s句

November 21112002

 他所者のきれいな布団干してある

                           行方克巳

語は「布団(蒲団)」で冬。昔の農村の一光景だろう。すらりと読めば、村人たる作者が「きれいな布団」を干している「他所者(よそもの)」を白眼視している構図が浮き上がってくる。このときに「きれいな」とは、まことに底意地の悪い毒のある言葉だ。だが、この句はそんなに単純な構図を描いているわけではない。田舎に他所者として暮らした経験のある私には、作者の気持ちがよくわかるような気がする。すなわち、ここで他所者とは他ならぬ作者自身のことなのだからだ……。よく晴れた冬の日に、作者は越してきて間もない集落の家々を遠望している。どの家も布団を干しているが、なかでひときわ目立つ布団があった。我が家の布団だ。他の家の布団の地味な柄に比べると、どうしようもなく派手に写っている。そう見えた途端に、作者は他所者の悲哀を感じて、落ち込んでしまったに違いない。一日でも早く共同体に同化したいというのが他所者の切なる願いだから、これにはまいった。普段の立ち居振る舞いなど、なるべく目立たないように心がけてはいても、自宅の部屋の中ではごく普通に見えていた布団の柄が、かくも白昼赤裸々に他所者の家でしかないことを證しているとは……。「きれい」が恥であり、自嘲に通じる時代が確かにあった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0652004

 なつかしき遠さに雨の桐の花

                           行方克巳

語は「桐の花」で夏。もう咲いている地方もあるだろう。淡い紫色の花は、それ自体が抒情的である。近くで見るよりも遠くから見て、煙っているような感じが私は好きだ。本場の一つである岩手では県の花にもなっており、花巻あたりの山中で見ると、そぞろ故無き郷愁に誘われてしまう。我知らず、甘酸っぱいセンチメンタルな感情のなかへと沈んでゆく。句の場合には、そんな情景に明るいはつなつの雨が降っているのだから、その美しさはさぞやと想われる。「なつかしき遠さ」は、作者が遠望している桐の花までの実際の距離と、そして郷愁の過去までの時間の経過とを同時に示しているわけで、巧みな措辞だ。変なことを言うようだけれど、この句の良さは、使われている言葉の一つ一つが、いわゆる「つき過ぎ」であるところにあると思った。ひねりもなければ飛躍もない。ただ懐旧の情にそのままべったりと心を寄せている趣が、かえって句を強く鮮かにしているのだと……。妙にひねくりまわすよりも、こういうときには思い切って「つき過ぎ」に身をゆだねてしまったほうが、逆に清潔感や力強い感じを生む。考えてみるにそれもこれもが、素材が桐の花であるからではなかろうか。人がいかにセンチメンタルな感情をべたつかせようとも、桐の花にはそれをおのずから浄化してしまうような風情があるからだろう。そうした風情をよくわきまえた一句だと読んだ。見たいなあ、桐の花。残念なことに、我が家の近隣には見当たらない。「俳句」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


August 2282006

 踊らねば只のししむら踊りけり

                           行方克巳

つかは見たいと願っている盆踊りも、岐阜郡上八幡の郡上踊りが終わり、秋田羽後の西馬音内盆踊りが終わり、富山八尾のおわら風の盆を残すばかりとなった。結局今年もまた、どの思いも叶わぬまま夏が終わる。しかし、元来盆踊りとは、盂蘭盆の行事であり、死者を供養するためのものであることを考えると、ゆかりのない土地の盆踊りを「見に行く」とはたいへん奇妙なことにも思う。踊りのさなか、風土はそこに暮らす人間を固く結びつけ、一方日常を遠くに引き離していく。句にある「ししむら」とは、肉の塊のことである。踊らぬ手足は単なる肉塊なのだという。この乱暴な断定が、自分の身体をことさら他人事のように眺め、また目の前に躍動する四肢の魅力をはちきれんばかりに輝かせる。踊り続けることで、肉体はますます個人から離れ、今やしなやかに呼吸する風土の一部となっている。しかし、この甘美な闇をさまよう肢体は、翌朝にはまた綿々と続く日常を歩く、ただの肉塊に戻らねばならない。「踊りけり」と強く言い切ることで、心のどこかで願う狂気を振り払い、わずかに日常との接点を保ちつつ踊り続けるのである。『祭』(2004)所収。(土肥あき子)


January 1212010

 建付けのそこここ軋む寒さかな

                           行方克巳

書に「芙美子旧居」とあり、新宿区中井に残る林芙美子の屋敷での一句。芙美子の終の住処となった四ノ坂の日本家屋は、数百冊といわれる書物を読み研究するのに六年、イメージを伝えるために設計者や職人を京都に連れていくなどで建築に二年を費やしたという、こだわり尽くした家である。彼女は心血を注いだわが子のような家に暮らし、夏になれば開け放った家に吹き抜ける風を楽しみ、冬になれば出てくるあちこちの軋みも、また愛しい子どもの癖のように慈しんでいたように思う。掲句の「寒さ」は、体感するそれだけではなく、主を失った家が引き出す「寒さ」でもあろう。深い愛情をもって吹き込まれた長い命が、取り残された悲しみにたてる泣き声のような軋みに、作者は耳を傾けている。残された家とは、ともに呼吸してきた家族の記憶であり、移り変わる家族の顔を見続けてきた悲しい器だ。芙美子の家は今も東西南北からの風を気持ち良く通し、彼女の理想を守っている。〈うすらひや天地もまた浮けるもの〉〈夜桜の大きな繭の中にゐる〉『阿修羅』(2010)所収。(土肥あき子)


February 2222011

 猫の子のおもちやにされてふにやあと鳴く

                           行方克巳

日猫の日。つながる2をニャンと読むものなので、日本限定ではあるものの、堂々と猫の句の紹介をさせていただく(笑)。あらゆる動物の子どもは文句なく可愛いものだが、ことに子猫となると自然と相好が崩れてしまう。小さいものへ無条件に感じる「かわいさ」こそ、赤ん坊の生きる力であるといわれるが、たしかに言葉ではあらわすことができない力が作用しているように思われる。掲句では「にゃあ」ではなく、「ふにゃあ」というところに子猫のやわらかな身体も重なり、極めつけの可愛らしさがあますところなく発揮されている。とはいえ、句集に隣合う〈子猫すでに愛憎わかつ爪を立て〉で、罪ない声を出しながら、一方で好き嫌いをはっきりと見定めている子猫の姿も描かれる。子猫はおもちゃにされながら、飼い主として誰を選ぼうかと虎視眈々と狙っている。〈恋衣とは春燈にぬぎしもの〉〈春の水いまひとまたぎすれば旅〉『地球ひとつぶ』(2011)所収。(土肥あき子)




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