対米支援を絶叫する小泉に野党の対応は如何に。政治は論理だ。昔の無理論左翼の反省からの関心。




2001N928句(前日までの二句を含む)

September 2892001

 秋刀魚焼かるおのれより垂るあぶらもて

                           木下夕爾

いてい「秋刀魚」を焼く句というと、菜箸(さいばし)に火がついたとか、煙がものすごいとか、当の魚それ自体の焼かれる状態には目をやらずに詠む。目がいかないのではなくて、目はいっているのだが、見なかったことにして詠むのである。何故か。書くまでもないだろうが、これから食べようかという相手を、人は同じ生物レベルで認めたくないからだ。認めたなら、すなわち共食いになるからだ。共食いを感性的に忌避するのは、人間だけだと思う。人が自然界で弱いほうの生物として生き永らえてきたのは、まずは人間同士の共食いを可能なかぎりに避けてきた知恵からではないだろうか。したがって人食い人種(と言われた人たちの真実は知らないが)は、極めて「人為」的に淘汰されてしまった。共食いを人類生存の障害として排除してきた別種の表現形態や様式が、食欲とは何の関係もない風情で、しれっと文化文明として我々の前に立っていると思うと、これはこれで興味深い。掲句の作者は、そうしたことどもに半ば本能的に苛立ち、共食いを直視せよと言わんばかりなのである。人にも我が身を焼く「あぶら」はあるじゃないか、と。このときに、自分自身の「あぶら」で身を焼かれている「秋刀魚」を哀れとも、ましてや滑稽と言うのではない。むしろ掲句は、共食いを直視できない人間の哀れと滑稽を言いたかったのだと思う。淡く透明な抒情詩をたくさん書いた詩人にしては、めずらしく原初的な怒りを露(あらわ)にした句だ。ただし賭けてもいいが、この人は「秋刀魚」が好物ではなかったと、それだけは言えるだろう。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


September 2792001

 蝗炒るむかし兵馬を征かしめて

                           糸 大八

語は「蝗(いなご)」で秋。蝗を炒(い)りながら、昔のことを思い出している。思い出しているのは、自分のことというよりも、村の出来事であり歴史である。毎年秋になると、どの家でも、こうして蝗を炒ってきた。いまも炒る。そのことは昔とちっとも変わらないが、変わったこともいろいろとある。で、いちばん村が激変したときといえば、戦時だった。若い衆には赤紙が来て次々に出征していき、農耕馬も軍馬として徴用されていった。見送ったのは老人と女子供であり、残された者に銃後の農作業は辛く厳しいものであった。遂に帰ってこなかった若い衆もいたし、馬たちは一頭も戻ってはこなかつた。いまにして思えば、残った者は人や馬を「見送った」のではなくて、むしろ能動的に「征(ゆ)かしめ」たのではなかったのか。「兵馬を征かしめて」、「むかし」もこうやって平時のように蝗を炒ったものだ。その行為は平時のいまも変わらないが、変わらないからこそ、炒るという平凡で不変な行為が「むかし」の変事を鮮明に炙り出してくるのである。しかし、痛恨という思いではない。時代の高揚感にみずからも昂ぶり、日の丸を打ち振って「征かしめ」たおのれの卑小さを思うのみなのである。作者は現在の六十歳代だから、当時はほんのちっぽけな子供でしかなかった。なのに、この句だ。胸をうたれる。「俳句界」(2001年10月号)所載。(清水哲男)


September 2692001

 剣劇の借景の柿落ちにけり

                           守屋明俊

刈りなどの秋の農繁期を過ぎると、芝居がかかるのが楽しみだった。たまに旅回りの一座がやってくることもあったが、定期的に演じられていたのが素人芝居だ。村の若い衆とおっさん連中が、田圃やら空き地やらに舞台を組んで、クラシックな『瞼の母』やら『国定忠次』やらを演じたものだ。にわか作りの舞台だから、立派な背景画なんぞは望むべくもない。ならば、そこらへんの自然を生かして(「借景」として)やろうじゃないかと知恵を出し、舞台裏に見える景色に合った出し物を選んでいたのだろう。実際、日ごろ無愛想な近所のおっさんが、白塗りで「山は深山(しんざん)、木は古木(こぼく)……」と見栄を切る場面なんぞは、背景がまさにその通りなのだからして「ウマいことを言うなあ」と感心した覚えがある。だから、いまだに覚えているのだ。さて、掲句ではクライマックスの「剣劇」シーンだ。切り狂言といって、この立ち回りが芝居の華。「役者」たちが演出通りに押したり引いたりしていると、背景の柿が突然ぽたっと落ちた。おそらくは、あろうことか舞台の上に落ちてきたのだろう。これで舞台と客席に張りつめていたせっかくの緊張感が、あっけなくも途切れてしまう。なかには、吹き出す奴もいたりする。ここで、芝居はパーだ。柿が熟して自然に落ちる様子は「ぽたっ」というよりも「ぽたあっ」ないしは「ぼたり」と、かなり存在感のある落ち方をする。そこらへんの機微をよく捉え、滑稽感に哀感を振りかけたような味が面白い。いや、お見事っ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます