2002N6句

June 0162002

 モンローの忘れ睫の美女柳

                           杉本京子

美女柳
語は「美女柳(びじょやなぎ)」で夏。正式名は「未央柳(びようやなぎ)」だが、転じて「美容柳」となり、また転じて「美女柳」となった。我が家の近所にもあって、黄色い花を枝先に開き、たくさんの雄しべが花弁の外に金糸の穂のように伸びている姿が美しい。その金糸の穂を指して、作者は「(マリリン・)モンロー」の「睫(まつげ)」に見立てている。「忘れ睫」は造語だろうが、たとえば「忘れ花」「忘れ霜」と同じ用法。忘れていたものが蘇ってきたということで、美女柳を見てモンローが蘇ってきたというわけだ。言われてみれば、なるほどね。少しカールのかかった雄しべの様子は、女性の長い睫のように見えてくる。それも、付け睫でしょう。こんな派手というか豪奢な付け睫が似合うのは、いろいろな女優を思い浮かべてみても、モンロー以外にはいないような気がする。身体のすべての造作が派手で、目立つ人だった。なお、今日6月1日は彼女の誕生日。それにしても、美女柳からモンローの睫を連想する想像力は、女性ならでは……。男だと、とてもモンローの睫にまでは思いがいたらない。女性が同性を意識して見る所と、男が異性を見る所とではかなり違うようだ。日常的に化粧をする性と化粧しない性との差異は、こんなところにもひょっこり顔を出してくる。面白いものです。私がはじめてモンロー映画を見たのは、忘れもしない「福生セントラル」での『ナイアガラ』だった。例のモンロー・ウォークに圧倒されて、とてもじゃないが睫までは意識が届くどころではなかった。いま見ても……きっとそうでしょう。写真は、鈴木志郎康さん撮影(1998年6月8日付「曲腰徒歩新聞」)。『赤富士』(2002)所収。(清水哲男)


June 0262002

 夏蓬ふぁうる・ふらいを兄が追い

                           中烏健二

語は「夏蓬(なつよもぎ)」。蓬餅にするころの蓬はやわらかくて可愛げがあるが、成長した蓬には荒々しい感じすら受ける。夏には丈が一メートルほどにも伸びるものがあり、引っこ抜こうにも根が頑強で始末におえない。「さながらに河原蓬は木となりぬ」(中村草田男)。となれば、句の情景は典型的な草野球だ。ここで、注目すべきは「ファウル・フライ」ではなく「ふぁうる・ふらい」の平仮名表記。夏蓬に足を取られてたどたどしく追いかける「兄」の姿を、直接的にではなく間接的に見事に表現しえている。フライそのものもひょろひょろっと上がったのだろうが、兄の様子もひょろひょろしていて心もとない。たしかに夏蓬は群生しており、兄の頼りなさも多くそのせいではあるのだが、なんだか兄のとても弱くて脆い面、見てはいけない姿を見てしまったような気分なのだ。整備されたグラウンドでは、いかにひょろひょろしようとも、平仮名表記にはならないだろう。そんな頼りない兄の姿は、まず日頃の生活ではお目にかかれない。他人であれば句にならない場面を、こうして書き留める作者には、おそらく近親憎悪の心も働いているのではあるまいか。すらっと読めばほほ笑ましいようなシーンだけれど、私にはこんなふうに思えてならない。草野球にも、さまざまな心理の綾が飛び交っている。『愛のフランケンシュタイン』(1989)所収。(清水哲男)


June 0362002

 短夜や拗ねし女に投げし匙

                           中村哮夫

語は「短夜」で夏。作者はミュージカルの演出家だから、稽古の情景だろう。厳しい注文を付けているうちに、女優が臍を曲げてしまった。女性が「拗(す)ね」ると、たいていは黙りこくってしまい、手に負えなくなる。なだめすかしてみても、だんまりを決め込んで、テコでも動かない。幕を開ける日まであとわずかしかないというのにと、作者は苛々している。ましてや、夜も短い。いたずらに無駄な時間が過ぎてゆくばかり。そこで、ついに「投げし匙(さじ)」となった。どうとも勝手にしろ。怒りが爆発した。その場に「匙」があったら、本当にぶつけかねないほどの苛立ちだ。といっても、むろん即吟であるはずはなく、そういうこともありきと懐かしく回想しているので、中身に救いがある。それにしても、この匙は奇妙なほどに生々しい。たぶん、それは私が男だからだろう。思い当たる匙の一本だからである。稽古中に物を投げるといえば、若き日の(今でも、かな)蜷川幸雄の灰皿投げが有名だ。本当に投げたのかと、ご当人に聞いてみたことがある。「野球で鍛えたからね、コントロールには自信があった」。つまり、投げたのは事実だが、ちゃんと正確に的を外して投げたということ。口直しに(笑)、同じ作者の上機嫌な句を。「夏空やいでたち白き松たか子」。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


June 0462002

 「武蔵」読むに武蔵の目つき花蜜柑

                           五味 靖

語は「花蜜柑(蜜柑の花)」で夏。作者、二十代の句。読んでいる「武蔵」は、吉川英治の『宮本武蔵』だろう。かつて一世を風靡した傑作で、徳川夢声のラジオでの朗読も人気があった。数多く映画化もされており、なかで内田吐夢が中村錦之助で撮った一連の作品が、私は好きだった。それこそ映画を見ていると、だんだん主人公に同化していくように、言われてみればたしかに読書でもそういうことが起きてくる。小休止でページから目を離し、遠く窓外を見やれば白い蜜柑の花の花盛りだ。見慣れた風景ではあるが、いつもとは違うように見える。それも道理で、自分の「目つき」がすっかり昂然たる武蔵のそれになっているからだと気がついた。句を分解すればそういう仕組みだろうけれど、むしろ丸のみにして味わうほうが良さそうだ。真剣に本の世界に没入している若者がいて、その若者を蜜柑の花の白色と芳香とが包み込んでいる。まことに、青春は美わしではないか。私にも、このような時期があった。それを掲句が遠望させ、ほとんど羨望の念で若き日のおのれを回想させる……。君知るや、この苦き心の切なさを。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


