aq句

March 2932001

 鳥の恋峰より落つるこそ恋し

                           清水径子

語は「鳥の恋」で春。春から初夏にかけては野鳥の繁殖期で「鳥交る(さかる)」「鳥つるむ」などとも言う。ちょっと面白い作りの句だ。サーカスのジンタで知られる曲「美しき天然」の歌詞にかけてある。「♪空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音……」。作者は鳥たちが美声を発して求愛をしている様子を聞き、ふとこの歌を思い出した。口ずさんでいるうちに、自然に一句がなったのだろう。「峰より落つる」のは滝である。その滝のように激しく「落つる」のが、恋の理想だと。したがって「落つるこそ恋し」の「恋し」は、たとえば「恋を恋する」と言うときの「恋し」であり、抽象的な対象を憧憬し理想化している。「落つる(恋)こそ恋し」なのだ。句集の刊行時から推定して、作者七十代後半の句かと思われる。探してみたが、この人に恋愛の意味での「恋」の文字の入った句は他に見当たらず、同じ句集にわずかに「君のそばへとにかくこすもすまであるく」と、異性を意識した句が見える。本当はすっとまっすぐ近づきたいのに、とりあえず「こすもす」に近づくふりをしているのだ。このときに「コスモス」と片仮名でないのは、「君」に対する感情が「コスモス」を甘く「こすもす」と揺らしたかったためだと思う。控えめでつつましい女性の姿が想像される。そのような女性にして、この一句あり。かえって、私には得心がいった。『夢殻』(1994)所収。(清水哲男)


September 0592001

 かなかなかな香典袋なくなれり

                           清水径子

儀袋とは違い、「香典袋」は不意に緊急に必要になるものだから、買い置きをしておく人は多いだろう。と言っても、大量に求めるのは、たくさんの人の死を待ち望んでいるようで憚られる。せいぜい数袋程度しか買わない。作者の身辺では、連続して不祝儀がつづいたのだ。そしてまた今日も訃報がもたらされ、これから通夜に出かける情景だろう。買い置きの「香典袋」を探すと、もはや一袋しか残っていなかった。紙幣を包み署名したところで、「なくなれり」となった。表では「かなかな」が鳴きしきり、その哀切な調べに和すようにして作者は「かなかなかな」とつぶやき、すらりと句になった。三番目の「かな」を切れ字と読むことも可能だが、私には鳴き声のように思える。連続して死者を見送る人の喪失感が、鳴き声として読むことで滲み出てくる気がするからだ。切れ字と取ると詠嘆の度合いが濃くなり、連続した死者への思いよりも、これから見送りに行く一人の死者への思いのほうが強調されてしまう。となれば、「香典袋」が「なくなれり」という描写が生きてこないわけだ。蜩の聞こえる暮れかけた部屋でしばし端座している心に、一瞬「香典袋なくなれり」という現世的な所帯じみた感覚を走らせた。ここに、生き残った者の茫然たる喪失感がよく表現されている。『哀湖』(1981)所収。(清水哲男)


December 18122003

 屑買ひがみてわれがみて雪催

                           清水径子

語は「雪催(ゆきもよい)」。冷え込んできて、いまにも雪が降り出しそうな曇天のこと。さながら小津映画にでも出てきそうな情景だ。「屑買ひ」は、いまで言う廃品回収業者。昔は「お払い物はありませんかー」と呼ばわりながら、リヤカーで町内を回っていた。年の暮れは稼ぎ時だったろう。そんな屑屋さんを呼び止めて、勝手口で不要なもののあれこれを渡している図。代金として、なにがしかの銭を手渡しながらでもあろうか。「降ってきそうですねえ」と屑買いの男が空を見上げ、つられて作者も同じような方角に目をやる。いままで暖かい室内にいたので気づかなかったが、言われてみればたしかに「雪催」だ。二人同時に見上げたのではなく、まず「屑買ひがみて」、それから「われがみて」。そうわざわざ書いたところに、手柄がある。この順番は、すなわち寒空の下で仕事をしなければならない人と、そういうことをしなくても生活の成り立つ自分を象徴的に表現しており、しかし自分とても決してご大層な身分ではない。ぼんやりとそんな思いもわいてきて、そこにいわば小市民的な哀感が醸し出されてくる。屑屋さんが去ってしまえば、すぐに忘れてしまうような小さな思いを素早く書きとめた作者は、まぎれもない俳人だ。本当はその場でのスケッチではないにしても、こうしたまなざしが生きる場所としての俳句様式をよく心得ている。中身はなんでもないようなことかもしれないが、俳句に言わせればちっともなんでもなくはないのである。「俳句ってのはこういうものさ」。『鶸』(1973)所収。(清水哲男)


