2001N3句

March 0132001

 時刻きゝて帰りゆく子や春の風

                           星野立子

が子のところに遊びに来ていた子供が「おばさん、いま何時ですか」と聞きに来た。時刻を告げてやると、「もう帰らなくては……、ありがとうございました」と帰っていった。その引き上げ方が、「春の風」のように気持ちの良い余韻を残したのである。日は、まだ高い。もっと遊んでいたかっただろうに……。躾けのゆきとどいた清々しい良い子だ。昔の子供は母親から帰宅すべき時間をきつく言い含められて、遊びに出かけたものだ。無論いまでもそうだろうけれど、しかし、昔の門限はとてつもなく早かったように思う。日のあるうちに帰らないと、叱責された。親が帰宅時間を言い含めたのは、多く他家に迷惑をかけたくないからという理由からだったが、本音は外灯もろくにない暗い道を一人で帰らせるのが不安だったからではあるまいか。かなりの都会でも、夜道はとても暗かったのだ。そんな子供にとって気になるのは「時刻」であるが、現在のように子供部屋にまで時計があるわけではない。一家の茶の間に、柱時計一台きりが普通。だから、しょっちゅう「おばさん」に聞かなければならない。私も経験があるけれど、帰りたくなくて「時間よ、止まれ」くらいの思いで「おばさん」に聞いたものだった。逆に大人になってからも、表で遊んでいる見知らぬ子に「いま何時ですか」とよく聞かれたが、最近ではそういうこともなくなった。みんな腕時計くらいは持っているし、第一、表で遊ぶ子供たちが少なくなってしまったからである。ちなみに、掲句は1939年(昭和十四年)の作。『続立子句集第一』(1947)所収。(清水哲男)


March 0232001

 春潮を入れて競艇場休み

                           星野恒彦

ースの開催日には、けたたましいエンジン音で喧騒を極める競艇場も、休みとなれば静かなものだ。水面は、次第に藍色を濃くしてきた春の潮をたっぷりと入れて、明るく輝いている。騒がしいのが常識の場所だけに、句景の静けさが際立つ。「ああ、春だなあ」という作者の感慨が、じかに伝わってくるようだ。素材の妙。好奇心から、たいていの遊び事や賭け事には手を出してきたが、競艇(ボート)とは無縁のままだ。あちこち移り住んだけれど、近くに競艇場がなかったからである。あれば、間違いなく損をしに行っていただろう。したがって、私の知る競艇場は、数えきれぬほど往復した東海道線からちらりと見える浜松近辺(だと思う)のそれだけだ。それだけでも、掲句の雰囲気はよくわかるような気がする。何年か前に中学の同窓会旅行で下関に出かけたとき、酒席での友人たちの話題が、自然にボートに傾いていったのには驚いた。こちらは賭け方の方法も知らなければ、もちろん選手の名前など一人も知らない。会話から、完全にはじき出されてしまった。黙っている私に、声あり。「てっちゃんは、ボートやらんのか。マジメじゃからねえ……」。大いなる誤解だが、抗弁はしなかった。翌日は日曜日。帰るために下関駅に向う途次、そこここで、競艇の予想紙を食い入るように眺めている男や女を何人も見かけた。その街には、その街ならではの楽しみがあるのだ。もう一日滞在できたら、確実に足を運んでいただろう。惜しいことをした。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


March 0332001

 終夜潮騒雛は流されつづけゐむ

                           松本 明

語は「雛流し」。雛祭は元来が女の子の息災を祈る行事なので、すべての厄を飾った雛に移して(肩代わりしてもらって)、なるべく早く川や海に流した。三月三日の夕刻には、もう流してしまう地方も多かったと聞く。「捨雛(すてびな)」という感傷を排除した言い方もあるけれど、なんといっても人の形をしたものを流すのだから、たとえ紙の雛でも、流す人には複雑な思いが涌くだろう。考えてみれば、哀しくも残酷な風習だ。作者は夕方に見て戻り、流された雛の哀れが鮮烈に、いつまでも目に焼きついて離れないのだ。「終夜潮騒」が耳につき、熟睡できない。うとうととしかけては、また目覚めてしまう。その目覚めには、流されていった雛たちへの気掛かりが伴う。「流されつづけゐむ」には、作者のそうした気持ちがこもっていると同時に、遠くの暗黒の波間になお「流されつづけ」ている雛の姿を強く想像させる力がある。実際には「さかさまに水ごもりたまふ雛かな」(阿波野青畝)のように、ほとんど流れることもなく沈んでしまっているのかもしれない。「捨雛のうちふせありぬ草の上」(二宮英子)のように、早々に岸辺に打ち上げられてしまっている雛もあるだろう。しかし、そうは思いたくないというのが、人情だ。作者の詠んだ雛たちは、きっとどこまでもどこまでも流れていったことだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0432001

 瞼の裏朱一色に春疾風

                           杉本 寛

の強風、突風である。とても、目を開けていられないときがある。思わずも顔をそらして目を閉じると、陽光はあくまでも明るいので、「瞼の裏」は「朱(あけ)一色」だ。街中でのなんでもない身のこなしのうちに、くっきりと「春疾風(はるはやて)」のありようを射止めている。簡単に作れそうだが、簡単ではない。相当の句歴を積むうちに、パッとそれこそ疾風のように閃いた一句だ。ちなみに天気予報などで使われる気象用語では、風速7メートル以上を「やや強い風」と言い、12メートル以上を「強い風」と言っている。コンタクトを装着していると、7メートル程度の「やや強い風」でも、もうアカん(笑)。その場でうずくまりたくなるほどに、目が痛む。だからこの時季、街角で立ち止まって泣いているお嬢さんに「どうしましたか」などと迂闊に声をかけてはいけない。おわかりですね。この春疾風に雨が混じると、春の嵐となる。大荒れだ。ところで私事ながら、今日は河出書房で同じ釜の飯を食い、三十年以上もの飲み仲間であった飯田貴司君の告別式である。享年六十一歳。1960年代の数少ない慶応ブントの一員にして、流行歌をこよなく愛した心優しき男。ドイツ語で喧嘩のできた一世の快男子よ、さらば。……だね。天気予報は、折しも「春の嵐」を告げている。すぐに思い出すのは石田波郷の「春嵐屍は敢て出でゆくも」であるが、とうていこの句をいま、みつめる心境にはなれない。まともに、目を開けてはいられない。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0532001

