2002N12句

December 01122002

 十二月真向きの船の鋭さも

                           友岡子郷

日から「十二月」。そう思うだけで、いかに愚図な私でも、どこか身の引き締まるような感じを覚える。掲句は、そんな緊張感を具現化したものだ。港に停泊している「船」も、昨日までの姿とは違う。「真向(まむ)き」に、すなわち正対して見ると、船首の「鋭さ」がいっそう際立って見えてきた。この鋭さは、むろん作者の昨日とは異なる感性が生みだしたものだ。清潔な句景も、よく十二月の心情とマッチしている。ところで、この船は実際にはどんな形の船なのだろう。一口に船と言っても、多種多様だ。作者は実景を詠んでいるのだが、読者には具体的な形までは伝わらない。このことに触れて、作者は近著『友岡子郷・自解150選』で「言語表現の宿命的なあいまいさ」と書いている。「俳句をつくっていて、いつも苛立たしい苦労をするのは、自分には言葉しかないからである」とも……。たしかに、言葉は写真や絵画のようには物の形を伝えることができない。でも、だからこそ、言葉は面白いのではあるまいか。掲句にそくして言えば、船の形がビジュアルに限定されてしまうと、かえって伝えたい十二月の緊張感がそれこそ「あいまい」になってしまうのではないか。それぞれの読者が、それぞれの形を自由にイメージできるからこそ、句がはじめて生きてくるのである。と、生意気を書いておきます。『春隣』(1988)所収。(清水哲男)


December 02122002

 黄落や大工六人の宇宙

                           河原珠美

語は「黄落(こうらく)」で秋。しかし、ただいま現在、我が家に近くの銀杏の落葉しきりなり。たまに拾ってきて、本の栞に使う。さて、掲句は黄落のなか、家の新築が進んでいる様子を詠んでいる。よく晴れた日だ。高いところには大工が六人いて、黙々と仕事をしている。そして、彼らよりもさらに高いところから、金色の葉がはらはらと舞い落ちている。青空を背景に、真新しい木の枠組みと、そこで働く大工たちの姿は、なるほど一つの「宇宙」を形成している。何度か見かけたことのある情景で、たいていはすぐに忘れてしまうのだけれど、こうして「宇宙」と断言されることにより、いつかどこかで見た記憶が鮮かに蘇ってくる(ような気がする)。そのときには、決して「宇宙」と認識して見たわけではないのだが、潜在的にはぼんやりとでも「宇宙」ととらえていたのだろう。そして、この「宇宙」にリアリティを与えているのは「黄落」でもなければ「大工」でもない。「六人」である。実際に六人だったかどうかは、関係がない。仮に「七人」だとか「五人」だとかに入れ替えてみれば、実に六人が絶妙な数であることがわかる。「七人」では無理に「宇宙」をこしらえているようだし、「五人」では「ホントに五人だったのです」と力が入っている感じを受けてしまう。奇数と偶数のニュアンスの差だ。でも、これが「四人」や「二人」となると大工のいる高い位置と広いスペースが確保されないので、「宇宙」と呼ぶには狭すぎる。やはり「六人」しかないでしょうね。『どうぶつビスケット』(2002)所収。(清水哲男)


December 03122002

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

                           安住 敦

に雪がちらついている。歩きながら作者は、そういえば「雪の降る町といふ唄」があったなと思い出した。遠い日に流行した唄だ。何度か小声で口ずさんでみようとするのだが、断片的にしか浮かんでこない。すぐに、あっさり「忘れたり」と、思い出すのをあきらめてしまった。それだけの句ながら、この軽い諦念は心に沁みる。かくし味のように、句には老いの精神的な生理のありようが仕込まれているからだ。すなわち「忘れたり」は、単に一つの流行り唄を忘れたことにとどまらず、その他のいろいろなことをも「忘れたり」とあきらめる心につながっている。若いうちならば、どんなに些細なことでも「忘れたり」ではすまさなかったものを、だんだん「忘れたり」と早々にあきらめてしまうようになった。そういうことを、読者に暗示しているのだ。そうでなければ、句にはならない。唄の題名は、正確には「雪の降る街を」(内村直也作詞・中田喜直作曲・高英男歌)だけれど、忘れたのだから誤記とは言えないだろう。歌詞よし、曲よし。私の好きな冬の唄の一つだ。しかし長生きすれば、きっとこの私にも、逃れようもなく「忘れたり」の日が訪れるのだろう。せめてその日まで、この句のほうはちゃんと覚えていたいものだと思った。『柿の木坂雑唱以後』(1990)所収。(清水哲男)


December 04122002

 冬枯や墾き捨てたるこのあたり

                           河東碧梧桐

味な句だが、ただの「冬枯(ふゆがれ)」でないところに、新しさを求めてやまなかった碧梧桐らしさがある。「墾き」は「ひらき」。一度は、人の手の入った荒れ地の冬枯れだ。そう遠くはない過去に、誰かが開墾した痕跡が歴然と残っている。区画がはっきりとしているだけではない。冬枯れた雑草に混じって、かつてここに植えられていたと思われる野菜などの末裔も見えているのだろう。種が自然にこぼれ散って、自然に生えてきたのだ。土地が痩せすぎていたのか、あまりに水の便でも悪かったのか、それとも墾いた人のまったく別の事情によるものなのか。いずれにせよ、墾いた人の目論みはあっけなく挫折してしまったのだ。そんなふうに、打ち捨てられた「このあたり」には、いつもいろいろなことを想像させられる。ドラマを感じる。ましてや今は寂しくも侘しい冬枯れの景を眼前にしているのだから、ドラマはより暗いほうへと傾いていく……。「このあたり」がどのあたりなのかは知る由もないけれど、そんなに人里離れた土地ではないだろう。ぶらりと散歩にでも出れば、すぐ近くにあるような場所だと思う。昭和の初期くらいまでは、まだどこにも土地が潤沢に余っていた。だから、案外あっさりと「墾き捨て」ることができたのかもしれない。『現代詩歌集』(1966・河出書房)所載。(清水哲男)


