空中戦も、何度か目撃した。庭先に掘られた「防空壕」には昼夜を問わず、空襲警報のサイレンが鳴れば飛び込んだものである。立派な防空壕じゃないから、四囲の壁などは剥き出しの土のままだった。夏場には、入るとひんやりとはしていたが、文字通りに泥臭かった。つまり、じめじめと「濡れて」いたのである。おそらく作者も、そんな感触を思い出しているにちがいない。そしてこの句の勘所は、「蝉しぐれ」の「しぐれ(時雨)」に引っ掛けて「濡れて」と遊んだところにあるだろう。現実には「蝉しぐれ」に濡れるわけはないから、一種の言葉の上での遊びであるが、しかしこの言葉遊びは微笑も呼ばなければ苦笑も誘わない。蝉しぐれの喧噪の中にも関わらず、何かしいんとした静けさを読む者の心に植え付けて座り込む。間もなく戦後も六十年。もはや往時茫々の感無きにしも非ずだが、茫々のなかにも掲句のように、いまだくっきりとした体感や手触りは残りつづけている。それが、戦争というものだろう。俳誌「航標」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


September 0492004

 ひるがほに紙の日の丸掛かりをり

                           吉田汀史

語は「ひるがほ(昼顔)」で夏。ちなみに「朝顔」は秋。まだ近所には咲いているが、そろそろ「昼顔」もお終いだろう。育てる人がいない野生の花だけに、いつの間にか咲き始め、いつの間にか終わってしまうという印象が濃い。典型的な路傍の花である。そんな打ち捨てられたような花に、これまた打ち捨てられた「紙の日の丸」が掛かっている。夕刻になれば紙くずのようになってしまう昼顔と、もはや紙くずと化した日の丸と。もちろん昼顔に掛かっているのは偶然だが、この取り合わせは哀れを誘う。何かの催事に使われた紙の旗が吹き寄せられてきたのだろうか、それとも子供が捨てた手製の旗だろうか。何にせよ、すぐにくしゃくしゃになってしまうもの同士が、こうしてしばし身を寄せ合っているのかと見れば、哀れさは一入だ。ましてや、片方はチラシ広告や新聞の切れ端などではなくて国旗である。ある程度以上の年代の人にとっては、現在の国旗観がどのようなものであれ、路傍に放棄された姿には一瞥チクリと来るものがあるにちがいない。単なる紙くずとは思えないのだ。だから掲句は、読む者の世代によって哀れの色彩がかなり異なるとは言えそうだ。「紙の日の丸」と、わざわざ「紙の」と表記したところにも、作者の年代がおのずから浮き上がっている。俳誌「航標」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


October 07102004

 柚子味噌を載せてをります飯の上

                           吉田汀史

語は「柚(子)味噌」で秋。味付けをした味噌のなかに、柚子の表皮をすって混ぜ合わせる。その昔、ものの弾みから、本格的なふろふき大根をつくったことがあり、そのときにはむろん「柚子味噌」もちゃんとつくった。たまたま美味かったけれど、以後は良い大根もなかなかないし、何よりも面倒臭いので、それっきりになっちゃった。かれこれ二十年も前の話である。という具合に、ふつう柚子味噌は料理の調味料に使うものだ。それを作者は「飯の上に載せて」いると言うのである。つまり、ご飯のおかずというのか、ご飯を美味しく食べるためにそうしているのだ。こりゃ、いいなあ。と、すぐに思った。というのも、戦後の混乱期に何もおかずがなかったとき、仕方なく味噌や塩を「飯」といっしょに食べた体験があるからだ。単なる味噌に比べれば、柚子味噌は上等中の上等だから、当時を思い出して咄嗟にそう反応したのだった。作者にも同様の体験があるのだろうが、しかし、句の書き方はどこかでちょっと照れていて微笑ましい。飽食の時代に、わざわざ粗食を選んだのではない。おそらく君たちは知るまいが、これは別に奇異な食い方じゃないんだ、本当に美味いんだからと、いささか開き直り気味の照れ隠しと読んだ。詠めそうで、詠めない句。その前に、誰もなかなか、こういう句を詠もうとはしない。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


