ホ苗l句

September 2392002

 月触るる一瞬鶴となる楽器

                           石母田星人

月琴
い室内に、月の光りが射し込んできた。立て掛けてあった、あるいは吊るしてあった楽器に光りが触れたとき、一瞬「鶴」のように思えたというのである。楽器は鶴を連想させたのだから、棹の長いギターや三味線のような弦楽器だろう。月夜の空にむかって首を伸ばし、いまにも一声発しそうな気配だ。素直に受け取れば、こういうことだろうが、もしかすると作者は、中国伝来の楽器、その名も「月琴(げっきん)」の演奏を聴いて想を得たのかもしれないと思った。「東アジアのリュート属の撥弦(はつげん)楽器。中国、宋(そう)代に阮咸(げんかん)から発達し、明(みん)代に現在のような短棹(たんざお)になった。胴は満月のように真円形をし、音は琴を連想させるため、月琴といわれる。(C)小学館」。渡来した江戸期には、大いに流行した楽器だといい、浮世絵にも数多く描かれている。絵からわかるように、たしかに棹が短い。短いが、演奏に吸い寄せられているうちに、佳境に入った一瞬、鶴の首のように棹が伸びたような感じになった。すなわち、演奏者が自在に月琴をあやつる様子を、このように詠んだとも取れるのではなかろうか。月と楽器。いずれにしても、この取り合わせは、それだけで耽美的な雰囲気を醸し出すようだ。『俳句スクエア・第一集』(2002)所載。(清水哲男)


February 0822007

 白梅の空は産湯の匂かな

                           石母田星人

田龍太の句に「白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり」とあるように、春に先がけて咲くのは白梅が多いのだろうか。中国から渡来した順も白梅からだったらしく、天平時代和歌に詠まれた梅は全て白梅だったと歳時記の記述にある。東京は暖冬のせいか一月末にもう紅梅が咲いていたが、日増しに明るさを増す早春の空にはさっぱりと清潔な白梅が似つかわしい。産湯は生まれたての赤子の汚れを落とすだけでなく、外気に触れて冷えた身体を羊水とほぼ同じ温度で温める効用があるという。この産湯が遠い昔に自分が浸かっただろう湯の匂いを想像しているのか、生まれたての赤子を父として抱き上げた時ふっと感じた匂いなのかわからないが、あるかなきかの淡い香だろう。とはいっても作者は産湯と白梅の匂いを単純に結びつけているのではない。白梅の間から透かし見る早春の空と梅の香りの調和に、季節が生まれでる予感を感じているのだ。春と呼ぶにはまだ寒いけれど、見渡せば赤味を帯びた裸木の梢に、道端の下萌えに春は確実に近づいている。初々しい季節の誕生に託して、誰もが産湯につかってこの世に迎え入れられた。そんな当たり前の事実を懐かしく思い起こさせる一句である。『濫觴』(2004)所収。(三宅やよい)


March 0632007

 美と言ひしままの唇雛かな

                           石母田星人

く片付けないとお嫁に行けなくなる、などというナンセンスな理由が現在もまかり通り、早めに出され早々に仕舞われる雛人形であるが、最近は立春に飾り、啓蟄の本日片付けることが多いそうだ。さらに忠実なる場合には、この日に手が付けられない場合には、雛人形たちを後ろ向きにすると、「眠られた」「お帰りになった」という意味を持ち、片付けたことと同様になるのだというが、全員後ろ向きの雛壇とは、さながらホラー映画を思わせる光景であろう。もともと、雛人形という時代がかった姿かたちは、日常とは全く別次元の美しさであることから、そこにはわずかな恐ろしさも含んでいる。人形の唇がうっすらと開いており、そこに米粒よりちいさな白い歯が並んでいることに気づいたのは、ずいぶん小さな時分であったが、そのとき可愛らしいとは対極のはっきりとした恐怖を感じたことを覚えている。確かに口元は掲句の通り「び」という形である。濃い紅に塗られた唇が、口角をひょいと上げ「び」と言いかけた形で固まっている。多くの家庭で今年のお役目が終わり、来年の立春まで、長く暗闇のなかでふたたび暮らす雛人形たち。てんでに納戸の隅に積まれた木箱のなかで、薄紙に包まれて何かを呟いているのだと思うと、それはふと「さびしい」の「び」なのかもしれない、と思うのだ。『濫觴』(2004)所収。(土肥あき子)


April 0942009

 仔馬跳ね宇宙に満つる微光かな

                           石母田星人

の映画か忘れたが雷鳴の夜に誕生した仔馬が生れて間もなく立ち上がろうとするシーンがあった。そんな健気な仔馬も母馬について初めて戸外に出たときにはなかなか親馬のそばを離れないが、いったん走るコツを覚えると喜々として駆け始める。初めて受ける風も光る青葉も仔馬にはあふれんばかりにまばゆい世界に思えよう。まだ走る動作に慣れない仔馬がぎくしゃく脚を蹴りあげるたび命の躍動が微光となって暗黒の宇宙に満ちてゆく。今ここにある生命の全てはどこかで宇宙の営みと繋がっているのかもしれない。星人と名乗る作者にとって「地球に乗る」ことは季感のみなもとを見つめることであり、それは太陽系、銀河系を感じることである。とあとがきにある。その通り句集には自分の存在と宇宙の関係を大きな流れで捉える句が多く収録されており、小さくまとまりがちな季の捉え方に新しい方向性を指し示しているように思える。「掌に包みたる宙木の芽晴」「脊髄をはしる曙光や山桜」『膝蓋腱反射』(2009)所収。(三宅やよい)


June 1662009

 人間に呼吸水中花に錘

                           石母田星人

る記念会のお土産のために、水中花をまとめ買いしたことがある。小さなグラスのなかで軽やかに広がる可愛らしい造花としか想像していなかった手に届いたそれらは、ずっしりと思いもよらぬ重量だった。水のなかで揺らめく優美な姿が、錘でつなぎとめられていることをすっかり忘れていたのだ。掲句では肝心なものとして呼吸と錘をそれぞれ並べているのだが、ふとある本に「人間は空気の層の底辺で這うようにして生きている」と書かれていたことを思い出した。地上は、見方を変えれば空気の底でもあるのだという事実に愕然としたものだが、掲句であっさりと呼吸と錘が並記されてことにより、人間も深く息を吐かなければ、実は浮き上がってしまう心もとない生きもののように思えてきた。折しも各地で空からおたまじゃくしが降ってきたという不思議なニュース。うっかり呼吸を忘れてしまったおたまじゃくしたちが、まるで音符を連ねるようにぷかりぷかりと雲に吸い込まれてしまったのかもしれない。白い画用紙を広げたような梅雨の空を見あげながら、大きく丁寧に息をしてみる。『膝蓋腱反射』(2009)所収。(土肥あき子)




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