2001N11句

November 01112001

 鰡とんで夜釣の赤き電気浮子

                           本田令佳

語は「鰡(ぼら)」で秋。代表的な出世魚の一つで、成長するにしたがって名前が変わる。幼魚のころは「はく」と言い、途中で幾度か名前が変わり、成魚となり泥臭さが抜けてくる秋になると「ぼら」になる。数年生き延びた大型魚は「とど」。最後が「とど」ゆえ「とどのつまり」なる表現が生まれた。……とは、実は物の本で得た知識であって、私は生きているこの魚を見たことはない。俳句は日常身辺事に取材することが多いので、山の子である私は、海の句が苦手だ。たいていの句が、よくわからない。でも、この句には一読して魅かれた。実景は知らないけれど、寒くて真っ暗な海に赤く灯る電気仕掛けの「浮子(うき)」がぽつりぽつりと浮いている様子を想像すると、鮮やかな絵が浮かんでくる。そして、姿の見えない「鰡」が、ときおりぱしゃっと跳ねる音も聞こえてくる。視覚的効果のなかに、音がよく生きていると思えた。それにしても、いまは「電気浮子」なんて洒落たものがあるのか。子供のころは川でよく釣ったが、あのころいちばん欲しかったのが、ちゃんとした「浮子」だった。買う金がなくて、そこらへんの萱(かや)を適当な長さに切って使っていた。釣りながら最も見つめるのは「浮子」だから、立派なものが欲しくなるのは人情だろう。生まれて初めてパリに行ったとき、デパートの釣り具売り場に、実にさまざまな形と色の「浮子」が並んでいたのが、忘れられない。まさに釘付け状態で、見惚れた。使うことはないが記念に求めようかと思案したけれど、このときも、気に入ったものはあまりに高すぎて買えなかった。「俳句界」(2001年11月号)所載。(清水哲男)


November 02112001

 菊添ふやまた重箱に鮭の魚

                           服部嵐雪

諧の宗匠は忙しい。連日のように、あちらこちらの句会に顔を出さねばならぬ。したがって食事は外食が多く、嵐雪の時代にはその都度「重箱」を開くことになるわけだ。この日の膳の上には「菊」が添えてあり、おっなかなかに風流なことよと蓋を取ってみて、がっかり。またしてもメインのおかずは「鮭(さけ)」ではないか。このところ、どこへ行っても鮭ばかりが出る。いくら旬だといえども「もう、うんざりだ」と閉口している図だろう。「鮭の魚(うお、あるいは「いお」と読ませるのかも)」と留めたのは、「鮭」と留めると字足らずになるからではなくて、「鮭」にあえて「魚」と念を押すことで、コンチクショウメという意味の、ちょっと語気を荒げたような感じを表現したかったためだと思う。今風に言えば、料亭の飯にうんざりしているどこぞのおエライさんのような贅沢にも思えるが、江戸元禄期あたりの「重箱」は、現代の仕出し弁当に近かったようだ。たとえば正月用の「重箱料理」などの豪華さは、もっと後の時代(18世紀半ばくらい)からのものらしい。となれば、嵐雪のがっかりにも納得がいく。いまの仕出し弁当もたまにはよいが、連日となると辟易するだろう。その昔、人気絶頂のタイガー・マスクが、控室でしょんぼりと仕出し弁当をつついていた姿を思い出した。きっと、うんざりしてたんだな。(清水哲男)


November 03112001

 定型やひもじくなればイモを食ひ

                           筑紫磐井

句で、単に「いも」と言えば「芋」のことで、里芋を指す。馬鈴薯や甘藷の「藷(いも)」ではない。「芋」は儀礼食として伝統行事に使われてきたから、そしてこの国の「いも」ではかなりの古株(縄文時代には、既に野生種があったという)だから、南米原産の新参の「藷」よりもはるかに格が上なのである。月見に供えるのも、里芋だ。でも、掲句の表記は「イモ」と片仮名である。片仮名にしたのは「里芋」ではないよということであり、「芋」も「藷」も含み込んだすべてのイモ類のことを言っていると受け取った。米が食えずに「ひもじくなれば」イモの類を食うのは歴史的に人の常であり、まさに「定型」。そして、もう一つ。ひもじい作句を比喩的に捉えれば、発想に貧すると必ず貧民がイモを食うような句に仕上げてしまう。これも「定型」。ぼかしてはあっても、むろん作者の力点は後者にかかっているのであり、飢えた人たちが「イモ」を食ったように、いわば定型の伝統的な根菜を食いつくすかのような俳句界の現状を、憂いつつ笑っている。作者は論客としても知られているが、しかし、散文でひもじい俳句作家たちを撃つ限界を心得ている。本物の戦争でも「地上軍」には「地上軍」をぶつけねば勝てないように、「俳句」にも「俳句」をもってするのが最も有効な手だてであることを。このところの磐井句は、そういう意味で見落とせない。次の句などは、無季ながら傑作だ。単なる揶揄や意地悪に終わっていないからである。「虚子・精子頭はでかく肝小さし」。一読、男なら誰しもが、ありもしない自分の「精子の肝」に思いが行ってしまうはずである。俳誌「豈」(2001年AUTUMUN号)所載。(清水哲男)


November 04112001

 二階からたばこの煙秋のくれ

                           除 風

の江戸期の無名俳人の作をいまに残したのは、ご存知柴田宵曲(1897-1966)の手柄だ。実に不思議な句で、後を引く。宵曲は「ただ眼前の景である」と言い切っている。平屋がほとんどだった時代だから、二階家というと、普通に商家と思ってよいだろう。だから、「たばこ」をふかしているのは客である。食い物商売か、飲み屋の類か。通りがかりの作者は、ただ二階屋から「たばこの煙」がひっそりと立ちのぼっている様子を見たというだけで、後は何も言っていない。それが「秋のくれ」に似つかわしいと抒情しているのだ。そういうことになる。しかしねえ、宵曲さん。と、稀代の碩学には失礼を承知で申しあげるのですが、通りがかりの二階家の窓から流れ出た煙管煙草の煙が、たそがれ時の往来から見えたりするものでしょうか。それと意識していれば見えるかもしれませんが、作者にその意識があるとは思えないのです。ふかしている人の影でもあるのならばともかく、何気なくふっと見上げた目には、たぶん写らないのではないでしょうか。すなわち、私は実景ではなく、秋の夕暮れの侘しさを詠むための想像句と読んだのでした。あるかなきかのか細い一筋の「たばこの煙」が、この季節の夕暮れにあらまほしき小道具として作者は詠み、それが逆に実景としてのリアリティを保証したのではないのかと。いずれにしても宵曲の言っているように、詠まれたもの以外は他の「消息」を何も伝えていない句だ。そのことが俳句としての不思議を拡大するのであり、そのことが秋の暮れの侘しさの伝統的な根拠を示す要因となっているのだろう。春夏秋冬の日暮れのなかで、いちばん人の気配の薄いのが秋だということを、見えない「けむり」に託した句というのが、私の読み方です。『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


November 05112001

 サフランや姉居し頃の蓄音機

                           木村十三

まには、こんな良家風の句もよいものだ。季語は「サフラン」で秋。春に咲くクロッカスと同種だ。花弁の淡紅色に、雄しべの黄色と雌しべの赤との取りあわせが美しい。昼なお仄暗い洋間から、作者は庭の「サフラン」を眺めている。窓の傍らには、姉がいたときと同じところに、もう誰も使わなくなった「蓄音機」がそのまま置いてある。姉がいた頃には、よく大事にしていたレコードを聞かせてもらったっけ。昔と変わらぬ部屋であり、サフランであり、蓄音機であるのだが、もはや昔日のはなやぎがこの部屋に戻ってくることはないだろう。姉を追慕する心は、この家の盛りがとっくに過ぎてしまったことを知っている。むろん、こうした想像は、私の独断的な好みによるものだ。まったく違う想像も可能だ。しかし「姉」と「サフラン」と「蓄音機」と来れば、私の想像も当たらずといえども遠からずではないかと思う。とりわけて、「姉」がいなくなっても処分しきれずに置いてある「蓄音機」というのだから、想像に拍車がかかる。安物ではあるまい。手回し式のものではなくて、いわゆる「電蓄(でんちく)」ではないだろうか。それこそ良家で、何度か聞かせてもらった記憶がある。その大きさ、その仕立てからして、子供心を震撼せしめるような輝きを放っていた。機械のデザインに魅せられた最初が、そのシックな電蓄であった。私がいまパソコンのMacintoshを愛用するわけも、元はといえば、その電蓄の魅力に発している。『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


November 06112001

 米提げて野分ただ中母小さし

                           飴山 實

書に「母来阪、大阪駅にて」とある。「野分(のわき)」は秋に特有の強風のことで、草木を吹き分けるほどの強い風のこと。さて、作者が田舎から出てきた母親を出迎えたのは、戦後九年目の大阪駅だ。ホームには、台風だったのか、風が激しく吹き過ぎている。そして少し離れた降車口から降りてきた母は、重そうに大きな包みを提げており、作者には中身を問わずとも、それが「米」だとわかった。風にあおられた母の姿は、ことのほか小さく見えた。無理をして「米提げて」くることはないのに……。息子はちらりとそう思い、足早に母に近づいていく。似たようなシチュエーションはよくあるだろうし、句が母子の関係に何か格別な発見をしているわけでもない。「母小さし」も、使い古された言い方である。しかし、なおこの句に私が魅かれるのは、大阪駅に吹く強風を「野分」と言っているところだ。都会の強風を「野分」とする例はあるけれど、その場合には自然の草木や風物が介在する。いかな戦後間もなくとはいえ、大阪駅のホームには一草たりとも生えてはいなかった。なのに、たとえば台風とは言わずに、あえて野を分ける風と言ったのか。言いたかったのだろうか。手品のタネは既に露見しているようなものだが、作者が「小さき母」に認めたのは、単にひとりの老いた母の像だけではなくて、懐かしい田舎のイメージだったからである。実際に提げてきたのは「米」であるが、負ってきたのは故郷であった。このとき、大都会の駅も「野分のただ中」に……。「台風」ではなく「野分」でなければならない所以である。したがって「前書」を必要とした。もはや「木枯らし」の季節だが、今年の秋の部に駆け込み記入(笑)。明日は「立冬」。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


November 07112001

 凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る

                           飯田蛇笏

冬。暦の上では冬に入った。もとより今日から急に寒くなるわけでもないが、立冬と聞くと、人は「そういえば」と周囲に冬の気配を感じとるものだ。どこの何に、そしてそれをどのように感じ、如何に詠むのか。立冬の句は枚挙にいとまもないが、それぞれの句はそれぞれに冬の気配を述べていて、みなそれなりに味わいがある。読み比べると、なかなかに面白い。そんななかで、掲句は異色に属するだろう。というのも「地はうす眼して」と、山野を擬人化しているからだ。「凪(な)ぎわたる」は、この場合には、空がよく晴れておだやかな状態にあること。したがって、ちっとも厳しい冬を思わせる空ではないのだけれど、しかし、その下に広がる山野をつくづく眺めやると、なんだか「うす眼」をあけているようである。「うす眼」をあけながら、よく晴れたおだやかな空に、鋭敏に眠りの時が近づいてきたことを感じ取っている風情だ。いつかも書いたように、私は動植物やその他の自然の擬人化を好まない。ここでは理由は省略するけれど、この句においては例外的に擬人化が成功していると思った。広い山野に冬が兆すというとき、つまり秋から冬への季節のうつろいの繊細かつ微妙な変化を言うときに、それらを一挙に一言で仕止めるためには、短い俳句では、この方法くらいしかないかなと思うからである。それにしても、このような句は恵まれた自然のなかでの生活からしか現れることはないだろう。今日の東京の地は、たぶんまだ眼をなんとなく見開いているはずだ。むろん、そこに暮らす人々も、また。『家郷の霧』所収。(清水哲男)


