ニ@句

September 1792002

 点睛の瞳を穿つ栗の虫

                           照井 翠

事に充実した「栗」を、人間の「瞳」に見立てた句。なるほど、熟れてきて毬(いが)からのぞいている様子は、確かにつぶらな瞳に似ている。それも「点睛」というほどなのだから、ほれぼれするような美しい栗だ。が、そのつややかな瞳を、情け容赦もなしに「虫」が「穿つ(うがつ)」てしまっていた。栗にしてみれば、決して画竜点睛を欠いたのではなく、点睛は完璧に成ったのにもかかわらず、思わぬことから全身がむしばまれてしまったのだ。この無念さは、九仞の功を一簣に虧くどころではないだろう。他方、虫は虫でおのれの本能に従ったまでのこと。おのれの日常生活を、自然にまっとうしただけのことなのである。作者は栗に身贔屓しながらも、一方的に虫を責められない事情をあわせて書いている。無惨だとか理不尽だとかとは言わずに、すっと「栗の虫」と止めたところに、それを感じる。あまり勝手な拡大解釈は慎むべきかもしれないが、私に掲句は、人間界のありようの比喩とも受け取れた。お互いにおのれの本分を忠実にまっとうすることで、どちらかがもろくも壊れてしまう……。たとえば、現今のリストラ事情には、資本という名の「栗の虫」が出てくる。『水恋宮』(2001)所収。(清水哲男)


July 2172004

 天の川ナイルの尽くるところより

                           照井 翠

語は「天の川」で、最も美しく見える秋に分類する。天と地を流れる二つの川が、果ての果てではつながっている。もとより幻想句だが、実際に「ナイル」上空の天の川を仰げば、幻想はほとんど現実と同じように感じられるのではあるまいか。二つの川の圧倒的な存在感が、言葉の小細工など撥ね除けて、作者にかくも単純素朴な表現をとらせたのだろう。これが日本の川であったら、こういう句にはなりにくい。天の川と拮抗できるほどの大河がないからだ。芭蕉のように佐渡の「海」を持ってきて、ようやく釣り合うのである。ところで、倉橋由美子が天の川に行った男の話を書いている。その名も「天の川」(『老人のための残酷童話』所収)という短編で、中国では黄河と天の川がつながっていると信じられているが、それは俗説で、実際には別の秘密の水路があるという設定だ。で、足を踏み入れた天の川はどんなところだったか。「かつて経験したことのない寒さが骨の髄までしみこんできました。といっても凍傷ができるような寒さではありませんし、寒風が吹きすさぶわけでもありません。ここの空気は玲瓏として動かず、冷たい水の中、というよりも、水晶の中に閉じこめられているかのようです。慣れてくると、この絶対的な寒冷は、およそ汚れや腐敗とは無縁の清浄がもつ属性ではないかと思われました。……」。寒い上に怖いお話だから、真夏の読書には最適だろう。句は『翡翠楼』(2004)所収。(清水哲男)


March 1132013

 石楠花の蕾びつしり枯れにけり

                           照井 翠

色の花が咲く、いわゆる「アズマシャクナゲ」の蕾だろう。例年ならばそれこそ「びっしり」とついた蕾が春の到来を告げてくれるのだが、それが今年はことごとく枯れてしまっのだ。枯れたのは、今日でまる二年目になる福島の大津波のせいである。かつて見聞したこともない異常な光景だが、この異常は自然界にとどまるわけにはいかなかった。「気の狂(ふ)れし人笑ひゐる春の橋」。作者は釜石市で被災した。「死は免れましたが、地獄を見ました」と句集後記にあり、また「三・一一神はゐないかとても小さい」という極限状況のなかで、辛うじて正気を保つことができたのは、長年携わってきた俳句のお陰だとも……。ここで読者は少し明るい気持ちにもなれるのだが、昨今のマスコミが伝えている現在の福島の様子には、依然として厳しいものがある。何ひとつ動いていないと言ってもよいだろう。直接に被災はしていない私などが、机上から何を言っても空しいとは思うのだけれど、他方で何かを言わなければ気が済まない思いがむくむくと頭をもたげてくるのも正直なところだ。『龍宮』(2012)所収。(清水哲男)




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