Jo句

June 2762002

 昔男にふところありぬ白絣

                           岡本 眸

語は「白絣(しろがすり)・白地」で夏。女性用もなくはないようだが、普通は和装男物の夏の普段着を言う。洋装万能時代ゆえ、最近ではとんと見かけなくなった。見た目にもいかにも涼しげだが、それだけではない。私の祖父が着て一人碁を打っている姿などを思い出すと、いま流行の言葉を使えば、精神的な「ゆとり」も感じられた。実際の当人には「白地着てせつぱつまりし齢かな」(長谷川双魚)の気持ちもあったのかもしれないが、傍目にはとにかく悠々としていて頼もしく見えたのだった。それこそ「懐の深さ」が感じられた。掲句もまた、そういうことを言っているのだと思う。女性だから、とりわけて今の男たちを頼りなく感じているのだろうし、引き比べて「昔」の男の頼もしさを「ふところ」に託して回想しているのだ。そしてもちろん、句は「むかし、をとこありけり。うたはよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり」などの『伊勢物語』を踏まえている。美男子の代表格である在原業平までをも暗に持ちだされては、いまどきの「ふところ」無き男の立つ瀬はあろうはずもない。カタナシだ。恐れ入って、このあたりで早々に引っ込むことにいたしますデス(笑)。「俳句」(2002年7月号)所載。(清水哲男)


April 0442005

 金貸してすこし日の経つ桃の花

                           長谷川双魚

語は「桃の花」で春。借金をする句は散見するが、金を貸した側から詠まれた句は珍しい。いずれにしても、金の貸し借りは気持ちの良いものではない。とくに相手が親しい間柄であればあるほど、双方にしこりが残る。頼まれて、まとまった金を貸したのだろう。とりあえず当面の暮らしに支障はないが、いずれは返してもらわないと困るほどの金額だ。相手はすぐにも返せるようなことを言っていたけれど、「すこし日の経(た)つ」今日になっても、何の音沙汰もない。どうしたのだろうか、病気にでもなったのだろうか。それとも、すぐに返せるというのは苦し紛れの口から出まかせだったのか。いや、彼に限っては嘘をつくような人間ではない。そんなことを思ってはいけない。こちらへ出向いて来られないような、何かのっぴきならない事情ができたのだろう。まあ、もう少し待っていれば、ふらりと返しにくるさ。もう、考えないようにしよう。等々、貸した側も日が経つにつれ、あれこれと気苦労がたえなくなってくる。貸さなければ生まれなかった心労だから、自分で自分に腹立たしい思いもわいてくる。気がつけば「桃の花」の真っ盛り。こういうことがなかったら、いつもの春のようにとろりとした良い気分になれただろうに、この春はいまひとつ溶け込めない。浮世離れしたようなのどかな花であるがゆえに、いっそう貸した側の不快感がリアリティを伴って伝わってくる。『花の歳時記・春』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


September 1892006

 おのが名に振り仮名つけて敬老日

                           長谷川双魚

治体主催の「敬老の日」の集いに招待されたのだろう。受付で「おのが名」を書き、その上に「振り仮名」をつけた。なんでもないようなことだが、あまり良い感じはしない。こんなときにまで、なぜ名前に振り仮名までつける必要があるのか。「老いては子にしたがえ」ではないけれど、「老いてもなお官にしたがわされた」気分だ。そんなことは面倒くさいし、もうどうでもいいじゃないか。日頃はすっかりそうした気分で暮らしているのに、こういうところに出かけてくると、唯々諾々と言いなりになってしまう自分も情けないと思う。苦笑を通り越して、いささかみじめな気持ちにさせられている。催しがはじまれば、すぐにも忘れてしまうような些事ではあるだろう。だが作者としてはおだやかな表現ながら、どうしてもこだわっておきたかったのだ。国民の祝日に関する法律(祝日法)によると、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としているそうだ。となれば、この祝日の主体は老人ではなく、老人以外の若い人である。その若い人たちに本当に老人を敬愛する気持ちがあるのなら、招待した老人の身元をいちいち確認するような無神経な振る舞いをするだろうか。作者はそこまで思っていないのかもしれないが、法的高齢者の一員たる私としては、そこまで言わなければ気がすまない。あちこちで目にし耳にし、体験する老人への偽善的態度には我慢のならないことが多いからだ。こっちは別に敬愛してくれなくたって、さらさら構わないのである。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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