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December 02122002

 黄落や大工六人の宇宙

                           河原珠美

語は「黄落(こうらく)」で秋。しかし、ただいま現在、我が家に近くの銀杏の落葉しきりなり。たまに拾ってきて、本の栞に使う。さて、掲句は黄落のなか、家の新築が進んでいる様子を詠んでいる。よく晴れた日だ。高いところには大工が六人いて、黙々と仕事をしている。そして、彼らよりもさらに高いところから、金色の葉がはらはらと舞い落ちている。青空を背景に、真新しい木の枠組みと、そこで働く大工たちの姿は、なるほど一つの「宇宙」を形成している。何度か見かけたことのある情景で、たいていはすぐに忘れてしまうのだけれど、こうして「宇宙」と断言されることにより、いつかどこかで見た記憶が鮮かに蘇ってくる(ような気がする)。そのときには、決して「宇宙」と認識して見たわけではないのだが、潜在的にはぼんやりとでも「宇宙」ととらえていたのだろう。そして、この「宇宙」にリアリティを与えているのは「黄落」でもなければ「大工」でもない。「六人」である。実際に六人だったかどうかは、関係がない。仮に「七人」だとか「五人」だとかに入れ替えてみれば、実に六人が絶妙な数であることがわかる。「七人」では無理に「宇宙」をこしらえているようだし、「五人」では「ホントに五人だったのです」と力が入っている感じを受けてしまう。奇数と偶数のニュアンスの差だ。でも、これが「四人」や「二人」となると大工のいる高い位置と広いスペースが確保されないので、「宇宙」と呼ぶには狭すぎる。やはり「六人」しかないでしょうね。『どうぶつビスケット』(2002)所収。(清水哲男)


March 2232007

 菜の花や向こうに葬の厨見え

                           河原珠美

の花の向こうに厨(くりや)の戸が開け放たれており、喪服を着た女たちが入れかわり立ちかわり働いている様子が見えるのだろう。家で葬儀を営むことの少なくなった都会では隣近所が総出で通夜、葬儀を手伝う光景はあまり見かけなくなった。地縁の濃い田舎では、村の講や班が喪の準備を整え、悲しみにくれる家族に代わって食事の用意をするのは近所の女達の役割だった。地方によっては通夜、葬儀、法事の献立も決まっていると聞く。冠婚葬祭があるごと使えるよう公民館や共同倉庫に必要分の什器が保管されている村もある。そんな葬儀のしきたりや付き合いも村をささえる世代が高齢化していくにつれ希薄になっていく一方だろう。とは言え、弔問客へ簡単な食事を出したりお茶の用意をしたりと、葬儀の手伝いに女の力は欠かせない。「厨見え」の言葉に鯨幕を張り巡らした葬の表側と違う家の裏側の忙しさが想像される。畑の菜の花越しにちらりと目に留めた喪の家の厨を描いているのだから、作者とこの家とのかかわりは薄いのかもしれない。少し距離をおいて描かれているだけに、食を作る日常と、死との対比が菜の花の明るさにくっきりと照らし出されているように思える。『どうぶつビスケット』(2002)所収。(三宅やよい)




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