November 10112004

 花嫁の菓子の紅白露の世に

                           吉田汀史

語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


January 0812005

 枯野ゆく徒手空拳も老いにけり

                           吉田汀史

語は「枯野」で冬。若い人が読むと、「枯野」と「徒手空拳」は付き過ぎ、あるいは出来過ぎと感じるかもしれない。いや、そう読むのがむしろノーマルだろう。なぜなら、若い人は病者を除いて、本当の意味での「徒手空拳」がわからないからである。つまり、日常的に自分の身体のありようを意識することがほとんどないからなのだ。したがって、他に何物をも持たず我が身一つをたのむという「徒手空拳」を、身体よりも気概に重きを置いて理解する。ところがある程度の年輪を重ねてきた人は、逆に身体に重きを置く。そうせざるを得ない。身体の老いの自覚は日常的になり、それだけ孤独感も深まってくる。字義どおりの「徒手空拳」で生活をつづける身にとっては、もはや「枯野ゆく」の孤独も比喩というよりは実感に近いのである。作者に比べれば、私などはまだまだ若造でしかないけれど、だんだんこういう句が見逃せなくなってきた。話は少しねじれるが、若者にとって最も理解し難い老人の欲望の一つに名誉欲がある。むろん掲句とは無関係の一般論だが、一円にもならない何とか褒章などを欲しがったりする人がいる。理由は単純で、要するに徒手空拳であることが恐いのだ。褒章というメディアで世の中ともう一度つながることにより、「枯野」から脱け出して、我が身一つではないことを確認したいがためである。この心情を良く知っている国家とは、しかし何と狡猾なことか。俳誌「航標」(2005年1月号)所載。(清水哲男)


April 2342005

 焼肉を食ひにあつまる朧かな

                           吉田汀史

語は「朧(おぼろ)」で春。「食ひにあつまる」「朧かな」と切るのではなく、「食ひにあつまる朧かな」とゆっくりと読み下したい。前者だと朧の宵にあつまるの意であり、実際にはそうであったかもしれないが、読み下すと「あつまること」それ自体が「朧」だということになる。むろん、両者の情感の差は大きい。私が後者と読むのは、作者の年輪を思うからだ。若い人の句であれば、あつまることがすなわち朧だという認識はまずないだろうから、切って読まざるを得なくなる。それに若者だと焼肉を食べることがあつまる大きな目的になるけれど、高齢者にはそのような意識は多く希薄だ。焼肉のためにあつまるというよりも、食べ物などは焼肉でも何でもよろしいわけで、とにかくあつまる楽しみのほうが優先するようになるのである。あくまでも、焼肉は脇役であるにすぎない。だから「朧」なのであり、この意識を拡大してゆけば、あつまる人々それぞれの人生も朧であり夢のようにも写ってくるだろう。かつての健啖家ももう多くは口にせず、あつまったメンバーの醸し出す雰囲気のほうをこそむしろ味わうというとき、ぼんやりとそれぞれの身を包む束の間の楽しさには無上のものがあると同時に無常の哀感もある。一見なんでもないような句に思えるかもしれないが、凡百の色付きの朧句よりも、よほど朧の本義に適った詠み方になっている。俳誌「航標」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


June 0462005

 白玉やばくちのあとのはしたがね

                           吉田汀史

語は「白玉」で夏。花札か麻雀か、はたまた競馬競輪の類か。あるいは、もっと大きな危険を伴う金銭的な取引なのか。いずれにしても、作者は「ばくち」で損をしてまった。落胆というよりも、茫然としながら、冷たい「白玉」を口にしている。純心の象徴のような白玉と、かたや無頼の極のようなばくちとの取り合わせ。無頼の果ての白玉は、さぞや目にも舌にもしみたことだろう。そして、手元に残ったのはわずかな金だ。だが、この貴重な金を「はしたがね」と言い捨てるところに、作者の負けん気があらわれていて、私などは凄いなと思ってしまう。侠気の美学とでも言おうか、そういえばいわゆる博才のある人のほうが、金銭を「はしたがね」とか「あぶくぜに」とかと言いなしているようだ。ゼニカネに執着してばくちを打つのではなく、あくまでも勝負にこだわって打つ姿勢を強調するのである。勝負が第一で、ゼニカネは単に後からついてきたりこなかったりするだけの話というわけだろう。からきし博才のない私には、言葉だけでもとうていついていけない。それはともかく、こうした侠気の美学が表舞台に登場することはなかなかないが、しかし、私たちの生活の底流にはいつも脈々と流れているのである以上、もっと詠まれてよいテーマの一つであると思う。それに白玉ばかりをいくら見つめても、この句以上にその純白を描くことは難しそうだ。俳誌「航標」(2005年6月号)所載。(清水哲男)


