2001N10句

October 01102001

 クレヨンの月が匂ひて無月かな

                           田尻すみを

宵は中秋の名月。雲におおわれて名月が見えない状態を「無月(むげつ)」と言う。雨ならば「雨月(うげつ)」となる。一炊という昔の人の句に「月かくす雲こそ二九四十五日」(「二九四」は「にくし」、足すと「十五」)があり、残念な気持ちを駄洒落に託して舌打ちしている。掲句の作者も残念は残念なのだが、子供の画いた満月の絵をながめながら、見えない月を心に描いたところに情趣が感じられる。なるほど、これもまた月見には違いない。子供の絵は、宿題で明日学校に提出するために画いたのだろう。画いた子供は、さっさと寝てしまった。まだ画きたてなので、「クレヨン」の匂いが濃く漂ってくる。懐かしい匂いだ。と思うと同時に、もう「クレヨン」で絵が画けるようになった我が子の成長ぶりにも、思いが至っている。「無月」を詠んではいるが、見えない句の力点は、むしろこちらにかかっていると、私は読む。「クレヨン」の匂いといえば、以前ウチの子にアメリカ土産にくださった方があった。「クレヨン」など、どこの国のものでも匂いは同じだろうと思っていたが、さにあらず。彼の国のそれは「匂う」というよりも「臭う」という感じで、家族みんなで閉口した。仮にこの「クレヨン」で画いた絵だとしたら、とうてい掲句は生まれえない。それほどに強烈な「臭い」であった。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


October 02102001

 冬瓜を提げて五条の橋の上

                           川崎展宏

語は「冬瓜(とうがん)」で秋。秋に熟すのに何故「冬の瓜」と言うのか。冬期までよく品質を保つことかららしいが、ややこしいネーミングだ。昔の我が家でも栽培していたが、南瓜や西瓜とは違い、もっとでっかいのだけれど、のっぺらぼうで頼りない感じがした。味もまた頼りなく、全体的にヌーボーとした感じの瓜である。さて「五条の橋の上」というと、もちろん伝説的な牛若丸と弁慶の出会いの場である。弁慶は長い薙刀(なぎなた)を持ってこの橋で待ちかまえ、牛若丸は笛を奏でながら通りかかるという寸法だった。そんな伝説を頭にして、作者は橋を渡っている。弁慶か牛若丸の気分だったかもしれない。と、向こうからやってきたのは、なんと大きな「冬瓜」を、重そうによたよたと提げた人だった。これでは、弁慶も牛若丸もあったものじゃない。そんな拍子抜けの気分を、巧みに捉えたユーモラスな句だ。何を隠そう(と気張ることもないけれど)、私が京都の大学に入ることになって、真っ先に見に行ったのが「五条の橋」だった。やはり伝説の現場が見たかったのだが、何のことはない普通の橋でしかなく、がっかりした記憶がある。もちろん橋の位置が、秀吉によって牛若丸の時代より下流にずらされたことなども、露知らなかった。大昔の五条通は、現在の松原通であるという。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


October 03102001

 秋風よ菓子をくれたる飛騨の子よ

                           野見山朱鳥

弱で、人生の三分の一ほどは病床にあった作者の、まだ比較的元気だったころの句だ。どのようなシチュエーションで、「飛騨(ひだ)の子」が「菓子をくれた」のかはわからない。想像するに、この子はまだ私欲に目覚めてはいない年ごろだろう。四歳か、五歳か。「おじさん、はい」と菓子を差し出して、すっと離れていった。私にも同じ体験が何度かあるが、欲のしがらみにまみれているような大人からすると、その子供のあまりの私欲のなさに、一瞬うろたえてしまう。それがいかに粗末な駄菓子であったとしても、子供はもう食べたくないから、余ったから「くれた」のではない。むしろ美味しいから、もっと食べたいのに、差し出したのだ。そんな、いわば無私無欲の子供の心に、作者はいたくうたれている。子供の顔が、仏のように写ったかもしれない。地名の「飛騨」には、たまたまの旅先であったというしか元来の意味はない。でも、この子の出現によって、理屈ではなく情趣的な深い意味が出てきた。その詠嘆が「飛騨の子よ」となり、心地よい「秋風よ」となって、作者の胸を去来している。句の主潮は、決してセンチメンタリズムではない。このように表現した意図は、作者が子供から受けたのが「菓子」を越えて、掌にも、そして心にも重い確かな人間の美しさだったからだと、私は思う。『荊冠』(1959)所収。(清水哲男)


October 04102001

 まだ膝の震へてをりぬ鰯雲

                           寺西規子

登りの句だろう。下山してきて、まだ「膝の震へ」が直らない状態で、登った山を振り返っている。その山の上には、さざ波のような「鰯雲(いわしぐも)」が広がっていた。物事をやり遂げた満足感が、見事にこの雲の様子に調和している。「膝」のチリチリした震えと、「鰯雲」のチリチリした形状と。「やったあっ」、まことに好日上天気なり。一読、読者の気も晴れ晴れとする。ただし、登山などの後で膝の筋肉が震えることを、よく「膝が笑う」と言うが、こちらの表現のほうがよかったかなとも思う。というのも、私は最初、作者が交通事故寸前の危機にあったか何かで、とても怖い体験をして、それで膝がまだ「震え」ているのかと読んでしまったからだ。この読みでも句は成立し、そんな人間の恐怖感とはまったく関係なしに、秋の雲がいつものように平和な感じで広がっているという対照の妙。怖い夢に跳ね起きて、「ああ夢だったのか」とホッとして、部屋を見回す感じに通じている。しかし掲載誌には、この句の後に「ザイル持ちし手の硬張りや水掬う」とあったので、登山の句だろうと思い直した次第だ。いずれにしても、「鰯雲」と「膝の震へ」を取り合わせた作者のセンスは、素敵だ。意外なようであって、意外ではないところが。俳誌「街」(2001年10-11月号)所載。(清水哲男)