November 08112001

 上下線ともに不通ぞ夜鳴蕎麦

                           後藤一之

、屋台を引いて売り歩く蕎麦(そば)。昔の関西には「饂飩(うどん)」の屋台が多かったという。現代では、東西ともに「ラーメン」が主流だろう。駅に着いてみると、事故があって「上下線ともに不通」である。東京あたりでは、しばしばこんな羽目におちいる。とくに、どういうわけか人身事故の多い中央線では……。いつ動き始めるのかわからない電車を、構内で待つのはわびしいものだ。腹も減ってくる。こういうときに「しめたっ」と、帰宅が遅くなる口実を引っつかんで飲み屋を探したのは、若き日の私だ。が、たいていのサラリーマンは、とりあえず駅の近くで商っている「夜鳴蕎麦」でも食って待とうかと、真面目である。そんな客ばかりが、お互いに肩寄せ合って「蕎麦」を啜る図は、これまたわびしくもあり、情けなくもあり……。どうという句でもないけれど、思い当たる読者は多いだろう。この思い当たるところが、俳句の味だ。いや、味噌だ。掲句に比べると、つとに名句の誉れ高いのが山口青邨の「みちのくの雪降る町の夜鷹蕎麦」である。たしかに見事な絵にはなっているけれど、審美的に過ぎて、少なくとも掲句よりはよほど「蕎麦」の味が希薄である。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


November 09112001

 石炭にシャベル突つ立つ少女の死

                           西東三鬼

語は「石炭」で冬。幼い死である。何故、どのようなことから「少女」が死んだのかはわからない。わからないが、作者の口吻には、幼い命を奪い去ったものへのいきどおりが感じられる。こんな理不尽な死が、あってよいものか。これでは、神も仏もないではないか。その暗澹たる怒りの念が、黒々とした「石炭」の山に「突つ立つ」一本の「シャベル」に集約されている。ここで「シャベル」は、作者の力いっぱいの怒りの具象化だ。作者は、寒い夜の通夜の客だろう。となれば、積み上げられた「石炭」は、一晩中燃やしつづけるストーブのために準備されたものだ。明るかった少女との思い出が、漆黒の「石炭」の山と対比されることで、作者の悲しみと怒りが爆発しそうに鮮やかである。単なる追悼句を越えて、掲句は人間の愛の深さを浮き彫りにしている。私が子供だった頃には、まだ「石炭」は家庭でも使われていた。それが中東での大油田の発見により、安い石油に押しまくられて姿を消していくのが、戦後のエネルギー交替の歴史である。1997年(平成9年)3月には、国内最大の炭鉱であった三池炭鉱(福岡)の閉山により、太平洋炭礦(釧路)、松島炭鉱(長崎)の二つの炭鉱を残すのみとなり、そしてこの松島炭坑もさきごろ閉山が決まった。「みんな仲間だ、炭掘る仲間」と、かつての三池炭鉱労働者の力強い歌声が、寂しく思い出される。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 10112001

 猟銃が俳人の中通りけり

                           矢島渚男

語は「猟銃」から「狩」につなげて冬。地方や狩る動物の種類によって解禁日は異なるが、十一月が多いと聞く。私の田舎でも、農閑期に入ったこれからが猟期である。あちこちの山から、発射音が聞こえてくる。さて掲句は、吟行で訪れた山道で猟銃を背負った男とすれ違った光景を詠んでいる。場所は、作者の暮らす信州だろう。同じ山道を歩いてはいても、俳人の目的と猟人のそれとでは大いに異なる。作者はそのことを斟酌して、猟師とすれ違ったとは言わずに、「猟銃」が俳人仲間の中をぬうっと通っていったと言っている。こういうときには、お互いに違和感を感じるものだ。作者を除けば、多くは他所者の「俳人」たちからすると、土地の猟師が通っていくのだから、自然にぬうっと見えるのも道理だけれど、一方で土地の男にしてみると、そんな気持ちではあるまい。いつもの山道に見知らぬ都会モンが群れているだけで、その間をすり抜けるのは照れ臭い気がする。だから下うつむくようにして、鉄砲をことさらに肩に揺すり上げ、足早に通り過ぎようとした。大げさに言えば、この場面は互いの文化の衝突なのだ。作者は若き日を東京で暮らし、故郷信州に戻って長く住む人ゆえに、このあたりの両者の心理的な機微は心得ている。その片方から見れば、この句のようになるけれど……。というわけだが、わざわざ仲間を突き放すようにして「俳人」と詠んだのは、すれ違ったときに、非常に親しいはずの「俳人」よりも、そして自分も「俳人」なのに、見知らぬ地元の猟師のほうに、ふっと親近感を覚えてしまったからに違いない。地元の人間同士の気持ちは、たとえ顔見知りではなくとも、このように微妙に通いあうものである。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