December 05122002

 マスクして人の怒りのおもしろき

                           上野さち子

語は「マスク」。冬に分類したのは、風邪が流行る季節だからだろう。昨今では、スギ花粉症に悩まされる人がよくかけているので、瞬間、別の季節を連想した読者もおられるかもしれない。句は、大きなマスクをした人が、盛んに怒っている図だ。通りすがりに見かけて、ちょっと足が止まった。その人は大声で何かを言っているのだが、マスクに声がこもってしまって、明瞭には聞き取れない。口も鼻も覆われているし、わずかに目の光りだけが怒りの形相を伝えてくる。まことに恐ろしげな目つきで、しかし、言葉はモゴモゴだ。笑っては失礼かと思うが、作者は思わず吹きだしそうになってしまった。それを「おもしろき」と単純素朴に押さえているところが、それこそ実におもしろい。何が原因で怒っているのかは知らねども、たしかに第三者として見ていると、句のとおりに「人の怒り」に笑いを誘われることがある。そして、そんなに、こっちが笑いたくなるほど逆上することもあるまいにとも思う。むろん、これは第三者の心の余裕が思わせることなのだが……。といって、句はマスクの人を揶揄しているのではない。むしろ、つくづく人間とは「おもしろき」生き物よと感心しているのである。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 06122002

 土は土に隠れて深し冬日向

                           三橋敏雄

たり前のことを言うようだが、「土(つち)」には深さがある。だが、川や海の深さのようには、あるいは土の上に積もる雪の深さのようには、土のそれを、日ごろは気にも止めずに過ごしている。また、しばしば詩人は空の深さを歌ってきたけれど、土については冷淡なようだ。このことは、おそらく深さの様相が可視的か否かに関連しているのだろう。「土は土に隠れて」いるので、深さを見ることができない。見ることができない対象には、なかなか想像力も働かない。ちょっとした穴を掘れるのも、大根を引っこ抜けるのも、むろん土に深さがあるからだ。なのに、そうしたときにでも、あらためて土の深さを観念的にも感じることがないのは、面白いといえば面白い。ところが、掲句を読めば、ほとんどの人が素直に句意にはうなずけるだろう。土の深さを実感するだろう。極端には「凍土(とうど)」というくらいで、とりわけて冬の土は冷たい地表のみが際立つ。霜柱の立つような表面だけを、私たちはフラットに意識する。が、たまたま心に余裕があって「日向」にたたずみ、明るい土を眺めることができるとすれば、表面的にも柔らかく見える土の可視的な表情から、自然に深さ(言い換えれば「豊饒」)を感じ取ることになるのだと思う。昨日の東京は格別に暖かく、日向にあって、こんなふうに実感した人も少なくないだろう。私も、その一人だったので、この句をみなさんにお裾分けしておきたくなったという次第だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣)所載。(清水哲男)


December 07122002

 母にのこる月日とならむ日記買ふ

                           古賀まり子

記帳を買うときには、誰でも来年に対する思いがちらと頭をかすめる。どんな年になるのだろう……。そんな思いがあるので、素直に「日記買ふ」が季語として受け入れられてきたのだろう。私が市販の日記帳を買っていたのは十代のときまでだったから、頭をよぎったのは進級だとか受験だとかと、学校にからんだことが多かったような記憶がある。まことに暢気にして、かつ世間が狭かった。掲句からは、作者の母親が重い病気であることが知れる。この新しい日記のページのどこかで、ついに不吉なことが起きるかもしれない。考えたくもないけれど、現実をうべなえば「母にのこる月日とならむ」とつぶやかざるを得ないのである。作者自身が若年のころから病弱で、母一人子一人の生活だったと、何かで読んだ記憶がある。たしか「死に急ぐな」と、母に叱咤された句もあったはずだ。それだけに、なおさら母親のことが我が身にのしかかってくる。年の瀬。はなやかな日記帳やカレンダーの売り場で、どれを買おうかと選っている人の姿をよく見かける。胸中には、どんな思いが秘められているのだろうか。このような句を知ってしまうと、ふっとそういう人たちの顔を見たくなったりする。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 08122002

 旅にみる灯ぬくき冬よ戰あるな

                           飴山 實

後十年目に詠まれた句。旅の途次での夜景だ。車窓からの眺めかもしれない。見渡すと、あちこちに人家の「灯」が点々とともっている。外気はあくまでも冷たいが、それらの「灯」はとても「ぬく」く感じられる。この「ぬくき灯」の点在こそが、平和というものなのだ。二度と「戰」などあってはならない。と、理屈ではわかっても、この句を実感として受け止められる人は、もう国民の半分もいなくなってしまった。そう思うと、複雑な気持ちになる。戦時中の灯火管制と頻繁に起きた停電とで、往時は町中でも真っ暗だった。敗戦後に、人々がもっとも解放感を味わったことの一つは、まぎれもなく夜の「灯火」を自由に扱えるようになったことである。多くの人が、その喜びを話したり書いたりしている。掲句もまた、その喜びの余韻のなかで詠まれているわけで、だからこそ「戰あるな」が痛切な説得力を持つ。ここで思い出されるのは、かつての湾岸戦争で、イラクを一番手で空爆したアメリカ兵士のコメントだ。「バグダッドの街は、まるでクリスマス・ツリーのように輝いていた……」。そのときに、かりに彼にこの句が読めたとしても、真意はついに理解できないだろうなと思った。現代の戦争は「灯」を消そうが消すまいが関係はないのだけれど、そういうことではなくて、彼には「灯」から人間の生活を思い描く能力が欠如している。素直にキレいだと言っただけであって、正直は認めるが、この正直の浅さがとても気になった。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 09122002

 はつ雪の降出す此や昼時分

                           傘 下

のところ、東京地方もぐっと冷え込んできた。もしかすると、今日あたりには、白いものが舞い降りてくるかもしれない。降れば、初雪だ。そんなことを思って「初雪」の句をあちこち探していたら、柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)で掲句を見つけた。「此」は「ころ」と読む。句は面白くも何ともないけれど、しかし宵曲の解説に、ちょっと立ち止まってしまった。曰く「読んで字の如しである。何も解釈する必要はない。こんなことがどこが面白いかという人があれば、それは面白いということに捉われているのである。芭蕉の口真似をするわけではないが、『たゞ眼前なるは』とでもいうより仕方あるまい」。私は、このページを書いていることもあって、毎日、たくさんの句を読んでいる。なかに結構、掲句のような「面白くも何ともない句」がある。そういう句に出会うと、くだらないと思うよりも、何故この人はこういう面白くもないことを書くのだろうという不思議な気持ちになることのほうが多い。宵曲の言うように、たぶん私も「面白いということに捉われている」のだろう。が、逆に面白さに捉われないで書く、あるいは読むということは、どういうことなのか。「面白さに捉われない」心根は、ある種の境地ではあると思うが、その境地に達したとして、さて、何が私に起きるのであろうか。(清水哲男)


December 10122002

 雪は来でから風きほう空凄し

                           河合曽良

語は「から風(空風)」で冬。句のように、雪や雨をともなわない、乾いた山越しの強い北風のこと。昔から、上州(群馬県)や遠州(静岡県西部)の名物として知られる。こいつにまともに吹かれると、目もなかなか開けていられず、口の中には砂が入ってジャリジャリする。それよりもなによりも、寒さも寒し。身を切られるようである。思わず空を見上げれば、誰でも曽良と同じように「凄し」と感じるだろう。ただ、この「凄し」という措辞に句の命があるのだけれど、昨今では「凄い」がいささか安売り気味なので、私たちの感受性が作者の実感にぴったり重なるかどうかは心もとない。何かにつけて、いまは「凄い」「すげえ」「すんご〜い」が連発されている。元来の「凄い」は、心に強烈な戦慄や衝撃を感じさせる様子をいうのだから、昔の人はめったなことでは「凄い」とは言わなかったはずだ。そんなに、そこらへんに「凄い」と感じることなど転がってはいなかった。その意味からすると、タレントが逆立ちして歩いたくらいで「すんご〜い」と言うのは、いかがなものか。そうした「すんご〜い」を聞いただけで、他人事ながら赤面しそうになる。言葉の意味を軽く使うことを一概に否定するつもりはないけれど、いまどきの「凄い」のあまりの軽さは、それこそ「すごすぎない?」でしょうか。(清水哲男)


December 11122002

 手にみかんひとつにぎって子が転ぶ

                           多田道太郎

語は「みかん(蜜柑)」で冬。まだ幼い「子」が「みかん」を握ったまま転んじゃった。そのまんまと言えば、そのまんまの句だ。ただ、それだけのこと。あらためて句景を説明する必要もないが、しかし、観賞する必要はあるだろう。というのも、転んだ子にとっての「みかん」は単なる「みかん」ではなく、とても大切なものの象徴と、自然に読めるからだ。転んで泣いても、この子はきっと「みかん」を握って放さなかったろう。そのことは「手にみかんひとつにぎって」というくどいほどの描写から、必然的に浮き上がってくるイメージだ。こんなときには「アホやなあ」と抱き起こし、微笑するのが周囲の大人の常だけれど、作者は微笑しつつも、ちらりとこの子に羨望の念のようなものを覚えたのではあるまいか。大切なものを握っているがゆえに転ぶということなどは、世故にたけた大人の世界ではなかなか見られない。たいていが転ばぬ先に、大切なものを手放してしまう。自分もまた、そうしてきた。でも、誰にだって、この子のように後先考えずにふるまった過去はあったのだ……。むろん理屈としてではなく、とっさにそうした感情が作者の胸をよぎった。掲句が心に響くのは、転んだ子の無垢への羨望もあるが、同時にみずからの幼少期に対する羨望の念が込められているからだと思える。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


December 12122002

 ラグビーのボール大地に立てて蹴る

                           粟津松彩子

語は「ラグビー」で冬。あらためて言われてみると、なるほど「ラグビーのボール」は「立てて蹴る」。ゴール・キックの情景だ。句の妙は、ラグビーのフィールドを一気に「大地」に拡大したところにあるだろう。読者がそう実感できるのは、やはり「立てて蹴る」からなのだ。キックの前には競技が止まり、キッカーは息を詰めるようにして慎重にボールを立てる。この行為を、誰も助けてはくれない。孤立無援の行為だ。このときの彼の意識には、だから束の間敵も味方も何もなく、ただあるのはボールとそれを立てるべき地表だけとなる。全神経の集中が、彼にまるで「大地」のなかにひとり放り出されたような感覚を呼び起こす。見ている観客にも、それが伝わってくる。そしてねらいを定め、高々と「蹴る」。蹴った瞬間から、徐々に彼のなかには現実が戻ってくる。敵味方が動き、観客としての作者にも競技が戻ってくる。このいわば白い緊張感が、「大地に」と言ったことで読者の眼前に鮮かとなった。昔からラグビーの句はけっこう数詠まれてきたが、試合中の具体的なシーンそのものを詠んだ句はあまり見かけない。その意味でも珍しいが、作者はよほどのラグビー好きなのだろうか。蛇足ながら、作者八十九歳の作句だ。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


December 13122002

 暦果つばしやんばしやあんと鯨の尾

                           田中哲也

語は「暦果つ(暦の果・古暦)」で冬。当今の日めくりカレンダー的感覚で、暦の果てる大晦日の句と読んでもよい。が、この季語には、元来もう少し時間的な幅がある。昔の暦は軸物で、巻きながら見ていった。十二月の終わりころになると、軸に最も近いところを見ることになるわけで、それ以上は先がない。すなわち「暦果つ」なのだ。したがって掲句も、そろそろ今年もお終いかという気分でも読むことができる。さて、句の「ばしやんばしやあん」が、実に効果的に響いてくる。しかも、音立てているのは巨大な「鯨の尾」だ。回顧すれば、今年もいろいろなことがあった。しかし、そうした事どもを空無に帰すかのように、聞こえてくるのはただ「ばしやんばしやあん」と、遠い海のどこかで浮きつ沈みつ、鯨が繰り返し水を叩いている音だけなのである。この想像力は、素晴らしい。藤村ではないが、「この命なにをあくせく……」の人間卑小の思いが、「ばしやんばしやあん」とともに静かにわき上がってくるではないか。一種の無常観を詠むに際して、このように音をもって対した俳句を、寡聞にして私は他に知らない。無常の世界にも、たしかな音があったのだ。「ばしやんばしやあん」と、今年も暮れてゆきます。『碍子』(2002・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


December 14122002

 水洟や仏観るたび銭奪られ

                           草間時彦

語は「水洟(みずばな)」で冬。「奈良玄冬」連作のうち。せっかく奈良まで来たのだからと、寒さをおしての仏閣巡り。あまりの寒さに鼻水は出るわ、先々で銭は奪(と)られるわで、散々である。作者の心持ちは、さしずめメールなどでよく使われる「(泣)」といったところか(笑)。「銭奪られ」で思い出したが、十年ほど前の京都は某有名寺院でのこと。拝観受付窓口のおっさんに「いくらですか」と尋ねたら、ムッとした顔でこう言った。「ここは映画館やないんやから、そういうシツレーな質問には答えられまへんな」。「は?」と、おっさんに聞き直した。すると、ますます不機嫌な声で「『いくら』も何もありまへん。ここは、訪ねてくださる方々のお気持ちを受け取るところですから」と言う。さすがに私もムッとしかけたが、なるほど、おっさんの言うことにはスジが通っている。「ああ、そうでしたね。失礼しました。では、どうやって気持ちを表せばよいのでしょうか」と聞くと、おっさんはプイと横を向いてしまった。とりつくしまもない態度。で、ふっと窓口の上のほうを見たら「拝観料○○○円」と墨書してあった。「ナニ体裁の良いこと言ってやがるんだ、このヤロー。これじゃあ映画館と同じじゃねえか」。そう怒鳴りつけたかったが、そこはそれ、ぐっとこらえて○○○円を差し出すと、おっさんはソッポを向きながらもしっかりと「銭」を受け取り、なにやらぺなぺなのパンフレットを放り投げるように寄越したことでした。ありがたいことです(泣)。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


December 15122002

 羽子板市月日渦巻きはじめたり

                           百合山羽公

語は「羽子板市」で冬。東京では、毎年12月18日が浅草寺の縁日にあたり、この日をはさんだ三日間、境内で開かれる。はじまりは、今から約350年ほども昔の江戸時代初期(万治年間・1658年)頃だという。東京で暮らしていながら、私は一度も行ったことがない。出不精のせいもあるけれど、たいていは仕事と重なってしまって、テレビや新聞でその光景を見るたびに、来年こそはと思いつつ果たしていない。今年も、仕事で駄目だ。この句の魅力には、実際に出かけた人ならではのものがある。私のように報道で知って、ああ今年もそろそろ終わりかと思うのではなく、歳末を肌身でひしと感じている。「月日渦巻きはじめたり」は、華麗な押絵羽子板がひしめきあう露店と、これまたひしめきあう人々との「渦巻き」のなかにいるときに、そうした市の雰囲気が、作者をして自然に吐かしめた言葉だと思う。すなわち、句作のためにたくらんで「月日…」と表現したのではなく、雑踏に押しだされるようにして出てきた「月日…」なのだ。すなわち、作者は羽子板市に酔っている。そうでなければ、渦中にいなければ、「渦巻きはじめたり」の措辞はいささか気恥ずかしい。こういう句には、現場を踏んでいるがゆえの強い説得力を感じさせられる。なお、掲句については以前に(1996/12/17)書いたことがあるのだが、あまりに舌足らずだったので、書き加えておくことにしました。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 16122002

 冬服の紺まぎれなし彼も教師

                           星野麥丘人

通りに読める。一つは「教師」である「彼」その人を知っている場合だ。昨今でも、いったいに教師の装いは地味である。が、そんななかで、彼はいささか洒落たデザインの冬のスーツを着て職場に出てきた。作者は一瞬「おっ」と目を引かれたけれど、しかしデザインはともかく、服地の色が押さえた「紺」であったことで、やはり「まぎれなし」に「彼も」教師なんだなあと微笑している。もう一つの読みは、電車などにたまたま乗りあわせた見知らぬ他人の場合だ。同じような理由から、その人は十中八九教師に違いないと思ったというのである。こちらの解釈のほうがほろ苦くて、私は好きだ。他人の職業を見破ったからといって、何がどうなるというわけではないのだけれど、すうっとその人に親近感がわいてくる。と同時に、教師なんてみんなヤボなものだなあと、ちょっと自嘲の念も生まれている。この味は、それこそ「まぎれなしに」ほろ苦い。教師でなくても、一般的に同業者同士は、お互いにすぐにわかりあえる雰囲気を持っている。このときに、見破る大きなキーとなるのは、やはり服装だろう。私が日ごろよく接している人の職業は、メディア関係が多い。放送局、出版社、新聞社の人々だが、一見それぞれの服装が同じように見えるスーツ姿でも、微妙に異っているところが面白い。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 17122002