 カメラ構えて彼は菫を踏んでいる

                           池田澄子

あっ、踏んづけてるっ。写真を撮る人は、当然被写体を第一にするから、自分の足下のことなどは二の次となる。だから、菫(すみれ)でもなんでも委細かまわずに踏んでしまう。撮られる人もよく撮ってほしいから、たいていはカメラを意識して、撮影者の足下までは見ないものだ。ところがなかには作者のような人もいて、カメラから意識を外すことがある。そうすると、揚句のような情景を見てしまうことにもなる。この場合、とにかくカメラマンは夢中なのであり、被写体はあくまでもクールなのである。そんな皮肉っぽい面白さのある愉快な句だ。句を読んで思い出したのは、松竹の助監督のままに亡くなった友人の佐光曠から聞いた話。『鐘の鳴る丘』(1948)を撮ったことでも有名な佐々木啓祐監督は、シネスコ時代になってから、画面のフレームを決めるのに煙草のピースの箱を使っていた。外箱の底から覗くと、ちょうどシネスコ画面の比率になるそうだ。で、ある日のロケで、いつものようにピースの箱を覗きながら「ああでもない、こうでもない」とやっているうちに、忽然として現場から姿を消してしまった。夢中になっているうちに、監督がなんと背後の川に転落しちゃったという実話だが、百戦錬磨のプロにだって、そういうことは起きるのである。菫を踏むなどは、まだ序の口だろう。作者にはまた「青草をなるべく踏まぬように踏む」の佳句があって、つらつら思うに、とてもカメラマンには向いていない性格の人のようである。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


March 0632001

 あけぼのや甕深きより藍は建つ

                           沼尻巳津子

い美しさを湛えた句だ。読後、粛然とさせられる。「あけぼの」といえば、平安朝『枕草子』の昔より春の夜明けを指す。「春暁(しゅんぎょう)」の季語もある。清少納言は「やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」と書いたが、揚句の作者は遠景を見ているのではないだろう。室内か、あるいは庭先くらいまでか。時間的にも、ほんの少し早い時間、明け初めたかどうかという微妙な時間だ。目覚めてすぐに、自分の身近な環境が少しずつ「藍」色に染まっていく様子を捉えている。「藍が建つ」は染色用語。蓼藍を用いた染色法には生葉染(なまはぞめ)と建染(たてぞめ)があり、藍の葉を保存し、季節を問わず染められるように工夫された方法が「建染」である。詳細は省略するが、甕などに保存した藍が還元発酵して、染色可能な状態になることを「藍が建つ」と言う。作者は大きくて古くて深い「甕」の底から建つ「藍」を、いましも周辺に漂いはじめた「あけぼの」の色に照応させている。匂い立つような早朝春色の美しさだ。「朝はいい。金持ちにも貧乏人にも、平等に訪れるから」と言ったのは、遠い時代の外国人だったけれど、揚句のあじわいは国境を越え時代を越えて理解されるだろう。清少納言にも、読ませてやりたかったな。『背守紋』(1989)所収。(清水哲男)

[ 多謝 ]掲載時の揚句についての私の解釈は、「建染」を知らなかった無知による間違いでした。多くの読者からメールやファクシミリでご指摘をいただき、誤りに気がつきました。よって、以上のように改稿します。お一人づつのお名前は掲げませんが、心より感謝しております。ありがとうございました。


March 0732001

 泥濘に児を負ひ除隊兵その妻

                           伊丹三樹彦

季句としてもよいが、句の「泥濘」は中身に照らして、この季節の「春泥(しゅんでい)」と読んでおきたい。徴兵制のシステムに詳しくないので、あるいは季節を間違えているかもしれないが、御容赦を。戦前の皆兵時代には、兵役につくと、普通は二年で満期となった。その晴れて満期となった日の光景だ。以下は、作者の弁。「営門前には、満期兵の家族たちが喜々として、これを迎える。中には留守の間に生れた幼児を背負うた若妻の姿も混る。青野原は赤土が多くて、雨が降ると泥濘となる。その上、戦車の轍(わだち)が幾筋もあって極めて歩き難い。でも健気な妻は、夫に愛児を見せようと、慎重な一歩一歩を進めるのだ」(「俳句研究」2001年3月号)。さながら無罪放免の感があるが、当人や家族の喜びは、いかばかりだったろう。赤ん坊を早く見せたくて、若妻は転ばないように慎重に歩を進めながらも、きっとそのうちには裾の汚れなど気にせぬほどの早い足取りとなっただろう。わずか半世紀少々前の、これが庶民の当たり前の現実であった。そしていまもなお、お隣りの韓国をはじめとして、徴兵制を敷いている国はたくさんある。そんな「世界の現実」を普段はすっかり忘れているが、とにもかくにもこの国に徴兵制がないことを、私たちはもっともっと喜びと誇りとしなければ……。日本の春の泥道はいま、たしかに歩きにくい。しかし、いくら歩きにくくたって、まだ歩けないほどではないのである。揚句での「泥濘」は、徴兵制そのものの暗喩のように、今日の読者に突きつけられているようだ。(清水哲男)


March 0832001

 新宿や春月嘘つぽくありて

                           山元文弥

都心、新宿。物の本によれば、元禄十一年に「内藤新宿」として発した宿駅である。「内藤」は、高遠藩内藤氏の屋敷地だったことから名付けられ、新宿御苑は内藤家の下屋敷があったところだというから、豪勢なものだ。とくに関東大震災以降は、東京の交通の要衝となる。そんなことはともかく、新宿は我が青春の学校みたいな街だった。受験浪人時代には紀伊国屋書店と映画館に溺れ、社会人になってからは酒場に溺れた。あの頃の新宿は若者たちの野望と失意が渦巻いており、いまとなっても懐かしいだけではない何かをみんなに刻み込んだ街であった。そんな新宿にも空はあり、春の月もおぼろにかかった。揚句の「嘘つぽく」という表現は、一見安っぽくも写るが、この通りである。ネオンの林立する不夜城に上る月は、ひどく頼りない感じに見えた。人工的なネオンの光りのほうが自然に見え、月はまことにもって「嘘つぽ」いのであった。戦前の流行歌「東京行進曲」にも「♪変わる新宿 あの武蔵野の 月もデパートの屋根に出る」(うろ覚えです)の一節があり、そのころからもう「嘘つぽく」感じられていたのだ。わざわざ「あの武蔵野の月」だよと確認しないと、まがいものに見えたほどに……。最近は、めったに新宿に行かなくなった。昔からつづいている酒場も代替わりして、なじめない。一軒だけ、辻征夫が駅近くで発見した「柚子」という飲み屋があり、出かけるとそこにちょっと寄るくらいになった。今宵の月は真ん丸だ。新宿では、きっと誰かが「嘘つぽく」思いつつ眺めることだろう。『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0932001