November 11112001

 贈り来し写真見てをる炬燵かな

                           高浜虚子

語は「炬燵(こたつ)」で、もちろん冬。こういう句に接すると、つくづく虚子は「俳人だなあ」と思う。なんだ、こりゃ。作者が、ただ炬燵で写真見てるだけジャンか。どこが面白いのか。凡庸にして陳腐なり。と、反発する読者もおられるだろう。かつての私もそう思っていたが、最近になって「待てよ」ということになった。というのも、たしかに名句ではないだろうけれど、この場面を自分が実際に句に仕立てるとなると、このように詠めるだろうかという疑問がわいてきたからだ。たぶん、私には無理である。(再び……)というのも、炬燵にあたっているゆったりとした時間のなかで、何枚かの「写真」を眺めていれば、おのずからいろいろな思いが触発されるわけで、どうしてもそれらを同時に表現したくなってしまうからだ。たとえば、このときは愉快だったとか、疲れてた、などと。だが、虚子はそれらの思いをばっさり切り捨てて、ただ「見てをる」と言った。なんでもないようだが、ここに俳人の俳人たる所以が潜んでいるのだと思う。これが「俳句」なんだよと、問わず語りのように知らんぷりをして、掲句は主張しているように写る。そう考えると、ここで「見てをる」の「をる」と「贈り来し」の「贈」は見事に響きあう。つまり作者は、写真から触発されたさまざまな思いをばっさりと切り捨てることによって、「贈り来し」人への挨拶を際立たせているのだ。ていねいに一枚ずつ拝見していますよ。「をる」とは、そういう措辞である。すなわち、読者一般には「どんな写真なのか」と思わせながら、その想像にかかっているはずの梯子をひょいと外して、実は写真を贈ってくれた特定の人に深い謝辞を述べているのだ。といって、私は作者が虚子だからそう思うのではない。「俳句」だから、そう思わざるを得ないのだ。『七百五十句』(1964)所収。(清水哲男)


November 12112001

 女人咳きわれ咳きつれてゆかりなし

                           下村槐太

語は「咳(せき)」で冬。待合室だとか教室だとか、人中では咳をしたくとも、なるべくこらえるのがマナーだろう。作者もそう心得てこらえていたのだが、ちょっと離れたところで、こらえきれなくなったのか、女性が咳をした。とたんに、作者も「つれて(連れて)」咳をしてしまったというのである。私にも、経験がある。同病あい哀れむ。というほどのことでもないけれど、こんなときには、咳をした者同士の間に、すっと親近感がわくものだ。作者の場合は、お互いに目くらいは合わせたかもしれない。しかし、それも束の間で、またお互いはそっぽを向くことになる。「ゆかりなし」だからだ。一瞬の親近感がパッと引いてしまう微妙な交流の機微を描いて、的確だ。「ゆかりなし」と、当たり前のことを内心で大声で言っているのも面白い。咳の後での、腕組みをして憮然とした作者の表情が目に浮かぶようで、滑稽感もある。これはもちろん「女人咳き」だから成立する句なのであって、相手がおっさんでは句にならない。きっと、美人の咳だったんだろうな。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 13112001

 菊人形問答もなく崩さるる

                           藤田湘子

語は「菊人形」で秋。漱石の『三四郎』に本郷団子坂での興業の賑わいぶりが登場する。明治末期の話だが、この時期の娯楽としては相当に人気が高かったようだ。さて、掲句は現代の作。菊師(きくし)入魂の作品である人形も、興業が果てて取りかたづけられる段になると、かくのごとくに「問答無用」と崩されていく。丹精込める菊師の人形作りには「問答」があるけれど、始末する作業者にはそれがない。ないから、むしろ小気味よい感じで「崩さるる」のだ。このときの作者には、せっかくの人形を乱暴に崩すなんてなどという感傷はないだろう。見る間に崩されていく場景を、むしろ無感動に近い気持ちで見つめている。仮に哀れの念がわくとしても、それはこの場を去ってからのことにちがいない。あまりにも見事な崩しぶりに、感じ入っているだけなのだ。ひどく乾いた抒情が、句から伝わってくる。ところで、小沢信男に「凶の籤菊人形の御袖に」がある。「凶」だとはいえ、そこらへんに捨ててしまうわけにもいかず、持ち歩いていた御神籤(おみくじ)の札を、そっと「菊人形の御袖に」しのばせたというのである。なかなかに、洒落れた捨て所ではないか。で、展示が終了したときに、この人形をどさどさっと手際よく作業者が崩しにかかると、なにやら白い紙がひらひらっと舞い上がり、男の額にぺたりと張り付いた。なんだろうと、男が紙を開いてみる。……。「へい、おあとがよろしいようで」。『去来の花』(1986)所収。(清水哲男)


November 14112001

 戸を立てし吾が家を見たり夕落葉

                           永井龍男

方帰宅すると、まだ明るいのに既に雨戸が立てられていた。家人が留守をするので、きちんと戸締まりをしてから出かけていったのだ。むろん作者はそのことを承知しているのだが、いつもとは違う家の様子に思わず足を止めて、しばし眺め入っている。「吾が家」ながら、どこか自分を受け入れぬようなよそよそしい感じなのだ。なんだか「吾が家」が、さながら異次元の存在のようにも写ってくる。ときおり舞い落ちてくる木の葉の風情もうそ寒く、作者はやおらポケットに鍵を探す……。「見たり」といういささか大仰な表現が、よく効いている。こんなときでもなければ、自分の家をわざわざ「見たり」と強調する感情はわいてこない。つまるところ、この淡い寂寥感は、立てられた雨戸によって象徴される家人の不在から来ている。中に誰も人がいない家は、それこそ大仰に言えば、家とは言えないのだ。人が存在してこそ、家が家として機能するわけで、あるいは人の暮らす家として安定するのであって、そのことを作者はさりげなくも鮮やかに視覚から捉えてみせている。形容矛盾かもしれないが、淡くも鋭い感覚の句として印象に残る。(清水哲男)


