VH句

April 2242002

 陽炎や荷台の犬の遠ざかる

                           古澤千秋

語は「陽炎(かげろう)」で春。軽トラックの「荷台」だろうか。私の好みでは昔のオート三輪あたりのそれがふさわしいと思えたが、とにかく「犬」がちょこんと乗っているのだ。この場合、荷台には他の荷物が何も無いほうが良い。引っ越し荷物の隙間などに犬がいるよりは、空っぽの荷台に大人しくうずくまっているほうが「あれっ」と不思議を感じさせられるからだ。運転している飼い主が乗せたのだろうけれど、どう見ても引っ越しではなさそうだし、となれば、何故犬が荷台に乗っているのか。目撃してそう思った次の瞬間には、もう車は発進してしまい、車も犬もゆらめく陽炎のなかに溶けるようにして遠ざかって行った。白日夢と言うと大袈裟になるが、なんだかそれに近い印象を受ける。こういう句を読むと、つくづく「俳句なんだなあ」と思う。こういうことは会話で伝えることも難しいし、散文でもよほどの描写力がないと伝わらないだろう。つまり、ナンセンスを伝えようとするときの困難なハードルを、俳句様式は楽々と越えてしまえるというわけだ。かくのごとき些事を良く伝え、しかも読者にしっかりとイメージづけてしまうところが凄い。むろん、これらのことをよく承知している作者の腕の冴えがあっての上の話だが……。ちなみに、陽炎は英語で「heat haze」と言うようだ。直訳すると「熱靄」かな。英語のほうが理屈的にはより正しいのだろうが、感覚的には「陽炎」の命名のほうがしっくりとくる。俳誌「ににん」(2002年春号・vol.6)所載。(清水哲男)


July 2872002

 腰の鎖じゃらじゃら鳴らしラムネ飲む

                           古澤千秋

語は「ラムネ」で夏。日常的な飲み物ではないが、祭や観光地に出かけると、ふっと飲みたくなったりする。私などちっとも美味くないとは思うけれど、遊び心にマッチした飲み物ではあるだろう。しかし、句の様子からすると、主人公は遊び心で飲み、ひとりでに「腰の鎖」が「じゃらじゃら」鳴っているのではない。「鳴らし」とあるからには、故意である。すなわち、演技的に鳴らしているのだ。そもそも腰に鎖をつけること自体が、演技的である。では、なぜ鳴らしているのか。大づかみに、二つ考えられる。一つは、これみよがしに自分の存在を誇示しているケース。もう一つは、自分のなかに倦怠感など鬱屈したものがあって、苛立ちを身体で表現しているケースだ。そのどちらであるかは、句からだけでは第三者にわかりっこない。けれど、飲んでいる人は女性だから、たいがいの男にはコケティッシュに写るにちがいないと思った。なかなか「いいじゃん」と、少なくとも私には写る。何がいいのかと聞かれても困るのだが、「じゃらじゃら」の響きにはどこか崩れた調子、投げやりな感じがあって、そういうところに他愛なく惹かれるのが、おおかたの男というものだろう。ただし、鳴らしすぎては逆効果になることもあるから難しい。過度になると「甘ったれんじゃねえ」みたいな反応も起きてくる。実際に鳴らしている人は、そんなことには無関心かもしれないが、作句者の立場からはそのへんを十分に意識してのことだろうと思われた。「じゃらじゃら」は「チャラチャラ」にも通じ、両方とも好みの表現だが、実際にいざ俳句で使うとなると、想像以上に難しいんだろうなあ……。そんなことを、チャラチャラと思って遊んでいる日曜日です。俳誌「ににん」(2002年夏号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます