♪雨カショポショポ降ル晩に、カラスノ窓カラノゾイテル、満鉄ノ金ポタンノパカヤロウ。娼婦哀歌。




2001N1028句(前日までの二句を含む)

October 28102001

 柿むいて今の青空あるばかり

                           大木あまり

天好日。「今の」今しか「青空」を味わえぬ静かな時間。理屈をこねて鑑賞する野暮は承知で述べておけば、句を魅力的にしているのは「柿むいて」という行為が、あくまでも過程的なそれであるからだろう。「柿むいて」ハイおしまいというのではなく、むく目的は無論食べるための準備だ。この句の上五を、たとえば「柿食べて」「柿食えば」とやっても、俳句にはなる。なるけれど、食べるという自足感が「青空」の存在を希薄にしてしまう。食べちゃいけないのだ。下世話に言えば、よく私たちは「さあ、食うぞっ」という気持ちになったりするが、「柿むけば」は「さあ、食うぞっ」のはるかに手前の段階であり、ひとかけらの自足感もない。手慣れた手つきで、ただサリサリと、何の思い入れなくむいているだけである。事務的と言うと「事務」に怒られるかもしれないが、しかし柿をむくというような過程的な行為である「事務」の目からすると、「今の青空」の「今」が自足した目よりも強く意識されるのだと思う。「今」を貴重と感じる心は、いつだって自足のそれからは遠く離れているのだと……。たかが、作者は柿をむいているにすぎない。その「たかが」が「今の青空」と作者との交感関係を、いかに雄弁に語っていることか。でも、やっぱり、こんなことは書くまでもなかったですね。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)


October 27102001

 うそ寒き顔瞶め笑み浮かばしむ

                           岸田稚魚

語は「うそ寒(やや寒)」で秋。「嘘寒」ではなく「うすら寒い」から来た言葉だろう。さて、作者が「瞶(みつ)め」ることで「笑み浮かばし」めた相手は誰だろう。書いてないのでわからないけれど、たぶん妻ではなかろうか。「うそ寒き顔」とは寒そうな顔というよりも、浮かない顔に近いような気がする。そんな表情に気がついた作者が、傍らから故意にじいっと「瞶め」やっているうちに、ようやく視線を感じた相手が、ちらりと微笑を返してきたのだった。ただ、現象的にはそれだけのことでしかない。考えてみれば、人と人との間には、このような交感がいつも行われている。とりたてて当人同士の記憶にとどまることもなく、すぐにお互いに忘れてしまうような交感だ。しかし、このような喜怒哀楽の次元にも達しないような淡い関係が頻繁にあるからこそ、人はいちいち自覚はしないのだが、なんとか生きていけるのだろう。他人の「おかげ」というときに、基本は日頃のこの種の淡い交流にこそ、実は盤石の基盤があると言っても過言ではないと思う。そして私などが深く感じ入るのは、この種の何でもない交感をそのまま記述して、何かを感じさせることのできる俳句という詩型のユニークさだ。自由詩のかなわないところが、確かにこのあたりに存在する。『雁渡し』(1951)所収。(清水哲男)


October 26102001

 バス停に小座布団あり神の留守

                           吉岡桂六

語は「神の留守」から「神無月」。陰暦十月の異称で、冬。したがって、まだちょっと早い。八百万の神々が出雲大社に集まるため、諸国の神が留守になる月。これが定説のようだが、雷の無い月だから、とも。句のバス停は作者がいつも利用するそれではなくて、旅先だろうか、とにかくはじめてのバス停だ。バス停のベンチに「小座布団」が置いてあること自体が珍しいので、「ほお」と思った。他にバスを待つ人はおらず、作者一人だ。座布団の色までは書いてないけれど、私の好みのイメージとしては、赤色がふさわしい。ちっちゃくて真っ赤な座布団。なんだか小さな神様のために用意されているようだと作者は感じ、でも、いまは出雲にお出かけだからお使いにはならないのだと微笑している。「神無月」の句には意味あり気な作品が多いなかで、即物的にからっと仕上げた腕前に魅かれた。最近の我が町・三鷹市やお隣の武蔵野市では、小回りの利くカラフルで小さなバスが走り回っている。三鷹駅からジブリ美術館へ行くバスも、黄色くてちっちゃな車体だ。こんなバスにこそ「小座布団」が似合いそうだが、ほとんどの停留所にはベンチも置かれていない。『遠眼鏡』(2001)所収。(清水哲男)




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