LY句

July 2772001

 冷奴つまらぬ賭に勝ちにけり

                           中村伸郎

機嫌である。「つまらぬ賭(かけ)」とは何だろうか。知る由もないが、結論はわかりきっているのに、あえて「賭」をいどんできた奴に応えたところが、やっぱりそうだったということだろう。つまり、結論はわかっていたのだが、それを言いたくもないのに口に出さされた不機嫌なのである。想像するに、たとえば賭の対象は女性で、彼女の艶聞の真偽にからんでいた……とか。「つまらぬ賭」の相手は目の前にいて、「今夜は俺のおごりだ」などとほざいている。負けたほうがニヤニヤする賭事も、よくある。だから「冷奴」も美味くはない。なんとなく、ぐじゃぐじゃとつついている。そんな気分のありようが、よく伝わる句だ。ところで、作者は文学座の役者で小津映画にもよく出ていた、あの「中村伸郎」だろうか。人違いかもしれないけれど、だとすれば、この冷奴の食べ方も、より鮮やかに目に浮かんでくる。小津映画のなかで、彼はもっとも無感動に物を食べる演技の名人だった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[まったくの余談…]ご本人だとしたら、二十年ほど前のスタジオで、一度だけお話をうかがったことがある。話の中身はすっかり忘れてしまったが、とにかくとても煙草の好きな方だった。晩年は医者に禁じられたそうだが、苦しかったにちがいない。お通夜の席で、みんなで線香代わりに煙草を喫って偲んだという新聞記事が出た。どうせ助からないのなら、存分に喫わせてあげればよかったのに。実に「つまらぬ」医者もいたものだと、義憤を感じたことを覚えている。


July 1472002

 巴里祭モデルと画家の夫婦老い

                           中村伸郎

語は「巴里祭(パリ祭)」で夏。読みは「パリーさい」。七月十四日、フランスの革命(1789)記念日である。ルネ・クレールの映画『七月十四日』が、日本では『巴里祭』と訳され紹介されたことに由来する命名だ。したがって、日本でのこの日は、血なまぐさい革命からは遠く離れた甘美な雰囲気の日として受容されてきた。そして、パリは20世紀の半ば過ぎまで、日本の芸術家にとって憧れの都であり、とりわけて画家たちの意識のうちには「聖都」の感すらあったであろう。美術史的な意義は省略するけれど、実際にパリに渡った青年画家たちの数は数えきれないほどだったし、掲句のようなカップルが誕生することも自然のことだったと思われる。とはいえ、句のカップルがフランス女性と日本男性を指しているのかどうかはわからない。日本人同士かもしれないが、しかし、二人の結びつきの背景には、こうしたパリへの憧れや情熱を抜きにしては語れないことからの季語「巴里祭」なのだ。その二人が、かくも老いてきた。そして、他ならぬ自分もまた……。作者は、たぶん文学座の役者で小津映画にもよく出ていた「中村伸郎」だろう。そう思って読むと、句の物語性はかなり舞台的演劇的である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 2172010

 楽屋着も替えて中日や夏芝居

                           中村伸郎

者は夏の稽古場では、たいてい浴衣を着ている。からだにゆるくて動きやすいからである。若い役者はTシャツだったりする。掲句は本公演中での楽屋着である。こちらも趣味のいい柄の浴衣を、ゆったりと着こなしていたりする。公演も中日(なかび)頃になれば、楽屋着も替えるのは当然である。舞台ではどんな役を演じているにしても、楽屋ではがらりとちがった楽屋着にとり替えて、楽屋仲間や訪問客と気のおけない会話をかわすひとときでもある。楽屋着をとり替えて、さて、気分も新たに後半の公演にそなえようというわけである。舞台とはちがった楽屋のゆったりとした雰囲気が、それとなく感じられるような句である。江戸時代、夏は山王や神田をはじめ祭が盛んで、芝居興行は不振だったことから、若手や地位の低い役者が一座を組んで、力試しに興行したのが夏芝居や夏狂言だった。掲句の「夏芝居」は、もちろん現代の夏興行の芝居を指している。後藤夜半に「祀りある四谷稲荷や夏芝居」がある。伸郎(のぶお)は文学座から最後は劇団「円」の代表となった。この役者の冷たいまでに端正な風貌とねじ込んだようなセリフまわしは、小津映画や黒澤映画でもお馴染みだった。随筆・俳句集『おれのことなら放っといて』がある。平井照敏編『俳句歳時記・夏』(1969)所載。(八木忠栄)


November 04112012

 菊の前去りぬせりふを覚えねば

                           中村伸郎

者・中村伸郎は、舞台・映画・テレビで活躍した俳優です。映画で記憶に残っているのは、小津安二郎監督の『東京物語』で、上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)をぞんざいに扱う長女(杉村春子)の夫役です。いわゆる髪結いの亭主の役で、老夫婦の長男も長女も仕事に追われて東京見物に連れて行けない中で、夕方になると二人を銭湯に連れていく暇のある役柄で、何を生業にしているのか不明でありながら、たまに集金に出かける用がある。そんな下町の閑人をひょうひょうとした存在感で演じられる役者です。舞台では、渋谷山手教会の地下にあったジャンジャンという芝居小屋で、1980年代、毎週金曜日の午後10時から、イヨネスコの二人芝居『授業』で、老教授役を演じていました。一時間弱の短い舞台の後、拍手を送る観客の表情の奥を覗き込むような老獪な視線を受けた覚えがあり、見られているのはむしろ観客席に座っているこちら側ではないかと、いまだその視線は記憶に残っています。そんなことを思い出しながら掲句を読むと、「花のある役者」というのは、大輪の花ばかりではなく、観る側の記憶に根づいていられることなのではないかとも思えてきます。作者は、日比谷公園か新宿御苑、または、どこかの寺社の境内の菊花展に行き、菊の花に心を奪われそうになったのでしょう。あるいは、「せりふを覚え」ながら晩秋の道を歩いていたときなのかもしれません。いずれにしても、目の前の菊を目の中に入れてはならない決意が、完了・強意の助動詞「ぬ」に込められ、切れています。菊を目の中に入れてしまっては、「せりふ」が入らなくなってしまうからです。俳優・中村伸郎の仕事のほかに、こんな舞台裏のスナップ写真のような俳句があったことを、喜びます。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


January 0712015

 役者あきらめし人よりの年賀かな

                           中村伸郎

っから芝居がたまらなく好きで堅実に役者をめざす人、ステージでライトに照らし出される華やかな夢を見て役者を志す人、他人にそそのかされて役者をめざすことになった人……さまざまであろう。夢はすばらしい。大いに夢見るがよかろう。しかし、いっぱしの役者になるには、天分も努力も必要だが、運不運も大いに左右する。幸運なめぐり合わせもあって、役者として大成する人。ちょいとした不運がからんで、思うように夢が叶わない人。今はすっぱり役者をあきらめて、別の生き方をしている人も多いだろう。(そういう人を、私も第三者として少なからず見てきた)同期でニューフェイスとしてデビューしても、一方は脱落して行くという辛いケースもある。長い目で見ると、そのほうが良かったというケースもあるだろうし、その逆もある。このことは役者に限ったことではない。「役者をあきらめし人」の年賀をもらっての想いは、今は役者としての苦労もしている身には複雑な想いが去来するのであろう。親しかった人ならば一層のこと。そういう感懐に静かに浸らせてくれるのが年賀であり、年頭のひと時である。虚子の句に「各々の年を取りたる年賀かな」がある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)




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