October 05102001

 秋空の奥に星辰またたきぬ

                           大西時夫

を読んだ途端に、ぱっと黒木瞳(女優)の出した詩集のタイトルを思い出した。『夜の青空』。彼女は十代のときに九州の詩人・丸山豊に認められた人で、そのへんの女優さんやらタレントさんやらのような甘っちょろい「詩」の書き手ではない。それはともかく、掲句の世界は逆に「昼の夜空」だ。俳句で「秋空」というときには、本義として明るく澄み渡った空を指すので、夜の空ではなく昼の空と規定される。昼の空にでも、むろん星辰(せいしん・星座、星)は存在するが、太陽光線のせいで見えないだけのこと。そんな常識を超えて、作者は明るい空に一瞬「またたく」星を見たと言うのである。すなわち、昼の空がぱっと夜のそれに変わった瞬間があったと言っているのだ。「またたきぬ」という言い方が、ほんの一瞬であったことを告げている。実景だと思うと、すうっと背筋が寒くなるような句だ。この句の収められている本には、筑紫磐井(最近、ふらんす堂から労作『定型詩学の原理』を出版)による解説が挟み込まれており、題して「本意崩し」。「(作者は)季語を始めとする俳語からあらゆる本意や過去のイメージを剥ぎ取って、さも俳句のようによんでいるが実はそこにあるのは俳句という詩なのであった」と書いている。私も同感だ。そんなに上手な「俳句という詩」ではない(私には「奥に」がうるさい)にしても、おそらく世の俳人は基本的に認め(たく)ない世界だろう。認めれば、みずからのよって立つ基盤が崩れ落ちかねないからだ。『大西時夫句集』(2001)所収。(清水哲男)


October 06102001

 人なぜか生国を聞く赤のまま

                           大牧 広

が家に遊びに来たドイツ人が、しきりに首をひねっていた。日本人は、なぜ他人の年齢のことを聞くのか。たいていの初対面の人が聞くのだという。「べつに何歳だっていいじゃないか」。「そりゃね、たぶん話題の糸口をみつけたいからだよ」と、私。そういえば、外国人から年齢を尋ねられた覚えはない。逆に、こちらから何歳くらいに見えるかと聞いたことはある。掲句のように、また私たちは相手の「生国(しょうごく)」をよく「聞く」ようだ。とくに意識して聞くことはあまりなく、なんとなく聞いてしまう。やはり「話の接ぎ穂」を探すためではなかろうか。「生国」がたまたま同じだったりすると故郷談義に花を咲かせることができるし、違ったとしても、旅行などで訪れたことがあれば話はつづく。「年齢」や「生国」の話題は、要するに当たり障りなくその場をやり過ごすための方便なのだ。そのあたりが、とくに理屈っぽい話の好きなドイツ人には解せないのだろう。この句の作者は「『生国』なんて、どうでもいいじゃないか」と言っているのではない。作者自身が聞くことも含めて、「なぜかなあ」と思っているだけだ。目に写っているのは、北海道から九州まで、どこの路傍で咲いても同じ風情の「赤のまま(犬蓼)」。人だって同じようなものなのになあ、と。『午後』所収。(清水哲男)


October 07102001

 男は桃女は葡萄えらびけり

                           大住日呂姿

っはっは、コイツはいいや。愉快なり。ナンセンス句とでも言うべきか。無内容だが、その無内容に誘いこむ手つきが傑作だ。縦書きで読んだほうがよくわかると思うが、「男は桃」と出て「女は葡萄」と継ぐ。ここで読者を、いったん立ち止まらせようという寸法だ。読み下しながら「ん?、どういうことかな」「『桃女』かもしれないな」「何の比喩かな」などと、読者の頭のなかでは、いろいろな想像が働きはじめる。いやでも、そこで一呼吸か二呼吸かを置かされてしまう。で、下五にはしれっと平仮名で「えらびけり」と来た。ここに「選びけり」と漢字が混じると、効果はない。「男」「桃女」「葡萄」といっしょに、最初から「選」も目に入ってしまうからだ。また縦書きのほうが、平仮名の効果をあげるためには、句全体が目に入りにくいので有効だと思う。とにかく「やられた」というか「こんにゃろう」というか、ここで読者のせっかくの想像世界は実に見事に裏切られることになる。何故こんなメにあうのかというと、性と果物の取り合わせはしばしば何かの暗喩として用いられることを、私たちが知っているからだろう。だから、つい想像力をたくましくしたくもなるのだ。が、そんな教養やら常識やらの踏み台を、いとも簡単にすっと外されたので、コロっとこけちゃったというわけ。今日もいい天気。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


October 08102001

 子を走らす運動会後の線の上

                           矢島渚男

ちんと調べたわけではないが、現代の外国には全校生徒が一同に会して行う「運動会」はないようだ。日本では明治七年(1874年)に、海軍兵学寮、札幌農学校、東京帝国大学などの高等教育機関で、外国人教師の指導ではじめられたというから、原形はヨーロッパの学校にあったのかもしれない。作者は、まだ学齢以前の我が子と運動会を見に行き、終わった後で「線の上」を走らせている。よく目にする光景だ。この子もこの学校の校庭のこの「線の上」を、やがて走る日が来るんだという親の思いが伝わってくる。どうかしっかり走ってくれるようにと、無邪気に走る我が子を見つめている。近い将来に備えての予行演習をさせている気持ちも、なくはない。運動会を運動会らしく演出する方法はいろいろあるが、この白い「線」もその一つだ。何本かの白線が、校庭の日常性を非日常性へと変換する。地面に引かれた単なる白線が、空間全体をも違った雰囲気に染め換えてしまうのである。この白線がスタート地点とゴール地点、そしてその間の道筋を明示するものだからだろう。こんな白線は、日常的には存在できない。同じような句に、平畑静塔の「運動会跡を島の子かけまはる」があるけれど、「跡」よりも「線」に着目した作者の感覚のほうが鋭いと思った。さて、蛇足。私が子供だったころの運動会は、村祭みたいなものだった。男たちは、酒盛りをしながら見物してたっけ。それが日常だと思ってたのは主役の我ら子供だけで、農繁期を過ぎた男たちには非日常を楽しむ絶好の場だったというわけだ。娯楽に乏しい時代だった。『采微』(1973)所収。(清水哲男)


October 09102001

 山の蟻叫びて木より落ちにけり

                           大串 章

の作者にしては、珍しくイメージをそのまんまポイッと放り出したような句だ。面白い。むろん「蟻」は豚とちがって(笑)、おだてられなくても日常的に木には登るが、これが落っこちるという想像にまで私は行ったことがなくて、意表を突かれた。そうだなあ、登った以上は、なかには落っこちる奴だっているかもしれないな。それも「叫びて」というのだから、それこそ意表を突かれての不慮の落下なのだろう。百戦錬磨の「山の蟻」が足を踏み外すなんてことは考えられないので、よほどの思わぬ事態に遭遇したのか。「ああっ」と叫びながら、小さな「蟻」にとっては奈落の底と感じられるであろう所まで落ちていった。叫び声が「ああっ」かどうかは読者の思いようにまかされているけれど、そして決して「蟻」は叫ばないのだけれど、この叫び声が読者には確かに聞こえるような気がするという不思議。これも、俳句様式のもたらす力のうちである。叫びながら落ちていった「蟻」は、しかし、死ぬことにはならないだろう。人間である読者の常識が、そう告げている。そこに、句の救いがある。そして、しかしながら「蟻」の叫び声は読者の虚空にいつまでも残る。何故か。私たちが「蟻」ではなくて、ついに「人」でしかないからなのだ。なお、季語は「蟻」で夏に分類されている。俳誌「百鳥」(2001年10月号)所載。(清水哲男)


October 10102001

 有明や浅間の霧が膳をはふ

                           小林一茶

朝の旅立ち。「有明(ありあけ)」は、月がまだ天にありながら夜の明けかけること。また、そのころを言う。すっかり旅支度をととのえて、あとは飯を食うだけ。窓を開け放つと空には月がかかっており、浅間(山)から流れ出た「霧」が煙のように舞い込んできて「膳(ぜん)」の上を這うようである。「はふ」が、霧の濃さをうかがわせて巧みだ。膳の上には飯と味噌汁と、あとは何だろう。かたわらには、振り分け荷物と笠くらいか。寒くて暗い部屋で、味噌汁をすする一茶の姿を想像すると、昔の旅は大変だったろうと思う。これから、朝一番の新幹線に乗るわけじゃないのだから……。したがって一茶は、私たちが今この句になんとなく感じてしまうような旅の情趣を詠んだのではないだろう。情趣は情趣であっても、早起きの清々しさとは相容れない、いささか不機嫌な気分……。「膳」を這う「霧」が醸し出すねばねばとした感じ……。宿の場所は軽井沢のようだが、もとより往時は大田舎である。句の書かれた『七番日記』には、こんな句もある。「しなのぢやそばの白さもぞつとする」。一面の蕎麦(そば)の花の白さで、よけいに冷気が身にしみたのだ。昔の人は、私たちの想像をはるかに超えて、自然風物に「ぞつと」しながら歩くことが多かったにちがいない。(清水哲男)


October 11102001

 秋の蝶小さき門に就職する

                           宮崎重作

あ、よかったねエ。たとえ「小さき門」の会社だって、とにかく一息はつけるだろうから……。門のある会社といえば、おおかたは製造業だ。じりじりと失業者が増えつつある現在の時点で読むと、他人事ながら素直に祝福したい気持ちになる。ところが、掲句は戦後六年目に詠まれている。1951年(昭和二十六年)。当時の失業率はわからないが、現在の比ではないだろう。もっと高率だったはずだ。だから作者は、たとえ意にそまぬ会社へでも就職できたことを喜んでもよいはずが、その気配もない。「秋の蝶」は力なく弱々しく飛ぶしかなく、みずからも「小さき門」へと力なく弱々しく入っていく。落胆している。終身雇用制が常識だったので、こんなちっぽけな会社に生涯勤めるのかと思うと、気落ちせざるをえなかったのだろうか。俳句はしばしば世相や時の人情を写すが、短くしか語られないので、かえってよくわからないケースが多い。今この句を読んで推測するかぎりでは、少なくとも作者の就職は身近な人からも祝福されていなかったようである。宮崎重作については何も知らないが、気になって作品を追いかけてみた。と、およそ四半世紀後の句に「伊勢の海老阿吽阿吽と喰いはじめ」という句を、ぽつんと見つけることができた。「伊勢海老」は新年の季語だ。なんとなく、ホッとした。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


October 12102001

 はじめから傾ぐ藁塚にて候

                           伊藤白潮

語は「藁塚(わらづか)」で秋。新藁を保存するために、刈り田のあとに円筒形に積み上げた塚だ。「にお」と呼ぶ地方が多いらしいが、私の田舎の山口では「としゃく」と言っていた。今も「としゃく」だ。漢字では、どう書くんだろうか。棒を中心に立てて積んでいたが、棒を使わない積み方もあるのだという。とにかく上手に積み上げないと、「藁塚」は日が経つに連れてだんだんと傾いてくる。見た目にも、ぶざまになる。掲句は、そんな下手な積み上げ方をされた「藁塚」が、作ったご主人に代わって言いわけをしているのだ。「はじめから傾(かし)ぐ」ようにと、ご主人は意図的に積み上げられたのですから、笑うのは筋違いですよ。私は平気でござんすからね、以上っ。と、かたわらを通る人みんなに、頼まれもしないのに説明しているのである。そこが可笑しい。当たり前の話だが、各種の農作業の工程に巧拙はつきもので、それぞれに苦手な作業も出てくる。百姓だからといって、百姓仕事のすべてを完璧にこなせるわけじゃない。「藁塚」などは長く人目につくものなので、苦手な人には苦痛だろう。きっと誰かが笑っているという強迫観念に苛まれる人も、いるはずだ。だから作者はそこらへんの事情を慮って、べつに下手だっていいじゃないかと、この句をわざわざ書いたのである。心根の優しい俳人だなと、元農家の子供としては思ったことである。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