 残雪に月光の来る貧乏かな

                           小川双々子

つまでも薮陰などに残っている雪は、それだけでも貧乏たらしい。ましてや青白い月光を浴びるとなると、作者のように、おのれの貧乏ぶりまでをもあからさまにされたように気恥ずかしくもあり、ぐうの音も出ない感じになる。貧乏を嘆いているというよりも、月光の力でおのれの貧乏を再確認させられた心持ちなのだ。残雪と貧乏とは何の関係もないのだけれど、貧すれば何とやらだ。下うつむいて暮らす人の目には、いずれは消えゆく残雪だからこそ、ことさらにシンパシーを覚える。自然に、そうなる。無関係なものにも、勝手なワタリをつけてしまう。だから、それを煌々と照らす月は、当然のように無情と写る。とは言え、この句にはうじうじとした陰湿さがない。あっけらかんとしていて、むしろ面白い、滑稽だ。それは「貧乏かな」と意表を突く表現によるわけだが、もはや「かな」と力なく言うしかない作者も、心の片隅では苦笑(微笑に近いかな)しているにちがいない。したがって、作者に心の貧乏はないと読める。えてして金持ちは比較級で語りたがるが、実は貧乏人も同じなのだ。どれくらいに貧乏かを、互いに意地で競い合ったりすることすらある。そういうところが揚句には微塵もなく、すこぶる気持ちがよろしい。子供の頃に赤貧を味わった私には、自然にそう写る。作者の貧乏の程度を推理しようなんて、野暮な振る舞いには及びたくない。比較級抜きで「貧乏かな」の、残雪のように冷たくとも、月光のように清々しい滑稽を味わうのみである。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


March 1032001

 春山を越えて土減る故郷かな

                           三橋敏雄

さしぶりに「故郷」を訪れた。春の山には、昔と変わらず木の芽の香りが漂い、鳥たちも鳴いている。少年時代に戻ったような気分で山を越えると、しかしそこに見えてきたのはすっかり「土」の減っている「故郷」であった。道路は舗装され、田畑もめっきり減ってビルや住宅になり、すっかり景観が変わってしまっている。さながら今浦島の心地……。「春山」が昔と同じたたずまいを保っているだけに、よけいに違和感がある。まさに「土減る故郷」と言うしかないのである。作者の故郷は東京の端の八王子だが、句の様子は、日本全国ほとんどの地に当てはまるだろう。我が故郷の村では「兎追いしかの山」すらも自衛隊の演習地と化し、山自体が人工的に形を変えられ生態系も激変したので、この句も成立できないありさまだ。成立しないといえば、国木田獨歩に、都会で一旗揚げようと村を飛びだした男が、失意のうちに故郷に舞い戻るという短編があった。揚句とは違い、故郷は昔と変わらぬ田舎のままであり、子供たちが昔の自分と同じように、同じ川で魚を釣っている。この小説で最も印象的なのは、その子供たちの顔や姿から、男が「どこの子」かを当てるシーンだ。みんな、かつて自分と一緒に遊んだ友だちの子供なので、すぐに面影からわかったのである。「土減る故郷」では、もはやこういうことも起こらない。「故郷」への切ない挽歌である。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)


March 1132001

 森霞む日付けの赤き日曜日

                           櫛原希伊子

あ、絵になっている。読んだ途端に、実景というよりも、絵を感じた。それも、コンピュータ・グラフィックスで描いたような絵。カレンダーの日曜日の赤い「日付け」が前面にあり、それを通して遠くの森が霞んで見えている。下手くそながら、私はコンピュータの「お絵書きソフト」が好きなので、ついそう思ってしまったのだが、もとより作者にその意識はないはずだ。が、コンピュータを外しても、「日付けの赤き日曜日」というフィルターを通して森を霞ませたところには、モダンなデザイン感覚を感じる。自註で作者が書いているように、日曜日を「赤」としたのは誰なのだろうか。なぜ「赤」なのか。いつごろから行われてきたのだろうか。床屋さんでくるくる廻っている標識の「赤」は動脈、「青」は静脈を意味するそうだが、やはり人体に関連した比喩としての色彩なのだろうか。そう言えば、祝日も「赤」であり、最近のカレンダーでは土曜日も「赤」にしているものも見かけるが、これらは単に日曜日が「休み」という意味からの流用であって、本義の「赤」とは関係はないだろう。でたらめな本義の推測をしておけば、キリストが復活した安息日の日曜日にちなんでの「赤」なのかもしれない。すなわち、十字架で流された血の色だ。ユダヤ教での安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までだから、このあたり、ユダヤ教でのカレンダーでは何色なのだろう。たまたま手元にある中国のカレンダーでも、日曜日は「赤」で表示されている。となれば、宗教とは関係がないのかな。ともあれ、今日は「日付けの赤き日曜日」です。よい一日でありますように。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


March 1232001

 ふたなぬか過ぎ子雀の砂遊び

                           角川源義

語は「子雀(雀の子)」で春。孵化してから二週間(つまり「ふたなぬか」)ほど経つと、巣立ちする。はじめのうちこそ親について行動するが、それも十日ほどで独立するという。立派なものだ。でも、そこはまだ赤ちゃんのことだから、砂遊びもやはり幼くぎごちない。見守る作者ははらはらしつつも、その健気な姿に微笑を浮かべている。ところで雀といえば、「孕み雀」「黄雀」「稲雀」「寒雀」など季語が多いが、なかに「すずめがくれ(雀隠れ)」という季語がある。春になって萌え出た草が、舞い降りた雀の姿を隠すほどに伸びた様子を言う。載せていない歳時記もあって、元来が和歌で好まれた言葉だからかもしれない。「萌え出でし野辺の若草今朝見れば雀がくれにはやなりにけり」など。一種の洒落なので、使いようによっては野暮に落ちてしまう。成瀬櫻桃子に「逢はざりし日数のすずめがくれかな」の一句あり。どうだろうか。「逢はざりし」人は恋人かそれに近い存在だろうが、現代的感覚からすれば、野暮に写りそうだ。逢わない日数を草の丈で知るなどは、もはや一般的ではない。揚句に話を戻すと、瓦屋根の家がたくさんあったころには、雀の巣も子もよく見かけた。句の砂遊びの姿も、珍しくはなかった。が、いまどきの都会の雀の巣はどこにあるのだろう……。たしかに昔ほどには、雀を見かけなくなってしまった。ここで、石川啄木の「ふと思ふ/ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを/三年聴かざり」を思い出す。「三年(みとせ)」は啄木の頻用した誇張表現だから信用しないとしても、明治期の都会でも雀の少なくなった時期があったのだろうか。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 1332001