November 15112001

 投網打つごとくに風の川芒

                           友岡子郷

語は「芒(すすき)」で秋。別名は「萱(かや)」である。作者は、川原で「芒」が風になびく様子を見ている。そしてふっと、まるで誰かが「投網(とあみ)」を打っている光景のようだと思った。それだけの句であるが、この「それだけ」にとどめているところに、私は逆に魅かれる。昔の流行歌の「♪おれは河原の枯れススキ……」ではないけれど、とかくこのような風景を句にしようとすると、人は感情移入に走りがちになる。「さみしい」とか「わびしい」とかの感情を詠み込まないと、句がおさまらぬ気がするものだ。それを、からりと眼前の風景のありようだけにとどめた。言われてみれば、打たれる「投網」の細かい網の目と、群生する「芒」が揺れて生ずる斜のかかったような様子とは、よく符合する。この光景を少しフォーカスを甘くしてムービーに撮り、掲句を白い文字で打ち抜けば、ぴったりと響きあうにちがいない。俳句を読みはじめてから思っていることだが、風景を風景のままに詠みきることは非常に難しい。つまり写生の難しさになるわけだが、その意味で、掲句は成功した部類の作品ではあるまいか。むろん「投網打つごとくに」の比喩が効いているかどうかにおいて、意見はわかれるところだろう。一見地味で平凡にすら感じられる比喩だが、なかなかどうして力のこもった着想だと思う。『椰子』('99アンソロジー)所載。(清水哲男)


November 16112001

 外套を脱げば一家のお母さん

                           八木忠栄

コートの季節。「外套(がいとう)」はもはや古語と言ってよいだろうが、コートとはちょっとニュアンスが違うと思う。コートは薄手であり、外套は厚手でモコモコしているイメージだ。いずれにしても外出着には変わりなく、それを来ているときは他所行きの顔である。妻が、外出から帰ってきた。もう夕食の時間なのだろう。部屋に入ってきたときにはまだ外套を着たままなので、やはり少し他所行きの顔を残している。子供らが「おなか空いたよお」と声をあげると、「はいはい、ちょっと待っててね」と彼女は外套を脱ぐ。途端に他所行きの顔は消え、ふだんの「お母さん」の顔に戻った。早速、台所でなにやらゴトゴトやっている。すっかり「一家のお母さん」に変身している。べつに何がどうということでもないけれど、一家がホッとする時間が戻ってきたわけだ。そこで作者は、いつもの調子でぶっきらぼうに注文をつけたりする。「心憂し人参辛く煮ておくれ」などと……。まっこと、「お母さん」は太陽なんだね。そこへいくと「お父さん」なんて生き物は、単に「お父さん」にすぎないのであって、外套を脱ごうが脱ぐまいが、一家をホッとさせるようなパワーはない。やれやれ、である。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


November 17112001

 焚火爆ズ中ニ軍律読ミ上ゲシ

                           新海あぐり

語は「焚火(たきび)」で冬。いまはダイオキシンが何とやらで、焚火もままならない。イヤな世の中です。ところで、こういう句に私は弱い。いざ、出陣である。火は人の闘争心を掻きたてる。寒いからだけではなくて、ばんばんと火勢を強めることで士気が鼓舞される。だんだん、みんなの目がギラギラしてくる。そこでやおら首領格が、しずかに諭すように「軍律(ぐんりつ)」を読み上げる。戦闘に際しての心構えは簡単にすませ、後は戦いに無関係な者への配慮であるとか、裏切り者への対処法であるとかと、かつての中国赤軍もかくやと思わせるような「仁義」が諄々と説かれていくのだ。焚火が爆ぜてむせ返るのだが、寂として声無し。そのうちに、闘争心は次第に冷たくも逆上する青い炎のように変化していく。落ち着いてくる。「秩父困民党」に取材した連作の一句であるが、片仮名を使って(「軍律」表記に通じて)、見事に蹶起する直前の農民の雰囲気を写している。かつての私も、身をもって似たような場面にいたことがある。このことについて知る人は少ないと思っていたら、ずっと後になって、長崎浩が「日本読書新聞」に書いた「評価」を読むことになった。でも、焚火は暢気なほうがよいに決まっている。♪たき火だ たき火だ おちばたき。巽聖歌の詩のほうが、天と地ほどによいに決まっている。作曲者の渡辺茂は、娘が小学生のときの先生だった。お元気でしょうか。『悲しみの庭』(2001)所収。(清水哲男)


November 18112001

 褞袍着てなんや子分のゐる心地

                           大住日呂姿

語は「褞袍(どてら)」で冬。関西では「丹前(たんぜん)」と呼ぶのが普通だから、うるさいことを言えば「なんや」という関西弁にはそぐわないが、ま、いいや。この冬、はじめて褞袍を着たのか、それとも旅館で褞袍に身を包んだのか。いずれにしても面白いもので、慣れない衣裳を着ると、気分は大いに変わる。褞袍に慣れきった人だと「昼の淋しさどてら着て顔を剃らせる」(荻原井泉水)のように淡々としたものだが、作者は急に大きな褞袍を着たものだから、気分までもが昂揚して大きくなった。こうやって胡座をかいていると、ヤクザ映画のように、いまにも「子分」が頭を低くして部屋に入ってきそうだと言うのだろう。滑稽、滑稽。しかし、本人は一瞬大真面目。褞袍ではないが、私にも、いろいろと思い当たることがある。句の関連で言えば、若い頃にはじめて、たわむれに友人のを借りてサングラスをかけたときのことだ。どれどれとどこぞの店のウィンドウに写してみたら、そこに写ったのは、まぎれもい街のあんちゃん「チンピラ」風なのであった。で、それが気に入って新しいのを買ったのだから、よほどの「子分」好き体質だ。なんでなんやろか。そんなことも思い出して、余計に可笑しかった。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


