R句

July 1572001

 時の来て朴と涼しき別れかな

                           中山世一

に入りました。「別れ」の内実はともかく、すべての別れがこうであったらなあと、事実かどうかには関係なく、ここには作者の「別れ」への理想形が表れていると愚考します。「朴(ほお)」は現実の朴でもありますが、、吐息としての「ほお(っ)」でもあるでしょう。「朴」の木は、たしかに「ほお」というほどの高木であり、またそれくらいの印象で終わってしまう木のような気がします。私の田舎でも、いつも朴は「ほお(っ)」と立っていました。下駄の素材になるのだよと、教室で教わりました。人はとかく「別れ」に際して内省的にせよ、いろいろと暑苦しい理屈や感想を並べたくなるものです。仮に「時の来て」と、あらかじめわかりきっている、いわば当然の「別れ」についても……です。そのほうが普通なのでしょうが、たまには僥倖としか言いようのない「涼しき別れ」に恵まれることもなくはないでしょう。掲句を読んで、いくつかの「別れ」を思い出しました。「じゃあね」と軽く手を振って「ぼくらは死ぬまで別れられるのである」なあんて、そんな詩を書いたこともありましたっけ。以上の感想は、もちろん字面通りに、「時の来て」伐り倒されてしまうのか、朴の木のある土地との惜別か、それらをイメージした上でのものであります。『雪兎』(2001)所収。(清水哲男)


July 2072015

 鍬かつぎ踊の灯へと帰りゆく

                           中山世一

踊の灯。田舎の夜にとっては、特別な灯だ。普段は暮れてくると、漆黒の闇が訪れる。が、踊の夜だけは違う。多くは小学校などの広い土地が選ばれるが、今宵は灯が灯されて、暗闇に慣れた目には異常なほどに明るく写る。そんな灯を目指すかのように、仕事を終えた農夫が畑から帰ってくる。彼らが足早になるのは、単に踊の輪に加わりたいからではない。盆踊りが楽しみなのは、この行事のために久しぶりに帰郷してきた知人や友人の顔が見られるからだ。盆踊りの夜には、あちこちで再会の喜びの声が聞こえる。私も田舎に帰っていたころには、踊よりもこれらの邂逅のほうが数倍も楽しみだった。盆踊りは深夜に及ぶが、参加者には束の間くらいにしか感じられない。夢のような夜だと言ってもよい。明日になれば、また一年間会えぬ顔である。鍬をかつぐ肩に弾みがつくのも無理からぬ所以だ。『草つらら』(2015)所収。(清水哲男)


May 2052016

 ほととぎす田の水は堰溢れつつ

                           中山世一

トトギスの仲間にはカッコウとかツツドリなどがいて、なかなか遠目には見分けがつきにくい。ただ鳴き声は「カッコーカッコー」とか「トウキョウトッキョキョカキョク」とか「ポポ・ポポ・ポポ」とかなり特徴が出て個性的である。九州以北に夏鳥として渡来し、枯枝や電線にとまり、翼を垂らし尾をあげてくり返して鳴くことが多い。また自分では巣を作らないで、オオヨシキリなどの他の鳥の巣に卵を産み込み雛を育てさせる。これを托卵(たくらん)といい、育てる鳥が仮親となる。気持ち良い風を渡らせて田には水が満々と張られて行く。堰を溢れた水は音を立てながら勢いよく走ってゆく。ほととぎすと言えば眼前は今まさに目には青葉の候、時ぞ今の様をなしている。その他<葭切の声飛び込んでくる三和土><崩れつつ白波走る端午かな><蛍光灯蛇の標本照しゐる>など、俳誌「百鳥」(2014年7月号)所載。(藤嶋 務)




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