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)


March 1432001

 桃咲くやゴトンガタンと納屋に人

                           矢島渚男

や春。農家の庭先だろう。陽光のなか、見事な桃の花が咲いている。思わず立ち止まって見惚れていると、納屋の中から「ゴトンガタン」と音が聞こえてきた。なかに、誰かがいる様子だ。桃の花には、どこかぼおっと浮き世を忘れさせるような趣がある。万葉の昔から、そのあたりの感覚はよく歌われてきた。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」など。けれど、揚句はそこに生活の音を配したところがミソである。「ゴトンガタン」は、何か大きな物を動かしている物音だ。小さな物ならば、音も「ゴトガタ」とせわしないはずだ。おそらくは農作業に使う道具だろうが、もちろん作者には見えない。見えないが、植物だけではなく、人間世界でもいよいよ本格的な春の営みのはじまる気配が感じられ、心豊かな気持ちになっている。「ゴトンガタン」のおおらかな物音は桃の花のぼおっとした雰囲気によく溶け込んでおり、人が季節とともに生きていることの素晴らしさを伝えて秀逸だ。余談めくが、この句で作者がいちばん苦労したのは「ゴトンガタン」の表現だろう。「ガタンゴトン」では昔の汽車の走る音になってしまうし、かといって、なかなか他に適切な擬音語も思いつかず……。いろいろと試みてみて、結局「ゴトンガタン」に落ち着いた(落ち着かせた)ときの作者の気持ちがわかるような気がする。さらっとできたような顔つきの句に見えるが、私には苦吟の果ての「さらっ」に思われた。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


March 1532001

 笹舟の舫ひていでぬ茅花かな

                           飴山 實

庭が大きな世界をミニチュア化した楽しさなら、揚句は反対に小さな世界を大きく見立てた面白さだ。小さな笹舟が、あたかも本物の舟同士を舫(もや)ったような感じで、次々と岸を離れていく。このとき、岸辺になびく可憐な茅花(つばな)の穂は、笹舟からすればさながら嵐のなかの巨木のように写ることだろう。子供が玩具で遊ぶときの、あの童心の世界だ。と同時に、句は自然の大きさも描いている。大きな自然からすれば、笹舟も本物の舟も、人間を尺度にした大小などにさしたる違いがあるわけではない。むしろ、同一だとしたほうがよいだろう。だから自然のなかにあっては、童心は見立てや錯覚に起因するのではなくて、それこそ自然そのものから流れ出してくる心持ちなのだ。この季節に、笹舟ではよく遊んだ。学校帰りの道草である。唱歌に出てくるのとそっくりな「春の小川」に、一枚の笹の葉を細工した簡単な舟、二枚を組み合わせて作った帆掛け船を、飽きもせずにひたすら流すだけ。笹舟では物足らなくなった上級生たちは、木を削ってゴム動力をつけたり、本格的に蒸気エンジンを搭載した船まで走らせていたっけ……。岸の茅花の若い穂を引き抜いて噛むと、わずかに甘い味がした。なかにはついでにメダカをすくって食べる奴もいたけれど、これは仲間におのれの度胸を誇示するためで、臆病な私にはとうてい適わぬ芸当だった。懐かしいなあ、笹舟も茅花も。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


March 1632001

 母に抱かれてわれまつさきに囀れり

                           八田木枯

恋の句。赤ん坊が小鳥のように「囀る(さえずる)」わけもないが、若き母親の期待に応えて、あのときに僕は一生懸命に言葉を発していたのですよと、いまは亡き母に訴え、賛意を求めている。でも、僕の声は人間の言葉にはならず、単なる囀りのようでしかなかったかもしれない。でも、とにかく僕が「まつさき」でしたよね、お母さん……。僕は、いまでもそのことを誇りに思っています。と、この心情にはいささかの狂気も感じられるが、しかし、亡き母を偲ぶ人の気持ちには、狂気があって当然だろう。狂気が言い過ぎならば、通常の世間とのつきあいでは成立せぬ感情が、母との関係においては、楽々と発生するということだ。母親とは、なにしろ世間を知るずっとずっと前からのつきあいだもの……。このときに、一方の親である父親は、いわば「最初の世間」として立ち現れるのだろう。そこが、母親と子供との濃密な関係を持続させる理屈抜きの要因だ。だから、同じ作者の「両手あげて母と溺るる春の川」の句にしても、よくわかる。母親とであれば、ともに溺れたってよいのである。両手をあげているのは、嬉々として溺れている狂気の世界を積極的に象徴してみたまでだ。「春の川」が、その心情に拍車をかけている。私の場合は母が存命なので、作者の狂気を十分に汲みとるわけにはいかない。でも、年齢のせいか、母への思いがこのように純化されていく心理的プロセスだけはわかるような気もしてきた。同じ作者に、こういう句もある。「井戸のぞく母に重なり夏のくれ」。妖しい狂気が漂っていて、三句のなかではいちばん印象深い。『於母影帖』(1995)所収。(清水哲男)


March 1732001

 「思わしくない」などまだ無心蝌蚪とりに

                           古沢太穂

書に「通信簿をもらってきた柊ちゃん」とある。ご長男の名前が「柊一」君。小学校一年生の一年を締めくくる通信簿に「思わしくない」という評価があった。でも、柊ちゃんはそんな成績にも無頓着で、いつものようにさっさと「蝌蚪(かと・おたまじゃくし)」をとりに、表に飛び出していってしまった。その「無心」に微笑しつつも、しかし親としてはやはり「思わしくない」が気になって、あらためて通信簿に眺め入るのである。句が作られたのは、1950年代のはじめのころ。まだ「思わしくない」などという厳しい表現による評価項目があったのかと、ちょっと驚いた。その後は、いつのころからか「がんばろう」などのマイルドな表現に変わっていったはずだ。むろん五段階評価それ自体に変わりはないのだが、一年生にはともかく、上級の子らに「思わしくない」評価には辛いものがあったのではなかろうか。私が一年生のときには「優」「良上」「良」「良下」「可」の五段階だった。柊ちゃんとは違って、何故か成績をよく覚えている。「修身」の「良上」を除いて、あとは全部「良」だった。紫色のゴム印で押してあった。後に中学二年時の数字評価の「オール3」を獲得する素地は「栴檀は双葉より芳し(笑)」で、早くも一年生で芽生えていたというわけだ。高校生三年生のときに、すぐ後ろの席にいたH君の成績表を見せてもらったことがある。「オール5」だった。他人のものながら、あんなに気持ちの良い成績表を見たのは、あのとき一回きりである。彼は学校が禁じた(そんな時代もあったのだ)映画『不良少女モニカ』を見に行くような一面もあって面白い男だったが、涼しい顔ですんなりと東大に入っていった。ところで、その後の柊ちゃんはどうしたろうか……。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


March 1832001

 野遊びやグリコのおまけのようなひと

                           小枝恵美子

語は「野遊び」。春の山野で日を浴び、青草の上で遊び楽しむこと。現代語では「ピクニック」にあたるだろう。さて「グリコのおまけのようなひと」とは、いったいどんな人なのだろうか。いろいろと想像してみた。「おまけ」なのだからメイン・ゲストではなく、いてもいなくても差し支えないような人とも解せるが、しかしこの解釈では「グリコのおまけ」の本義(!?)からは外れてしまう。多くの子供たちにとって、グリコは本体よりも「おまけ」のほうが大事だったはずだからだ。少なくとも私は、「おまけ」目当てでグリコを買っていた。本体の飴の味は、森永ミルクキャラメルや古谷のウィンター・キャラメル(これがいちばん好きだった)に比べると、明らかに格下だった。となれば、あの「おまけ」の箱を開けるときのような期待感を持たせる楽しげな人という意味だろうか。でも、開けてみると大概は「なあんだ」というのが「グリコのおまけ」なので、期待は持たせるが中身は知れているような人なのか。あるいは女の子用の「おまけ」の箱の柄は華やかだったので、花柄プリントでも着ている女性を指しているのか。本物の野の花のなかで、人工的な花柄プリントは、むしろ似合わない。結局は、よくわからなかつた。が、わからなくても気になる句はある。「野遊び」の子供の菓子にグリコがあって不自然ではないし、作者の発想もそのあたりから来ているのだろう。とにかく、なんとなく読者の機嫌をよくさせる句だ。だいぶ前に、筑摩書房が『グリコのおまけ』という酔狂な本を作ったことがある。過去の「おまけ」のカタログ集みたいな本だが、そこに拙句「将来よグリコのおまけ赤い帆の」が載っている。編集者の話では、この句に写真を添えるために「赤い帆」の舟を探すべく、グリコの倉庫を必死に探索したそうだけれど、ついに発見できなかったという。代わりに「白地に赤のストライプの帆」の舟の写真が掲載された。白状すると、私は実景を詠んだのではない。「赤い帆」くらいなら必ずあるだろうと、確かめもせずに作ってしまった(元々はこの本のために作った句ではないが)のだった。罪深いことをしました。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


March 1932001

 籠の鶏に子の呉れてゆくはこべかな

                           富田木歩

せた竹籠に飼われている鶏に、たまたま通りかかった子供が、そこらへんに生えている「はこべ」を摘んで与え、すっと行きすぎていった。ただそれだけの情景だが、見ていた作者は心温まるものを感じている。この場合に、子供の行為は、公園の鳩に餌をやるそれとは大違いだ。鳩に餌をやるのは鳩を身近に呼び集める目的があってのことで、下心が働いている。句の子供に、そんな下心は微塵もない。といって籠の鶏の身に同情しているというのでもなく、ふっと腹を空かせていそうな気配を感じて、とりあえず「はこべ」を与えたまでのこと。去っていった子供も、すぐにこんなことは忘れてしまうだろう。善行を積んだなど、露思っていない。だからこそ、作者には嬉しいのだ。気配りとも言えぬ気配り、ごく自然で無欲な振る舞い。脚が不自由で一歩も歩行の適わなかった木歩にしてみれば、なおさらに子供のぶっきらぼうな行為が印象深く、頼もしくさえ思えただろう。だから、句になった。べつに木歩の境遇を知らなくても、揚句は味読に値する。誰に教えられずとも、この子のような気持ちを持った子は、昔はたくさんいた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、みんながそうだった。生きとし生けるものとのつきあい方を、自然に身に付けていたのだと回想される。そこへいくと「いまどきの子は……」などと、愚痴を言ってもはじまらぬ。目から鼻へ抜けるような利口な子は、句の作られた大正期よりも圧倒的に多いのだろうが、それがどうしたと居直りたくなる「句の子」のありようではないか。木歩は、関東大震災で非業の死を遂げた。この子は、無事に生き残ったろうか。「死ぬなよ」と、とんでもなく時代遅れの声援を送りたくなる。ちなみに「はこべ」の漢字は「繁縷」などと表記され、読むにはやけに難しい。松本哉編『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』(1989)所収。(清水哲男)


March 2032001

 口に出てわれから遠し卒業歌

                           石川桂郎

と、口をついて出た「卒業歌」だ。おそらく「仰げば尊し」だろう。しばらく小声で歌っているうちに、遠い日の卒業の頃が思い出された。懐かしい校舎や友人、教師の誰かれのこと……。甘酸っぱい記憶がよみがえる一方で、もう二度とこの歌を卒業式で歌うことのない自分の年齢に、あらためて感じ入っている。「われから遠し」は当たり前なのだが、やはり「われから遠し」と言ってみることで、遠さを客観化できたというわけだ。こういうことは私にもときどき起きて、つい最近の出来事のように思っていたことも、あらためて思い直してみると、長い年月が過ぎていたことにびっくりさせられたりする。卒業で言えば、「仰げば尊し」を歌って中学を出たのも、もう半世紀近くも昔のことになる。式が終わっても校舎を去りがたく、みんながなんとなく居残っているなかで、どういうわけか私は昇降口でハーモニカを吹いていた。しばらく吹いていると、教室にいた女子の一人が「そんな悲しい曲、吹かないでよ」と抗議しに出てきた。何の歌だったかは忘れたけれど、あわてて止めたことを、いまだに思い出すことがある。思い出しては、「われから遠し」の実感を深くする。あのときの女の子は、どうしているだろうか。私にハーモニカを止めさせたことを、覚えているかな。当時はいまと違って、高校に進学する生徒の数も少なかった。クラスの半分以下だった。だから、多くの級友にとっては、中学が最後の学校なのだった。去りがたい気持ちは、痛いほどによくわかる。書いているうちに、急にハーモニカを吹きたくなった。が、とっくになくしてしまった。『新日本大歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


March 2132001

 豆の花どこへもゆかぬ母に咲く

                           加畑吉男

ろりと、させられる。俳句で「豆の花」といえば、春に咲く豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)の花をさす。最近はなかなか見るチャンスもないが、子供の頃には日常的な花だった。小さくて、蝶に似た形をした可憐な花だ。たとえれば、思春期の少女のようにどこか幼いのだが、華やかさも秘めている。清らかさのなかに、あるかなきかのほどにうっすらと兆している豊熟への気配……。その花が、「どこへもゆかぬ母」のために咲いているようだと詠んだ作者は、心優しい「男の子」だ。母はむろん少女ではありえないけれど、しかし、作者は「どこへもゆかぬ」ことにおいて、母に少女に通じる何かを感じているのだと思う。彼女が「どこへもゆかぬ」のは、現実的には周囲への遠慮や気遣いや、あるいは経済的な理由からだろう。そんな母親を日頃見やりながら、たまには羽を伸ばせばよいのにと願っている作者は、この季節になると咲く「豆の花」を、母のために咲いていると感じるようになってきた。このとき、母と花は同じ年齢の少女の友だち同士みたいに写っているのだ。畑の世話をする母親が、花によって慰められてほしいと、揚句での作者の願望もまた、少年のように初々しいではないか。昔の母親たちは、本当に「どこへもゆか」なかった。いつも誰よりも早く起き、風呂も最後に入って、いちばん遅くに床に就いた。大家族の農家の母親ともなれば、睡眠三時間、四時間程度の人も多かったと聞く。いまどきの感覚からすれば、ただ苦労をしに生まれてきたようなものである。そんなお母さんの「ため」に、今年も静かに「豆の花」が咲いたのだ。これが美しくなくて、他のどんな花を美しいと言えるだろう。『合本俳句歳時記・第三版』(1997)所載。(清水哲男)


March 2232001

 春暁亡妹来り酒静か

                           入江亮太郎

中吟。「悼妹」の前書あり。「春暁」は「はるあかつき」と読ませている。春暁の夢の醒め際に、亡き妹が現われた。そのことを思い、妹との交流の日々をしみじみと思い出しつつ、静かに酒を含んでいる図だ。漢字が多く、見た目にゴツゴツしているところは「詩人俳句」の特徴みたいなものだが、この場合にはそれがかえって効果をあげている。かつて「彼方」の詩人として知られた入江亮太郎が本格的に作句をはじめたのは、晩年になってからだという。詩から俳句への道筋は、どのような思いからだったのだろう。詩を書いてきた私にも関心をかき立てられるところだが、遺句集に収められた令夫人の小長井和子さんの文章で、次の美しい解説を読むことができる。「滅びの予感に怖れを抱きつつ、長いあいだ紙の上に詩を書かずにいた入江は、『私に優しかりし人と山川草木水石及び鳥獣蟲魚の印象を記す』とかねて考えていたことを俳句という形式によって実現し、幼馴染みの友人に見せようとした。そしてそれが実際には彼の白鳥の歌となったのである。もはや未来を考えることが無意味となったとき、彼はひたすら幼年時代ににさかのぼって過去を探り、そのイメージを表現することによってしばし病苦を忘れようとしたのだろう。時たまテレビに映し出される沼津駅前の現代化したにぎわいなど、入江にとってはどうでもよかった。彼はただ記憶のなかに止められている美しいふるさとの風物や、懐かしい人々の映像を書きとめ、その記憶の世界を自分と共有しうる友人に贈りたかったのにちがいない。……」(「晩年の入江亮太郎」)。亮太郎は沼津の出身だった。それにしても「もはや未来を考えることが無意味となったとき」という件りには、粛然とさせられる。よほど運がよくないと、私もこうなるだろう。と同時に、この人に「俳句」があって本当によかったと思い、あらためて「俳句という形式」の並々ならぬ魅力に思いが至った。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 2332001

 花たのしいよいよ晩年かもしれぬ

                           星野麥丘人

国から花便りが届くようになった。若いころにはそうでもなかったが、年齢を重ねるに連れ、開花が待ち遠しくなってきた。なんとなく、血のざわめきのようなものを感じる。いったい、いかなる心境の変化によるものだろうか。そんなことを漠然と感じていた矢先だったので、この句に出会ったときにはドキリとした。自註というわけではないが、作者の俳人としての「花」に対する姿勢が添えられている。「平成二年。花鳥風月の花を代表するのはいうまでもなく桜。その桜を『花』という。とても詠めるものじゃない。虎杖やすかんぽでも詠んでいる方がぼくにはふさわしいことは、ぼく自身がいちばんよく知っている。だから『花』のような大きな季語で写生することなど出来る筈がない。はじめから逃げている、そう言われても仕方のないような作だが、晩年に免じて許されたい」。「晩年」について言えば、生きている人の誰にもおのれの「晩年」はわからない。本来は故人を偲ぶときなどに使う言葉だろうから、生きている人が自分の「晩年」を言うのは自己矛盾である。しかし、これからがややこしいところで、一方で私たちは人が必ず死ぬことを知っている。それも、ある程度の年齢まで到達すると、本人も周囲も「いよいよ」かと思うものだろう。だから、自分の「晩年」を言っても、さしたる矛盾でもないという年齢はありそうだ。が、いくつになったら矛盾しないのか。究極的には、やはり誰も自分の自然な余命を知ることはできない。だとすると、……と考えていくうちに、事は錯綜するばかり。ああ、七面倒くさい。となって、「晩年かもしれぬ」で打ち止めである。だから「晩年」の二字はあっても、句は暗くない。むしろ、明るい。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)


March 2432001

 一斉に客の帰りし朧かな

                           塩谷康子

は「おぼろ」。「では、そろそろ失礼します……」。「あっ、もうこんな時間……」。一人が立ち上がると、うながされたように、みんなが「一斉に」立ち上がる。玄関まで見送って部屋に戻ると、そこには独特の雰囲気の空間が残っている。つい先刻まで笑いさざめいていた人たちの余韻があって、なんだか淋しいような、ホッとしたような。これから後片づけが待っているのだが、時は春。もてなした側の気配りの疲労感も、ぼおっと心地よく「朧」に溶けて、しばし室内を見渡している。どこか「一期一会」に通じるような、そんな作者の心情の通ってくる句だ。やはり春でなければ、こうは詠めまい。「朧」が客たちの余韻をふうわりと包み込み、引き摺るのである。むろん、これはホストとしての句。客によっては、ホストになれない家族もいる。子供の頃の来客は、いやだった。たいていが父の客で、子供は挨拶させられるだけ。客のいる間は、どこかに引っ込んでいるしか仕方がない。昼間ならば表で遊ぶというテもあるけれど、夜は別の部屋で息を殺すようにして過ごさねばならなかった。本でも読もうかと思うのだが、どうも気になって身が入らない。家の中に普段いない人が長時間いるということは、一つの事件と言ってもよさそうだ。教師の家庭訪問などは、さしずめ大事件と言うべきか。現状では、我が家の客には、圧倒的に連れ合いの客が多い。ついで、子供の客。その間は、別室で小さくなっている。私に客が少ないのは、男同士の交友はたいてい外の飲屋ですませてしまうせいと思うが、こういう句に触れると、たまには自宅で楽しくやりたくなってくる。春おぼろ……。今日あたり、この句を実感する読者もおられるだろう。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


