November 242002
つはぶきや二階の窓に鉄格子森 慎一季 November 232002 雪吊を見おろし山の木が立てり大串 章季語は「雪吊(ゆきつり)」で冬。やがて来る雪の重みで、庭木の枝が折れないようにする冬支度の一つ。金沢兼六園の雪吊は、冬の風物詩としても有名だ。そんな雪吊の様子を、周辺の「山の木」が「見おろし」ている。山の木に心があれば、過保護に甘んじている庭の木を冷笑するであろうか。……などと、つい思ったりするのが人間の哀れなところで、何でもかでも人間世界に移し替えて読んでしまうのは悪い癖だ。作者は、確かに「見おろし」と山の木を擬人化してはいる。が、これを「見くだし」などと読まれないように、意図的にそっけなく「立てり」と押さえて、ただ邪心なく淡々と立っている姿を強調している。「立てり」に違う言葉を配すると、にわかに句が生臭くなる。さて、この句の最も魅力的なところは、雪吊一事をレポートするに際しての視野の案配である。目の前の事象を等身大に見据えつつ、すっとカメラを引いたような視野の広げ方が面白い。あくまでも、雪吊は作者の目の前にある。もしかすると、山はよく見えていないのかもしれない。その眼前の光景を、あっという間に点景に変化させてしまっている。カメラでこの広い視野を得るには、ちょっとしたテクニックが必要だ。が、人間にはそれがいらない。苦もなく、頭の中で調節が可能である。地味な句柄に見えるが、なかなかどうして、仕掛けはむしろ華麗と言うべきではなかろうか。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男) November 222002 草々の呼びかはしつつ枯れてゆく相生垣瓜人変なことを言うようだが、私はこの句に暖かいものを感じる。光景は、一見うら寂しい雰囲気のなかにあるけれど、お互いに声をかけあいながら「枯れて(滅びて)ゆく」ことなどは、私たち人間には決して起きないからだ。人間はてんでんバラバラに枯れてゆき、冬の「草々」は共に枯れてゆく。どちらが寂しいか……。作者は「呼びかはしつつ枯れてゆく」草々に、むしろ羨望の念すら覚えているのだと思う。これらの草々には、人間とは違って、それぞれの名前もなければ個性なんてものもない。すなわち、類としての存在として掴まれている。ここがポイントだ。もとより人間だとて類としての存在からは逃れようもないわけだが、名前があったり個性があると信じていたりするので、理屈上はともかく、すっかり類のことは忘れて生きている。「個」を見て「類」を見ず。だから、まごうかたなき人類の一員でありながら、自分の類に観念的にしか反応することができない。そこへいくと、草々は違う。句のように擬人化してみると、よくわかる。彼らは「共生」を観念としてではなく、実質実態として遂げているのだ。いつだって「呼びかはしつつ」生きて滅んでゆく。たとえおのれは枯れてしまっても、来春の新しい芽吹きが待っている。その希望を楽しめる。人間だって、類としては新しい芽吹きは常にあるくせに、それを楽しめない。自分一代で、何もかも終わりさ。「死んで花実が咲くものか」などと、それこそ変なことを言ったりする。まことに厄介だ。「冬枯」に分類。『微茫集』所収。(清水哲男)
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