October 13102001

 はぜ釣るや水村山廓酒旗風

                           服部嵐雪

語は「はぜ(鯊)釣」で秋。私には体験がないのでわからないのだが、江戸期、嵐雪の時代の釣り方が『和漢三才図会』に出ている。「綸(つりいと)の端、鈎(つりばり)を去ること二三寸許の処に、鉛の錘を着、鈎を地に附しむ。微動の響を俟(まっ)て竿を揚ぐ。秋月、貴賎以て遊興の一ツとす」。餌には「小エビ」を使った。さて、嵐雪も秋晴れの一日を入り江の村に「遊興」に出かけた。山に囲まれた一郭では、居酒屋の旗が風にはためいている。気持ちの良い浮き浮きした気分が、伝わってくる。ただ、字面を眺めていると、どことなく釣り場の風景が日本的ではないことに気がつく。それもそのはずで、句の「水村山廓酒旗風(すいそんさんかくしゅきのかぜ)」は、晩唐の詩人・杜牧(とぼく)の五言絶句の一節をそっくりそのままいただいたものだからだ。和歌の本歌取りの手法である。だとすれば、嵐雪はこれを机上で作ったのかという疑問もわいてくるけれど、そうではあるまい。やはり、鯊釣りの現場での発想だ。人間、心持ちがよくなると、見立てもまたどんどん気分の良い方にふくらんでいく。いまの自分は杜牧のような大詩人なのであり、杜牧の詩と同じ景色の中にいるのだと……。卑近な例では、日本のどこかの路を歩いていて、なんだか有名な外国の通りを歩いているような気持ちになったりするが、そんな見立てにも通じている。鯊の天麩羅が食べたくなった。(清水哲男)


October 14102001

 爛々と昼の星見え菌生え

                           高浜虚子

後二年目(1947)の今日、十月十四日に小諸で詠まれた句。一読、萩原朔太郎の「竹」という詩を思い出した。「光る地面に竹が生え、……」。この詩で朔太郎は「まつしぐらに」勢いよく生えた竹の地下の根に、そして根の先に生えている繊毛に思いが行き、それらが「かすかにふるえ」ているイメージから、自分にとって「すべては青きほのほの幻影のみ」と内向している。勢いあるものに衰亡の影を、否応なく見てしまう朔太郎という人の感覚を代表する作品だ。対照的に、虚子は「菌(きのこ)」を生やしている。松茸でも椎茸でもない、名も無き雑茸だ。毒茸かもしれない。いずれにしても、この「菌」そのものがじめじめと陰気で、竹のように「まつしぐら」なイメージはない。朔太郎はいざ知らず、多くの人が内向する素材だろうが、ここで内向せずに面を上げて昂然と天をにらんだところが、いかにも虚子らしい。陰気な地を睥睨するかのように、天には昼間でも「星」が「爛々(らんらん)と」輝いているではないか。もとより「昼の星」が見えるというのは、朔太郎の「繊毛」と同様に幻想である。このときに「爛々と」輝いているのは、実は「昼の星」ではなくて、作者自身の眼光なのである。敗戦直後「菌」のように陰気で疲弊した社会にあって、何に対してというのでもないが「負けてたまるか」の気概がこめられている。以下、雑談。かつて山本健吉は、この星を「火星」だと言った。幻想だからどんな星でも構わないわけだが、正木ゆう子が天文に明るい知人に調べてもらった(参照「俳句研究」2001年10月号)ところでは、虚子に当日見える可能性のあった星としては土星しか考えられないそうである。「昼の星」は「視力がよければ見えることはあるし、そうでなくても井戸の底からとかジャングルの中からとか、つまり視界を限れば見えるだろうという返事」とも。『六百五十句』(1955)所収。(清水哲男)


October 15102001

 釣瓶落しとずるずる海に没る夕陽

                           寺井谷子

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日の暮れやすさを、釣瓶が井戸の中にまっすぐに落ちることに例えた言葉だ。井戸の底は、いつも夜のように暗い。落ちる釣瓶にしてみれば、あっという間に闇の世界に入るのだから、なかなかによくできた例えではある。しかし、実際の夕陽の沈み具合はどうだろうか。海岸で眺めている作者の頭には「釣瓶落し」の例えが入っているので、かなりの速さで「没る(「おちる」と読むのだろうか)」だろうと期待していたのだが、案に相違して「ずるずる」という感じでの落日であった。この句に目がとまったのは、私も「ずるずる」にやられたことがあるからだ。8ミリ映画に凝っていたころ、水平線に沈む太陽を完全に没するまで長回しで撮影しようとした。長回しといっても、フィルムは一巻で3分20秒しか回せない。日没時刻を調べていかなかったので、秋の日は「釣瓶落し」を頼りに、いい加減なタイミングで撮影をはじめたところ、まだ沈まないうちに3分20秒のタイムリミットが来てしまい、完璧に失敗。そのときに思ったことは、「釣瓶落し」の例えは山国での発想だろうということだった。つまり、秋になると太陽の高度が低くなるので、日差しが夏場よりも早く山々に遮られ、夕闇は当然それだけ早く訪れる。例えはそのことを強調して言っているのであって、べつに太陽の沈むスピードには関係がないわけだ。「速さ」と「早さ」の混同を、この季語は起こさせる。すなわち「釣瓶落し」は、山に囲まれた地域限定の季語と言ってよいだろう。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)