June 0962004

 汗ばむや桜の頃のいい話

                           清水径子

語は「汗ばむ」で夏。「桜」は「桜の頃」と、もはや過ぎ去った季節だから、この場合は季語ではない。試験に出すと、うっかりして間違える生徒がいそうだ。そしてこの「桜の季節」は、遠い過去のそれだろう。ということを、「いい話」が暗示している。「いい話」とは、むろん儲け話や美談の類いではない。自分に関わる、ちょっと秘密にしておきたい出来事のことである。出来事があった当時は「いい事」だったのだけれど、それが年月を経るにつれて「話」に変わってきたというわけだ。桜の頃の話だから、きっと浮き浮きするような出来事だったに違いない。若き日の恋の淡い思い出だろうか。ふっとその「いい話」を思い出して、青春のあの日あの時に戻ったように、自然に気持ちも身体も汗ばんできた。また掲句は、「でも、この話のことはナイショですからね」とも言っていて、いかにも女性らしい感性をのぞかせている。男には、逆立ちしても詠めっこない句だ。粗略かもしれないが、私の観察では、女性はいつまでもロマンチストであると同時にリアリストであることができる。男の場合には、たいていが猛烈なロマンチストとして出発はするが、いつの頃からかミもフタもないリアリストに転じてしまうようだ。夢と現実を共存させることができないのである。だから男には、たまに「いい事」があったとしても、ほとんどが「いい話」としては残らない理屈だ。『夢殻』(1994)所収。(清水哲男)


March 1232005

 老人の立つまでの間の虻の声

                           清水径子

語は「虻(あぶ)」で春。歳を取ってくると,どうしても動作が緩慢になってくる。口悪く言えば、ノロ臭くなる。作者の前で,いましもひとりの「老人」がのろのろと立ち上がっているところだ。「よっこらしょ」という感じが、なんとも大儀そうだ。と、そこにどこからともなく「虻の声」がしてきた。作者はいわば本能的に警戒する構えになっているが、老人のほうは立ち上がるのが精一杯という様子で,虻の接近を知ってか知らずか,全く警戒する風ではない。ただそれだけのことながら、この句には老人の身体のありようというものが見事に描かれている。といって,哀れだとかお可哀想になどという安手な感傷に落ちていないところが流石である。年寄りの緩慢は、敏捷な時代の果てにあるものだ。だから、身体のどこかの機能には敏捷な動きが残っている。すべての機能が平等に衰えてくるというものではない。したがって、このときにもしも老人に虻が刺そうとして近づいたとしたら,彼は長年の経験から,ノロ臭いどころか手練の早業で叩き落としてしまうかもしれない。あえて言えば,老人の身体にはそうした不可解さがある。若い者にはときに不気味にすら思えたりするのだが,そうしたことまでをも含んだ「立つまでの間」なのだ。他ならぬ私の動作も,だんだんノロ臭くなってきた。だから余計に心に沁みるのかもしれない。また掲句からは,俳句の素材はどこにでもあることを、あらためて思い知らされたのでもあった。『清水径子全句集』(2005)所収。(清水哲男)


