ノ丹OF句

March 0732001

 泥濘に児を負ひ除隊兵その妻

                           伊丹三樹彦

季句としてもよいが、句の「泥濘」は中身に照らして、この季節の「春泥(しゅんでい)」と読んでおきたい。徴兵制のシステムに詳しくないので、あるいは季節を間違えているかもしれないが、御容赦を。戦前の皆兵時代には、兵役につくと、普通は二年で満期となった。その晴れて満期となった日の光景だ。以下は、作者の弁。「営門前には、満期兵の家族たちが喜々として、これを迎える。中には留守の間に生れた幼児を背負うた若妻の姿も混る。青野原は赤土が多くて、雨が降ると泥濘となる。その上、戦車の轍(わだち)が幾筋もあって極めて歩き難い。でも健気な妻は、夫に愛児を見せようと、慎重な一歩一歩を進めるのだ」(「俳句研究」2001年3月号)。さながら無罪放免の感があるが、当人や家族の喜びは、いかばかりだったろう。赤ん坊を早く見せたくて、若妻は転ばないように慎重に歩を進めながらも、きっとそのうちには裾の汚れなど気にせぬほどの早い足取りとなっただろう。わずか半世紀少々前の、これが庶民の当たり前の現実であった。そしていまもなお、お隣りの韓国をはじめとして、徴兵制を敷いている国はたくさんある。そんな「世界の現実」を普段はすっかり忘れているが、とにもかくにもこの国に徴兵制がないことを、私たちはもっともっと喜びと誇りとしなければ……。日本の春の泥道はいま、たしかに歩きにくい。しかし、いくら歩きにくくたって、まだ歩けないほどではないのである。揚句での「泥濘」は、徴兵制そのものの暗喩のように、今日の読者に突きつけられているようだ。(清水哲男)


September 0892002

 父も子も音痴や野面夕焼けて

                           伊丹三樹彦

に「夕焼」といえば夏だが、句のそれは「秋夕焼」でも似合う。夏ならば、親子していつまでも歌っている光景。秋ならば、ちょっと歌ってみて、どちらからともなく止めてしまう光景。いずれも、捨てがたい。思いがけないところで、血筋に気がつく面白さ。こういうことは、誰にでも起きる。ところで、いったい「音痴」とは何だろうか。私は音痴と言われたことはないけれど、しかし、自分が微妙に音痴であることを知っている。頭ではわかっていても、決まって思うように発声できない音がある。小学館の電子百科辞典で、引いてみた。「音楽が不得意であること、またそのような人に対して軽蔑や謙遜の意味を込めていう俗語。大正初期の一高生による造語か。(中略)病理学的には感覚性音痴と運動性音痴が区別される。前者は音高、拍子、リズム、音量などを聞き分ける能力がない、または不完全なものをさし、後者はそのような感覚はあっても、いざ歌うとなると正しく表出できないものをさす。これらは大脳の先天的音楽機能不全であるとする説もあるが、環境の変化や訓練によって変わるし、しかも幼少時期にとくに変わりやすいので、むしろ後天的な要因のほうが大きいと思われる。とすれば、ある社会のなかで音痴といわれる人も別な社会に行けば音痴でないこともありうることになる。とくに軽症の場合は心因性のことが多いので、劣等感を取り除くべく練習を重ねれば文化に応じた音楽性が身につく。身体発育の段階によっては、声域異常や嗄声(させい・しゃがれ声)などの音声障害のため音痴と誤解されることもあるが、楽器の操作は正しくできることもある。音楽能力が以前にはあったのに疾病により音痴となった場合のことを失音楽症という。〈山口修〉」。この解説に従えば、私の場合は「運動性音痴」に当てはまる。これはしかし、どう考えても後天的ではなさそうだ。『人中』所収。(清水哲男)


August 0682005

 舌やれば口辺鹹し原爆忌

                           伊丹三樹彦

十年前の昭和二十年八月六日、広島市に,つづいて九日、長崎市に原爆が投下された。私の住む東京・三鷹市では,両日の投下時刻と敗戦日正午に黙祷のための街頭放送で告知しチャイム音を鳴らす。隣りの武蔵野市では、何も流さない。瞬時にあわせて三十万人の人命が殺傷された歴史的事実に,向き合う自治体とそうしない自治体と……。ところで知らない人もいるようだが、十余年前のアメリカの情報開示により、広島長崎以前に、既に原爆犠牲者と言うべき人々が存在していたことが判明した。すなわち、同型の模擬爆弾を使った本物投下の訓練が、事前に日本各地五十カ所余りで行われていたのだった。「新潟県では現在の長岡市に1発の5トン爆弾が落とされ、4人が死亡、5人が負傷した。60年を経て、着弾した同市左近町の太田川の土手に『投下地点跡地の碑』が建てられ20日、市民ら約100人が見守る中、投下時間(午前8時13分)に合わせて除幕された」(2005年7月20日付「毎日新聞」)。他の地方でも、死者が出ている。また、これは最近の情報開示によるが,戦後歴代の首相のなかで、池田勇人と佐藤栄作が日本の核武装化を目指していたこともわかった。掲句はこうした事実が判明する以前の作と思われるが,原爆による圧倒的な悲惨に向き合った一市民の、やりきれない思いがよく伝わってくる。「口辺鹹し」は、「くちのへからし」と読んでおく。「鹹し」は「塩辛い」の意。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 20102006

 古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

                           伊丹三樹彦

季の句。「仏」の持つ従来の俳句的情緒を逆手にとって、情況に対する危機感を詠じた。海の彼方の国のテロが、瞬時に我々の現実となり得る現代をこの句は描いている。作者は日野草城主宰誌「青玄」に参加、草城没年(1956)に主宰を継承。「青玄」は、2005年に創刊六百号を迎えたあと、本年一月に終刊した。草城の拓いた同時代詩としての俳句の在り方を継いで、作者は現代語による表記を標榜。現代語の多様性がもたらす切れの位置の複雑さを、作り手の側から明確に示すために「分かち書き」を提唱、雑誌全体で実践してきた。「千手」と「遠く」の間の空白の一マスがそれである。同じ無季の句でやはり状況を詠った「屋上に洗濯の妻空母海に」(金子兜太)と並べて置いてみると、日常に隣接している暴力即ち「政治」を描くに当って、まず視覚的な構成から入る兜太作品に比べ、この句は、「仏」の持つ聖性が、むしろ観念としてテロを相対化していることがわかる。いわゆる「人間探求派」と「新興俳句派」という、両者の出自に関わる違いと言えなくもない。観念派と目される「人間探求派」が実は視覚的現実に重きを置き、「新興俳句派」のイメージや言葉が実は従来の俳句的情緒を梃子にしていることがうかがえる。二人とも俳句の新しい可能性を拓くために固定的な手法と闘ってきた現代俳句の闘将である。『樹冠』(1985)所収。(今井 聖)


September 2092007

 長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

                           伊丹三樹彦

誌「青群」に収録された伊丹三樹彦と公子の「神戸と新興俳句」の対談が面白い。十代の頃より日野草城の主宰する「旗艦」に参加した三樹彦が新興俳句の勃興期をリアルタイムで経験した話を収録している。少年だった三樹彦は数ある俳誌の中で俳句雑誌らしからぬダンスホールやヨットの見える鎧窓などをデザインしたハイカラな表紙に引かれ「旗艦」に参加したという。戦前の神戸は横浜と並ぶ国際港で、異国文化が真っ先に入ってくる場所でもあったので、モダンなものを詠み易い雰囲気があったのだろう。川名大の「新興俳句年表」を調べると、掲句は昭和13年の作になっている。「周りはもうみんな灯を消してしまっているのに、その楽器店だけは煌々と照らしておりまして、音を発する楽器がまったく音を発しない。そういう存在になって、なんとなく不気味であるというふうな…」という印象のもとに書かれた句であると対談の中で作者が述べている。年表には同時期の作として「燈下管制果実の黒き種を吐く」が並んでいるので、今のように灯りが煌々とつく街にある楽器店とは様子が違うのだろう。部屋の隅に鳴らない楽器が固まって置かれている情景を想像するだけでも説得力のある句であるが、時代を語る夫妻の対話をもとに句の背景を知って読み返すとまた違う印象があり、貴重な資料であると思う。俳誌「青群」(第5号 2007/09/01発行)所載。(三宅やよい)


December 17122007

 クリスマスケーキ買いたし 子は散りぢり

                           伊丹三樹彦

リスマスケーキとは、つまりこういうものである。むろん買って帰ってもよいのだが、老夫婦だけのテーブルに置くのはなんとなく侘びしい。ケーキのデコレーションが華やかなだけに、である。子供たちがまだ小さくて、夫婦も若かった頃には、ケーキを食卓に置いただけで家の中がはなやいだ。目を輝かせて、大喜びする子供たちの笑顔があったからだ。その笑顔が、親にとってはケーキよりももっと美味しいものだったのだ。そんなふうだった子供らも、やがて次々に独立して家を離れていった。詩人の以倉紘平は「どんな家にも盛りの時がある」と書いているが、まことにもってその通りだ。毎年年末には、作者のような思いで、ケーキ売り場を横目に通り過ぎる人は多いだろう。私も既に、その一人に近い。伊丹三樹彦、八十七歳。この淋しさ、如何ともなし難し。もう一句。「子が居る筈 この家あの家の門聖樹」。『知見』(2007)所収。(清水哲男)