July 1172005

 生きていることの烈しき蛸つかむ

                           吉田汀史

国で育ち、あとは都会でしか暮らしたことがないので、海のものにはほとんど無知である。掲句の季語を迷いなく「蛸(たこ)」で夏期ととってしまったのも、その証拠のようなものだ。念のためにと思い手元の歳時記にあたってみたところ、季語「蛸」が見当たらないのには愕然とした。「迷いなく」思い込んでいたのは、どうやら芭蕉の有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が頭にあったからのようだ。だが、この句でも蛸は季語ではない。ただし調べてみると、蛸の水揚げ量が最も多いのは産卵期にあたる春から夏にかけてだそうだから、徳島在住の作者にとっての蛸漁は、春ないしは夏のイメージなのだろうと推察した次第だ。そんなふうだから、私はもちろん生きた蛸をつかんだことはない。けれども、掲句の言わんとするところはよくわかる。もはやぐたっとなっているかに見えた蛸をつかんだら、想像以上予想外の強力な「抵抗」にあい、たじたじとなると同時に、生命あるものの激しさに畏怖を覚えたのだった。私がそのことを肝に銘じたのは、中学一年のときだったろうか。教室で野ウサギの解剖をしている最中に、麻酔の切れたウサギが猛然と暴れ出したことがあった。思い出すだに冷たい汗の出てくる体験だが、生命の力とは強いものだ。だからこそ逆に、いざ生命が失われてみると、そのはかなさがより強く印象づけられるのだろう。俳誌「航標」(2005年7月号)所載。(清水哲男)

[ 訂正というか…… ]読者からのご教示もあり調べたところ、夏の季語に「蛸」を採用している歳時記がいくつかあることがわかりました。平凡社版、学研版、講談社版など。当歳時記は角川版(ときに河出版)に準拠しており、同版にはないのですが、作者の句風からみて「蛸」を季語としたほうが妥当と考え、夏期に分類することにしました。同様の問題はたまに出現し、悩まされるところです。


August 0482005

 蚊柱や昔はみんな生きてゐた

                           吉田汀史

語は「蚊柱(かばしら)」で夏、「蚊」に分類。蒸し暑い夏の夕方などに、蚊が群れをなして飛んでいるのを見かけることがある。最初は少数だが,たちまち数百匹の大集団になる。これは蚊の生殖行動だそうで、蚊柱を形成するのはすべて雄であり、その大集団に飛び込んでいくのが雌なのだそうな。人間には見るだけで鬱陶しい蚊柱ではあるが、蚊にしてみれば,生涯のうちで最も生命力の溢れている時空間なのだ。そのことに思いが至り,作者はふっと既に鬼籍に入っている誰かれのことを思い出したのではなかろうか。父や母のこと、親しかった友人知己の元気なころのことなどを……。すなわち、「昔はみんな生きてゐた」のだった。生きていたみんなのことを目障りな蚊柱から思い出しているところに、掲句のやるせなく切ないとでも言うべきペーソスを感じる。しかも蚊柱は,短時間のうちに消えてしまう。その儚さがまた、句にいっそう苦い味を付加している。作者には失礼かもしれぬが、句を読んだ途端に,私は「♪ぼくらはみんな生きている」ではじまる「てのひらを太陽に」という子供の歌を思い出し,なんとなく「♪昔はみんな生きてゐた」と歌ってみた。そうすると,本歌の毒々しくも能天気な向日性が消えてしまい,なかなか味わい深い歌に転化したのには我ながら驚いた。いま、首をひねった方,どうか一度お試しください。俳誌「航標」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


November 08112005

 秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ

                           吉田汀史

欲の秋にふさわしい句だ。季語は「秋鯖(あきさば)」。鯖(夏の季語)は秋になると脂がのって美味になることから、特別扱いの季語になった。味噌煮だろう。鯖の味噌煮はべつだん珍しくはないけれど、我が家のは「味噌」が違う。なにしろ「三河(現・愛知県岡崎市)の八丁」を使っているのだからと、大いに自賛している。この手放しの無邪気さが、ぐんと読者の食欲を誘い出す。読んだ途端に,食べたくなった。といっても、私は八丁味噌煮の鯖を食べたことがない。だいたいが東京では八丁味噌(赤味噌)をあまり食べないせいもあるけれど、街の店などで八丁を使うにしても、他の味噌とブレンドするケースが多いからではなかろうか。純粋に八丁のみで煮ると、かなり酸味がきつそうである。でもきっと、この酸味が鯖にはしっくりと合うのだろう。などと、あれこれ想像してみるのも、こうした俳句の楽しさだ。ところで、鯖の味噌煮といえば、森鴎外の『雁』に特別な役割で登場する。「西洋の子供の読む本に、釘一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話は、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである」。『雁』の語り手である「僕」の下宿の夕食に、たまたま鯖の味噌煮が出たために、物語は思わぬ方向へと……。読書の秋です。気になる方は、文庫本でどうぞ。俳誌「航標」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


January 1012006

 火吹竹火のことだけを思ひ吹く

                           吉田汀史

語は「火吹竹(ひふきだけ)」で冬。一年中使ったものだが、最も火に縁のある冬とするのが妥当だろう。最近、この句に出会うまではすっかり忘れていたけれど、懐かしく思い出せた。薪を焚いたり炭火を熾したりする初期の段階では、なくてはならない道具だった。竹筒の先っぽの節の面に細い穴を明け、面を取り去ったもう一方の側から息を吹き込む。新聞紙などを燃やして少し火のつきかけた薪や炭に、そうやって新鮮な空気を送ってやると、だんだんに火力が増してきて燃え上がるようになる。原理的には簡単なものだが、けっこうコツを要した。火元に近づけすぎて、竹筒に火がついてしまうこともあった。焦らず騒がず、句にあるように「火のことだけを思ひ吹く」ことが、結局は早道だった。この句はしかし、そうした火吹竹使いのコツだけを述べようとしているのではない。それもあるが、一方では対象である「火」そのものが、吹いている人間の思いを引き込む力を持つことも言っている。実際、小さな火を慎重に真剣に吹いていると、だんだんと火に魅入られてきて、「火のことだけ」にしか集中できなくなってくるのだ。吹くほうが一心に火を思っていると、火の側もそんな吹き手の思いを吸い込んでしまうかのようであった。大袈裟かもしれないが、そこに束の間の無我の境のような心持ちが生まれたものである。小学生時代には交替で早朝登校して、教室の大火鉢に炭を熾す当番があった。先生は立ち会わない。全部子供だけでやった。今そんなことをしたら、新聞ダネになってしまうだろう。忘れていたそんな思い出も、掲句から鮮やかに蘇ってきたのだった。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


