November 012002
謙虚なる十一月を愛すなり
遠藤梧逸
はや、十一月だ。季語としての「十一月」は、立冬のある月なので冬に分類。暦の上では冬に入る月だが、小春日和といわれる暖かい日々もあり、トータルでは案外十月よりも暖かかったりする。「あたゝかき十一月もすみにけり」(中村草田男)という印象深い句もある。とはいえ、一方では木枯らしの吹く日もあって、季節はじんわりと確実に冬へと向かっていく。掲句を読んで真っ先に思ったことは、句のように当月を人格化したときに、なるほど「謙虚」という表現がぴったりくるのは、今月十一月しかないだろうなということだった。前に出過ぎず、しかし着実に次の月へとバトンを渡していく感じがある。そこで、お遊びを思いついた。では、他の月には、どんな人格や性格を当て嵌めればぴったりくるのだろう。拙速で私なりに並べてみると、来月十二月は「短気」だろうか。一月は「堂々」でいいだろう。そして、我が生まれ月の二月は「孤独」。三月は浮かれがちになるので異論も覚悟で「軽佻」、逆に四月は年度はじめゆえ「実直」となる。五月は文句なしに「明朗」で、六月は「陰鬱」と言うしかあるまい。七月は「蹶起」ないしは「血気」のような感じだけれど、八月は七月の惰性みたいな月だから「怠惰」でいきたい。九月にはちょっと困ったが「素朴」としておいて、十月は案外に雨の日も多いことから「曖昧」としておこう。いかがでしょうか。下手くそすぎますかね。やっぱりね。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)
October 312002
客われをじつと見る猫秋の宵
八木絵馬
俳句を読む楽しさの一つは、情景が描かれていない句の情景を想像することだ。たとえば掲句では、猫に「じつと」見つめられていることはわかるけれど、シチュエーションはわからない。どんなシーンでの句なのか。まず手がかりになるのは「客」だろう。しかし客にも二種類あって、他家を訪れているのか、それとも猫がいるような古くて小さな商店にでも入っているのか。どちらとも取れるし、どちらでもよい。だが、次なるキーワード「秋の宵」と重ねてみると、かなり輪郭がはっきりしてくると思う。そぞろ寒く侘しい雰囲気の宵……。となれば、古本屋だとか古道具屋のイメージが浮かんでくる。ふらりと入った小さな店には、他の客の姿はない。物色するともなく商品を眺めているうちに、ふと視線を感じた。こうした店の主人は客を「じつと」見ることはしないのが普通だから、いぶかしく思って視線の方角を見ると、こちらを注視している猫と目が合ったのである。見返しても、猫はいっこうに視線をそらさない。万引きでもしやしないかと見張られているようで、いやな感じだ。このときに「客われを」の「われを」に込められているのは、「こっちは客なんだぞ、失敬な」という気持ちだろう。それでなくとも侘しい秋の宵の気分が、猫のせいで、ますます侘しくなってしまった……。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)
October 302002
神無月主治医変はりてゐたりけり
秋本ひろし
季語「神無月(かんなづき)」は陰暦十月の異称なので、冬に分類。今年は来週の火曜日、十一月五日が朔日にあたる。作者は、定期的に診察を受けている人だ。いつものように出かけていったら、主治医が変わっていた。前回の診察のときには、交替するなど聞いていないし、その気配すらなかったから、狐につままれたような気分だ。何かよほどの事情があっての、急な交替なのだろうか。が、新しい主治医に、根掘り葉掘り尋ねるわけにもいかない。私には経験がないけれど、長い間診てもらっていた医者が前触れもなしにいなくなるのは、かなり心細いことだろう。カルテは引き継がれても、蓄積された信頼の心や親愛感は引き継がれないからである。なんとなく釈然としない気持ちのままに診察が終わり、ふと今が「神無月」であることに気がついたのだった。まさか前任者を神のように崇めていたわけではないが、神様ですら忽然と不在になる月なのだからして、医者がひとり姿を消したとしても不思議ではないかもしれない……。とまあ、妙な納得をしているところが読ませる。とかく生真面目に重たく詠まれがちな神無月を、本意を歪めることなく軽妙に詠んでいて、しかもペーソスが滲み出ている。現代的俳諧の味とは、たとえばこういうものであろう。『棗』(2002)所収。(清水哲男)
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