 天網恢恢疎にして枯けやき

                           三宅やよい

の項「枯木」に分類しておく。私の住む武蔵野一帯は、昔から「けやき」の樹の多いところで、俳句や短歌にもよく詠まれてきた。もうすっかり葉は落ちてしまい、枝だけが高いところで四方八方に張っている。ことに早朝の澄んだ大気の中で、明けてくる空を背景に黒々と網目状に広がって見えるシルエットは、息をのむような美しさだ。句の言うように、なるほどあれは「天網(てんもう)」である。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして」の後は、御存知のように「漏らさず」とつづく。老子の「天網恢恢、疎而不失」より来ている。天の張った網目はあらいようだけれど、悪人を決して見逃すことはないという教訓だ。中学生のころに教室で習ってから、ついぞ思い出すこともなかつたが、掲句のおかげでよみがえってきた。といって、句の力点は教訓の中身にあるのではないだろう。あくまでも抽象的な「天網」の形状を、偶然に「枯けやき」のシルエットに発見した(ような気持ちになった)嬉しさを詠んでいる。「天網恢恢……」といかめしげな言葉の最後で、ポンと「枯けやき」に振った詠みぶりが、いかにもこの人らしい。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


December 18122002

 声を出すラジオの前の置炬燵

                           南村健治

語は「炬燵(こたつ)」で冬。職業柄、「ラジオ」の句は気にかかる。でも、最初に読んだときには、どういう情景を詠んだ句なのかわからなかった。というのも、そのままに「声を出すラジオ」と読んでしまったからだ。ラジオが声を出すのは、あまりにも当たり前すぎて、どこが面白いのかさっぱり理解できない。はてなと、しばらく睨んでいるうちに納得。実は「声を出す」はラジオだけにかかっているのではなくて、「置炬燵」にもかけられているのだと思えたからだ。そう読むと、にわかに掲句は愉快に動き出す。私の想像では、情景は次のようになる。ラジオを聞きながら置炬燵で暖まっていた人が、トイレに行くとか何かの都合で、ちょっと席を外したのだ。と、そこにポツンと残されたのは「声を出」しているラジオと、その「前の」声を出していないない置炬燵だけだ。人間が関わらない場合のラジオも置炬燵も、お互いに単なるポータブルな箱であるに過ぎない。そのことに気づいた(?!)置炬燵が、対抗してちょっと「声を出」してみたという、現実にはあり得べからざる情景……。と、ここまで書いて、もう一度句に戻ると、いや、いくら何でも、そんな突飛なことを詠むはずはないとも思えてくる。しかし、たとえ作者の意図から外れていたとしても、私は私の勝手な想像が大いに気に入っている。俳句の読みには、常にこういうことがつきまとう。そこに、無論そこだけではないけれど、俳句を読む楽しさがある。なあんて、単なる言いわけかもね。『大頭』(2002)所収。(清水哲男)


December 19122002

 海くれて鴨のこゑほのかに白し

                           松尾芭蕉

享元年(1684年)十二月の句。前書に「尾張の国あつた(熱田)にまかりける此、人びと師走の海みんとて船さしけるに」とある。寒い師走の夕暮れどきに海を見るために船を出すとは、何と酔狂なと思ってしまうが、これまた風流の道の厳しいところだろう。もはや日は没していて、夕闇のなかを行き交う船もなし。しばらく櫓を漂わせた静寂にひたっていると、不意にどこからか「鴨のこゑ」が聞こえてきた。そちらのほうへ目を凝らしてみるが、むろん暗くて姿は見えない。もしかすると、空耳だったのだろうか。そんな気持ちを「ほのかに白し」と詠み込んでいる。この句は、聴覚を視覚に転化した成功例としてよく引かれるけれど、芭蕉当人には、そうした明確な方法意識はなかったのではないかと思う。むしろ、空耳だったのかもしれないという「ほのか」な疑念をこそ「白し」と視覚化したのではないだろうか。聞こえたような、聞こえなかったような……。そのあやふやさを言いたかったので、見られるとおりに、あえて「五・五・七」と不安定な破調を採用したのではなかろうか。そう読んだほうが、余韻が残る。読者は芭蕉とともに、聞こえたのか聞こえなかったのかがわからない「白い意識」のまま、いつまでも夕闇につつまれた海を漂うことができる。(清水哲男)


December 20122002

 届きたる歳暮の鮭を子にもたす

                           安住 敦

よそ士農工商、互に歳暮を賀す。と、歳暮は江戸時代からの風習で、元来は餅や酒など食品を贈ったようだ。したがって、句の「鮭」はならわしにのっとった歳暮ということになる。「ほうら、大きいだろう」。作者は箱から取りだした鮭を、「持ってごらん」と子供に差し出した。抱えてみて、その大きさと重さにびっくりした子供の様子に、微笑を浮かべている。見た目にはそれだけの、師走の家庭でのほほ笑ましい一齣だ。が、この句にはちょっとした淡い含意がある。口にこそ出してはいないが、作者は子供に対して、鮭の大きさを自慢しているのだ。故郷からの歳暮であれば、内心で「どうだ、父さんは、こんなに大きな鮭がたくさん獲れるところで育ったのだぞ」とでも……。また、故郷とは無関係の人からのものであれば、こんなに立派な歳暮をくれる親しい友だちがいることを、やはり自慢している。子供相手に他愛ないといえばそれまでだけれど、こういう気持ちは誰にでも多少ともあるのではなかろうか。少なくとも、私にははっきりとあります(苦笑)。そんな隠し味を読むことで、はじめて、何でもないような情景が句として立ち、味が出てくるのだと思った。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 21122002

 なほ赤き落葉のあれば捨てにけり

                           渡部州麻子

所に見事な銀杏の樹があって、たまに落葉を拾ってくる。本の栞にするためである。で、拾うときには、なるべく枯れきった葉を選ぶ。まだ青みが残っているものには、水分があるので、いきなり本に挟むと、ページにしみがついてしまうからだ。私の場合は、用途が用途だけに、一枚か二枚しか拾わない。ひるがえって、掲句の作者の用途はわからないが、かなりたくさん拾ってきたようである。帰宅して机の上に広げてみると、そのうちの何枚かに枯れきっていない「赤き」葉が混じっていた。きれいだというよりも、作者は、まだ葉が半分生きているという生臭さを感じたのだろう。私の経験からしても、表では十分に枯れ果てたと見えた葉ですら、室内に置くと妙に生臭く感じられるものだ。そんな生臭さを嫌って、作者は「赤き」葉だけではなく、その他も含めて全部捨ててしまったというのである。全部とはどこにも書かれていないけれど、「捨てにけり」の断言には「思い切って」の含意があり、そのように想像がつく。と同時に、捨てるときにちらっと兆したであろう心の痛みにも触れた気持ちになった。「赤」で思い出したが、細見綾子に「くれなゐの色を見てゐる寒さかな」があり、評して山本健吉が述べている。「こんな俳句にもならないようなことを、さりげなく言ってのけるところに、この作者の大胆さと感受性のみずみずしさがある」。句境はむろん違うのだけれど、掲句の作者にも一脈通じるところのある至言と言うべきか。「俳句研究」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


December 22122002

 クリスマス馬小屋ありて馬が住む

                           西東三鬼

戦後、三年目(1948)の作。このことは、解釈にあたって見落とせない。クリスマスから「馬小屋」を連想するのは自然の流れであり、馬小屋に「馬が住む」のも当たり前である。が、そういうことが必ずしも当たり前ではなかった時代があった。茶木繁が昭和十五年(1940)に書いた、次の詩を読んでいただきたい。タイトルは「馬」。「馬はだまっていくさに行った 馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれた 御国のために/それでも起とうと 足うごかした 兵隊さんがすぐ駆け寄った/それでも馬はもう動かない/馬は夢みた 田舎のことを/田んぼたがやす 夢みて死んだ」。もとより「兵隊さん」もそうだったが、万歳の声に引きずられるように戦地に駆り出され、ついに帰ってこなかった農耕馬たちは数知れない。したがって戦後しばらくの間、馬小屋はあっても、馬がいない農家は多かったのだ。だから、作者は馬小屋に馬がいることにほっとしているというよりも、ほとんど感動している。馬小屋でキリストが誕生したお話などよりも、馬小屋に当たり前に馬がいることのほうが、どれほど心に平安をもたらすか。敬虔なクリスチャンを除いては、まだクリスマスどころではなかった時代の、これは記念碑的な一句と言えるだろう。『西東三鬼全句集』(1971)所収。(清水哲男)


December 23122002

 羊飼ぞろぞろしつゝ聖夜劇

                           森田 峠

年期が戦争中だったので、キリストやサンタクロースのことを知ったのは、小学校六年生くらいになってからだった。新しく着任された校長先生が熱心なクリスチャンで、その方からはじめて教えられた。草深い田舎の小学校。我ら洟垂れ小僧に、先生はある日突然、クリスマス・パーティの開催を提案された。上級生だけの会だったと思う。見たことも聞いたこともないクリスマス・ツリーなるものを何とか作りあげ、ちょっとした寸劇をやった記憶は鮮明だ。句のように、主役級からこぼれ落ちた残りの連中は「ぞろぞろしつゝ」羊飼になった。おお、民主ニッポンよ。筋書きにあったのはそこまでだが、寸劇が終わるとすぐに、洟垂れ小僧、いや「羊飼」一同があっと驚くパフォーマンスが用意されていたのだった。サンタクロースの登場である。いまどきの子供とは違って、なにしろサンタクロースのイメージすら皆無だったから、驚いたのナンのって。人間というよりも、ケダモノが教室に乱入してきたのかと、度肝を抜かれて身がこわばった。むろん、校長先生の扮装だったのだが、あんなにびっくりしたことは、現在に至るもそんなにはない。そしてそれから、呆然とする羊飼たち一人ひとりに配られたのは、忘れもしない、マーブル状のチョコレートで、これまた生まれて初めて目にしたのである。「食べてごらん」。先生にうながされて、おずおずと口にしたチョコレートの美味しかったこと。でも、二粒か三粒食べただけで、我ら羊飼はみな、それ以上は決して食べようとはしなかった。誰もが、こんなに美味しいものを独り占めにする気にはなれなかったからだ。家に帰って、父母や弟妹といっしょに食べたいと思ったからだ。チョコを大事にチリ紙に包み、しっかりとポケットに入れて夕闇迫る校庭に出てみると、白いものが舞い降りていた。おお、ホワイト・クリスマス。これから、ほとんどが一里の道を歩いて帰るのである。掲句を読んで思い出した、遠い日のちっちゃなお話です。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