November 19112001

 自動車のとまりしところ冬の山

                           高野素十

だ「クルマ社会」ではなかった頃の句。「自動車」という表現から、そのことが知れる。これは作者が乗っている「自動車」ともとれるし、それなりに句は成立するが、私は乗っていないほうが面白いと感じた。さて、バスやトラックではなくて、いわゆる乗用車が田舎道を走ってくることなどは滅多になかった時代である。走ってくればエンジン音がするし、いやでも「何事だろう」と村中が好奇の目を注ぐことになる。みんなが、どこの家の前でとまるのかと、じいっと眺めている。同じように作者も目で追っていると、点在する人家を遠く離れたところでやっととまった。はて、不思議なこともあるものよ。人の降りてくる気配もないし、なかなか発車もしない。しんと寝静まったような小さな「冬の山」の前に、ぽつんとある一台の黒い「自動車」は奇怪だ。好奇心はいつしか消えて、だんだん光景が寒々しい一枚の絵のように見えてくる。見慣れた自然のなかに、すっと差し込まれた都会的な異物が、ことさらにそう感じさせるのだ。昔の乗用車はたいてい黒色で塗ってあったから、この山がすっかり冠雪しているとなると、ますます寒々しい光景となる。子供の頃、近くを「自動車」が通りかかると、走って追いかけたのが私の世代だ。そんな世代には、懐かしくてふるいつきたいような寒々しさでもある。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


November 20112001

 ねむさうにむけるみかんが匂ふなり

                           長谷川春草

れからは、炬燵(こたつ)で蜜柑の季節。句の「みかん」は、いかにももぎたてで新鮮といった感じの蜜柑ではなく、買ってきて少々日数を経た「みかん」だろう。ちょっと皮がくたびれてきているので、なるほど、しなしなと「ねむさうにむける」のである。平仮名表記がそんな皮の状態につり合っていて、実に的確だ。で、「ねむさうに」むけていくうちに、思いもかけないほどの新鮮な芳香が立ちのぼってきたのだった。This is THE MIKAN. と、作者は感に入っている。私に蜜柑の種類などの知識は皆無だが、食べるときは句のような「ねむさうにむける」もののほうが好きだ。贈答用に使う立派な姿のものよりも、八百屋でも雑の部類に入る「ヒトヤマなんぼ」のちっぽけな蜜柑ども。そのほうが、甘味も濃いようである。食べ方にもいろいろあって、むいた後の実に付いている、あれは何と言うのか、白い部分をていねいに取り除かないと気のすまない人がいる。どんなに小さい蜜柑でも、房をひとつひとつ切り離してから食べる人もいる。私は無造作に幾房かをまとめて口に放り込んでしまうが、そういう人たちはまた、魚料理なども見事にきれいに食べるのである。なお、掲句は田中裕明・森賀まり『癒しの一句』(2000・ふらんす堂)に引用句として掲載されていたもの。(清水哲男)


November 21112001

 まなうらは火の海となる日向ぼこ

                           阿部みどり女

語は「日向ぼこ」で冬。ところで、いったい「日向ぼこ」とは何なのだろうか。冬は暖かい日向が恋しいので、日向でひととき暖かい場所を楽しむ。物の本にはそんなふうに書いてあるけれど、どこかしっくりこない。しっくりこないのは、ほとんどの人が「日向ぼこ」それ自体を、自己目的とすることがないからだろう。たとえば夏に太陽の下に出て肌を焼くというのなら自己目的だけれど、「日向ぼこ」にはそういうところがないようだ。昔の縁側で縫い物などをしている女性をよく見かけたが、彼女には縫い物が主なのであって、暖かい場所にいること自体は付随的な状態である。「さあ、日向ぼこをするぞ」と、さながら入浴でもするように目的化して、そこにいるのではないだろう。なるほど駅のベンチでも日が射しているところから席は埋まるが、そこに座ることが誰にとっても本当の目的ではない。すなわち「日向ぼこ」とは、主たる目的に付随した「ついでの行為」のようだ。その「ついでの行為」が、季語として確立しているのが面白い。掲句に従えば、傍目には暢気に見える「日向ぼこ」の人も、「まなうら(目裏)」では「火の海」を感じる人もいるというわけだ。たしかに冬の日の明るい場所で目を閉じると、瞼の裏に鮮烈な明るさを覚える。周辺に暗い場所が多いので、余計にそんな感じがする。が、それを形容して「火の海」と言うかどうかは、自身の精神的な状態によるだろう。「日向ぼこ」が必ずしも人をリラックスさせるものではないのだと、作者は言いたげである。久保田万太郎曰く「日なたぼっこ日向がいやになりにけり」。そりゃ、そうさ。「日向ぼこ」を自己目的化するからさ。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


November 22112001

 短日や盗化粧のタイピスト

                           日野草城

語は「短日」で冬。もう七十年も前の昭和初期の職場風景だ。このころの草城は、大阪海上火災保険に勤めていた。当時のタイピストは専門職として貴重であり、いわばキャリアウーマンの先駆け的存在だった。しかし、なにしろ昔は男社会だ。オフィスで働く女性も少なく、しかも男どもに互して働いたのだから、しっかりした気丈な女性像が浮かんでくる。あまり化粧っ気もなく、服装も地味だったろう。そんな女性が、仕事の合間に素早く「盗化粧(ぬすみげしょう)」をするのを、作者は偶然に見てしまった。つまり、タイピストに「女」を見てしまった。日暮れも近く、退社時間ももうすぐだ。会社が退けたら、誰かに会いに行くのだろうか。一瞬そんな詮索心もわきかけたが、ちょっと首をふって、作者も自分の仕事に戻った……。文字通りの事務的な雰囲気のなかで、瞬間「人間の生々しさ」が明滅したシーンを定着させたところに、作者の手柄がある。余計なことながら、国内の保険会社という仕事柄、女性が操作していたのは和文タイプではなかったろうか。となると、当時の最先端を行く事務機器だ。和文タイプの発明は大正期のことであり、それまでは銀行などでも、帳簿への記入はすべて筆書きだった。小林一三が、回想録に書いていたのを読んだことがある。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