June 0562002

 瞼閉じ荒き息する雀の子

                           宮田祥子

語は「雀の子」で春。雀の卵は春から夏にかけて孵化するので、夏季としても差し支えあるまい。卵から独立して飛べるようになるまでに、二ヶ月弱はかかるというから、一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」などの姿は、むしろ夏の子雀のものである。少し大きくなってくると、子雀はよく跳ねて巣から落下する。句は、そんな子雀を拾っててのひらに乗せている図だと思う。私にも覚えがあるが、眺めていると可愛いというよりも、生命そのものの不思議を感じさせられてしまう。消え入りそうにちっぽけな体なのに、瞼をしっかりと閉じ、想像以上に荒い呼吸をしている。ちょうど、人の赤ん坊が高熱を発したときのような感じだ。生命の力強さが、ちっぽけな体いっぱいにふつふつと涌いている様子は不思議であると同時に、よくわからない何か尊いものに触れているような感じすら受ける。作者は見たままをそのままに詠んでいるだけだが、「瞼閉じ荒き息する」のそのままの描写は、生々しいがゆえに、読者の連想を単なるその場の情景から遠くに連れていく力を持っている。私はたまたま子雀を拾ったことがあるので、上記のように感じたわけだが、拾ったことのない読者の心のうちには、また別の生命への感慨が去来することだろう。そのまんま俳句、おそるべし。『福寿草』(2001)所収。(清水哲男)


June 0662002

 扇置く自力にかぎりありにけり

                           上田五千石

語は「扇(おうぎ)」で夏。中国の団扇(うちわ)に対して、平安時代はじめに日本で考案されたのだそうだ。さすがと言おうかやはりと言おうか、コンパクト化の得意な國ならではの発明品である。それはともかく、掲句は「自力」に「かぎり(限り)」のあることを、さしたる重さを感じさせない扇を媒介にして言ったところが面白い。字句通りにすらりと理解すれば、作者は「扇置く」ときに、いささかの重さを感じて、その重さから自分の持てる力の限界を連想したことになる。扇ならまだ楽々と持ったり置いたりすることはできるけれど、他方、自力ではどうにもならない重いものが存在することに素早く思いがいたり、すなわち人の力には限界ありと納得したのだ。むろん、このように読んでよい。ちゃんと、そう書いてあるのだから。しかし私には、句がもっと別のことを言っているように写る。むしろ、反対に近いことを言っているのではあるまいか。つまり、作者は扇を扱う以前に、たぶん精神的な「かぎり」に追いつめられるような状態があって、そこでたまたま扇を置いたときに閃いた句ではないのだろうか。自力の「かぎり」に懐疑的なままで、一応の自己説得のために「ありにけり」の断定を置いてみたという感じ。前者と読めば、句の中身はさながら格言のようにふっきれる。後者だと、たかが扇を置くくらいではふっきれない何かが依然として残る。「自力」の可能性を前者のようにすぱりと割り切られては困るという、私のへそ曲がり的な読みにすぎないのかもしれないけれど。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


June 0762002

 田一枚植て立去る柳かな

                           松尾芭蕉

遊行柳
語は「田植」で夏。近着の詩誌「midnight press」(No.16 2002年夏)の「ポエトリイ・コミック」(長谷邦夫)が、この句を取り上げていた。テーマは、句の主格は誰なのか……。昔からこの論議はかまびすしく、主格早乙女説、芭蕉説、はたまた柳説とにぎやかだ。なかには山本健吉のように、植えたのは早乙女で、立去ったのは芭蕉だと、主格を二つに分けた説もある。長谷さんは、平井照敏がこの柳の精が翁の姿で現れる能『遊行柳』を根拠とした柳(の精)説を支持している。いずれにも読めるが、私も柳説だ。ただし、根拠は少し違う。そもそも芭蕉がこの柳を目指したのは、私淑していた西行にこの柳を詠んだ歌があったからだ(『奥の細道』参照)。憧れの柳だったのである。その柳をいま眼前にして、感激の余韻のうちにすっと句が成った。このときに、私の着眼点は「田一枚植(うえ)て」にある。あまり鮮明ではないが、写真(栃木県那須町HPより・中央が遊行柳)に見られるように、芭蕉の昔から周辺には田が何枚もあった。通常の田植で一枚だけ植えて立ち去る手順などはありえないから、芭蕉が現実に見たとすれば、最後の一枚という理屈だ。が、最後の一枚を言うときに「田一枚」とはいかにも不自然である。したがって、現実の田植ではない。私は、芭蕉の前にはまだ一枚も植えられていない田圃が広がっていたのだと思う。しかし、やっと西行ゆかりの柳の陰に立つことのできた芭蕉の興奮が、しばし白日夢のように展開し、柳(の精)が彼を歓迎するかのように「田一枚」を植えてみせる情景が浮かんだのだ。この幻想は、先の能から来たものとも考えられる。しばらくして放心状態から醒めてみれば、柳はただの柳であり、涼しげに風に吹かれているばかり。それにしても、私の知るかぎり「田一枚」にこだわった解釈にはお目にかかったことがない。不思議なこともあればあるもの。(清水哲男)


June 0862002

 夜の雲やラムネの玉は壜の中

                           真鍋呉夫

語は「ラムネ」で夏。一読、漠然たる不安な感じに誘われた。月が出ているのだろう。いくつもの雲の端のほうが、月光を反射して少し明るくなっている。濁った色合いの雲だ。それらの雲が風に乗って移動していく様子を、作者は「ラムネ」を片手に眺めている。「夜の雲」ではなく「夜の雲や」というのだから、そんな雲に心を引かれていることがわかる。では、どのように引かれているのか。それが中七下五句で明らかにされ、明らかにされると同時に不安感が立ち上るという仕組みだ。さて「ラムネの玉」もまた、いささかの濁った色合いを持っている。決して、透明ではない。しかも半透明の「壜(びん)の中」にあるので、なおさらに濁りを帯びて見える。雲の色は天然自然の濁りであり、ひるがえってラムネの玉のそれは人工の濁りだ。このときに作者は、自分がまるで瓶の中の玉のようだと感じたのだと思う。いかに純粋を希求してもついに透明にはなることは適わず、濁りを帯びたままの存在であるしかないのだ、と。しかもその濁りは、夜の雲のように天然自然に発したものではなく、あくまでも人工的なそれでしかない。こう読むと、壜は文明社会を暗示しており、玉は好むと好まざるとに関わらず文明社会に取り込まれた人間存在の比喩となるだろう。そこでもう一度上五に戻ると、すっかりラムネの玉と化した自分が、夜の雲を見上げている気持ちにさせられる。不安感は、私自身のラムネの玉化によるものと思われる。『眞鍋呉夫句集』(2002・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


June 0962002

 日曜はすぐ昼となる豆の飯

                           角 光雄

語は「豆の飯(豆飯)」で夏。会社勤めの人ならば、ほとんどの人が共感を覚える句だろう。日曜日はいささかの朝寝をすることもあるけれど、実際すぐに昼が来てしまう。昨晩までは、あれもしようこれもしようなどと思っていたのに……。一見、小学生にでも詠めそうな句だ。が、そうはいかないのが「豆の飯」と結んだところ。昼食に旬の豆飯とは、ちょっとしたご馳走である。目へのご馳走、そしてもとより舌へのご馳走。日頃は味気ない外食を強いられている夫への、妻のささやかな心尽くしなのだ。作者は「おっ、もうこんな季節か」と嬉しく感じ、しかし同時に、自分が無為に過ごした午前中の時間を、妻が手間のかかる豆飯のために時間を上手に使ったことに思いが及んでいる。焦りとまではいかないのかもしれないが、なんとなく自分が怠惰に思えた一瞬でもある。豆の緑に真っ白い飯の鮮やかな対照が、ことさらに目に沁みる。私もサラリーマンと似たような日々を送っているので、この句は心に沁みた。そしてさらに、うかうかしていると明るい時間は瞬く間に過ぎてしまい、あっという間にテレビの「サザエさん」タイムがやってきて、明日の仕事のことなどをちらちらと思いはじめるのだ。哀しきサガと言うなかれ。でも、やっぱり哀しいのかな……。『現代秀句選集』(1998・別冊「俳句」)所載。(清水哲男)


June 1062002

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

                           角川源義

語は「花桐(桐の花)」で夏。もう、北国でも散ってしまったろうか。遠望すると、ぼおっと薄紫色にけむっているような花の様子が美しい。そんな風景のなかを、少女が手提(てさげ・バッグ)の留め金をパチンと鳴らして快活に通り過ぎていった。このときに少女は、作者とは違い花桐などになんらの関心も示していないようだ。それが、また良い。関心を示したとすれば、句の空気がべたついてしまう。まさに、清新な夏来たるの感あり。それも、優しくやわらかく、そして生き生きと……。句はこれだけのことを伝えているのだから、こう読んで差し支えないわけだが、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)に作句時の背景が書かれており、それを読むと、さらに清新の気が高まる。「白河の関を過ぎたときの句。だから、古人が冠を正し、衣裳を改めて関を越えたことも思い出されているのであって、その昔に対比して、ハンドバッグの止金を鳴らしながら颯爽と過ぎてゆく現代の無心の少女の様が、作者の心に残るのである」。ちなみに、白河の関は古代奥州の南の関門。福島県白河市旗宿(はたじゅく)所在。『神々の宴』(1969)所収。(清水哲男)


June 1162002

 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

                           飯田龍太

語は「みどり(緑)」で夏。「新緑」は初夏だが、「緑」は夏たけてくる頃の木々の葉の様子だ。安東次男の『六月のみどりの夜わ』(「わ」は誤記に非ず、為念)という詩集を若き日に読んだ印象が強烈なせいか、「みどりの夜」というと、私はいつも蒸し暑い六月の夜を思ってしまう。それでなくとも暑いのに、繁った青葉が夜の闇のなかにこんもりと沈んでいるとなれば、そこから大気が生暖かく湿ってくるようで、余計に蒸し暑さを感じさせられる。そこに、サラサラっと乾いた「塩ふる音」がする。かそけくも心地よい音だ。子供の小さな皿だから、ほんの少量の塩をふりかけただけだろう。が、その音が聞こえるほどの静かな夜なのであり、これもまた「みどりの夜」ならではの感興であると、作者には思えた。少しく大袈裟に句の構図を描いておけば、蒸し暑さを疎んじる心がすうっと消えて、むしろ周辺の「みどりの夜」は、家族とともにある作者を優しく包み込んでくれている存在だと、そちらのほうに心が移行していくきっかけを詠んでいるのだろう。蛇足ながら、昔の「塩壺」の塩をふっても、とくにこの季節には、このように乾いた音はしない。私が子供だった頃の塩は、いつだって塩壺に湿ってたっけ。『忘音』(1968)所収。(清水哲男)


June 1262002

 物指をもつて遊ぶ子梅雨の宿

                           星野立子

のために表に出られない旅館の子が、帳場のあたりでひとりで遊んでいる。それも子供らしい遊び道具でではなく、「物指(ものさし)」を持って遊んでいるところへの着目が面白い。男の子だったら、物指を刀に擬してのチャンバラの真似事だろうか。宿の様子については何も描写はされていないけれど、子供と物指との取りあわせが宿全体の雰囲気を雄弁に語っている。観光地にあるような大きな旅館ではなく、経営者の家族の住まいも片隅にある小さな宿であることが知れる。それも満室ではなく、閑散としている。もしかすると、他に泊まり客はいないのかもしれない。作者は出そびれて無聊をかこち、子供はそれなりの遊びに無心に没頭していて、さて表の雨はいっこうに止む気配もない。そんな雨の降りようまでが感じ取れる。うっとおしいと言うよりも、今日はもう出かけるのをあきらめようと思い決めた作者の気持ちが、じわりと伝わってくるような句だ。子供がいる宿には何度か泊まったことがあるが、店主の子供が出入りする町の食堂などと同じように、そういうところの子供には不思議な存在感がある。あちらはごく普通の生活空間として動き回り、こちらは非日常空間として受け止めるからなのだろう。その昔香港の食堂で、大きな飼い犬までが出てきたときには、さすがにまいった。『続立子句集第二』(1947)所収。(清水哲男)


June 1362002

 空港の別れその後のソーダ水

                           泉田秋硯

語は「ソーダ水」で夏。句を読んですぐに思い出したのが、いろいろな歳時記に載っている成瀬櫻桃子の「空港のかかる別れのソーダ水」だ。空港の喫茶室でくつろぐ人はいないから、メニューにもあまり上等な飲み物は並んでいない。客にしても飲み物を味わうというよりは、場所取りのために何かを注文するのであって、このときに安価で長持ちのする「ソーダ水」などが手頃ということだろう。さて掲句だが、空港に見送りに行くくらいだから、その人とは別れがたい思いで別れたのだ。今度は、いつ会えるのか。もしかすると、二度と会えないかもしれない。すぐには空港を去りがたく、ちょっと放心したような思いで喫茶室に入り、ソーダ水を前にしている。むろん、ソーダ水を飲みたくて頼んだわけではない。櫻桃子句が別れの切なさを正面から押し出しているのに対して、泉硯句は切なさの後味をさりげなく表現してみせた。もしかするとパロディ句かもしれないが、現場のドラマを描かずになおよくドラマの芯を伝えているという意味で、とても洒落た方法のように思える。カッコウがよろしい。他のいろいろなドラマを詠むのにも応用できそうな方法だが、しかし、これは作者だけの、しかも一回限りの方法だ。頻発されれば、鼻白むばかり。一見地味な句に見えるけれど、この方法に思いがいたったときの作者の心の内は、それこそソーダ水のごとくに華やいだことだろう。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


June 1462002

 スリッパのまま誰ぞすててこ穿かんとす

                           大住日呂姿

語は「すててこ」で夏。命名は、明治期に三遊亭円遊が寄席で踊った「すててこ踊り」に由来するという。汗を吸い取ってくれる、だぶだぶの男物の下穿きだ。最近はズボンの線が崩れるとかで、穿(は)かない男が多い。最初に公然と「ダサい」と言ったのは、デビュー当時の加賀まりこだった。それはともかく、作者は「誰ぞ」ととぼけてはいるけれど、むろん自分だろう。よほどあわてていたのか、普段はこんなにおっちょこちょいではないのに、何故かなあと苦笑している。温泉場などでは、よくやってしまいそうな失敗だ。作者の本意はこれまでだろうが、私は笑ったと同時に、笑ってすまされないものも感じてしまった。還暦くらいの年齢になってくると、この種のことをしばしば引き起こすようになるからだ。身体が自然に覚えているはずの手順が、ときとして狂ってくる。そのたびに苦笑しながらも、だんだん笑い事でもなくなってくるのだ。そこで、あらかじめ手順を頭の中で組み立てて反芻しながら、いかにも自然を装いつつ行動に移す。温泉場なら、すててこを穿いてからスリッパを履き、穿いたら使ったタオルなどをきちんとして……。こういう手順をあらかじめ想定しておかないと、何かをやらかしたり忘れたりしてしまう。もちろん一事が万事ではないが、こういうことが徐々に増えてくる。そんな自分を思いつつもう一度掲句を読むと、「誰ぞ」はまぎれもなく「私」であることになる。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


June 1562002

 六月の女すわれる荒筵

                           石田波郷

者が実際に見た光景は、次のようだった。「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉(おもだか)がわずかに女を飾っていた」(波郷百句)。「壁も天井もない」とは、ちゃんとしたそれらがないということで、四囲も天井もそれこそ荒筵(あらむしろ)で覆っただけの掘っ立て小屋だろう。焼け跡には、こうした「住居」が点在していた。女が「六月」の蒸し暑さに堪えかねたのか、壁代わりの筵が一枚めくり上げられていて、室内が見えた。もはや欲も得もなく、疲労困ぱいした若い女が呆然とへたり込んでいる。句の手柄は、あえて空缶の沢瀉を排して、抒情性とはすっぱり手を切ったところにある。句に抒情を持ち込めば哀れの感は色濃くにじむのだろうが、それでは他人事に堕してしまう。この情景は、詠まれた一人の女のものではなく、作者を含めて焼け跡にあるすべての人間のものなのだ。哀れなどの情感をはるかに通り越したすさまじい絶望感飢餓感を、荒筵にぺたんと座り込んだ女に託して詠みきっている。焼け跡でではなかったけれど、戦後の我が家は畳が買えず、床に荒筵を敷いて暮らしていた。あの筵の触感を知っている読者ならば、いまでも胸が疼くだろう。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)