March 2732006

 新幹線待つ春愁のカツカレー

                           吉田汀史

語は「春愁」。作者が「新幹線」でどこからどこまで行くのかはわからないが、乗る前に腹ごしらえをしているのだから、そんなに長時間乗車するわけではないだろう。私も年に何度かは利用するけれど、何人かで連れ立ってのときは別として、一人旅の新幹線ほど味気ないものはない。動く方角は違うのだが、その高速ゆえに、なんだか高層ビルのエレベーターに延々と乗りつづけているような気分がどこかにあって、落ち着けないのである。私が大学生だった昭和三十年半ばころには、たとえば東海道線での東京京都間は急行で九時間ほど、鈍行だとたしか十三時間はかかった。こうなるともう立派な旅であって腹も坐ろうというものだが、いまのように三時間くらいだと、旅というよりも都内での移動のやや長時間版という感じで、これまたやはり落ち着かない。しかも到着後の予定にもよるが、腹ごしらえをどうするかも考えねばならぬ。車内で弁当を食べるか、それとも発車までの待ち時間を利用して先にすませておくか。作者の場合には後者を選んだわけで、しかし食事にそんなに長い時間もかけられないので、さっと出てきそうなカレーを注文した。とはいっても並のカレーではなく、ちょっと重めの「カツカレー」というところが、そこはそれやはり遠方へ行くことを意識したメニュー選びなのだ。要するに昔の長距離列車によるゆったりとした旅とは違い、いろいろとあれやこれやで腹の据え難い現今の旅にしあれば、カツカレーを前にしての「春愁」もむべなるかな。さてこいつを、これから時計を気にしながら食わねばならぬ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


April 2042006

 清水次郎長が大好き一番茶

                           吉田汀史

語は「一番茶」で春、「茶摘(ちゃつみ)」に分類。摘みはじめの十五日間(4月下旬頃)に摘んだものを「一番茶」と呼び、最上とする。掲句は、そんな一番茶を喫する喜びを卒直に詠んでいる。「旅ゆけば駿河の国に茶の香り」と広沢虎造の「清水次郎長伝」で歌われたように、茶といえば駿河、駿河といえば海道一の大親分だった清水の次郎長だ。したがって、茶と次郎長は付き過ぎといえば付き過ぎだけれど、しかし付き過ぎだからこそ、作者の上機嫌がよく伝わってくるのである。次郎長の本名は山本長五郎といい、通称次郎長は次郎八方(かた)の長五郎で、相続人の意だ。幼くして悪党の評があり、家業(米穀商)のかたわら博奕に手を出し、賭場に出入りするようになる。1842年(天保13)賭場のもつれから博徒に重傷を負わせて他国に逃げ、無宿渡世に入る。浪曲や講談でのヒーローも、そう褒められた生活者ではなかったが、1868年(明治1)東海道総督府判事・伏谷如水から旧悪を許されて帯刀の特権を得、新政府の東海道探索方を命じられてからは、囚人を使役して富士の裾野を開墾したり、汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり、その社会活動は精力的でみるべきものが多い(藤野泰造)。明治26年病死、葬式には1000人前後の子分が参列したという。また「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とはやされたように、一昔前までは清水といえば誰もが次郎長を連想したものだが、いまではすっかり「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ)にお株を奪われた格好になっている。『一切』(2002)所収(清水哲男)


June 0362006

 噴水や鞍馬天狗の本借りに

                           吉田汀史

語は「噴水」で夏。少年時代の思い出だろう。大佛次郎の『鞍馬天狗』は昭和初期、最初は大人向けの読み物としてスタートしたが、杉作少年を登場させたシリーズが「少年倶楽部」に連載されるや、子どもたちの間で大人気となり、単行本化された。その「本」を「借りに」行くわくわくする気持ちを、掲句は「噴水」の水のきらめきに照応させている。いまの子どもたち同士ではどうか知らないが、昔はよく本の貸し借りが行われていて、『鞍馬天狗』のような人気本になると、なかなか借りる順番が回ってこなかった。本はそれほど安くはなく、したがって貴重品だったのである。それがようやく借りられることになり、喜び勇んで相手の自宅まで出かけて行く。心が弾んでいるから、歩くうちに見える物がみな新鮮で奇麗に写る。普段はさして関心のない噴水も、今日は特別に美しく見えているのだ。ただ本を借りられるというだけで、これほどの喜びを覚える子どもの姿は、想像するだにいじらしいが、作者よりも年下の私にも、こういう時期が確かにあった。級友との頻繁な貸し借りをはじめ、村の若い衆には野球雑誌や古い講談本を借りるなど、一軒の書店もなかった村で本や雑誌を読むのに、貸し借りの相手のいることが、どんなにありがたかったことか。借りるためには、相手によっては多少卑屈になったこともあるけれど、そんなことはなんのその。それほどに本の魅力は強烈だった。また貸し借りとは別に、クラスの誰かが新しい雑誌を持ってくると、それを大勢で一度に読むということもやった。休み時間に私が読み役となって、みんなに聞かせたというわけだ。でも、この方法だと、聞いている連中には誌面が見えない。それでも構わず山川惣治の絵物語「少年王者」などを読みはじめると、サア大変。みんな絵が見たいものだから、私の机の周りは押すな押すなの状態になり、なかには私の背中によじのぼって覗き込む奴までがいて……。数年前のクラス会で、誰かがその話題を持ち出したとき、一瞬みんなの顔が「ああ」とほころび、いちように遠くを見るような表情になったのだった。俳誌「航標」(2006年6月号)所載。(清水哲男)