December 24122002

 屋台とは聖夜に背向け酔ふところ

                           佐野まもる

っはっは。狷介というのか、世を拗ねているというのか。私にも、こんなふうな若き日がありました。クリスチャンでもないくせに、浮かれている人々が憎らしくもあり、嫉ましくもあり……。屋台のおやじさん相手に、ひとしきり不満をぶちまけて、安酒をあおったものです。文字通りに「聖夜に背向け」酔っていました。でも、当時の本音を叩けば、誰もいっしょに過ごす人がいないので、ただ心寂しかっただけのようでもあります。といって、今でもべつに進んで祝う気持ちはありませんが、楽しげな人々を見て、腹立たしく思うこともなくなりました。クリスマスであれ、何であれ、人は楽しめるときに楽しんでおかないと……、という心境に変化しています。これが、きっとトシのせいというものなのでしょう。その点、我が若き日に比べると、いまの若い人たちはとても楽しみ上手に見え、羨ましいかぎりです。さて、どうでしょうかね。そうはいっても、今夜も広い日本のどこかには、句のように屋台に坐って肩そびやかしている若者が、きっといるのでしょうね。それもまた青春、よしとしましょうや。では、メリー・クリスマス。大いにお楽しみください。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 25122002

 橇がゆき満天の星幌にする

                           橋本多佳子

語は「橇(そり)」で冬。途方もなくスケールが大きく、かつ見事に美しい情景だ。ロマンチックとは、こういうことさ。と、読んだこちらのほうが力みかえりたくなってしまう。昭和ロマンともてはやされた、戦前のシルエット調の挿し絵やカットの類が、作者の頭にはあったのかもしれない。見渡すかぎりの雪原だ。そのなかを「満天の星」を「幌(ほろ)にして」行く小さな黒い橇は、ほとんど進んでいないかのように見える。遠望している作者の耳には、おそらく鈴の音も聞こえていないだろう。まさに、息をのむように美しいシルエットの世界だ。実景というよりも、幻想に近い。いや、実景を幻想にまで引き上げた句と言うべきか。素敵だ。私が育った山陰の村でも、雪が降れば橇の出番があった。しかし、それらはみな木材や炭俵などを運ぶためのもので、どう見てもロマンチックとはほど遠かった。むろん、幌無しだ。馬が引き、牛が引き、そして人も引きという具合。学校帰りに、たまたま通りかかった橇に、よく無断で飛び乗っては叱られたものだ。あれ以来、一度も橇に乗ったことはない。掲句の橇にも実際には幌がついていないのだから、案外、そんな橇だったとも考えられる。だとすれば、より親近感がわいてくる。そして、表現力のマジックを思う。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 26122002

 街騒も数へ日らしくなつて来し

                           境 雅秋

語は「数へ日」で冬。年内も押し詰まって、残った日を指折り数えられるようになること。「街騒」は造語だろう。「がいそう」とでも読むしかないが、句面を見る目には、それこそちと騒がしくも重たい(笑)。でも、言いたいことはよく出ている。つい昨日まで商店街に流れていたクリスマス音楽がぱたりと止まると、急に人声や足音、さらには車や電車の音などが生々しく聞こえるようになる。それも、クリスマス商戦以前とは違い、だいぶテンポやリズムが慌ただしい。そういえば、作者自身もせかせかと歩いていることに気がついているのだ。「ああ、今年もそろそろお終いか」という感慨を、街の音に絞って表現したところに妙味がある。他に「数へ日や二人の音を一人づつ」(土橋たかを)などもあり、年の暮れの慌ただしさを「音」に感じている人は、けっこうおられるようだ。除夜の鐘の「音」まで、「数へ」てみれば、あと五日しかないのですね。私は、今日も仕事で街に出かけます。出かけたら、吉祥寺の「街騒」のなかで、おそらくこの句を思い出すことになるのでしょう。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

[「街騒」の読み方 ]数人の読者から、「潮騒」のように「まちさい」あるいは「まちざい」と読むのではないかというご指摘を受けました。角川書店編の「吟行・句会」必携の374頁に「まちざい」「まちざゐ」と載っているそうです。知りませんでした。ありがとうございました。


December 27122002

 一舟もなくて沖まで年の暮

                           辻田克巳

はるかす海原には、「一舟(いっしゅう)」の影もない。普段の日だと、どこかに必ず漁をする舟などが浮かんでいるのだが、今日は認めることができない。みな、年内の労働を終えたのだ。いよいよ、今年も暮れていくという感慨がわいてくる。句の要諦は、むろん「沖まで」の措辞にある。「年の暮」の季語は時間を含んでいるので、四次元の世界だ。その時間性を遠い「沖まで」と、三次元化(すなわち、視覚化)してみせたところが素晴らしい。つまり、意図的に時間を景色に置き換えている。作者は、見えないはずの「年の暮」の時間性を「沖まで」と三次元的に表現することにより、読者にくっきりと見せているのだ。ここで、読者は作者とともに遥かな沖を遠望して、束の間、ふっと時間を忘れてしまう。そして、またふっと我に帰ったところで、あらためて「年の暮」という時間を噛みしめることになる。へ理屈をこねれば、時間を忘れている束の間もまた時間なのだが、この束の間の時間性よりも、句では束の間の無時間性、空白性を訴える力のほうがより強いと思う。時間を束の間忘れたからこそ、あらためて「年の暮」の時間が身にしみて感じられるのである。「俳句界」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