October 16102001

 白粉花の風のおちつく縄電車

                           河野南畦

語は「白粉花」で秋。普通は「おしろいばな」と読むが、句のように「おしろい」とも。「夕化粧」という情趣満点の別名も持つ。夕方から咲き、朝にはしぼんで落ちる。菖蒲あやに「おしろいが咲いて子供が育つ路地」があり、さりげない場所にさりげなく咲く花だ。我が家の近所にも毎年ちらほら咲いていたが、あまりにさりげないので、誰かが雑草といっしょに刈り取って捨ててしまったらしい。この秋は、見られなかった。掲句も路地の光景だろう。「縄電車」とは初耳だが、子供たちが長い縄やヒモを使って遊ぶ「電車ごっこ」のこと。♪ウンテンシュハキミダ、シャショウハボクダ、アトノヨニンハデンシャノオキャク、オノリハオハヤクネガイマス。こんな歌もあったくらいで、全国的に盛んな遊びだったようだ。私にも、本物の電車など見られない田舎で遊んだ記憶がある。学齢前の小さい子は、お客専門にした。平凡な夕暮れの平凡な路地での平凡な光景。なんでもない句だけれど、「風のおちつく」は、作者の心もまたこの光景に「おちつく」ということだろう。だから、読者の心も「おちつく」のである。いまの子供らはもはや「電車ごっこ」など知らないのかもしれない。いつの頃からか、さっぱり見かけなくなってしまった。その意味では、遠い日の郷愁に誘われる句でもある。青柳志解樹編『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


October 17102001

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

十数年も以前の昔の句だ。このことは、お断りしておく必要がありそうである。句は想像の産物かもしれないが、実見ないしはテレビの映像からだとすれば、空港は羽田だろう。秋の旅客の服装の色は、おおむねダーク系統である。でも、ひとり白系統のアラブ服の人が意表をつくようにタラップを降りてきた。昔も今も、アラブは遠い。どこぞの大金持ちか、はたまた政府の高官かなんぞとは、瞬間的には思わない。ましてや大いに洒落のめして、これぞ「白秋」なんぞとも……。反射的に感じたのは、この白い服装ではこれから夜になるのだし、これから冬に向かうのだし、寒いし心細いのではないかというようなことだろう。そして、彼を最後に飛行機の扉は閉められたというのである。閉められたからには、後戻りはできない。後戻りする旅客など滅多にいるわけはないけれど、作者には一瞬彼の後戻りを期待する感じがあった。そういう意識がほとんどわけもなく働いたからこそ、この句ができた。「最後」というのは、当人の意志がどうであれ、どこかに逡巡の気を含んでいるように見えるものだ。そしてひとたび扉が閉められたからには、もはや彼はその白い服のままで、この異国で寒い季節を過ごさねばならない。否応はない。かつてこの句に阿部完市が寄せたコメントに「そのひとりの人の姿は、その内側の有心を仄みせていて、確かにまた飯島晴子その人のことである」とある。ああ、こんなことは書きたくもないが、まことにその通りに「最後」に飯島さんは、みずからの「旅客機」の扉をみずからの手で「閉じ」てしまわれたのであった。『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)


October 18102001

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

                           坪内稔典

語は「バッタ(飛蝗・蝗虫)」で秋。キチキチと翅を鳴らしながら、バッタガ跳んでいる。細長く繊細な体で、思いがけないほど遠くに跳ぶのもいる。体の色は褐色のもいるが、この場合は「うすみどり」だろう。その「うすみどり」はまた空の色だと作者は言い、となれば「アジア」の大空の下を跳ぶバッタは、跳び上がるたびに空に溶けてしまうようである。この句の面白さは、実際にバッタが跳んでいる光景から、空とバッタだけを残して、それ以外の実景をすべて消去したところにあるのだと思う。日本の空なのに「アジアの空」と大きく張った視界が、そして「アジア」という底知れぬ深さを感じさせる言葉が、さながら巨大な消しゴムのように作用して、周囲の雑物や雑音を消去してしまっている。ふと気がつけば、また作者自身もいなくなっているようではないか。しいんとした「うすみどり」の広大な空間に、ときおり「バッタ」だけがキチキチと跳び上がっては消えるのである。それだけである。秋の野に在る心持ちを押し詰めていくと、こんなにも何もない世界が現れてくるのか……。ここで読者はもう一度、句に立ち戻ることになる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


October 19102001

 籾殻焼母に呼ばれて日暮なり

                           太田土男

語は「籾(もみ)」で秋。籾摺り(もみすり)をした後に残った籾殻(もみがら)は、戸外で焼く。勢いよくは焼けずに、じわじわと焼けていく。昼も夜も、くすぶりつづける。明るい間は炎も見えないが、暗くなってくると焼けて黒くなった籾殻の奥に、赤く熾火(おきび)のように見える。そこを棒で突いてやると、ぱっと火の粉が舞い上がる。遊びというほどのことでもなく、たしかに子供らは吸い寄せられるように集まり、やがて母親に呼ばれて散っていった。散るときに、はじめて「夕暮なり」の実感が湧く。掲句は、ぴしゃりとそこを押さえている。私の記憶では、火に吸い寄せられたというよりも、そのほわんとした暖かさに足が向いたという感じである。焚き火のように、顔が痛いような熱さはない。田舎でも都会でも、昔は夕暮れが近づくと、句のように母親が遠くから子供を呼ぶ声がしたものだった。「ごはんだよーっ」。私などは「はーい」と答えておいてから、なおその場を去りがたくグズグズしていた。そんなときに、未練がましくも棒でつついたりするのだ。昔の多くの子供にとっては、テレビがあるわけじゃなし、我が家はいちばん退屈な場所だったと思う。ハックルベリー・フィンなんて奴に憧れたのも、むべなるかな。懐かしくはあるが、もうあんな時代に戻りたくはない。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


