ホ田q句

April 1842001

 かたくりの明日ひらく花虔しき

                           石田あき子

い句なのだが、問題なきにしもあらず。「虔しき」の読み方だ。字面から連想するに、おそらく「つつましき」と読んでほしいのだろう。しかし「虔」は、「慎」の字を「つつましい」「つつしむ」と両方に読むようには融通がきかない。訓読みでは「つつしむ」としか読まない。音読みは「敬虔(けいけん)」の「けん」である。初読ではそこに無理を感じるけれど、まだ咲いていない「明日ひらく花」の姿を、あたかも眼前で咲いているように「虔しき」と断言したことで、作者の思いがくっきりと浮き上がった。片栗の花の可憐さの奥にある心映えは、すでに「明日ひらく花」にも見えており、見えているからこその断定である。人品ならぬ「花品」がにじみ出ていると花を詠む気持ちには、私もかくありたいと祈る作者の心が込められているだろう。となれば「慎ましき」ではなくて、祈りの意味のこもった「虔」の字を用いたい。「明日ひらく花」は、どうあっても「敬虔」な姿をしていなければならないのだ。すなわち「虔しき」は、誤用であって誤用にあらずというのが私の結論である。俳句の一文字一文字は視覚的にも命だから、この「虔」の一文字は換えられないだろう。他の文字に取り換えるくらいなら、いさぎよく抹消したほうがよいと作者は思うだろうし、一読者たる私も思う。片栗の花を見るたびに、掲句を思い出すことになりそうだ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


September 0792006

 水引草空の蒼さの水掬ふ

                           石田あき子

引草の咲く水辺に屈み、秋空を映す水を掬っているのだろうか。「水引草」と「水」のリフレイン、秋の澄み切った空と可憐な水引草の取り合わせに清涼感がある。この草のまっすぐ伸びた細長い花穂の形状とびっしりついた小花を上から見ると赤、下から見ると白なので紅白の水引に見立てたのが名前の由来とか。あき子は石田波郷の妻。結核療養する夫を看病しつつ秋桜子の「馬酔木」に投句を続けた。波郷は妻の俳句にはいっさい干渉しなかったが、いよいよ余命短い予感がしたのか「おまえの句集を作ってやる」と言い出した。瀕死の病床であき子の句稿に目を通し表紙絵をデザイン。画家に装画を依頼して、書簡で細かな注文を出した。あとは自ら筆をとって後書を書くだけだったのに、波郷は亡くなり、その一月後にあき子の句集は上梓された。赤い花をちらした水引草の花穂が表紙の表裏いっぱいに何本も描かれている美しい句集だ。波郷の決めた題名は『見舞籠』。目立たずに秋の片隅を彩る水引草は波郷がつかのまの健康を取り戻した自宅の庭に茂っていた花であり、傍らにいつも寄り添ってくれたあき子その人の姿だったのかもしれない。『見舞籠』(1970)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます