ZCp句

October 07102001

 男は桃女は葡萄えらびけり

                           大住日呂姿

っはっは、コイツはいいや。愉快なり。ナンセンス句とでも言うべきか。無内容だが、その無内容に誘いこむ手つきが傑作だ。縦書きで読んだほうがよくわかると思うが、「男は桃」と出て「女は葡萄」と継ぐ。ここで読者を、いったん立ち止まらせようという寸法だ。読み下しながら「ん?、どういうことかな」「『桃女』かもしれないな」「何の比喩かな」などと、読者の頭のなかでは、いろいろな想像が働きはじめる。いやでも、そこで一呼吸か二呼吸かを置かされてしまう。で、下五にはしれっと平仮名で「えらびけり」と来た。ここに「選びけり」と漢字が混じると、効果はない。「男」「桃女」「葡萄」といっしょに、最初から「選」も目に入ってしまうからだ。また縦書きのほうが、平仮名の効果をあげるためには、句全体が目に入りにくいので有効だと思う。とにかく「やられた」というか「こんにゃろう」というか、ここで読者のせっかくの想像世界は実に見事に裏切られることになる。何故こんなメにあうのかというと、性と果物の取り合わせはしばしば何かの暗喩として用いられることを、私たちが知っているからだろう。だから、つい想像力をたくましくしたくもなるのだ。が、そんな教養やら常識やらの踏み台を、いとも簡単にすっと外されたので、コロっとこけちゃったというわけ。今日もいい天気。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


November 18112001

 褞袍着てなんや子分のゐる心地

                           大住日呂姿

語は「褞袍(どてら)」で冬。関西では「丹前(たんぜん)」と呼ぶのが普通だから、うるさいことを言えば「なんや」という関西弁にはそぐわないが、ま、いいや。この冬、はじめて褞袍を着たのか、それとも旅館で褞袍に身を包んだのか。いずれにしても面白いもので、慣れない衣裳を着ると、気分は大いに変わる。褞袍に慣れきった人だと「昼の淋しさどてら着て顔を剃らせる」(荻原井泉水)のように淡々としたものだが、作者は急に大きな褞袍を着たものだから、気分までもが昂揚して大きくなった。こうやって胡座をかいていると、ヤクザ映画のように、いまにも「子分」が頭を低くして部屋に入ってきそうだと言うのだろう。滑稽、滑稽。しかし、本人は一瞬大真面目。褞袍ではないが、私にも、いろいろと思い当たることがある。句の関連で言えば、若い頃にはじめて、たわむれに友人のを借りてサングラスをかけたときのことだ。どれどれとどこぞの店のウィンドウに写してみたら、そこに写ったのは、まぎれもい街のあんちゃん「チンピラ」風なのであった。で、それが気に入って新しいのを買ったのだから、よほどの「子分」好き体質だ。なんでなんやろか。そんなことも思い出して、余計に可笑しかった。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


March 2532002

 にぎやかな音の立ちけり蜆汁

                           大住日呂姿

語は「蜆(しじみ)」で春。松根東洋城に「からからと鍋に蜆をうつしけり」があるが、私の知るかぎりでは、蜆のありようを音で表現した句は珍しい。どちらかと言えば、庶民の哀感を演出する小道具にされることが多く、それはそれで納得できるけれど、たしかに蜆を食するには音から入るということがある。「あったりまえじゃん」などと、言うなかれ。蜆の味噌汁の美味さは、この音を含んでこその味であることを再認識させてくれるのが掲句である。いや、作者自身も音の魅力にハッと気がついての作句なのだろう。もう一つ、俳句でしかこういうことは言えないなあ、とも思った。家族そろっての朝餉だろうか。いっせいにシャカシャカと「にぎやかな音」がしていて、明るく気持ちよい。今日一日が、なんとなく良い方向に進みそうな気がしてくる。月曜日の朝は蜆汁にかぎる。そんなことまで思ってしまった。食べ物と音といえば、某有名歌手が食事のときに音を立てることを極度に嫌ったという話がある。だから、蕎麦屋に連れていかれた人たちは大迷惑。音を立てて食べることが許されない雰囲気では、美味くも何ともなかったと、誰かが回想していた。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


