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September 2892002

 セザンヌの林檎小さき巴里に来て

                           森尻禮子

林檎
ザンヌはたくさん林檎の絵を描いているので、作者がどの絵のことを言っているのかはわからない。ただ「巴里」で見られる最も有名な作品は、オルセー美術館が展示している「林檎とオレンジ」だ。六年の歳月をかけて完成したこの絵は、見られるとおりに、不思議な空間で構成されている。そのせいで、見方によって林檎は大きくも見え、またとても小さくも見える。じっと眺めていると、混乱してくる。美術史的な能書きは別にすると、常識的なまなざしにとっては、かなりスキャンダラスな絵に写る。たとえば作者は、まず美術館でこの絵を見た。実際の林檎は大きかったのか、それとも……。で、その後で、裏通りの果物屋か八百屋で売られている林檎を見た。とすると、そこに盛られていたのは、予想外に小さな林檎だったはずである。日本の立派な林檎を見慣れた目には、貧弱とすら思えただろう。私の乏しい見聞では、あちらの林檎は総じて小さいという印象だ。ああ、百年前のセザンヌは、こんなにも小さな林檎に立ち向かっていたのか。作者はこの感慨に、どんな名所旧跡よりも「巴里」に来ていることを感じさせられたのだった。と、こんなふうに読んでみたのですが、如何でしょうか。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)

お断り・作者名のうちの「禮」は、正式には「ネ偏」に「豊」と表記します。


March 0832003

 哲学科に入学の甥と詩の話

                           森尻禮子

語は「入学」で春。どんな話をしたのだろう。いささか気にはなるけれど、話の中身は作者が言いたいこととは、ほとんど関係はない。「哲学科」と「詩」との取りあわせから、何か生硬な言葉で「甥」が熱心に話している姿が想像できる。句としては、それで十分だ。掲句で作者が言いたいのは、彼の急速な成長ぶりである。ついこの間までは、ほんのちっちゃな子供でしかなかったのに、いつの間にか、こうして大学生になり、しかも詩の話までできるようになった。話はひどく理屈っぽいにしても、その理屈っぽさがとても嬉しく喜ばしいと、作者は目を細めている。身内ならではの感懐である。かつての私も一応「哲学科」に籍を置き「詩」を書いていたので、この「甥」の立場にあったわけだ。幸いにして(?!)、詩のことを話せる伯母(叔母)さんはいなかったのだが、この句に出会ったときには、赤面しそうになった。身内以外の人になら、いくらでも生硬な言葉で話したことがあるからだ。難解な言葉に憧れ、覚えるとすぐに使ってみたくなるのだった。その点で、哲学科は難解語の宝庫だからして、仕入れには困らなかった。西田幾多郎や田辺元の文章をせっせと引き写したノートの一冊を、まだ残してある。青春のかたみという思いもあるにはあるが、何事かを語るに際しての自戒のためという気持ちのほうが強い。『星彦』(2001)所収。(清水哲男)


January 0612015

 抱かれたし白ふくろふの子となりて

                           森尻禮子

クロウは、鳥のなかでも、顔が大きく扁平で、目鼻立ちが人間に近い。ヨーロッパでは古くから「森の賢者」とされ、知恵の象徴としてきたが、日本では不吉なものだった。しかし、最近では「不苦労」「福来路」「福老」などと読み替えて、縁起を上乗せし、ウサギやカエルについで、小物などの収集家の多い生きものとなっている。シロフクロウといえば、「ハリー・ポッター」でハリーのペットとして登場し、その大きく、美しく、賢い姿に一時ペットとしての人気も急上昇し、「ふくろうカフェ」なる場所も今や話題だ。それしにしてもフクロウの子どもときたら、手のひらサイズで全身ふわふわ、うるうるの瞳をうっとり閉じる様子などとても猛禽類とは思えない可愛さである。ふくろうカフェの紹介には「鳥というより猫に近い」とあり、猫好きが心惹かれる道理と納得した。〈鷹狩の電光石火とはこれぞ〉〈鳰の巣に今朝二つめの卵かな〉『遺産』(2014)所収。名前の表記はネヘンに豊。(土肥あき子)




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