April 1842005

 人の声花の骸を掃きをれば

                           清水径子

かな春の昼下がり。作者は、庭一面に散り敷いた桜の花びらを掃いている。と、どこからかかすかに「人の声」が聞こえてきた。散った桜の花びらを「花の骸(むくろ)」とは、一歩間違うと、大袈裟で仰々しい見立てにもなりかねない。だが、読者にそれをまったくあざとく思わせないところが、この句の凄さだろう。それは一にかかって、「人の声」との取り合わせによる。言うまでもないことながら、このときに「人の声」は骸に対する「生」の象徴だ。ここに人声がしなければ、作者にも花びらを骸とみなす意識は生まれなかったはずである。すなわち、作者ははじめから骸を掃いていたのではなくて、人声が聞こえたので、そこではじめて掃いている対象を骸と認識したのであった。「生」に呼び起こされる格好で、眼前の花びらの「死」が鮮やかに浮き上がってきたというわけだ。だから、骸という物言いにあざとさが微塵もないのである。掃く、聞こえる、掃く。同じ「掃く」という行為なのだが、前者と後者では世界が大きく異なっている。この異なりようを読者は一瞬で感じられるがゆえに、骸を素直に自然な比喩ないしは実体として受け入れることができる。わずか方数尺でしかない掃き寄せの空間に、生と死の移ろいを静かに的確にとらえてみせた腕前には唸らされた。『清水径子全句集』(2005・清水径子全句集刊行会)所収。(清水哲男)


May 0652005

 十七歳跨いで行けり野の菫

                           清水径子

語は「菫(すみれ)」で春。ハイキングの途次だろうか。可憐に咲いている「野の菫」を、まことに無造作に「十七歳」が跨(また)いで行ったというのである。「十七歳」とは、微妙な年齢だ。十六歳とも違うし、十八歳とも違う。もう子供だとは言えないが、さりとて大人と言うにはまだ幼いところが残っている。そんな宙ぶらりんな年齢にとって、例外はあるにしても、野に咲く花などに立ち止まるような興味はないのが普通だろう。万事において、好奇心はもっと刺激的なものへ、もっと華麗なものへと向けられている。掲句は、十七歳のそのようなありようを、菫をぱっと跨いで行った一つの行為を描くことで、見事に象徴化してみせた作品だ。未熟で粗野な美意識と、それを補って余りある若い身体の柔軟性とが、一つに混然と溶け合っている年齢の不思議を、むしろ作者は羨望の念を覚えながら見たのだと思われる。ところで、この十七歳は男だろうか、それとも女だろうか。どちらでもよいようなものだけれど、私は直感的に女だと読んでいた。男だとすると、情景が平凡で散文的に過ぎると感じたからだ。女だとしたほうが、跨ぐ行為にハッとさせられるし、しなやかな肢体を思わせられるので、情景にちょっぴり艶が出る。それから、もしかするとこの「十七歳」はかつての作者自身だったのかもしれないと、思いが膨らんだのでもあった。『清水径子全句集』(2005)。(清水哲男)


October 22102007

 淋しき日こぼれ松葉に火を放つ

                           清水径子

語はそれとはっきり書かれてはいないが、状況は「落葉焚き」だから「落葉」に分類しておく。となれば季節は冬季になってしまうけれど、この場合の作者の胸の内には「秋思」に近い寂寥感があるようなので、晩秋あたりと解するのが妥当だろう。ひんやりとした秋の外気に、故無き淋しさを覚えている作者は、日暮れ時にこぼれた松の葉を集めてきて火を放った。火は人の心を高ぶらせもするが、逆に沈静化させる働きもある。パチパチと燃える松葉の小さい炎は、おそらく作者の淋しさを、いわば甘美に増幅したのではあるまいか。この句には、下敷きがある。佐藤春夫の詩「海辺の恋」がそれだ。「こぼれ松葉をかきあつめ/をとめのごとき君なりき、/こぼれ松葉に火をはなち/わらべのごときわれなりき」。成就しない恋のはかなさを歌ったこの詩の終連は、「入り日のなかに立つけぶり/ありやなしやとただほのか、/海べのこひのはかなさは/こぼれ松葉の火なりけむ」と、まことにセンチメンタルで美しい。たまにはこの詩や句のように、感傷の海にどっぷりと心を浸してみることも精神衛生的には必要だろう。『清水径子全句集』(2005・らんの会)所収。(清水哲男)




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