June 1462002

 スリッパのまま誰ぞすててこ穿かんとす

                           大住日呂姿

語は「すててこ」で夏。命名は、明治期に三遊亭円遊が寄席で踊った「すててこ踊り」に由来するという。汗を吸い取ってくれる、だぶだぶの男物の下穿きだ。最近はズボンの線が崩れるとかで、穿(は)かない男が多い。最初に公然と「ダサい」と言ったのは、デビュー当時の加賀まりこだった。それはともかく、作者は「誰ぞ」ととぼけてはいるけれど、むろん自分だろう。よほどあわてていたのか、普段はこんなにおっちょこちょいではないのに、何故かなあと苦笑している。温泉場などでは、よくやってしまいそうな失敗だ。作者の本意はこれまでだろうが、私は笑ったと同時に、笑ってすまされないものも感じてしまった。還暦くらいの年齢になってくると、この種のことをしばしば引き起こすようになるからだ。身体が自然に覚えているはずの手順が、ときとして狂ってくる。そのたびに苦笑しながらも、だんだん笑い事でもなくなってくるのだ。そこで、あらかじめ手順を頭の中で組み立てて反芻しながら、いかにも自然を装いつつ行動に移す。温泉場なら、すててこを穿いてからスリッパを履き、穿いたら使ったタオルなどをきちんとして……。こういう手順をあらかじめ想定しておかないと、何かをやらかしたり忘れたりしてしまう。もちろん一事が万事ではないが、こういうことが徐々に増えてくる。そんな自分を思いつつもう一度掲句を読むと、「誰ぞ」はまぎれもなく「私」であることになる。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


June 1162003

 見送るや君たちまちに梅雨の景

                           大住日呂姿

では、立春より百三十五日目にあたる今日十一日を入梅としている。だから、年によっては上天気の入梅日もあるわけだが、今年は暦より一日早く、昨日、関東甲信、近畿、中国、四国、東海地方が入梅を迎えた。いよいよ、茫々たる長雨の季節がやってきた。作者は、親しい人を「梅雨」の中に見送っている。たったいま「じゃあ、また……」と別れたその人が、「たちまち」にして「梅雨の景」と化したというスケッチは卓抜だ。つい先ほどまでの賑やかな人間臭さが嘘のように、その人は梅雨の景色にすうっと溶けていき、一点景にすぎなくなってしまつたと言うのである。往来を行き交う人があっても、みな同じような点景に見えている。無常を感じたというほどではないにしても、何かそこに通じる寂しさが、ふっと作者をとらえたのだ。直截に主観を述べることなく、しかし主観を述べている。俳句にしかできない技と言うべきか。ところで、近着の矢島渚男主宰の俳誌「梟」(第145号・2003年6月)を開いたら、作者の死が告げられていて驚いた。転居したばかりのアパートで、倒れておられたという。一面識もなかったけれど、私は大住ファンで、これまでに四句書かせていただいている。「家庭というものの味を知らなかった大住さんの孤独の死、いや、幸せな死だったかも知れない。いつか死は誰にも平等に訪れるのだ。折りしも東京は桜の季節であった。……」(矢島昭子・同誌より)。享年七十八。生涯にただ一冊の句集が、茫々と残された。合掌。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


May 0252011

 新品の島だ若葉を盛り上げて

                           大住日呂姿

放しの新緑賛歌。気持ちの良い五月の風も吹いている。しかし、この島にも目には見えない死の灰が……。などと、作者の意図を越えた野暮は言うまい。こういう句、作ろうとしてもなかなか作れない。けっこう難しいのだろうと思う。ところで「新品」という言葉だが、昔に比べるとすっかりインパクトが弱くなってきたような気がする。使うことも、あまりなくなった。なにしろいまはどこを見回しても「新品」だらけだからであり、ことさらにそう言うべき対象が少なくなっているからである。私が子供だったころには、「新品」というだけで何かまぶしいような晴れがましいような感じがあった。着るものなどはとくにそうで、学校に「新品」の服や帽子で行こうものなら、何人もの友達から「おはつ(初)っ」と背中をどやされたものだった。それが嫌さに、帽子などはわざわざツバを折り泥土に踏んづけてまで古く見せようとしたりしてたっけ。いまでは、そんなことは起こりようもないだろう。まさに隔世の感あり、である。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)




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