March 2532001

 浮き世とや逃げ水に乗る霊柩車

                           原子公平

語は「逃げ水」で、春。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、また遠ざかって見える現象。一説に、武蔵野名物という。友人知己の葬儀での場面か、偶然に道で出会った霊柩車か、それは問わない。「逃げ水」の上に、ぼおっと浮いたように霊柩車が揺れて去っていく。そこをつかまえて「浮き世とや」と仕留めたところには諧謔味もあるが、人間のはかなさをも照らし出していて、淋しくもある。霊柩車はむろん現世のものだが、こうして見ると彼岸のもののようにも見える。まさにいま、この世が浮いているように。死んでもなお、しばらくは「浮き世」離れできないのが人間というものか。句集の後書きを読んだら、きっぱりと「最後の句集」だと書いてあった。また「『美しく、正しく、面白く』が私の作句のモットーなのである」とも……。宝塚歌劇のモットーである「清く、正しく、美しく」(天津乙女に同名の著書がある)みたいだが、揚句はモットーどおりに、見事に成立している。この句自体の姿が、実に「美しく、正しく、面白」い。いちばん美しく面白いのは、句の中身が「正しい」ところにある。「正しさ」をもってまわったり、ひねくりまわしたりせずに、「正しく」一撃のもとにすぱりと言い止めるのが、俳句作法の要諦だろう。言うは易しだが、これがなかなかできない。ついうかうかと「浮き世」の水に流されてしまう。「正しさ」を逃がしてしまう。話は変わるが、句の「逃げ水」で思い出した。「忘れ水」という言葉がある。たとえば池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」とあるように、川辺の草などが生い茂って下を流れる川の水が見えなくなることを指す。日本語の「美しく、正しく、面白く」の一端を示す言葉だ。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)


March 2632001

 水温む鯨が海を選んだ日

                           土肥あき子

来「水温む」は、「水ぬるむ頃や女のわたし守」(蕪村)のように、河川や湖沼の水が少しあたたまってきた状態を言った。それを「海」の水に感じているところが異色。しかし、海もむろん「温む」のである。実は、この句は坪内稔典さんの愛唱句だそうで、最近の新聞や雑誌で何度か触れている。「『あっ、そうだ。今は水温む季節なんだ』と気づいた作者は『そうなんだわ。こんな日だったのだわ。昔々、鯨が陸ではなく海で暮す選択をしたのは』と思った。つまり、水に触れたときの感覚が、哺乳類としての動物的感覚を呼び覚まし、同族の鯨へ連想が及んだのである。/私たちのはるかな祖先は水中から陸上へと上がってきた。鯨の化石によると、初期の鯨には小さな後ろ脚の跡があるという。鯨もまた、私たちの祖先と同じように、陸上生活をしていたのか。……」(「日本経済新聞」2001年2月10日付夕刊)。つづけてこの句を知って「『水温む』という季語が私のうちで大きく変わった。鮒から鯨になったという感じ」と書いているが、同感だ。掲句は「水温む」の季語を、空間的にも時間的にも途方もないスケールで拡大したと言える。それも、ささやかな日常感覚から出発させているので、自然で無理がない。「コロンブスの卵」は、このように、まだまだ私たちの身辺で、誰かに発見されるのを待っているのだろう。そう思うと、句作がより楽しみになる。さて、蛇足。スケールで思い出したが、その昔の家庭にはたいてい「鯨尺」という物差しがあった。和裁に使ったものだ。調べてみたら、元々は鯨のヒゲで作った物差しなので、この名前がついたのだという。その1尺は、曲尺(かねじゃく)の1尺2寸5分(約37.9センチ)で、メートル法に慣れた私たちにはややこしい。最近はさっぱり見かけないが、もはや「鯨尺」を扱える女性もいなくなってしまったのだろう。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


March 2732001

 とりわくるときの香もこそ桜餅

                           久保田万太郎

かにも美味しそうだ。「桜餅」の命が味の良さにあるのはもちろんだが、独特な葉の香りにもある。だから「香もこそ」と言い、それが生きている。「とりわけて」いる段階で、もう「桜餅」は命の輝きを放ちはじめている。食べ物の句は、とにかく美味しそうでなければならない。読んだ途端に、読者が食べたくなるようでなければならぬ。同じ作者による別の一句は「葉のぬれてゐるいとしさや桜餅」というものだ。こちらもとても美味しそうであり、郷愁にも誘われる。万太郎は、よほど「桜餅」が好きだったのだろうか。ところで「桜餅」の定義だが、角川版歳時記に「うどん粉を水に溶いて焼いた皮に、餡を入れて巻き、塩漬けの桜の葉で包んだもの。皮には桜色と白とがあり、桜の葉の芳香が快い。文政年間に江戸向島の長命寺境内で山本新六という人が売り出したのが始まりという」とある。桜餅の定義などはじめてちゃんと読んだが、ええっと思った。菓子類には情け無いくらいにうといので、私だけのびっくりなのだろうけれど、この十年ほどに二個か三個か食した桜餅は、どれも皮はうどん粉(小麦粉)ではなくて、もっとすべすべしていたように思う。少なくとも、皮を焼いたものではなかった。蒸した感じ。となれば、私が食べ(させられ)たのは、元祖とは製法が違ったものだったのだろう。新しい講談社の歳時記に載っている「桜餅」の写真でも、皮は焼いてないように見える。この本では片山由美子さんが「小麦粉と白玉粉を溶いて焼いた薄皮」と説明していて、となれば、すべすべしていたのは白玉粉のせいなのかもしれない。元祖よりも、口当たりをよくした現代版というところか。でも、いまでも焼いた皮の「桜餅」があるとしたら、ぜひとも、我慢してでも(笑)食べてみたい。そんなのは「どこにでもある普通のもの」なのだろうか。「味の味」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


