September 072002
恋遠しきりりと白き帯とんぼ的野 雄季語は「とんぼ(蜻蛉)」で秋だが、実際の「とんぼ」ではなくて、絽などの帯に織り込まれたそれだと思う。白地に、かすかにとんぼの姿が浮き出ていて、どちらかといえば夏用の帯だろう。つまり、秋の涼しさを先取りした図柄ということに。もっとも、これは二十代の終りの頃、生活のために手伝った『和装小辞典』(池田書店)のためのニワカ勉強で得た知識からの類推なので、アテにはなりません。句の眼目は、そんな詮索にあるのではなく、「きりりと」の措辞にある。遠い恋、淡い恋。句集で作者の年代を見ると、私より七歳年長だ。そうすると、敗戦時には中学生か。となれば、戦後の和装どころではない時代に「とんぼ」の帯を見たのではなく、もう少し低年齢での思い出ということにならざるを得ない。「恋」というよりも、甘美なあこがれに近い心情の世界だ。近所の友だちのお姉さんか誰か、いずれにしても対象は身近な年上のひとだ。とんぼの帯を「きりりと」締めていた様子が忘れられなくて、いつもこの季節になると、切なくも甘酸っぱく思い返されるのである。「きりりと」とは、近寄りがたい雰囲気をあらわしていながら、だからこそ逆に近寄りたいという気持ちを誘発させられる。思春期のトバ口にあった頃の男の子の想いは、掲句のようにいつまでも残ってしまう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) October 032002 枯色も攻めの迷彩枯蟷螂的野 雄季語は「蟷螂(とうろう)」で秋。カマキリのこと。世界中には1800種類もいるというが、日本には10種類ほどのようだ。カマキリに保護色はないはずだから、句の「枯蟷螂」とは褐色のカマキリのことだろう。落葉の上や枯れた草陰などにいると、それらと体色とが「迷彩」になって、なかなか姿がわからない。肉食ゆえ、そんな姿で息を殺すようにして、通りかかる獲物を待ちかまえているのだ。これぞ、まさに「攻め」の態勢。枯れた色をしているからといって、命まで枯れているのではない。人間だってそうなんだぞ、枯れてきたからといって馬鹿にしたものじゃないんだぞ。と、古稀を迎えた作者は、このカマキリの攻めの姿勢に大いに共感し、勇気づけられているのだと思う。枯色から来る常識的なイメージをくつがえしてみせたところが、掲句のミソだ。作者はよほどカマキリの攻撃性が好きなのか、句も多い。「目がピカソ枯野を蹴って蟷螂出る」と、これまた勇躍としている句だが、たまには自分が威嚇され攻められかかって「眼づけの蟷螂の目を寝て思う」と神妙になったりもしている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) November 292002 原点に戻らぬ企業返り花的野 雄季語は「返り花(帰り花)」で冬。小春日和の暖かい日がつづくうちに、どういう加減からか季節外れの桜や桃の花が咲くことがある。新聞の地方版に、写真入りで載ったりする。そんな花を見かけて、すぐさま「企業」のありように思いが飛んだところが哀しい。会社が倒産かそれに近い状態に陥り、三度も痛い目にあった私には、あながち突飛な連想とも思えない。しごく真っ当な飛躍と写る。もっとも、ここで作者は自分の属している企業のことを言っているのか、それとも企業一般のことを指しているのかはわからない。が、どちらでもよいだろう。企業は生き物だから、それ自体で刻々と変化していく。「原点」の構築に携わったのはまぎれもない人間だけれど、そうした人間の初発の精神とは関わりなく、法人格としての企業は人間を置き去りにしてまでも、みずからの延命に執心する。もっと言えば、企業は資本の論理以外の何ものも栄養にすることはできないので、そうならざるを得ない。いつまでも原点などにこだわっていては、身が持たないのである。そうした企業のたまさかの繁栄を、人間である作者は狂い咲きの花のようだと言っている。さらには、どんな人間の力をもってしても「原点に戻らぬ企業」の強圧に、なお唯々諾々と従っているおのれを哀しみ、自嘲してもいる。しかし、この不況の世の中。束の間であれ「返り花」が見られる企業は、まだよしとしなければ……。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) January 062003 羽子板に残る遊侠世紀晴的野 雄弱 August 182003 かの夏の兄が匂わすセメダイン的野 雄遠 September 202003 シベリヤという菓子の歳月鉦叩的野 雄季語は「鉦叩(かねたたき)」で秋。チンチンチンと鉦を叩くような美しい音でかすかに鳴くが、私は姿を見たことがない。