April 252002
帆に遠く赤子をおろす蓬かな飴山 實季語は「蓬(よもぎ)」で春。海の見える小高い丘に立てば、遠くに白帆が浮かんでいる。やわらかい春の陽光を反射して、きらきらと光っている水面。気持ちの良い光景だ。作者はここで大きく背伸びでもしたいと思ったのか、あるいは腕のなかの「赤子」の重さからちょっと解放されたかったのかもしれない。たぶん、赤ん坊はよく眠っているのだろう。あんなにちっぽけでも、重心の定まらない赤ん坊を長時間抱っこしていると、あれでなかなかに重いのである。手がしびれそうになる。「おろす」のにどこか適当な場所はないかと見回してみても、ベンチなどは置いてない。そこで、やわらかそうに群生している「蓬」の上に、そおっとおろしてみた。このときに作者の目は、白帆の浮かぶ海からすうっと離れて、視野は濃緑色のカーペットみたいな蓬で満たされる。この視線の移動から、どこにも書かれてはいないけれど、父親としての作者の仕草がよくわかる。そっとかがみこんで、いとしい者を大切に扱っている様子が、読者の目に見えてくる。蓬独特の香りも、作者の鼻をツンとついたことだろう。蓬に寝かされた赤ん坊は、まだすやすやと気持ち良さそうに眠っている。やさしい風が吹いている。『少長集』(1971)所収。(清水哲男) April 242002 総金歯の美少女のごとき春夕焼高山れおな季語は「春夕焼」。単に夕焼といえば、盛んに見られる夏の季語だ。夕焼は四季を問わずに出現するが、春の夕焼は柔らかな感じがするので、他の季節のそれとは区別してきた。で、この一般的なイメージに逆らっているのが、掲句。「よく見てご覧。そんなにうっとりと見つめられるような現象でもないよ」と、言っている。例えれば色白の「美少女」の柔らかい頬が少しゆるんで、にいっと「総金歯」が剥き出しになっているようじゃないか。そんな不気味なまがまがしさを含んだものとして、作者には見えている。なんともおっかない感受性だが、この句を知ってしまった以上、次に春夕焼を見るときにはどうしても総金歯にとらわれることになる。どのあたりが金歯なんだろうかと、じいっと見つめることになる。でも、この句を好きになれる人は少ないでしょうね。私も同様です。が、春の夕焼を固定観念でなんとなく見ている私などには、反省を強いられる句であることも確かだ。自分の感受性くらい自分で磨けと言った詩人がいたけれど、俳句を考えるときには季語の固定観念に引きずられて、どうも自分の感受性をないがしろにしてしまうところがある。読者に受け入れられようがどうしようが、固定観念では押さえきれない異物感があるのなら、金歯でもなんでも持ちだしてみることは、自分にとって大切なことなのだ。殊勝にも、そんなことを思わされた一句なのでした。蛇足。実際に、総金歯の人に会ったことがある。口の中に財産を貯め込む発想に、うっとりしていた変なおじさんだったけど。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男) April 232002 囀りや少女は走る三塁へつぶやく堂やんま季
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