蜷シv句

October 05102001

 秋空の奥に星辰またたきぬ

                           大西時夫

を読んだ途端に、ぱっと黒木瞳(女優)の出した詩集のタイトルを思い出した。『夜の青空』。彼女は十代のときに九州の詩人・丸山豊に認められた人で、そのへんの女優さんやらタレントさんやらのような甘っちょろい「詩」の書き手ではない。それはともかく、掲句の世界は逆に「昼の夜空」だ。俳句で「秋空」というときには、本義として明るく澄み渡った空を指すので、夜の空ではなく昼の空と規定される。昼の空にでも、むろん星辰(せいしん・星座、星)は存在するが、太陽光線のせいで見えないだけのこと。そんな常識を超えて、作者は明るい空に一瞬「またたく」星を見たと言うのである。すなわち、昼の空がぱっと夜のそれに変わった瞬間があったと言っているのだ。「またたきぬ」という言い方が、ほんの一瞬であったことを告げている。実景だと思うと、すうっと背筋が寒くなるような句だ。この句の収められている本には、筑紫磐井(最近、ふらんす堂から労作『定型詩学の原理』を出版)による解説が挟み込まれており、題して「本意崩し」。「(作者は)季語を始めとする俳語からあらゆる本意や過去のイメージを剥ぎ取って、さも俳句のようによんでいるが実はそこにあるのは俳句という詩なのであった」と書いている。私も同感だ。そんなに上手な「俳句という詩」ではない(私には「奥に」がうるさい)にしても、おそらく世の俳人は基本的に認め(たく)ない世界だろう。認めれば、みずからのよって立つ基盤が崩れ落ちかねないからだ。『大西時夫句集』(2001)所収。(清水哲男)




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