リ浩句

August 1382002

 羅におくれて動くからだかな

                           正木浩一

性用が圧倒的に多いが、「羅(うすもの)」には男性用もある。作者は、たぶん身体がだるいのだろう。盛夏にさっと羅を着ると、健康体なら心身共にしゃきっとした感じがするものだが、どうもしゃきっとしない。動いていると、着ているものに「からだ」がついていかないようなのだ。その違和感を「おくれて動く」と言い止めた。ゆったりと着ているからこその違和感。着衣と身体の関係が妙に分離している感覚を描いて、まことに秀逸である。羅を着たことのない私にも、さもありなんと思われた。作者は現代俳人・正木ゆう子さんの兄上で、1992年(平成三年)に四十九歳の若さで亡くなっている。生来病弱の質だったのだろうか。次のような句もあるので、そのことがうかがわれる。「たまさかは濃き味を恋ふ雲の峰」。カンカン照りの空に、にょきにょきと雲の峰が立ち上がっている。このときは、多少とも体調がよかったようだ。雲の峰に対峙するほどの気力はあった。が、医者から「濃き味」の食べ物を禁じられていたのだ。健康であれば、猛然と塩辛いものでも食べるところなのだが、それはままならない。やり場のない苛立ちを押さえるようにして、静かに吐かれた一句だけに、よけい心に沁みてくる。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


September 1492002

 邯鄲や酒断ちて知る夜の襞

                           正木浩一

語は、ル・ル・ルと美しい声で鳴く秋の虫「邯鄲(かんたん)」。「邯鄲の夢」の故事から命名された。この鳴き声を人生のはかなさに引きつけた感性は、優しくも鋭い。「酒断ちて」は、大病ゆえの断酒と句集から知れる。幸か不幸か、私には断酒に追い込まれた体験はないのだが、句はよくわかる(ような気がする)。おのれの酩酊状態の逆を考えれば、さもありなんと想像できる(ような気がする)からだ。酔いは、人を感性の狭窄状態に連れてゆく。感覚的視野が狭くなり、その結果として、素面のときに見えていたり感じられていたはずのことの多くが抜け落ちてくる。よく言えば雑念が吹っ飛ぶのだし、悪く言えば状況に鈍感になる。このときに、些事に拘泥したり誇大妄想風になったりと、人により現れ方は違うけれど、根っこは同じだ。いずれにしても、日常的に自分の存在を規定している諸条件から、幻想的に抜け出てしまうのである。これが、私なりの酒の力の定義だが、この力が働かない状況に急に置かれると、掲句のように「夜の襞(諸相)」が実によく感じられるだろう。それも、日ごろ酒を飲まない人には感じられない「襞」のありようまでが……。こんなにも夜は深くて多層的で、充実していてデリケートであることを、はじめて覚えた驚き。酒を断たれた哀しみを邯鄲の鳴き声に託しつつも、作者はこの新鮮な驚きに少しく酔っている。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


December 29122002

 着ぶくれて客観といふよりどころ

                           正木浩一

語は「着ぶくれ」で冬。俳論に「客観」は頻発するが、この言葉をそのまま俳句に詠み込んだのは、この人くらいのものだろう。でも、実によく効いている。寒いので「着ぶくれ」て、しかし、いくらなんでも着込みすぎたのではないか。不格好に過ぎやしないか。そんな思いで、作者は外出したのだ。そんな思いがあるから、普段は気にもとめない通りすがりの人々の服装に、つい目がいってしまう。ちらちらと眺めているうちに、けっこう着ぶくれている人が多いことに気がついた。なかには、自分などよりもよほど大袈裟な感じで着込んでいる人までいる。なあんだ。うじうじと着ぶくれを気にしていたさきほどの心細さが薄れてきて、ほっとしている。すなわち、他者と我とを見比べる「客観」が「よりどころ」になっての安堵なのである。この句で、思い出した。詩人の田村隆一が酔って転んでしばらく杖をついていたときに、聞いたことがある。「君ねえ、なんとまあ、世の中には杖をついてる奴がうじゃうじゃいることか」。つまり、杖をついているのは俺だけじゃなかったんだと、そこで詩人はほっとしていたわけで、これまた掲句の「客観」に通じて得られた安堵感だろう。人は、なかなか厳密な意味での客観性を持つことはできない。人は自分に似たような人しか見えないものだし、理解できない。言外に、そういうことを言っている句だと思う。「効いている」と感じた所以である。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


December 27122004

 十二月肉屋に立ちて男の背

                           正木浩一

の「十二月」は、年も押し詰まってきたころを思わせる。奥さんにでも、買い物を頼まれたのだろうか。ふだんなら主婦の姿しか見かけない「肉屋」の店先に、ひとり「男」が立っている。通りがかりの作者はオヤッと一瞥したに過ぎないが、彼の「背」からなんとなく躊躇しているような様子が読み取れてしまった。作者の直感は、まず間違いなく当っているだろう。こういうときの背中は雄弁なのだ。そしてこれも、微笑ましい歳末風景の一齣である。実際、慣れない場所にいる人というのは、表情を読むまでもなく、すぐにわかってしまう。日頃から人が集まる場所には、それなりに形成される自然の流れというものがあり、慣れない人にはその流れが身体でつかめないからだ。だから、動きがギゴチなくなる。広いスーパーマーケットであろうと、狭い肉屋であろうと同じこと。どこで、何をどうするか。頭でわかっているだけでは、身体をスムーズに流れに乗せることはできない。反対に慣れた空間では、頭よりも身体が先に動くという具合に行動できる。これはおそらく、慣れた場所では身体の各部に遊びがあるからに違いない。目的に向かって一直線ではなく、自然なふるまいというものは身体的な遊びが起こさせるのだと思う。どんなに良く出来たロボットでも、どこか動作がギゴチないのは遊びが足らないせいではなかろうか。すなわち、身体の無駄な遊びが無駄のない動きを作り出すということだろう。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)




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