June 1662002

 国あげてひがし日傘をさしゆけり

                           大井恒行

くは、わからない。が、ずうっと気になっていた句。漠然とした理解では、「国あげて」同じ一つの方向(ひがし)に日傘の行列が歩いていくということだろう。ぞろぞろと何かに魅入られたように、みなが炎天下を同じ方角を目指して歩いているイメージは、とても不気味だ。「国あげて」だから、一億の日傘の華が開かれている。「さしゆけり」ゆえ、もはや後戻りはできない行列である。すでに出発してしまった以上は、もう誰にも止めることはできない行進なのだ。では、何故「ひがし」なのか。「日出づる処の天子」の大昔より、この国の為政者にとって東方に位置することそれ自体が価値であり、プライドの源であった。たとえば明治節の式歌にも「アジアの東、日出づるところ、ひじり(聖)の君のあらはれ(現れ)まして、……」とあって、とにかく東方は特別な方角なのだ。逆に西方には十万億土があるわけで、こちらは死後の世界だから暢気に日傘などさして行ける方角ではないだろう。つまり掲句は、国民があげて無自覚に一つの方向に引きずられていく状況を、比喩的に語っている……。ただ、よくわからないのは「ひがし」の用法だ。「ひがし」は「東」であるとしても、「ひがし『へ』」とは書いてない。もしも、この「ひがし」が方角を表していないのだとすれば、私の漠然たる理解も完全に吹っ飛んでしまう。何故、中ぶらりんに「ひがし」と吊るしてあるのだろうか。ぜひとも、読者諸兄姉の見解をうかがいたいところだ。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)


June 1762002

 薔薇園一夫多妻の場を思ふ

                           飯田蛇笏

語は「薔薇(ばら)」で夏。句の「薔薇園」は「そうびえん」と読ませている。我が家からバスで十分ほどのところに神代植物公園があって、ここの薔薇園は有名だ。シンメトリックに設計された沈床式庭園に、約240品種5,000余本の薔薇が植えられている。たまに見に出かけるが、あまりの花の数に圧倒されて、いつも疲れてしまう。この句がどこの薔薇園を詠んだものかは知らないけれど、華麗なれどもいささか鬱陶しい感じを「一夫多妻」と言ったのだろう。蛇笏というと、冷静沈着にして生真面目な人格を連想してしまうが、こんなユーモラスな一面があったのかと嬉しくなった。たしかに薔薇園の薔薇は、互いに妍を競い芳香を競っているかのようだ。そういえば、薔薇の名前にはクレオパトラなどの女性名が多い。神代には、マリア・カラスなんて品種もあった。それにしても、人の想像力にはへんてこりんなところがありますね。私など薔薇に女性を感じてはいても、一夫多妻とまでは思いも及ばなかった。言われてみてはじめて、なるほどと感心するばかり。ちなみに、逆に薔薇を男だと言ったのは、たしかサトウ・ハチローだったと思う。うろ覚えだが、♪きれいな花にはトゲがある、きれいな男にゃ罠がある、知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ……と、男に騙された女を描いた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)


June 1862002

 蛇苺いつも葉っぱを見忘れる

                           池田澄子

語は「蛇苺(へびいちご)」で夏。おっしゃる通り。たまに蛇苺を見かけても、ついつい派手な実のほうに気をとられて、言われてみればなるほど、「葉っぱ」のほうは見てこなかった。こういうことは蛇苺にかぎらず、誰にでも何に対してでも日常的によく起きることだろう。木を見て森を見ず。そんなに大袈裟なことではないけれど、私たちの目はかなりいい加減なところがあるようで、ほんの一部分を認めるだけで満足してしまう。いや、本当はいい加減なのではなくて、目が全焦点カメラのように何にでも自動的にピントがあってしまつたら、大変なことになりそうだ。ものの三分とは目が開けていられないくらいに、疲れ切ってしまうにちがいない。その意味で、人の目は実によくできている器官だと思う。見ようとしない物は見えないのだから。それにしても、やはり葉っぱを見ないできたことは気になりますね。このあたりが、人心の綾の面白さ。ならば、一度じっくり見てやろうと、まことに地味な鬼灯の花にかがみこんだのは皆吉爽雨だった。「かがみ見る花ほほづきとその土と」。その気になったから「土」にまでピントがあったのである。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 1962002

 黒板に人間と書く桜桃忌

                           井上行夫

日は「桜桃忌(おうとうき)」。作家・太宰治が1948年(昭和二十三年)六月十三日に愛人と玉川上水に入水し、この日に遺体が発見された。以前にも書いたことだけれど、私はあまり○○忌という季語を好まない。故人の身内や親しかった人々の間で使うのは結構だが、突然○○忌と言われても季節との関係がピンとこないからだ。ただ、そんななかで桜桃忌は比較的人口に膾炙している忌日だろうから、まあ使ってもよいだろうなとは思っている。少なくとも、一般には虚子忌(四月八日)よりも知られているはずだ。さて、掲句の作者は教師だろう。桜桃忌に際して、生徒たちに大宰のことを話している。「黒板に人間と」書いたのは、おそらく小説『人間失格』を教えるためで、しかし「人間」と書いたところで手が止まったのだ。一瞬、自分で書いた「人間」という文字を眺め直して、絶句しそうな思いにとらわれたのにちがいない。「人間」とは、何だろう。そして、さらに「失格」とは……。とてもじゃないが、知ったふうに生徒たちに解説などできない自分という「人間」にも突き当たった。黒板の「人間」の二文字が、不可解な異物のように感じられた。深読みに過ぎたかもしれない。が、この黒板の「人間」の文字のひどく生々しい印象から、ごく自然にこう読めてしまったということだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