October 20102001

 日暮れは遊べ大きな栗の木の下で

                           水野 麗

畑ではなくて、自生している「栗の木」のある山地は、昼なお暗いのが常だろう。「夕暮れ」ともなれば、なおさらである。子供らよ、そんな「木の下」で「遊べ」と作者は言う。「いやだよ」と、子供の頃の私だったら尻込みしたはずだ。作者のイメージの先には、遊びに行った子は二度と人里には戻れなくなるという、民話的なシチュエーションがありそうだ。怖い句である。そして掲句は、ひところは大学生にまでも歌われた「大きな栗の木の下で」という歌を踏まえていることも明白だ。底抜けにというか、痴呆的なほどに明るい歌である。だから、余計に怖い句と写る。歌いながら、無邪気に夢中で時を忘れて遊んでいるうちに、みんなが神隠しにあったように忽然と消えてしまう。それを、作者は望んでいるのだから……。邪悪な心からというのではなく、山の持つ霊的な魔力を間接的に示唆しようとした句ではなかろうか。ちなみに歌の「大きな栗の木の下で」の出自については、川崎洋『大人のための教科書の歌』(1998・いそっぷ社)に、こうある。「終戦後、進駐軍の兵士たちが日本に持ってきたものを、聞き伝えて歌い出したという。NHKテレビで『うたのおじさん』友竹正則が遊びの動作をつけて放送したのが広まるきっかけに。教科書には昭和40年が最初の登場で、一年生の教科書を中心に平成7年まで掲載された」。残念ながら、アメリカの栗の木は見たことがない。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


October 21102001

 夜の菊や胴のぬくみの座頭金

                           竹中 宏

代劇めかしてはいるけれど、作者はいまの人であるからして、現代の心情を詠んだ句だ。昔もいまも金(かね)に追いつめられた人の心情は共通だから、こういう婉曲表現を採っても、わかる人にはわかるということだろう。「座頭金(ざとうがね)」とは「江戸時代、座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた金」(『広辞苑』)のこと。どうしても必要な金が工面できずに、ついに高利の金に手を出してしまった。たしかに「胴」巻きのなかには唸るような金があり、それなりの「ぬくみ」はある。これで、当座はしのげる。ひとまずホッと息をついている目に、純白の「夜の菊」が写った。オノレに恥じることなきや。後悔の念なきや。こういうときには、普段ならなんとも思わない花にまで糾弾されているような気になるものだ。ましてや、相手は凛とした「菊」の花だから、たまらない気持ちにさせられる。ここでつまらない私の苦労話を持ち出すつもりはないが、作者が同時期にまた「征旅の朝倒産の昼それらの秋」と詠んでいるのがひどく気にかかる。「征旅(せいりょ)」は、戦いへの旅である。ここで復習しておきたいのは、べつに俳句は事実をそのままに詠むものではないということではあるが、さりとても、さりながら……気にかかる。フィクションであってほしいな。俳誌「翔臨」(第43号・2001)所載。(清水哲男)


October 22102001

 黄落のひかり突切る高校生

                           廣瀬直人

く晴れた日の通学路。黄色く色づいた銀杏の葉が、日差しを受けてきらきらと舞いながら落ちてくる。その「ひかり」を自転車通学の高校生たちが、勢いよく「突切」っていく。「ひかり突切る」で、句の焦点が見事に定まった。「突切る」高校生には、「黄落(こうらく)」の情趣など関係はない。そういうことには、一切無頓着である。彼らにとっては、ただ爽やかな「ひかり」でしかない。それが若さだ。一瞬、そんな姿に作者は見ほれてしまった。歌われているのは、若さへの賛歌である。ある程度の年齢になると、こういう感じ方は誰にでも起きるのではなかろうか。私に若さが多少ともあったころには、他人の若さなんて、ひたすらに猥雑で生臭く騒々しいばかりで、むしろ遠ざけたい対象だった。それがいつの間にか、ただ若いというだけの存在を許容しはじめ、果ては見ほれるようなことにもなってきた。しかし人間は皮肉にできていて、そのただ中にあるときには、おのれの若さには気がつかない。何も感じない。句の「高校生」にしても、むろん同じ感覚だろう。あくまでも気持ちのよい句なのだが、そんなことも同時に思われて、ちょっとセンチメンタルな気分にもさせられてしまった。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


October 23102001

 月光を纏ひしものに誰何さる

                           和湖長六

の光の美しい夜。ほろ酔い加減で機嫌よく家路をたどっていると、前方をさえぎるように人影が現われ、いきなり「誰何(すいか)」された。「どこ行くの」「どこから来たの」「いつも、ここ通るの」。警官である。私にも経験があるが、あれは不快というよりも、驚きの念のほうが先に来る。不快は、後からやってくる。そして、やり取りをしているうちに落ち着いてくると、だんだんと不思議な気持ちになってくるのだ。身に覚えはないことながら(「だからこそ」か)、何かを疑われているという気分は、妙なものである。なんだか小説か映画か、架空の世界に入り込んだような感じになり、思わずあたりを見回してしまう。掲句は、そんな心持ちを、警官に「月光」を纏(まと)わせることで表現しているのではなかろうか。闇夜ならば闇に溶けてしまいそうな黒っぽい警官の制服が、月夜だから独特な光彩を放って浮かび上がっているのだ。実際には浮かび上がるわけもないけれど、そんなふうに感じられたということ。およそ温度を感じさせない冷たい月明による制服の光彩が、否応なく作者を架空の世界に連れていったということだろう。他にもいろいろに読めるとは思うが、「誰何」と「月光」との取り合わせは面白い。後を引くイメージだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