June 2662006

 酒ならばたしなむと言へ鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)」で夏。「鱧」は、梅雨の水を飲んで美味くなると言われる。関西名物、そろそろ旬である。先日、大学時代からの友人と呑んだ。関西生まれ、関西育ちの男だ。店の品書きに大きく「ハモ」と書いてあったので、「夏だなあ、食おうか」と言ったら、彼は「やめとこう」と言った。「どうせ冷凍だ。新鮮じゃない。本場の鱧とは比較にならん」と、ニベもない。「それもそうだな」と、ちょっと未練は残ったけれど、私もやめとくことにした。掲句の作者は徳島在住なので、鱧の鮮度など気にする必要はない。揚げた「鱧の皮」を肴に、一杯やっている図だろう。いかにも美味そうだ。思わず、酒もすすみがちになるはずだ。が、作者はほろ酔い気分のなかでも、あまり調子に乗って飲み過ぎないようにせねばと、自制の心を働かせている。これは実は多くの酒飲みに共通の心の動きなのだが、作者をして掲句を作らしめたのには、次のような事情もあったからだった。自解に曰く。「大酒呑みであった父は、ボクが小学三年の時に急死した。酒が原因だという。『たしなむ』には、とり乱さない、つつしむ、我慢するという意があるようだ。父と呑まなくてよかった。息子の方が照れる」。したがって、誰かに「お酒は」と聞かれたら、「銚子一本ならと答えたい」と書いている。そう言えば、私の父は「たしなむ」どころか、婚礼の席などのヤムを得ないときは除いて、普段は一滴も口にしない。やはり父親が大酒飲みで、幼い頃から酒飲みの狂態や醜態を見て育つうちに、自然に酒を拒否するようになったらしいのだ。そして、その息子たる私は、酒が常備されていない家庭に育ったせいか、若い頃には酒に対する好奇心も人一倍あって、逆に人並み以上に呑むようになってしまった。もっとも、いまはビールしか呑めないが……。先の友人との夜も、すぐに「たしなむ」度合いは越えてしまい、閉店時間に追い出されるまで座り込んでいたのであった。『汀史虚實』(2006)所収。(清水哲男)


January 2812008

 今宵炉に桜生木も火となりぬ

                           吉田汀史

者に聞いたわけではないが、この句は謡曲「鉢木(はちのき)」を踏まえていると思う。私くらいの年代から上の人なら、誰もが知っている有名な伝説だ。「鉢木」とは盆栽である。ある大雪の夜、旅僧に身をやつした北条時頼が、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求めた。貧乏な常世は何ももてなすものがないので、大事にしていた盆栽の梅・桜・松を惜しげもなく焚いて暖をとらせた。後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけたとき(これが「いざ鎌倉」の語源)に、時頼から一夜のもてなしへの返礼として、梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、という話である。句の作者は、本当に桜の生木を燃やしたのだろう。そのときに、ふとこの話を思い出し、まさに「いざ鎌倉」的なたぎるものを身内に感じたのに違いない。生木は燃えにくい。が、いったん燃え出すと火勢が強く、その火照りは枯れ木の比ではない。だから「火となりぬ」というわけだが、故なくか故あってか、燃える生木の火照りさながらに、かっと身内に熱いものがたぎってくる感じが良く出ている。「合本俳句歳時記」(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


October 06102008

 男なら味噌煮と決めよ秋の鯖

                           吉田汀史

はは、こりゃいいや。俳句で「鯖」といえば夏の季語。まだ痩せていて、そんなに美味いとは思わない。対して「秋の鯖(秋鯖)」は脂がのっていて美味である。もっとも青魚が苦手な人には敬遠されそうだが、味噌煮という調理法はそういう人の口にも入るように開発されたのではあるまいか。あるいは貧弱な夏季の鯖用だったのかもしれない。いずれにしても鯖は釣り人が嫌う(釣っても自慢にはならないから)ほどにたくさん釣れるので、昔から庶民の食卓に乗せられつづけてきた。安定食屋の定番でもあった。そんなありふれた魚ゆえ、能書きも多い。ネットをめぐっていたら、こんな意見が出ていた。「俺は、サバは塩焼きか水煮で食するのが正解なので、味噌煮は間違っているのではないかと思うわけです。というのも、サバって味が濃い魚でしょう。それを味の濃い味噌で食べると、両者の特徴が相殺されてしまって、サバを味わっているのか味噌を味わっているのかがよくわからなくなる。ここはやはり塩焼きが正解なのではないでしょうか」。作者は、よほど味噌煮好きなのだろう。「秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ」の句もある。この種の意見の持ち主に対して、ごちゃごちゃ言うな、鯖は味噌煮に限るんだと叱っている。「男なら」の措辞は、味噌煮といういささか大雑把な料理法に通じていて、句に「味」をしみこませている。俳誌「航標」(2008年10月号)所載。(清水哲男)


April 0242009

 さくらばな散るや家族の鮨の上

                           吉田汀史

京でも本格的に桜が咲き始めた。日曜日に訪ねた小金井公園では数百本を超える花の下で大勢の人たちが食事を楽しんでいた。桜前線の北上に伴って、全国各地で飲食の宴が繰り広げられることだろう。持ち込まれるごちそうは様々だが、掲句の「鮨」はそのむかし、遠足や運動会の「ハレ」の日に母親が準備してくれた巻き鮨やちらし鮨だろう。普段はめったに口にすることの出来ないごちそうを家族そろって外で食べるのは特別な嬉しさだった。この句を読んで、季節は違うが岡本かの子の「鮨」という小説を思い出した。食が細くて食べ物を受け付けなかった男の子が母親の握った鮨を初めて食べた日を大人になってから懐かしむ話だが、青葉の照る縁側で母親が鮨を握るくだりが好きだった。「よくご覧、使う道具はみな新しいものだよ。それから拵える人はおまえさんの母さんだよ」と、ぱんと打ったきれいな掌から繰り出してくる鮨のおいしそうだったこと。「家族の鮨」という言葉に酸味が効いた手作りの鮨の味が口いっぱい広がる。その鮨の上にほろほろと散るさくらばなが無条件で家族が睦みあっていた頃へ読むものを連れ出し、それぞれの回想を誘うのだろう。『海市』(2007)所収。(三宅やよい)


November 29112010

 母すこやか寒の厨に味噌の樽

                           吉田汀史

違っているかもしれないが、まだ作者の母親が元気だった頃の回想句だろう。と言うのも、このところ私の母が歩行困難になり、ヘルパーの手を借りて生活している(現在は心不全で入院中)ので、そう思ったわけだ。ふだんは気がつきもしないのだが、専業主婦である母親の健康のバロメーターは、句のように厨(台所)の状態に表れることにいまさらのように気がついたからである。母が使わなくなった台所の様子は、食器や調味料の類いに至るまでの置き場所一つにしても、どことなく違って見える。同じような配置にはなっているが、やはり母とは微妙に物の向きが異なっていたりするので、すぐに他人の手の働いた跡が感じ取れてしまう。作者はおそらくそんな体験を経た後に、味噌の樽一つの置き場所とそのたたずまいの変化の無さが、実は母親の元気な証拠であったことを発見しているのだ。寒中の味噌の樽は、見た目には当然寒々しい。が、この句のそれは、ちっとも寒々しくもないし冷え冷えともしていない。「母すこやか」の魔法が効いているのだ。『季語別 吉田汀史句集』(2010)所載。(清水哲男)