物の本によると、体長は1センチくらいだとか。さて、問題は「シベリヤという菓子」だ。「菓子の歳月」とあるくらいだから、相当に古くからある有名な菓子なのだろうが、聞いたこともない名前だ。日本の菓子ではなくて、シベリヤ特産なのだろうか。それでなくとも甘いものにはうといので、こういうときの頼みの綱であるネットを駆け回ってみた。と、間もなくまずは商品写真が見つかった。が、ここに掲載しなかったのは、透明な包装紙越しに写されているので、菓子自体の姿がよくわからないからである。いくら眺めても、はじめて見る代物としか思えない。そこで、なお検索をつづけるうちに言葉による菓子の説明があり、そこではたと膝を打つことになった。「カステラ生地で餡を挟んだもの」。たったこれだけの説明なのに、たちまち懐しさが込み上げてきた。なあんだ、これならば昔の村の駄菓子屋(というよりも、万屋だったけれど)にだって、いつでも売っていたあの菓子のことじゃないか。名前は知らなかったけれど、いまでも当時の味は思い出すことができる。いや、大人になってからも、どこかで食べた覚えがあるような……。カステラ生地といってもパサパサなものだったが、それがまた美味だったっけ。そうか、あれがシベリヤ菓子という名前なのか。命名の由来には諸説あるようだが、いずれにしても大正末期ころから登場した純粋に日本製の庶民的な菓子である。「シベリヤ」という立派な名前を持ちながら、いつしか忘れられ、いまではその存在すらも知る人は少なくなってしまった。その「歳月」はまた、作者自身の過ごした歳月でもある。かすかな鉦叩の音を耳にしながら、来し方を思いやっている一人の男の淋しさがじわりと伝わってくる。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) July 262004 なつかしく炎天はあり晩年に的野 雄季語は「炎天」で夏。ぎらぎらと焼けるような日盛りの空である。「なつかしく」とはあるが、作者の頭上に展がっているのはあくまでも現在ただいまの炎天だ。しかしそれが懐かしく思われるのは、炎天下にあるときに、その焼けつくような暑さが、同じ状態下の過去の記憶をいろいろと呼び覚ますからである。そうだ、あれもこれもがこんなふうに暑い日のことだった。という具合に、子供の頃からの夏の盛りの思い出のいくつかが、脈絡もなく蘇ってくるからである。ときにそれらは思い出と言うにはふさわしくない、何かぼんやりとした記憶の断片であったり、頭ではなく身体が覚えている猛暑への感覚的な反応であったりするだろう。そうしたことどもが身体をいわば通過していく状態を、作者は「なつかしく」と表現している。そしてそれが「晩年に」と止められたことで、句は一挙に抒情の高見へと飛翔してゆく。むろん誰にしても、おのれの晩年などわかりはしない。が、現在の自分の年齢的な位置づけをあえて晩年と表現する作者のまなざしには、いつか訪れる自分の死後の、いまと同じような炎天を見つめているような感じを受ける。晩年と言う表現は、ついに当人には関わらぬ、未来からの客観的なそれであるからだ。季節は繰り返し続いてゆくが、おのれにはただ一度きりの生命が与えられているにすぎない。このときに炎天といえどもが、限りなくいとおしくもなつかしい環境に思えるのはごく自然の認識だろう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) April 012005 呑むために酒呑まない日四月馬鹿的野 雄季語は「四月馬鹿」で春。四月一日は嘘をついても許される日ということになっているが、その嘘もだまされた人のことも「四月馬鹿」と言う。掲句はちょっと本義からは飛躍していて、自嘲気味にみずからの「馬鹿」さ加減に力点が置かれている。「酒呑まない日」とはいわゆる休肝日で、必死で禁酒しているわけだが、考えてみれば、これはまた明日から「呑むため」の必死なのだ。アホらしくもあり滑稽でもあり、というところだろう。常飲者でない人からすれば不可解な必死だろうが、当人にしてみれば真剣な刻苦以外のなにものでもないのである。友人にも必ず週に一日は呑まない日を設定している飲み助がいるので、そのしんどさはよく話に聞く。聞くも涙の物語だ。ところで、この季語「四月馬鹿」については苦い思い出がある。数年前にスウェーデンと日本との合同句集を作ろうという企画があり、日本側の選句を担当した。で、四月馬鹿の句には、できるだけバカバカしくて可笑しい句を選んだ。だが、他の選句には何の異論も出なかったものの、この一句のみには先方から同意できないとクレームがついてしまった。理由は明快。スウェーデンでは、四月馬鹿は敬虔な日なのであって、決して笑いふざけるような日ではないからというものだった。合同句集のタイトルが『四月の雪』とつけられたことでもわかるように、彼の地の冬は長い。その暗鬱な季節からようやく解放される予兆をはらんだ四月馬鹿の日。ふざけるよりも、季節の巡りに頭を垂れたくなるほうが自然だろう。私なりにそう納得して、選句は撤回したのだったが……。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男) June 102005 松の芯中野竹子の叱咤なお的野 雄季語は「松の芯」。松の新芽、あるいは若葉のことも言う。春季の「若緑」の項に分類しておくが、掲句に詠まれた舞台などを考え合わせると、むしろ入梅前のいまごろの季節と見たほうがよさそうだ。「中野竹子」は戊辰戦争時、女性たちによる薙刀部隊を率いて新政府軍と闘った人物である。「会津藩士中野平内を父に生まれた。資性鋭敏、容姿端麗、才智は衆にすぐれ文武両道に通じ、詩文和歌などの文才もあり、度々藩の賞美をうえ典型的な会津女子としての義に徹し、その反面、ものやわらかな豊麗があふれていたといわれる。明治元年八月戊辰戦争では、柳橋の戦いに挑み、男子も及ばぬ奮戦をしたが、虚しく西軍の凶弾に倒れた。その首級は翌朝、農兵により坂下に持ち帰られ、後に坂下町曹洞宗法界寺に埋葬された」(「うつくしま電子辞典」による)。このとき竹子、二十二歳。若き非業の最期であった。作者は「松の芯」の時期に彼の地を訪れた。すくすくと抜きん出た若緑の様子に、竹子のさもあったろうという勇姿を重ねあわせて、「叱咤なお」と彼女の激しい忠誠心を讃え追悼している。星霜移り人は去るといえども、竹子の心映えは松の緑のように蘇りつづけるだろうということだ。「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」。辞世の歌と言われている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男) December 072009 残像なお増殖止まず開戦日的野 雄明日12月8日(1941年・日本時間)は大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)の開戦日。「ああ」と感慨を抱くのは、既に物心のついていた七十代半ば以降の人たちだろう。私はまだ三歳だったので、何も覚えてはいない。この日から、日本は、いや世界は、泥沼の道に入った。作者の脳裏に去来する「残像」はどんなものなのだろうか。むろん、一言では尽くせまい。大きく変わった身内の運命。知り合いの人の運命。なによりも口惜しいのは、戦争さえなければ死ななくてもよかった人たちの死である。若く元気だった人たちの顔が、いまでも目に浮かぶ。同時に、当時の暮らしぶりや山川の風景、そしてその後の自身を含めて翻弄されつづけた生活のありようなど。残像はとめどなく明滅し、止むことがない。言っても甲斐なきことなどは承知でも、なおこう詠まずにはいられない作者の気持ちが、私などにはよくわかる。現在沖縄基地問題をめぐって、鳩山政権が苦しがっているようだ。しかし、そんな苦しみは、あの日を生身で体験した人々のそれに比べれば屁みたいなものである。たとえ無責任なマスコミに八方美人的と言われようとも、問題解決を焦ることはない。じっくりと腰をすえて、百年の大計を練るべきである。『円宙』(2009)所収。(清水哲男) February 082010 春うつらくすりの妻の名で呼ばれ的野 雄病院では患者当人ではなくても、付き添いや見舞い客などの人を患者のフルネームで呼ぶ場合が多い。今回の父の入院で、私も何度も父の名で呼びかけられた。慣れてしまえば何ということもないのだろうが、なんだか妙な心持ちになってしまう。句の作者は、妻の薬を受け取りにきたのだろう。だいぶ待たされるので、つい「うつら」としてしまった。で、ようやく窓口から呼ばれたときには妻の名前なものだから、「うつら」の頭ではすぐには反応できない。呼ばれたような気もするのだが……と逡巡するうちに、今度ははっきりと妻のフルネームが聞こえて、あわてて立ち上がったのである。微苦笑を誘われる句だけれど、私も作者と似た環境にあるので、微苦笑とともに自然に溜息も出てくる。句集には「主夫」という言葉が何度も出てくるから、奥様はかなり長患いのようだ。同じ句集に「想定外妻に梨剥く晩年など」があり、また「逃亡めく主夫に正月と言うべしや」がある。お大切に。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)
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