October 24102001

 満九十歳落葉茶の花生まれ月

                           伊藤信吉

日前に、群馬県は前橋市で創刊された俳誌「鬣(たてがみ)」(発行人・林桂、編集人・水野真由美)をいただいた。その巻頭に、掲句を含む詩人の十八句が「花々」というタイトルで掲載されていた。伊藤信吉さんは、前橋生まれの前橋育ち。萩原朔太郎や萩原恭次郎、高橋元吉などと交流のあった人だ。1906年(明治三十九年)の十一月生まれだから、間もなく満九十五歳になられる。長寿の秘訣は、司修さんに言わせると「ひどい偏食」にあるのだという。「わたしは赤い色をした食べものが嫌いなんさね。トマトとか人参とか」と。それはともかく、このように「満九十歳(まん・きゅうじゅう)」と出られると、何も言うことはなくなってしまう。ただ一点、関心を抱かせられるのは、自分の「生まれ月」に関わる数多い事象や風物のなかから、何を「満九十歳」の人が拾い上げているかということだ。それが「落葉」と「茶の花」であることに、私のなかの高齢者観はひとまず安心し、しかしもしも自分が伊藤さんの年齢まで生き延びることがあったら、このあたりに落ち着くのかなと思うと、なんとなく落ち着きかねる気分でもある。あまりにも、絵に描いたような……。でも、これは伊藤さんのまぎれもない現世現実の率直な気持ちなのだ。粛として受け止めておかねばなるまい。もう一句。「石垣をおおいて秋花獄の跡」。朔太郎の父親が、死刑囚に立ち会う医師であったことをはじめて証したのは、伊藤さんである。間もなく『伊藤信吉著作集・全七巻』が沖積舎より発刊されると、同封の広告にあった。(清水哲男)


October 25102001

 句会果て井川博年そぞろ寒

                           八木忠栄

語は「そぞろ寒(さむ)」で秋。「冷やか」よりもやや強く感じる寒さ。素材的に身内の句の紹介になるが、「句会」とは、詩の書き手がほとんどの小沢信男さんをカシラとする「余白句会」で、年に三度か四度集まっては、故・辻征夫の言葉を借りれば「真剣に遊んで」いる。井川博年は創立メンバーの一人であり、作者の八木忠栄は私同様に、途中から補強(!?)された一人だ。この日の井川君は、調子が悪かった。高校時代に松江図書館で、誰も借り手のない虚子の全集をみんな読んじゃったという人だけに、逆に俳句を知りすぎているが故の弱さの出ることがある。そういう日だった。井川君の風貌を知っている読者であれば、この「そぞろ寒」には一も二もなくうなずけるだろう。山陰の男に特有のそぞろ寒い感じを、確かに井川君は持っている。彼を直接知らない多くの読者には、ご自分の友人知己の誰かれを思い起こしてほしい。それぞれの人には、それぞれに似合う季節があると思いませんか。この句は身内を詠んではいても、暗にそういうことを指さしている。固有名詞を出しながらも、普遍性を保っている。べつに、井川博年を具体的に知らなくたってよいのです。ちなみに作者は長岡の出身だからか、冬の似合う人であり、句集でも佳句は晩秋から冬に集中している。ならば、読者諸兄姉よ、あなた自身に似合う季節は「いつ」だとお思いでしょうか。自分のことはわからない。むろん、私もわからない。というようなことが、掲句からいちばんわかったのは、実は詠まれている井川博年その人であることが、よくわかる一句だと思いました。ね、井川君、そうじゃろうが……。『雪やまず』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


October 26102001

 バス停に小座布団あり神の留守

                           吉岡桂六

語は「神の留守」から「神無月」。陰暦十月の異称で、冬。したがって、まだちょっと早い。八百万の神々が出雲大社に集まるため、諸国の神が留守になる月。これが定説のようだが、雷の無い月だから、とも。句のバス停は作者がいつも利用するそれではなくて、旅先だろうか、とにかくはじめてのバス停だ。バス停のベンチに「小座布団」が置いてあること自体が珍しいので、「ほお」と思った。他にバスを待つ人はおらず、作者一人だ。座布団の色までは書いてないけれど、私の好みのイメージとしては、赤色がふさわしい。ちっちゃくて真っ赤な座布団。なんだか小さな神様のために用意されているようだと作者は感じ、でも、いまは出雲にお出かけだからお使いにはならないのだと微笑している。「神無月」の句には意味あり気な作品が多いなかで、即物的にからっと仕上げた腕前に魅かれた。最近の我が町・三鷹市やお隣の武蔵野市では、小回りの利くカラフルで小さなバスが走り回っている。三鷹駅からジブリ美術館へ行くバスも、黄色くてちっちゃな車体だ。こんなバスにこそ「小座布団」が似合いそうだが、ほとんどの停留所にはベンチも置かれていない。『遠眼鏡』(2001)所収。(清水哲男)


October 27102001

 うそ寒き顔瞶め笑み浮かばしむ

                           岸田稚魚

語は「うそ寒(やや寒)」で秋。「嘘寒」ではなく「うすら寒い」から来た言葉だろう。さて、作者が「瞶(みつ)め」ることで「笑み浮かばし」めた相手は誰だろう。書いてないのでわからないけれど、たぶん妻ではなかろうか。「うそ寒き顔」とは寒そうな顔というよりも、浮かない顔に近いような気がする。そんな表情に気がついた作者が、傍らから故意にじいっと「瞶め」やっているうちに、ようやく視線を感じた相手が、ちらりと微笑を返してきたのだった。ただ、現象的にはそれだけのことでしかない。考えてみれば、人と人との間には、このような交感がいつも行われている。とりたてて当人同士の記憶にとどまることもなく、すぐにお互いに忘れてしまうような交感だ。しかし、このような喜怒哀楽の次元にも達しないような淡い関係が頻繁にあるからこそ、人はいちいち自覚はしないのだが、なんとか生きていけるのだろう。他人の「おかげ」というときに、基本は日頃のこの種の淡い交流にこそ、実は盤石の基盤があると言っても過言ではないと思う。そして私などが深く感じ入るのは、この種の何でもない交感をそのまま記述して、何かを感じさせることのできる俳句という詩型のユニークさだ。自由詩のかなわないところが、確かにこのあたりに存在する。『雁渡し』(1951)所収。(清水哲男)


October 28102001

 柿むいて今の青空あるばかり

                           大木あまり

天好日。「今の」今しか「青空」を味わえぬ静かな時間。理屈をこねて鑑賞する野暮は承知で述べておけば、句を魅力的にしているのは「柿むいて」という行為が、あくまでも過程的なそれであるからだろう。「柿むいて」ハイおしまいというのではなく、むく目的は無論食べるための準備だ。この句の上五を、たとえば「柿食べて」「柿食えば」とやっても、俳句にはなる。なるけれど、食べるという自足感が「青空」の存在を希薄にしてしまう。食べちゃいけないのだ。下世話に言えば、よく私たちは「さあ、食うぞっ」という気持ちになったりするが、「柿むけば」は「さあ、食うぞっ」のはるかに手前の段階であり、ひとかけらの自足感もない。手慣れた手つきで、ただサリサリと、何の思い入れなくむいているだけである。事務的と言うと「事務」に怒られるかもしれないが、しかし柿をむくというような過程的な行為である「事務」の目からすると、「今の青空」の「今」が自足した目よりも強く意識されるのだと思う。「今」を貴重と感じる心は、いつだって自足のそれからは遠く離れているのだと……。たかが、作者は柿をむいているにすぎない。その「たかが」が「今の青空」と作者との交感関係を、いかに雄弁に語っていることか。でも、やっぱり、こんなことは書くまでもなかったですね。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)


October 29102001

 トンネルの両端の十三夜かな

                           正木ゆう子

宵は、待ちに待った「十三夜」だ。待っていた理由には、二つある。一つは、小学生時代に覚えた戦前の流行歌『十三夜』の歌詞に出てくる月を、ぜひともそれと意識して見てみたいという願望を持ちながら、一度も見たことがなかったこと。中秋の名月とは違い、誰も騒がないので、つい見るのを忘れてきてしまった。今宵こそはというわけだが、天気予報は「曇り後晴れ」と微妙。昭和十六年に流行ったこの歌の出だしは「河岸の柳の行きずりに ふと見合わせる顔と顔」というもので、およそ小学生向きの歌ではないけれど、意味もわからずになぜか愛唱した往時が懐かしい。で、最後に「空を千鳥が飛んでいる 今更泣いてなんとしょう さようならとこよない言葉かけました 青い月夜の十三夜」と「十三夜」が出てくる。「十三夜」は「青い」らしい。もう一つの理由は、恥ずかしい話だが、この歌を覚えてから三十年間ほど、「十三夜」は十五夜の二日前の月のことだと思い込んでいたこと。ところがどっこい、陰暦九月十三日の月(「後の月」)のことだと知ったときには、仰天し赤面した。そんなわけで、「十三夜」の句に触れると身体に電気が走る。掲句の作者は、車中の人だろう。「十三夜」と意識して月を見ていたら、車はあえなくもトンネルへ。そしてまたトンネルを抜けると、さきほどの月がかかっていたというのである。月見の回路が、無事につながった。現代の「十三夜」は、かくのごとくに乾いている。もう、青くはないのかもしれない。「俳句研究」(2001年10月号)所載。(清水哲男)


October 30102001

 草の露かがやくものは若さなり

                           津田清子

に結ぶことが多いので、単に「露」と言えば秋季になる。風のない晴れた夜に発生する。「露」はすぐに消えてしまうので、昔からはかない事象や物事の象徴とされ、俳句でもそのように詠み継がれてきた。「露の世は露の世ながらさりながら」(小林一茶)など。ところが作者は、そのはかない「露」に「若さ」を認めて感に入っている。「かがやくものは若さなり」と、「草の露」を世の物象全体にまで敷衍して言い切っている。言われてみると、その通りだ。この断定こそが、俳句の気持ちよさである。作者にこの断定をもたらしたのは、おそらく作者の年輪だろう。なにも俳句の常識をひっくり返してやろうと、企んでいるわけではない。若いうちは、かえって「はかなさ」に過剰に捉えられる。拘泥する。おのれの、それこそ過剰な若さが、「はかない」滅びへの意識を敏感にさせるからだろう。私自身に照らして、覚えがある。若いときに書いた詩やら文章やらは、ことごとく「はかなさ」に向いていたと言っても過言ではない。このような断定は、初手から我がポエジーの埒外にあった。不思議なもので、それがいまや、この種の断言に出会うとホッとする。「かがやくものは若さなり」。いいなア。老いてからわかることは、まだまだ他にもたくさんあるに違いない。「俳句」(2001年11月号)所載。(清水哲男)


October 31102001

 君見よや拾遺の茸の露五本

                           与謝蕪村

村にしては、珍しくはしゃいでいる。「茸」は「たけ」。門人に招かれて、宇治の山に松茸狩りに行ったときの句である。ときに蕪村、六十七歳。このときの様子は、こんなふうだった。「わかきどちはえものを貪り先を争ひ、余ははるかに後れて、こころ静にくまぐまさがしもとめけるに、菅の小笠ばかりなる松たけ五本を得たり。あなめざまし、いかに宇治大納言隆國の卿は、ひらたけのあやしきさまはかいとめ給ひて、など松茸のめでたきことはもらし給ひけるにや」。宇治大納言隆國は『宇治拾遺物語』の作者と伝えられている人物。読んだことがないので私は知らないが、物語には「ひらたけ(平茸)」の不思議な話が書いてあるそうだ。「菅の小笠」ほどの松茸を五本も獲た嬉しさから、大昔の人に「なんで、松茸の素晴らしさを書き漏らしたのか」と文句をつけたはしゃぎぶりがほほ笑ましい。でも、そこは蕪村のことだ、はしゃぎっぱなしには終わらない。句作に当たって、「拾遺」に「採り残された」の意味と物語に「書き漏らされた」との意味をかけ、「露五本」と、採り立ての新鮮さを表す「露」の衣裳をまとわせている。蕪村は、この年天明三年(1783年)の師走に没することになるのだが、そのことを思うと、名句ではないがいつまでも心に残りそうである。(清水哲男)




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