March 2632010

 鼻さきにたんぽぽ むかし 匍匐の兵

                           伊丹三樹彦

の野に寝転び鼻先にたんぽぽを見る安らぎの中にいて、記憶は突如フラッシュバック。いきなり匍匐前進中の兵隊である我に飛ぶ。銃弾飛び交う状況である。この句を見て思い出す映画がある。スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演の映画「プライベート・ライアン」は何千基と林立する戦没者の墓の一つを探し当ててよろよろと駆け寄る老人のシーンから始まる。命の恩人の墓を見出した老人の感激の表情から、シーンは突然数十年前の激戦のシーンに飛ぶ。この句とその映画の冒頭は同じ構造を持つ。何かをきっかけにむかしを思い出すのはよくあること。懐メロなんかはそのためにすたれない。いい記憶ならいいが、悪い記憶に戻る「鍵」などないほうがいい。戦闘機乗りの話をどこかで読んだ。広い広い穏やかな海と青空のほんの一角で空戦や艦爆が行われている。攻撃機はその平安の中を飛んで、わざわざ殺し合いの状況下へ入っていくわけだ。静かな美しい自然の中の醜悪な小さな小さな空間の中へ。この句、たんぽぽがあるから救われる。「兵」が人間らしさを保つよすがとなっている。『伊丹三樹彦集』(1986)所収。(今井 聖)


August 2082010

 朝顔を数えきれずに 立ち去りぬ

                           伊丹三樹彦

寿記念出版と帯に記された24番目の句集に所収の作品。作者は昭和12年に日野草城に師事し、31年に草城逝去のあと「青玄」の後継主宰になり、それ以降、一句中の随意の箇所に一マスの空きを入れる「分かち書き」を提唱実践して今日に至る。その普及のために全国行脚をしていた40年頃、鳥取県米子市を作者が訪れた折、当時米子にいた僕は歓迎句会に出席したのを覚えている。高校生だった僕は初めて「中央俳人」というのを目にしたのだった。爾来一貫して「分かち書き」を実践。現代の日常の中にも俳句のリリシズムが存することを示してきた功績は大きい。この句、「立ち去りぬ」が現実であって象徴性も持つ。どこか禅問答のような趣きも感じられるのである。『続続知見』(2010)所収。(今井 聖)


July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


June 1362013

 玉手箱風なり 開ければさくらんぼ

                           伊丹三樹彦

形名産「佐藤錦」を送っていただいたことがある。蓋を開ければぎっしりと大粒のさくらんぼがきれいに詰められていて、ルビー色に光るその美しさにため息が出た。詰められた箱は何の変哲もない白い果物用のダンボールだったのだけど、蓋を開けたときの感嘆はまさしく玉手箱を開けたときの驚きだった。掲句では、そうした感嘆の比喩ではなく詰められている箱そのものが玉手箱のようなので「玉手箱風」なのだろうか。この「〜風」が謎だけれど、箱詰めにされた「さくらんぼ」ほどきらめきが魅力的な果物はないように思う。その美しさは虚子の「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」の自在さとはまた違った魅力がある。『続続知見』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2552015

 「お父さん」と呼ぶ娘も 後期高齢者に

                           伊丹三樹彦

意は明瞭。この事実には「ほう」と思うが、おおかたの読者の感想はそこらあたりで終わってしまうのではなかろうか。この事実に、もっとも愕然としているのは作者当人である。伊丹三樹彦は1920年生まれだから、今年で95歳だ。後期高齢者の娘さんがあっても、べつに不思議ではない。不思議ではないけれど、作者にしてみれば、この事実を突きつけられることで、現在のおのれの老いをいわば客観的に示された思いになる。多くの局面において老人にとって、いや誰にとっても、年齢はあくまでも「他人事」なのである。年齢を意識させられるのは相対的な関係においてなのであり、普段はわが事として受けとめつつも、半分以上は自分に引きつけて考えることもない。普段おのれの老いを認めてはいても、それだけのことであり、精神的にぐさりと年輪を感じることはあまりない。しかし、このような身内(子供)の老いを客観的につきつけられると、何か不意打ちでも食らったかのような衝撃が走る。小さいころから「お父さん」と呼びつづけていた子供がここにきて「急に」老いてしまった……。この娘はいつだって、自分とは比較するきにもならないほど、若い存在であった。その思いが急に我が身を老いさせる。このようなことは、起きそうでいてなかなか起きるものではないだろう。思わずも、読者にどう思われようとも、句にしておきたいと思った作者の気持ちがよくわかるような気がする。『存命』(2015)所収。(清水哲男)




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