2003N2句

February 0122003

 明日ありやあり外套のボロちぎる

                           秋元不死男

語は「外套(がいとう)」で冬。敗戦後二年目の句だ。詩歌に「明日」が頻繁に登場したのは、戦後十数年までだろう。壊滅したこの国の人々は、とにかく「今日」よりも「明日」に希望をつないで生きるしかなかった。あのころ、澎湃(ほうはい)として沸き起こった労働争議を支える歌にも、無数の「明日」が刻み込まれている。だから、一口に「明日」と言っても、その内実、込められた思いは千差万別だった。ある人の「明日」には明るさがあり、ある人のそれには暗さしかなかった。こんなにも「明日」という言葉に、多面的な意味や情感が託された時代は、他になかったのではなかろうか。「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」(寺山修司)。掲句の作者はボロ外套を着て、街頭を歩いている。失意落胆、暗澹たる思いを打ち消すことができない。本当に、明るい「明日」はくるのだろうか。わからない。来ないかもしれない。そんな忸怩たる思いのなかで、作者はこれではならじと気を取り直した。「明日」は必ず「ある」のだ。と、外套のボロを引きちぎった。自分で自分を激励したのである。ボロを引きちぎる指先の力の込めように、激励の度合いが照応している。三段に切れた珍しい句だが、ぶつぶつと切れているからこそ、作者の心情がよく伝わってくる。『万座』(1967)所収。(清水哲男)


February 0222003

 白き巨船きたれり春も遠からず

                           大野林火

語は「春」。……と、うっかり書きそうになった。試験問題に出したら、間違う生徒がかなりいそうだな。正解は「春も遠からず(春近し・春隣)」で、冬である。林火は横浜に生まれ育った人だから、こうした情景には親しかった。大きくて白い、たぶん外国船籍の客船が、ゆったりと入港してくる。その「白き巨船」が、まるで春の使者のようだと言っている。むろん、船と季節との直接的な因果関係は何もないのだけれど、このように詠まれてみると、なるほど「春も遠からず」と思えてくるから面白い。私は山育ちだから、船が入港してくる様子などは、ほとんど知らない。知らなくても、しかし掲句には説得される。何の違和感も覚えない。何故なのだろうか。たぶん、それは「白き巨船」の「白」という色彩のためだろうと思う。これが、たとえば「赤」だったり「黄」だったり、その他の色だったりすると、なかなか素直にはうなずけそうもない気がする。多くの色のなかで、白色が最も光りを感じさせる。すなわち「巨船」はこのときに、大きな光りのかたまりなのである。そしてまた、来る春も光りのかたまりなのだから、ここで両者の因果関係が成立するというわけだ。ま、この句を、こんなふうなへ理屈を言い立てて観賞するのはヤボというものだろう。が、読後、私のなかで起きた「光りのかたまり」の美しいイメージのハレーション効果を忘れないために、ここに置いておこうと思ったのでした。『海門』(1939)所収。(清水哲男)


February 0322003

 鬼は外父よまぶたを開けられよ

                           葉狩淳子

語は「鬼は外」で冬。たいていの歳時記には「福は内」とともに、「豆撒(まめまき)」の項目に分類されている。掲句の作者は、節分の夜に父親を見舞っているのだろう。もはや昏々と眠りつづけるだけの病人の枕頭にあって、せめて「まぶたを開けられよ」と、祈るような作者の哀切な心持ちが伝わってくる。今宵は豆撒き。幼かったころに、十分に元気だった父親が、大声で「鬼は外」と撒いてくれた姿を思い出す。思い出していま、作者も心のうちで、何度も何度も「鬼は外」と繰り返しているのに違いない。こんなにも切ない豆撒きの日が、かつてあっただろうか。眠りつづける父親の顔を凝視しながら、移り行く時の非情を噛みしめている句だ。このときに「鬼」は、時の移ろいそのものである。研究者でもないので、大きなことは言えないが、元来の「鬼」は観念的な存在であったようだ。決して、桃太郎が退治した鬼たちのように、人前に姿をさらすことはなかった。人の知恵などでは、どうしようもない存在。たとえば、不意に疫病をまき散らしたりする邪悪にして、手のほどこしようもない存在……。そうしたことからすると、掲句の鬼は最も本義に適っていると言えるのではあるまいか。「足よりも筆の衰へ鬼やらひ」(清水基吉)。この鬼もまた、時の移ろいを指していて、私など文筆の徒には鬼のように怖く写る句だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0422003