March 2832001

 春昼の指とどまれば琴も止む

                           野沢節子

とに知られた句。あったりまえじゃん。若年のころは、この句の良さがわからなかった。琴はおろか、何の楽器も弾けないせいもあって、楽曲を演奏する楽しさや充実感がわからなかったからだ。句は、演奏を終えた直後の気持ちを詠んでいる。まだ弾き終えた曲の余韻が身体や周辺に漂っており、その余韻が暖かい春の午後のなかに溶け出していくような気持ち……。琴の音は血をざわめかすようなところがあり、終わると、そのざわめきが静かに波が引くようにおさまっていく。弾いているときとは別に、弾き終えた後の血のおさまりにも、演奏者にはまた新しい充実感が涌くのだろう。まことに「春昼」のおぼろな雰囲気にフィットする句だ。ちなみに、このとき作者が弾いたのは「千鳥の曲」後段だった。三十代のころに住んでいたマンションの近所に、琴を教える家があった。坂の途中に石垣を組んで建てられたその家は、うっそうたる樹木に覆われていて、見上げてもほとんど家のかたちも見えないほどであった。日曜日などに通りかかると、よく音色が聞こえてきたものだ。どういう人が教えていて、どういう人が習っているのか。一度も、出入りする人を見たことはない。そのあたりも神秘的で、私は勝手に弾いている人を想像しては楽しんでいた。上手いか下手かは、問題じゃない。ピアノ全盛時代にあって、琴の音が流れてくるだけで新鮮な感じがした。「深窓の令嬢」なんて言葉を思い出したりもした。掲句から誰もが容易に連想するのは、これまたつとに知られた蕪村の「ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ」だろう。こちらは、これから弾くところだろうか。なんとなくだが、蕪村は琵琶を弾けない人だったような気がする。演奏云々よりも、気持ちが楽器の質感に傾き過ぎている。それはよいとしても、演奏者なら楽器を取り上げたとき、こんな気持ちにならないのではないだろうか。つまり、想像句だということ。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


March 2932001

 鳥の恋峰より落つるこそ恋し

                           清水径子

語は「鳥の恋」で春。春から初夏にかけては野鳥の繁殖期で「鳥交る(さかる)」「鳥つるむ」などとも言う。ちょっと面白い作りの句だ。サーカスのジンタで知られる曲「美しき天然」の歌詞にかけてある。「♪空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音……」。作者は鳥たちが美声を発して求愛をしている様子を聞き、ふとこの歌を思い出した。口ずさんでいるうちに、自然に一句がなったのだろう。「峰より落つる」のは滝である。その滝のように激しく「落つる」のが、恋の理想だと。したがって「落つるこそ恋し」の「恋し」は、たとえば「恋を恋する」と言うときの「恋し」であり、抽象的な対象を憧憬し理想化している。「落つる(恋)こそ恋し」なのだ。句集の刊行時から推定して、作者七十代後半の句かと思われる。探してみたが、この人に恋愛の意味での「恋」の文字の入った句は他に見当たらず、同じ句集にわずかに「君のそばへとにかくこすもすまであるく」と、異性を意識した句が見える。本当はすっとまっすぐ近づきたいのに、とりあえず「こすもす」に近づくふりをしているのだ。このときに「コスモス」と片仮名でないのは、「君」に対する感情が「コスモス」を甘く「こすもす」と揺らしたかったためだと思う。控えめでつつましい女性の姿が想像される。そのような女性にして、この一句あり。かえって、私には得心がいった。『夢殻』(1994)所収。(清水哲男)


March 3032001

 火の隙間より花の世を見たる悔

                           野見山朱鳥

哭。印象は、この二文字に尽きる。人生の三分の一ほどを病床で過ごした朱鳥は、このときにもう死の床にあることを自覚していたと思われる。夢うつつに、めらめらと燃え盛る地獄の炎を意識していたに違いない。実際はうららかな春の日差しだろうが、重い病いの人に、あまりの明るさはコタえるのだろう。その我が身を焼き尽くすような「火の隙間」から、ちらりと桜花爛漫の「花の世」を見てしまった。未練を断ち切ろうとしていたはずの、俗世の人々のさんざめく様子が垣間見えたのである。実際には、もちろん花見の情景などは見ていない。家人の動きや言葉の端などから、桜の見頃であることを察知したのだ。くやしい。猛然と、そんな心が起き上がってくる。健康であれば、私も「火」の向こう側で楽しく花見ができているはずなのに……。掲句の神髄は、赤い「火」と紅の「花」との取り合わせにある。「火」と「水」のような対比ではない。同色系で奥行きを出したところに、作者の俳句修練の果てが表れている。そんな技術的方法的な意識はもはやなかったかもしれないが、しかし、修練無くしてこのような句は生まれないだろう。それにしても、実に悪寒がするほどに恐い句だ。いよいよ自分が死ぬと自覚できたとして、この句を知っている以上、春たけなわの「花の世」で死ぬのだけは免れたいと思う。その昔「花の下にて」春に死にたいと願った歌人もいたけれど、当分死ぬ気遣いのない人だからこそ詠めた「浪漫」だ。死の床に「浪漫」の入り込む余地はない。朱鳥の命日は、二月二十一日(1970)だった。「花の世」には、無念にも一ヶ月ほど届かなかった。「生涯は一度落花はしきりなる」。朱鳥亡き後も、花は咲き花は散っている。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)


March 3132001

 天才に少し離れて花見かな

                           柿本多映

作です。笑えます。何の「天才」かは知らねども、天才だって花見くらいはするだろう。ただ「秀才」ならばまだしも、なにしろ敵は天才なのだからして、花を見て何を思っているのか、わかったものじゃない。近くにいると、とんでもない感想を吐かれたりするかもしれない。いやその前に、彼が何を思っているのかが気になって、せっかくの呑気な花見の雰囲気が壊れてしまいそうだ。ここは一番、危うきに近寄らずで行こう。「少し離れて」、いわば敬遠しながらの花見の図である。でもやはり気になって、ときどき盗み見をすると、かの天才は面白くも何ともないような顔をしながら、しきりに顎をなでている。そんなところまで、想像させられてしまう。掲句を読んで突然思い出したが、一茶に「花の陰あかの他人はなかりけり」という句があった。花見の場では、知らない人同士でも、なんとなく親しみを覚えあう。誰かの句に、花幕越しに三味線を貸し借りするというのがあったけれど、みな上機嫌なので、「あかの他人」との交流もうまくいくのだ。そんな人情の機微を正面から捉えた句だが、このときに一茶は迂闊にも「あかの他人」ではない「天才」の存在を忘れていた。ついでに、花見客の財布をねらっている巾着切りのことも(笑)。掲句は「俳句研究」(2001年4月号)に載っていた松浦敬親の小文で知った。松浦さんは「取合わせと空間構成の妙。桜の花も天才も爆発的な存在で、出会えば日常性が破られる。『少し離れて』で、気品が漂う」と書いている。となると、この天才は岡本太郎みたいな人なのかしらん(笑)。(清水哲男)




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