April 1942011

 うららかやカレーを積んで宇宙船

                           浅見 百

治4年に西洋料理としてお目見えしたカレーは、なにより白米に合うことが日本への定着に拍車をかけた。俳句にも〈新幹線待つ春愁のカツカレー〉吉田汀史、〈カレー喰ふ夏の眼をみひらきつ〉涌井紀夫 、〈秋風やカレー一鍋すぐに空〉辻桃子 、〈女正月印度カレーを欲しけり〉小島千架子、と四季を問わず登場する。そして今、国際宇宙ステーションにまで持ち込まれるという。JAXA(宇宙航空研究開発機構)で販売されている「宇宙食カレー」にはビーフ、ポーク、チキンと3種揃っているという。日本人の好物を調べた結果を見ると、どの世代にもラーメンとカレーが上位を占める。どちらも独自の進化をとげて日本の日常に溶け込んできた。あるときは家族に囲まれ、あるいはひとり夜中に、あらゆる人生の場面で顔を出してきた普段の食べ物が、ハレの日に食べてきた寿司や鰻を上回る票数を得て、好物としてあげられているのだ。成層圏を超えていく宇宙船に積まれているのが、普段の食事であるカレーだからこそ、思わず笑顔がこぼれるのである。『それからの私』(2011)所収。(土肥あき子)


October 26102012

 尋ね人尋ねつづける天の川

                           吉田汀史

だ小学生の頃だったろうか、新聞に尋ね人の欄があったように記憶している。ラジオでもそれだけを読み上げる番組があったような。1950年という僕の生年は若い頃は戦争を知らない子供などと新時代の始まりを強調されたが、考えてみると日本中に爆弾が降った戦争が終わってまだ5年しか経っていなかったのだ。シベリア抑留の人たちもまだ舞鶴に着いていた。尋ね人は行方不明の人たち。今日も多くの新しい「尋ね人」が生まれている。『汀史虚實』(2006)所収。(今井 聖)


December 27122012

 煤逃げにパチンコの玉出るは出るは

                           吉田汀史

月を迎えるために積もり積もった塵や埃を掃きだす「煤払い」いわば年末の大掃除。「煤逃げ」は歳時記によると「煤からのがれるため病人や老幼が別の部屋や他家へ行くこと」とあるが、近年は掃除から逃げるためどこかへ行って時間を潰す意に使われることが多いようだ。ガラスの拭き掃除や車洗いにいそしむご主人様も多いだろうが、大抵の男どもはどこかへ行ってしまう。掲句はバタバタと始まった大掃除に自分からぶらっと外へ出たのだろう。時間つぶしに入ったパチンコ屋で気のない様子で玉をはじいていたら、まぁ何と「出るは」「出るは」チンジャラジャラとあふれるほどに入りだして足元にはぎっしり玉の詰まった箱が積みあがる。そんな風景だろうか。血眼になって勝とうとしてもちっとも出ないのにどうしたことか。予想外の展開に目を丸くしている様子がどこかユーモラスで思わずにやりとしてしまう。『汀史虚實』(2006)所収。(三宅やよい)


April 0242015

 ほぞの緒をくらきに仕舞ひ落花踏む

                           吉田汀史

ぞの緒はへその緒。生まれてすぐ臍帯を切断するが、新生児のおなかについた臍の緒が乾いてぽろっと落ちたものを小さな桐の箱に入れて退院時に渡してくれる。多くはそのまま母親の箪笥の奥に仕舞われて、ふたを開けられないまま何十年も忘れ去られてしまうのだろう。胎内で母親から栄養を送り込まれるのに大切な役割をしていたものが、黒く乾いて干からびてゆく。掲句は「くらきに仕舞ひ」と箱に入れられた直後から次にその臍の緒の主である子どもが自分の臍の緒を再び手に取るまでの時間が畳み込まれているようだ。その時間は臍の緒を断ってから母と子が別々な生を歩み続けてきた時間でもある。地面に散り敷く落花が生れ落ちてから今までの長いようであっけない時間を凝縮しているように思える。『汀史虚實』(2006)所収。(三宅やよい)




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