ト黛亦g句

May 2852001

 茄子転がし妻の筆算声に出づ

                           米沢吾亦紅

方、買い物から帰ってきた妻が、買ったものの総額を計算している。昔は、現代のスーパー・マーケットのようにレシートをくれるわけではないので、値段を忘れないうちに計算しておく必要があった。後で、家計簿に転記するためだ。その「忘れないうちに」の緊急性が「茄子転がし」によく言い止められている。買い物篭から茄子が転がり出るほどだから、買い物の量も普段より多かったにちがいない。それをパッパッと手早く正確に計算するには、「ええっと、137円足す258円は……」のように声を出しながら確認するほうがやりやすい。べつに妻が計算が苦手というのではなく、経験から自然に出てきた知恵なのである。なんでもない情景だが、夕刻の主婦の忙しさを描いて秀逸だ。同時に、日々事もなき平和な家庭の雰囲気も漂ってくる。男性版「台所俳句」というところ。最近はパソコン用の家計簿も出回っており、ずいぶんと記帳も楽になったはずだが、レシートがもらえるだけに、かえってその日のうちに記帳する人は減ったかもしれない。何日分かをまとめて打ち込もうと思っているうちに、レシートは溜まる一方。なんてことになっているのは、あながち我が家だけとも思えないのですが。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


August 1682002

 精霊舟草にかくるる舟路あり

                           米沢吾亦紅

語は「精霊舟(しょうりょうぶね)」で秋。送り盆の行事の終わりに、供え物を流すときの舟。多くの歳時記には真菰(まこも)や麦わらで作ると書かれているが、私の故郷(山口県)の旧家あたりでは木造だった。盆が近づいてくると、農作業のひまをみては、少しずつ作り上げていく。立派なのになると、大人が両手でやっと抱えられるほどの大きさだ。本番で転覆しないように、慎重に何度もテストを重ねる。テストは昼間だったので、よく見にいった。我が家は分家で墓がないため、盆とは無縁だったけれど、むろんそのほうがよいに決まっているが、この舟だけは単純に欲しかった。「ウチにもハカがあったらなあ……」などと、ふとどきな妄想を抱きつつ、テストを見ていたものだ。さて、本番の夜。小学校の校庭での盆踊りが終わると、舟たちの出番がやってくる。学校から道一つ隔てた川にみんなで集まり、腰まで水につかった若い衆が、一つ一つ舟や燈籠を受け取っては流していく。さきほどまでの盆踊りの喧騒が嘘のように静まり、誰もが無言で川面を行くものを眺めていた。なかにはすぐに岸辺にひっかかるのもあり、若い衆が長い竹竿で「舟路」に戻してやっていた。句のように、やがて「草にかくるる」舟路だったから、儀式には一時間もかからなかったと思う。終わると、真っ暗な道を大人たちはどこかに飲みに行き、子供は寝るために家に戻った。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


April 1742004

 雨やどり人が買ふゆえ買ふ蜆

                           米沢吾亦紅

語は「蜆(しじみ)」で春。雨やどりで、たまたま借りたのが魚屋の軒先だった。他にも何人か、同じように雨の止むのを待っているのだが、なかなか止んでくれない。何かを買う目的で店先にいるのではないから、こういうときは時間が経つに連れて、なんとなく後ろめたい気分になってくるものだ。所在なく、並べられている魚などを眺めているうちに、雨やどりの一人が「蜆」を買った。買えば立派な客だから、いましばらくは後ろめたさから解放されて、そこに立っていられるわけだ。と、そんなふうに理屈の筋道を計算したのではないけれど、作者はつられるようにして、自分も蜆を求めたというのである。人が買うまでは、作者はそこに蜆があることにすら気づいてなかったかもしれない。目には写っていたとしても、格段に珍しいものでもないので、それと意識しないことはよくある。はじめから買う気のないときは、どんな店にいようとも、そんなものである。だからこの場合は、買った人がいたことで、雨やどりの後ろめたさを払拭したい気持ちからではなく、急に本来の客の気持ちになって求めたと読むべきだろう。人間心理の微妙なアヤをよく掴んでいる。「人が買ふゆえ」、自分も仕方なく買った。と、字面の理屈だけで解釈しては面白くない。そうか、蜆か、たまには蜆汁も悪くないな。などと、そんな気分になった瞬間から、彼は立派な客として店先に立てたのだ。そして、求めたのがタイやヒラメなど(笑)ではなく蜆だったことが、句の情趣を淡く盛り上げている。降っている雨の様子までもが、蜆の季語から読者にもよく伝わってくるからである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2982004

 椿は実に黒潮は土佐を離れたり

                           米沢吾亦紅

語は「椿の実」で秋。冬に咲く花の鮮やかさとは裏腹に、褐色の椿の実は地味である。濃い緑の葉陰に隠れるように、ひっそりと実っている。通りがかりにたまさか気がつくと、もうこんな季節かと、あらためて月日の流れの早さを感じてしまう。一方で、日本海流とも言う「黒潮」の流れは雄大にして、かつ悠久の時を感じさせる。この繊細と雄渾との対比が、句のミソだろう。しかも作者は、めったに起きない「土佐」の黒潮大蛇行を目撃している。大蛇行とは、原因は不明だそうだが、黒潮の流れが陸地からはるか遠くに離れて行く現象を言う。これまでは、13年に一度くらいの割合で起きてきた。となれば、身近に残ったのは椿の実に象徴されるはかなさであり、ますます秋特有の寂しさが深まったことだろう。実は現在、この珍しい大蛇行現象が起きているのをご存知だろうか。その影響で、紀伊半島東岸から東海にかけては潮位が通常より数十センチ程度上昇し、高潮が起きやすい状態になっており、気象庁では警戒を呼びかけている。だから、今年の台風は余計に危険なのだ。また漁業にも影響が出ていて、東海沖ではシラスやサバが不漁であり、逆に御前崎沖では通常は取れないカツオが取れているという。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)




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