June 2062002

 夏掛やつかひつくさぬ運の上

                           安東次男

語は「夏掛(なつがけ)」、涼しげに仕立てられた夏蒲団。軽くて見た目には涼しそうでも、暑い夜にきちんと蒲団を掛けて寝るのはやはり寝苦しい。子供の頃に「いくら暑くても、お腹だけは冷やさないように」と躾けられ、いまだに習慣となってはいるが、ときとして掛けたくなくなる。そんなときに、この句は呪文かまじないのように使える。掛けないと、まだ使い切っていない「運」が逃げていってしまうとなれば、腹をこわすよりもよほど大問題だ。そこでいくら暑くても、「ナツガケヤツカヒツクサヌウンノウエ」と唱えながら掛けると、なんとなく納得したような気分になれる。俳句が、実生活に役立つとは露知らなかった。とまあ、半分は冗談だけれど、作者にしても自己納得の方便として「つかひつくさぬ運」を持ちだしているのは明白だ。もしかすると、作者ゆかりの地には、こんな迷信が言い伝えられているのかもしれない。そもそも「つかひつくさぬ運」という考え方自体が、迷信に通じているからだ。そして、言い伝えられているとしたら、やはり子供の躾のためだろう。それを、作者は大人になっても守りつづけていたと思うと微笑を誘われる。大の大人になっても、誰にでもこうした一面はあるものだと、むろん作者は意識的に書いている。『流』(1996・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


June 2162002

 自転車の少女把手より胡瓜立て

                           川崎展宏

語は「胡瓜(きゅうり)」で夏。「杭州五句」のうち、つまり中国旅行でのスケッチ句だ。自転車を走らせている少女が、片手に「把手(はしゅ)」(ハンドルの握り手)といっしょに胡瓜を一本「立て」て握っていた。噛りながら、走っているのだろう。ただそれだけのことながら、さっそうとして元気な異国の女の子の姿が浮かんでくる。句に、清々しい風が吹いている。そのまんま句の典型だけれど、よく撮れているスナップ写真と同じで、対象にピントがちゃんと合っているのだ。そのまんま句の難しさは、このピント合わせにある。ただ闇雲にそのまんまを詠んでも、ごたごたするばかり。失礼ながら、多くの旅行(とくに海外旅行)句のつまらなさは、季節感や生活感の違いなどということよりも、このごたごたに原因がある。あれもこれもと目移りがして、ピントがぼけてしまうのだ。詰め込みすぎるのである。人情としてはわかるけれど、句としてはわからなくなる。掲句のように、一見、なあんだと思われるくらいに焦点を絞り込むことが肝要だろう。偉そうに書いているが、たまに旅先で詠んだ拙作を読み返してみると、やはりほとんどが哀れにもごたついている。すなわち本日は、まっさきに自戒をこめての物言いなのでした。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


June 2262002

 向日葵の月に遊ぶや漁師達

                           前田普羅

語は「向日葵」で夏。若き日に、大正初期の九十九里浜で詠んだ句。ここは昔からイワシ漁の盛んな土地で、明治以後、二隻の船が沖合いでイワシ網を巻く揚繰(あぐり)網が取り入れられたが、砂浜に漁船を出し入れするのに多大の人力を要した。集落をあげて船を押し出す仕事を「おっぺし」と言い、1950年代までつづいたという。老若男女、みんなが働いていた時代だった。そんな労働から解放されて、集落全体にやすらぎの時が戻ってきた月夜に、なお元気な「漁師達」が浜で遊んでいる。酒でも酌み交わしているのか。「向日葵の月」とは、月光に照らされた向日葵が、また小さな月そのものでもあるかのように見えているということだろう。この措辞によって、現実の世界が幻想的なそれに切り替わっている。加藤まさおが書いた童謡「月の砂漠」の発想を得たのも九十九里浜だったそうだが、見渡すかぎりの砂浜と海にかかる月は、さぞや見事であるにちがいない。月と向日葵と漁師達。その光と影が力強い抒情を生んで、詠む者の胸に焼き付けられる。少年期の普羅はしばしば九十九里浜に遊んでおり、愛着の深い土地であった。臨終の床で「月出でゝかくかく照らす月見草」と詠み、死んだ。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


June 2362002

 人死して家毀たるる深みどり

                           河合照子

語は「みどり(緑)」で夏。新緑の候を過ぎて、夏も盛りに近い「深みどり」。「毀たるる」は「こぼたるる」で、取り壊されるの意。この「毀たるる」という古い言葉が、実によく効いている。近所の独り住まいの人が亡くなって、残った家はどうなるのかと思っていたら、取り壊しの工事がはじまった。あの家も、これで見納めか。見に行くと、あっけないほど簡単に家が崩れていった。すべてが他力で「壊さるる」というよりも、「毀たるる」には、どこかに自壊していくようなニュアンスがある。もはやふんばりが効かなくなって、みずからが崩れ落ちていくといった感じだ。この古い言葉から、家それ自体の古さも想像できる。精気溢れる「深みどり」のなかに、半ば自壊しつつ崩れ落ちていく家の姿は、人の世のはかなさを具現していて、まことに切ない。人は死んだら何もかもお終い、なのである。私は編集者だったことがあるから、いろいろな執筆者の家を知っている。いま住んでいる三鷹市の近所で言えば、金子光晴や吉田一穂のお宅には何回となくうかがった。一度だけだが、歌人の宮柊二邸にも。なかで、亡くなるとすぐに「毀たれた」のが一穂さんの家。いまや、どこらへんにあったのかすらもわからないほどに、周辺の景観も変わってしまっている。「清水よ、ションベンなら、そこでしろ」と、『海の聖母』の詩人が指さしたあのちっぽけな庭も毀たれたのだ。「俳句研究年鑑・2001」所載。(清水哲男)


June 2462002

 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂

                           夏目漱石

語は「蚊」で夏。「田原坂(たばるざか)」の解説は、電子百科事典にゆずる。「熊本県北部、鹿本(かもと)郡植木町田原地区にある三池往還の坂道。玉名平野に連なる木葉(このは)川流域の低地から、いわゆる肥後台地の西端に上る途中にある一の坂、二の坂、三の坂の総称。侵食谷であるため、標高のわりには曲折した急崖(きゅうがい)が随所にみられ、西南戦争(1877)では、この地形的特徴から官軍・薩(さつ)軍入り乱れての白兵戦の舞台となった。[(C)小学館]」。この歴史的事実を踏まえて読むと、漱石を刺した「蚊」の様子がよくうかがえる。蚊の種類や生態については何も知らないけれど、いわゆるヤブカに刺されたのだろう。あいつに刺されると、ひどく痛い。そこらへんの蚊と違って、痛さの上にずしんと重みが加わる。問答無用、物も言わずに「鳴きもせで」必殺の剣ならぬ必殺の針が「ぐさと」肉を刺し、ぐいと鋭くえぐる感じとでも言えばよいのか。この身を捨ててこその獰猛性が、漱石に田原坂での白兵戦を想起させたのだ。しかも、詠んだのが西南戦争から二十年しか経っていない頃だから、想起の中身はとても生々しかったはずだ。たまたま田原坂で、たかが蚊に刺されたくらいで大袈裟なと、笑い捨てるわけにはいかない凄みのある句だと思った。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 2562002

 我老いて柿の葉鮓の物語

                           阿波野青畝

語は「鮓(すし)」で夏。若い人たちのいる席で、いっしょに「柿の葉鮓」を食べているのだろう。もはやこの鮓の由緒を知らない人たちに、発祥の由来などを話して聞かせている。そして、こういう「物語」を知っている自分が、ずいぶんと「老いて」いることに、あらためて気がついたのだった。私なども、話ながらときおり実感することがある。自分では何の気なしに話していることだが、周囲の反応で、それと気づかされる。そこでショックを受けるというよりも、みずからの老いを淡々と認める気分だ。さて、柿の葉鮓は奈良吉野地方の名物だ。なぜ海から遠いこの地方で、海の魚を使う(古くは鯖のみを使用したらしい)鮓が名物になったのだろうか。いくつかある柿の葉鮓販売の会社のHPを参照して、それこそ少し物語っておけば、次のようである。その昔(江戸時代中期)、吉野に運ばれてくる海の魚は熊野灘から伯母峰を越えて行商人の背負い籠で運ばれてくるか、紀の川沿いに運ばれてくるかのどちらかだった。もちろん今と違って人力で運ぶのだから、二日ほどの行程がかかったという。そのために浜塩と言って、魚が傷まないように多量の塩を腹に詰めて運んだ。山里の吉野に魚が届くころには、塩気がまわりすぎ、煮ても焼いてもショッパくて食べられないほどで、その身を薄くそいで白御飯にのせて食べることを思いついたのがはじまりとされる。柿の葉のほうはそこらへんに沢山あったので、試しに巻いてみたら、よい香りがして美味かったからというところか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 2662002

 浦島太郎目覚めの床にあまがえる

                           夏石番矢

語は「あまがえる(雨蛙)」で夏。玉手箱を開けてしまった後の「浦島太郎」落魄の景と読んだ。竜宮城での遊びに飽きて、故郷に戻ってみれば我が家もなければ知る人もいない。三年ほどの滞在のつもりが、実は三百年も(七百年説も)経っていたというお話。やっとの思いで一夜の宿を得て、目覚めると同じ「床」に「あまがえる」がきょとんとした顔で坐っていた。人も風景もみんな変わってしまったなかで、この雨蛙だけは昔と同じ姿かたちをしている。迎えてくれたのは、お前だけか。何故こんなところに雨蛙がいるのかなどの疑問よりも先に、太郎の心は懐かしさでいっぱいになっている。いるはずもない床に雨蛙を配したことで、太郎の孤独がいっそう深まっている。浦島伝説の解釈には諸説あるが、私は地域共同体を外れた者に対するいましめのための話だと思う。伝説の原型は古く『日本書紀』にあって、ある男が海上で出会った絶世の美女とどこか遠い国に行ってしまい、ついに戻ってこなかったという。どうやら、異民族との結婚話らしい。当時の人々には、おそらくまだ共同体防衛の意識などなかったろうから、憧憬譚めいたニュアンスがある。ところが今に伝わる話は、武家が天下を取った鎌倉室町期の脚色らしく、異民族や他所者との結婚や交流は共同体破壊につながるから、これを暗示的にいましめているというわけだ。すなわち、浦島太郎は共同体破壊者であり、そんなけしからん男が最後にはどんな目にあうかという「みせしめ」なのであった。『巨石巨木学』(1995)所収。(清水哲男)

[ありがとうございます]複数の読者の方から、掲句の「目覚めの床」は、木曽山中の「寝覚めノ床」のことではないかというご指摘をいただきました。おそらく、そうでしょうね。と言うか、意識した句だと思います。ただ、あえて作者が「目覚めの床」と言い換えたのは、踏まえていることを読者に伝えつつ、そうした景勝の地ではなくて別の場所(私の解釈では、ごくありふれた何でもない室内)に、浦島太郎を「普通の人」として置きたかったのだと思います。


