@句

October 01102001

 クレヨンの月が匂ひて無月かな

                           田尻すみを

宵は中秋の名月。雲におおわれて名月が見えない状態を「無月(むげつ)」と言う。雨ならば「雨月(うげつ)」となる。一炊という昔の人の句に「月かくす雲こそ二九四十五日」(「二九四」は「にくし」、足すと「十五」)があり、残念な気持ちを駄洒落に託して舌打ちしている。掲句の作者も残念は残念なのだが、子供の画いた満月の絵をながめながら、見えない月を心に描いたところに情趣が感じられる。なるほど、これもまた月見には違いない。子供の絵は、宿題で明日学校に提出するために画いたのだろう。画いた子供は、さっさと寝てしまった。まだ画きたてなので、「クレヨン」の匂いが濃く漂ってくる。懐かしい匂いだ。と思うと同時に、もう「クレヨン」で絵が画けるようになった我が子の成長ぶりにも、思いが至っている。「無月」を詠んではいるが、見えない句の力点は、むしろこちらにかかっていると、私は読む。「クレヨン」の匂いといえば、以前ウチの子にアメリカ土産にくださった方があった。「クレヨン」など、どこの国のものでも匂いは同じだろうと思っていたが、さにあらず。彼の国のそれは「匂う」というよりも「臭う」という感じで、家族みんなで閉口した。仮にこの「クレヨン」で画いた絵だとしたら、とうてい掲句は生まれえない。それほどに強烈な「臭い」であった。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)




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