November 23112001

 裂き燃やす絵本花咲爺冬

                           三橋敏雄

火だろう。落葉焚きだけが焚火ではない。昔は、不要になったガラクタ類は裏庭などで燃やして処分した。ゴミの収集車が回ってきたのは、都会のごく一部でのことだ。作者はいま、子供が大きくなって振り向きもしなくなった本などを燃やしている。本をそのまま火の中に投げ込むと、なかなかうまく燃えてくれない。いつまでも、原形のままにくすぶりつづける。だから「裂き燃やす」必要があるのだ。が、どんな本であれ裂くのは辛い。よほど心を鬼にしないと、裂いたり破ったりすることはできない。ましてや「絵本」には、子供が幼かったころの思い出が染みついている。記念のアルバムを裂いて燃やすような心持ちだ。裂いた途端に、痛いものが胸を走り抜けただろう。「花咲爺」の絵本の表紙は、爺さんが桜の木の上で満面に笑みをたたえて灰をまいている絵に決まっている。そんな春爛漫の絵を思い切って裂き、火中にくべる。笑顔の爺さんは見るも無残に焼けていき、そして灰になっていく。そして作者は、この絵本の灰が、決して爺さんの灰のように奇跡を起こすことはないことを知っている。最後に唐突にぽつんと置かれた「冬」が、作者の胸のうちの荒涼たる思いを集約して、よく読者に伝えている。『まぼろしの鱶』(1966)所収。(清水哲男)


November 24112001

 薮巻やこどものこゑの裏山に

                           星野麥丘人

語は「薮巻(やぶまき)」で冬。雪折れを防ぐために、竹や樹木を筵(むしろ)などで包み、縄でぐるぐる巻きにしたもの。といっても、霜よけとか雪吊りのようにしっかりしたものではない。江戸期雪国のドキュメンタリー・鈴木牧之『北越雪譜』に、こうある。「庭樹は大小に随ひ、枝の曲ぐるべきは曲げて縛りつけ、椙(すぎ)丸太または竹を添へ杖となして、枝を強からしむ。雪折れを厭へばなり。冬草の類は菰筵をもつて覆ひ包む」。作者は、そんな作業をしているのか。あるいは、すっかり作業が終わった庭を眺めているのか。雪の来る日も間近い寒い季節だというのに、裏山からは元気に遊ぶ子供の声が聞こえてくる。その子供はまた昔の私でもあったわけだが、いまや寒空の下で駆け回る気力はない。「薮巻」を施された竹や樹のように、縮こまってこの冬を生きていくだろう。平仮名表記の「こどものこゑ」という柔らかさが、固く身を縮めた「薮巻」の風情と対照的で、よく効いている。裏山から子供らの声が、いまにも聞こえてきそうだ。それにしても、最近は「子供は風の子」という言葉を耳にしなくなった。いまの子供たちが将来この句を読んだとしても、句味がわからないかもしれない。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 25112001

 落葉してつばめグリルのフォークたち

                           大隅優子

式ばったレストランとは違って、庶民的な雰囲気のあるのが「グリル」だろう。銀座に本店のある「つばめグリル」は、創業70年を越えたという。ま、「洋食屋さん」ですね。メニューには「ハンブルグステーキ」なんて書いてある。句の様子からして本店でないことはわかるが、どこの店だろうか。窓外では「落葉」しきり、卓上には「フォークたち」、すなわちフォークとスプーンとナイフが、小さな篭状の入れ物のなかで、静かに銀色の輝きを湛えている。これらをまとめて「フォークたち」と詠んだのは、フォークが「つばめ」の羽根を連想させたからだろう。スプーンやナイフでは、とても「つばめ」のようには飛びそうもない。「落葉」の季節に「つばめ」を感じる……。他愛ない連想といえばそれまでだけれど、注文した料理を待っている間に、ふっとそんなことを空想できる作者の感受性がほほ笑ましい。よいセンスだ。作者は二十代。「つばめグリル」といえば十数年も前の新宿店で、友人四人とたわむれに約束したことがあった。十年後の同じ日に、おたがいがどんな境遇にあるとしても、生きていたら四人でここで会おう、と。が、十年後の当日近くになり、私は当時買いたてのMacに記憶させていたので思い出したのだが、あとの三人は覚えていなかった。もう、それぞれにすっかり疎遠になっていた。会わなかった。掲句を読んで、懐かしくも思い出された「つばめグリル」である。「俳句」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 26112001

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

い句ですね。無季ではあるけれど、この時代のいまの冬の季節にこそ、輝きを放つ句だと読める。テロ事件、報復戦争、それに加えて以前からの慢性的な不況、それに伴う失業者の増加。さらには陰惨な犯罪の多発など、どれをとっても、いまが人類の盛りなどとは、とうてい誰も思うまい。このときに「人類の旬(しゅん)」とはいつごろだったろうかと思い巡らすのは、自然な心の成り行きだろう。作者はそれを「土偶」の姿から縄文期に見たのであり、言われてみればそうかもしれないと納得できる。数多く出土しているこの泥人形たちの多くは、女性像である。それこそ「おっぱい」があるのでわかるわけだが、ではなぜ女性像なのかについては諸説があるようだ。が、なかでほぼ共通して見える解釈に呪術性との関連があり、これには素直にうなずけた。縄文人にだって知識も教養もあったが、男はもちろん当の女性にしてからが、妊娠出産の不思議さには呆然としていたに違いないからだ。妊娠姿の「土偶」もある。畏れの念がわくのも、ごく自然のことだったろう。で、女性像を人形に作るにあたってのいちばんの留意点は、誰が見ても女性とわかるところにあったはずだ。すなわち、女性の女性たる所以を形にすることである。それが「おっぱい」だった。初期の人形には、顔も手足もない。省略されたのではなく、女性を表現するのに、そんなものは必要がなかったからだろう。憶測にはなるが、縄文人には女性らしい顔つきや手足、さらには物腰などという物差しが無かったのだと思う。作者の言うように、女性像を乳房に集約できた時代は、たしかに「人類の旬」と言ってもよいのではあるまいか。「土偶のおっぱい」は、なるほど実に凛乎として見える。「俳句研究」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 27112001