June 2762002

 昔男にふところありぬ白絣

                           岡本 眸

語は「白絣(しろがすり)・白地」で夏。女性用もなくはないようだが、普通は和装男物の夏の普段着を言う。洋装万能時代ゆえ、最近ではとんと見かけなくなった。見た目にもいかにも涼しげだが、それだけではない。私の祖父が着て一人碁を打っている姿などを思い出すと、いま流行の言葉を使えば、精神的な「ゆとり」も感じられた。実際の当人には「白地着てせつぱつまりし齢かな」(長谷川双魚)の気持ちもあったのかもしれないが、傍目にはとにかく悠々としていて頼もしく見えたのだった。それこそ「懐の深さ」が感じられた。掲句もまた、そういうことを言っているのだと思う。女性だから、とりわけて今の男たちを頼りなく感じているのだろうし、引き比べて「昔」の男の頼もしさを「ふところ」に託して回想しているのだ。そしてもちろん、句は「むかし、をとこありけり。うたはよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり」などの『伊勢物語』を踏まえている。美男子の代表格である在原業平までをも暗に持ちだされては、いまどきの「ふところ」無き男の立つ瀬はあろうはずもない。カタナシだ。恐れ入って、このあたりで早々に引っ込むことにいたしますデス(笑)。「俳句」(2002年7月号)所載。(清水哲男)


June 2862002

 瀧壷に瀧活けてある眺めかな

                           中原道夫

語は「瀧(滝)」で夏。なんいっても目を引くのは「滝活(い)けてある」という見立てだ。花瓶などに花が活けられているように、瀧壷に瀧が活けてあると言うのである。落下してくるものを活けるとは、かなり無理があるのではないか。と、誰しもが思うところだろうが、しかし言葉面にこだわれば、「活ける」には土や灰の中に埋めるという意味もある。「炭を活ける」「土管を活ける」などと使い、「埋ける」とも書く。すなわち「活ける」の原義は「生かす」ということであり、ここから考えると、瀧壺が瀧を生かしていると見るのも不自然ではない理屈だ。瀧壺があって、はじめて瀧は堂々の落下を遂行することができる……。実際にも、勢いよく落ちてくる瀧を見ていると、瀧壺から太い水の脚が立ち上がっているようだ。「眺めかな」の押さえ方も、なかなかに憎い。ここであれこれ細工をすると、句が縮こまってしまい、瀧の雄大さが伝わらないだろう。読者をぽーんと突き放すことによって、句の姿自体も瀧のように太くたくましくなっている。どこの瀧だろうか。私は咄嗟に、中学の修学旅行で行った日光の華厳の瀧を思い出した。生まれてはじめて見た大きな瀧だったから、いつまでも印象は強烈なままに残っている。『アルデンテ』(1996)所収。(清水哲男)


June 2962002

 山奥に叔父ひとりおり山椒魚

                           寺田良治

語は「山椒魚(さんしょううお)」で夏。山間の渓流などに生息し、山椒に似た体臭があるのでこの名がついたそうだ。私は、水族館でしか見たことはない。トカゲの親分みたいな姿をして、いつ見ても不機嫌そうにムーッとしている。そんな山椒魚に係累があるとしたら、どんな関係があってどこに住んでいるのだろう。と、たいていの人が思いもしないことを思いついてしまうのが、作者のユニークなところ。「山奥に叔父ひとりおり」と言われてみれば、たしかにそんな気がする。その叔父もまた、山奥で同じようにムーッとしているのかと想像すると、とても可笑しい。同時に、両者はおそらく音信不通だろうし、彼にはもはや母や父もいないと知れるから、ちょっぴり可哀想な気もする。良質なペーソスが、じわっと感じられる佳句だ。他の「洗濯が好きでヨットに乗っている」や「ソーダ水しゅわっと泡立つお葬式」などと読みあわせて、かなり若い人の句かと思って略歴を見たら、私よりもずっと年長だった。還暦を過ぎて俳句をはじめたのだというから、驚きだ。「読みながら笑ってしまう句集である。こんな句集はめったにない」と、跋文で坪内稔典が書いている。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


June 3062002

 梅雨荒川酒の色して秩父より

                           久保田慶子

強く、そして美しい句。ポイントは「酒の色して」だが、この酒は濁(にご)り酒だろう。梅雨のさなか、茫々たる「荒川」に見る水の色はさもありなんと思わせる。はるかな秩父の山中に発し、長い道程を経て初発の色から大きく変化した川水の色は、なまなかな形容では捉えきれまいが、はっしと「酒の色」と言い止めた作者の炯眼には感心させられるのみ。おのずから発酵し熟成した水を指し示した比喩の確かさは、どうだろう。堂々たる貫録のある句だ。こんなふうに風景を見ることができたなら、どんなに心豊かな時を過ごせるだろうかと、作者の感受性がうらやましい。以下、荒川の水脈については、電子百科事典による。「関東山地、奥秩父(おくちちぶ)主峰甲武信(こぶし)ヶ岳(2475メートル)に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞(ながとろ)を経て、寄居(よりい)町で関東平野に出る。熊谷(くまがや)市久下(くげ)で流路を南東に変え、さいたま、川越(かわごえ)両市の間で入間(いるま)川をあわせ、戸田(とだ)市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。東京都北区の岩淵(いわぶち)水門で支流の隅田(すみだ)川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ。延長169キロ、流域面積2940平方キロの関東第二の大河川である。(C)小学館」。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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