December 28122002

 銭湯や煤湯といふを忘れをり

                           石川桂郎

日あたりは、大掃除のお宅が多いだろう。昔風に言うと「煤払(すすはらい)」ないしは「煤掃(すすはき)」である。十二月十三日に行うのが建前(宮中などでの年中行事)だったが、これではあまりに早すぎるので、だんだん大晦日近くに行うようになった。句の「煤湯(すすゆ)」は、煤払いでよごれた身体を洗うための入浴のこと。宮中事情は知らねども、昔は家の中で火を使うことが多かったので、煤の量たるや半端ではなかった。両親が手拭いで顔と頭をしっかりと覆ってから、掃除していた姿を思い出す。そんな大掃除を終えて、作者は「銭湯」に出かけてきた。広い浴槽で「やれやれ」と安堵感にひたっているうちに、ふと「ああ、これを『煤湯』と言うのだったな」と思い出している。銭湯だから、まわりの誰かが口にしたのだろう。「忘れをり」は、久しく忘れていたことを思い出したということだ。ただそれだけの句だけれど、思い出したことで、作者はちらりと風流を感じている。思い出さなければ、いつもの入浴でしかないのだが、思い出すことによって、今宵の入浴に味わいが出た。「煤湯」に限らず、こういうことはたまにある。何かの拍子に、久しく忘れていた言葉などが思い出され、平凡な日常にちょっとした味や色がついたりすることが……。それにしても、銭湯の数は激減しましたね。我が三鷹市では、人口一万二千人あたりに一軒の割合です。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 29122002

 着ぶくれて客観といふよりどころ

                           正木浩一

語は「着ぶくれ」で冬。俳論に「客観」は頻発するが、この言葉をそのまま俳句に詠み込んだのは、この人くらいのものだろう。でも、実によく効いている。寒いので「着ぶくれ」て、しかし、いくらなんでも着込みすぎたのではないか。不格好に過ぎやしないか。そんな思いで、作者は外出したのだ。そんな思いがあるから、普段は気にもとめない通りすがりの人々の服装に、つい目がいってしまう。ちらちらと眺めているうちに、けっこう着ぶくれている人が多いことに気がついた。なかには、自分などよりもよほど大袈裟な感じで着込んでいる人までいる。なあんだ。うじうじと着ぶくれを気にしていたさきほどの心細さが薄れてきて、ほっとしている。すなわち、他者と我とを見比べる「客観」が「よりどころ」になっての安堵なのである。この句で、思い出した。詩人の田村隆一が酔って転んでしばらく杖をついていたときに、聞いたことがある。「君ねえ、なんとまあ、世の中には杖をついてる奴がうじゃうじゃいることか」。つまり、杖をついているのは俺だけじゃなかったんだと、そこで詩人はほっとしていたわけで、これまた掲句の「客観」に通じて得られた安堵感だろう。人は、なかなか厳密な意味での客観性を持つことはできない。人は自分に似たような人しか見えないものだし、理解できない。言外に、そういうことを言っている句だと思う。「効いている」と感じた所以である。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


December 30122002

 豆腐屋のおから濛々年の暮

                           須原和男

日あたりが、正月用意のための買い物のピークだろうか。といっても、最近は正月二日から大半の店が開くので、さして買い込んでおく必要はない。そこへいくと、昔は三が日はどこも店を閉めたから、暮れの買い物は大変だった。荷物持ちのために亭主はむろん、子供もつきあわされ、普段は静かな商店街も大賑わい。そんな街でのヒトコマだ。当時の歳末の豆腐屋の様子は、たしかにこんなだったなあ。「おから」の湯気が「濛々(もうもう)」と店先にまで立ちこめ、その活気にうながされて、つい多めに買ってしまったりしたものだ。また、並びの魚屋や八百屋では威勢のいい売り声が飛び交い、街角には縁起物の市も立ち、焚火の煙がこれまた威勢よく上がっていた。パック物など無かったから、豆腐は一丁から買い、油揚げは一枚から買い、葱なども一本から買ったのだから、買い物メモは手放せなかった。メモを片手にあっちへ行ったりこっちへ来たりしているうちに、やがて日暮れ時となり、ああ今年も暮れてゆくのかと、故知らずセンチメンタルな気分になったことも懐しい。何でもかでも「昔はよかった」と言うつもりはないが、商店街での歳末の賑わいぶりだけは、昔のほうが格段によかった。賑やかさのなかに、ほのかな哀愁が漂っていた。『式根』(2002)所収。(清水哲男)


December 31122002

 おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘

                           山口青邨

とに著名な句だ。数々の歳時記に収録されてきた。時ならぬ深夜の鐘の音に、びっくりした犬が吠えている。いつまでも、吠えたてている。その犬を指して、作者は「おろかなる」と言ったわけだが、しかし、この「おろかなる犬」は単純に「馬鹿な犬め」ということではないだろう。ただ、犬は人間世界の事情を解していないだけのことなのであって、彼にとっては吠えるほうが、むしろ自然の行為なのだ。そんなことは百も承知で、あえて作者が「おろか」と言っているのは、むしろ犬の「おろか」を羨む気持ちがあるからである。「おろかなる犬」なのだから、人間のように百八つの煩悩などはありえない。ありえないから、「除夜の鐘」などはどうでもいいのだし、はじめから理解の外で生きていられる。だから、素朴に驚いて吠えているだけだ。ひるがえって、人間はなんと面倒な生き方をしていることか。犬のごとくに「おろか」ではないにしても、犬よりももっと「おろか」に生きているという認識が、除夜の鐘に吠える犬に触発されて出てきたというところ……。静かに句を三読すれば、句の奥のほうから、除夜の鐘の音とともに犬の吠える声が聞こえてくる。このときにほとんどの読者は、句の「おろかなる犬」にこそ好感を抱くだろう。(清水哲男)




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