 なが性の炭うつくしくならべつぐ

                           長谷川素逝

事をするにつけても、人の「性(さが)」は表われる。手際の良し悪し、上手か下手かも表われる。「炭」をつぐ行為などは、その最たるものの一つだった。でも、機器にスイッチを入れるだけの現代の暮らしの中にだって、その気になって観察すれば「性」の表われは認められる。ただ昔の生活では「炭」つぎのように、本来の目的に至るまでのプロセスが露(あらわ)にならざるを得なかったときには、そこに美学の発生しやすい環境があった。「なが」は「汝が」であり、女性を指している。妻だろう。連れ添ってこのかた、いつも冬になると、炭を「うつくしくならべつぐ」妻に感心している。しかし、どうかすると、あまりにも「うつくしくならべ」すぎるのではないのかと、彼女の神経質なところが気にもなっている。むしろ無造作を好む私には、そんな作者の微妙な心の揺れ、複雑なニュアンスが感じられる。讃めているだけではないような気がする。だからことさらに「性」と言い、きちょうめんな妻の性質や気質を強調しているのではあるまいか。私は、乱雑に炭がつがれていく状態のほうが好きだ。見た目にも暖かさが感じられるし、実際にもそのほうが炭と炭との間に空気が入り込むからよく熾(おこ)るので、暖かい理屈だ。もっとも、家計を考えれば熾りすぎるので不経済きわまりない。寒くなりはじめると、途端に炭の値段が上がった。そこで、良妻としては「うつくしくならべつぐ」ことにより、節約をしているのかもしれない。ま、これはあながち冗談とも言えない話なのだが、掲句の女性の場合には、そこまで考えての行為ではないと素直に受け取っておこう。そうでないと、せっかくの句が壊れてしまう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 28112001

 路上に蜜柑轢かれて今日をつつがなし

                           原子公平

刻。車に轢(ひ)かれた「蜜柑」が、路上にぐしゃりと貼り付いていた。飛び散った果汁の黒いしみも、見えている。そこで作者は今日の自分を「つつがなし」、何事もなく無事でよかったと感じたというのである。健康な人であれば、日常が「つつがなく」過ぎていくのが普通のことだから、毎日その日を振り返って「つつがなし」と安心したりはしない。ただ、こんな場面に偶然に出くわすと、あらためて我が身の息災を思うことはある。そういうことを、寸感として述べた句だろう。しかし、もしも轢かれているのが猫や犬だったとしたら、こうはいくまい。作者は自分の息災を思うよりも前に、同じ動物として、轢死した猫や犬の痛みを我が身に引き込んでしまうからだ。ああ、あんなふうにならなくてよかった。とは、とても思えないし、思わない。掲句を眺めていると、自然にそういう思いにもとらわれてしまう。それと「つつがなし」という思いは、絶対的な根拠からではなく、相対的な視点から出てくることがよくわかる。もとより、作者はそんなことを言っているわけではないのだが、そういうことも思わせてしまうところが、俳句の俳句たる所以の一つであろうか。読者諸兄姉には、本日も「つつがなく」あられますように。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


November 29112001

 長き夜やあなおもしろの腹話術

                           中村哮夫

語は「長き夜(夜長)」。実際に夜が最も長いのは冬至のころだが、季語としては秋に分類されている。夏の短夜の後なので、めっきり夜が長くなったと感じられる気分を尊重した分類だ。さて、掲句は寄席かキャバレーか、あるいは何かの集いでの即吟だろう。「腹話術」を、心底楽しいと賛嘆している。「長き夜」を過ごすには、絶好の芸ではないかと……。私はへそ曲がりだから、べつに「腹話術」じゃなくたって、落語もあれば漫才もあるだろうにと思い、句のどこに「腹話術」の必然性があるのかと真意を訝った。しばらく考えての結論は、こうだ。「腹話術」一般は、技術的には簡単な芸に属する。人形を操るのは難しいが、少しくらいなら「術」は誰にでもできる。できるから、仕組みを知っているから、見るときには誰もがちらちらと腹話術師の口元に注目し、意地悪くも失敗のかけらを見定めようとする。手品師を見るのと、同じ目つきになる。そこで作者が言うのは、そんなふうにして見るのは楽しくないじゃないか、「腹話術」には子供のように不思議だなあと思ってこその楽しさがある。どうせ、「長き夜」なのだ。演者のあら探しなんぞにかまけるよりも、ゆったりと騙されているほうがよほど心地よい。そんな気持ちになると、ほんとうに「あなおもしろし」ですぞ。と、これはベテラン演出家である作者の「芸を楽しむ心得第一条」のような句だと思えてくる。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


November 30112001

 しかるべく煮えて独りの牡丹鍋

                           飯島晴子

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。「猪鍋(ししなべ)」とも言い、猪の肉と野菜を煮込む味噌仕立ての鍋料理だ。これを「牡丹鍋」と言うのは、「牡丹に唐獅子」の「獅子」の発音に引っかけてある。まるで判じ物だ。さて、私にも覚えがあるが、独りで食べる鍋料理ほど侘(わび)しいものは、めったにあるものではない。何人かで、にぎやかに食べてこその鍋物である。そもそも鍋料理の発想が、そのことを前提としている。すなわち、鍋を囲む人たちも御馳走のうちというわけだ。それを、これから作者は独りで食べようとしている。鍋を据えたとたんから、もう侘しさを感じはじめていただろう。そこで句の勝負どころは、誰もが感じるこうした独りの侘しさを、いかに独自の発想でまとめあげるかということになる。「独りの牡丹鍋」と言うだけで、侘しい気分は十二分に露出してしまう。追い討ちをかけるように、それこそ「侘しい」などという言葉を折り込んだら、煮えすぎた鍋のように食えたものではあるまい。で、苦吟一番、「しかるべく」とひねりだした。周囲に誰もいなくても、煮えてくる状態は、みんなで囲んでいるときと同じであると……。いつもと同じ鍋の活気を詠むことで、対照的に作者の侘しい気持ちが句に極まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)




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