 雪とけて村一ぱいの子ども哉

                           小林一茶

の上では、今日から春。といっても、急に雪が解けるわけではなし、まだまだ寒い日がつづきます。故郷の雪国で詠まれた掲句は、まだ二ヵ月ほど先のものでしょう。春の訪れた喜びを胸「一(いっ)ぱい」に吸い込んでいるような、心地よさがあります。「雪とけて」植物の芽吹きなどに春を感じたという句はヤマほどありますが、「子ども」の出現にそれを象徴させたところが、いかにも一茶らしいではありませんか。冬の間は戸外に遊び場もないので、子どもらは家の中でひたすら春を待ちつづけています。それが、ひとたび雪が解けるや、どこにこんなにたくさんの子どもがいたのかと思うくらいに、いっせいに表に飛びだしてきた。子だくさんは昔の農村の常でしたが、それにしても大勢いたものだなあと、目を丸くして、いや目をほそめている一茶翁。木の芽よりも花よりも、子どもにこそ元気を分けてもらった気分だったのだと思います。かつて私が暮らした山陰の村にもかなりの降雪があり、そしてかなりの数の子どもがいました。人口三千人のうち、二割ほどは子ども(小学生)でした。が、だんだん過疎化が進み、いまではその十分の一くらいに減ったそうで、雪が解けて子どもらが出てきても、もう「一ぱい」という形容はできません。淋しい話です。(清水哲男)


February 0522003

 旅がらす古巣はむめに成にけり

                           松尾芭蕉

語は「むめ(梅)」で春。黒っぽい装束で旅をしている自分を「からす」になぞらえて「旅がらす」。ひさしぶりに「古巣」、すなわち故郷に戻ってみたら、例年のように「むめ」の花が咲き匂っていた。やはり、故郷はいいな。ほっと安堵できる……。句意としてはそんなところで、さして面白味はない。が、ちょっと注目しておきたいのは「旅がらす」の比喩だ。現代人からすると、時代劇や演歌の影響もあって、なんとなく木枯紋次郎などの無宿人や渡世人を想像してしまう。「しょせん、あっしなんざあ、旅から旅への旅がらすでござんすよ」。そんな渡世人の句としても成立しないわけではないが、しかし、芭蕉にはそうした崩した自意識や自嘲の心はなかったはずだ。というのも、この「旅がらす」という言葉は、どうやら芭蕉その人の造語だったようだからである。「これ以前に、用例を見ない」と、古典俳句研究者であった乾裕幸『古典俳句鑑賞』(2002)にある。となれば、ひょっとすると渡世人を指す「旅がらす」も、掲句に発しているのかもしれないと想像できる。これは面白い、使える言い方だと、当時の誰かが飛びついた。それも、はじめは俳人や僧のような黒衣の旅人に限定して言っていたのが、だんだん意味が変わってきてしまったのではないだろうか。最近の国語辞典を見ると、もはや芭蕉が発想したであろうような「旅がらす」をイメージしての定義は載っていない。木枯紋次郎の側に、すっかり傾いている。(清水哲男)


February 0622003

 鯛焼のはらわた黒し夜の河

                           吉田汀史

語は「鯛焼(たいやき)」で冬。冬は、あつあつに限るからだろう。ところで、掲句の鯛焼は、どう考えてもあつあつとは思えない。むしろ、もう冷めきってしまっている。だから、黒いのは餡ではなくて「はらわた」なのだ。せっかく求めた鯛焼を、何故いつまでも持ち歩いて食べなかったのか。句からは何も事情はわからないけれど、その事情を読者に想像させずにはおかないところが、作者の手柄だと思う。女連れだ。と、これは私の想像だ。そうでなければ、まず男一人で鯛焼を買うことはないだろうし、第一に、寒い夜の河畔にたたずむこともあるまい。たわむれに、二人で鯛焼を買ったまではよかった。が、歩いているうちに込み入った話になり、だんだんお互いに無口になり、気がついたら河畔に立っていたというわけだ。すっかり気まずくなった雰囲気を断ちきろうとするかのように、鯛焼を二つに割ってはみたものの……。「はらわた」のような黒い餡が目に沁みて、なおさらに重苦しい気分に落ち込んでいる。かすかに水面が見えるだけの「夜の河」も、あくまでもどす黒い。その昔、吉村公三郎がはじめて撮ったカラー映画に『夜の河』(1956・松竹)がある。もしかしたら、作者は、この映画を思い出して作句したのかもしれない。道ならぬ恋の二人の間に立ちはだかった動かせないものの象徴として、このタイトルは付けられていた。俳誌「航標」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


February 0722003

 町は名古屋城見通しに雛売りて

                           久米三汀

語は「雛売る・雛市(ひないち)」で春。三月節句の前に、雛や雛祭りに用いる品々を売る市のことだが、現在ではデパートや人形専門店のマーケットに吸収されてしまった。掲句は、句集の刊行年から推して、明治期の雛市の様子を詠んだものだろう。「名古屋城」ではなく「名古屋」で切って、「城」は「しろ」と読む。長野県の出身だった作者は、とにかく市の豪勢さには驚いたようだ。名古屋城が「見通しの」景観の見事さもさることながら、売られている雛の格も、故郷のそれとは比べ物にならなかったに違いない。なにしろ嫁入りの結納を受け取ったら、その五倍から十倍は嫁入り道具にかけたという土地柄だ。いまでも、名古屋の嫁入りはよほど豪華だという話をよく聞くし、新婚向けのマンションがなかなか売れなかった時代もあったという。一戸建てでなければ家じゃない、あんな西洋長屋に住んでは沽券にかかわるというわけだ。他所者としては、そうした名古屋人のプライドや見栄の張り方に少しは反発を覚えてもよさそうなものだけれど、作者はあっさりと「町は名古屋」だ、たいしたものだとシャッポを脱いでしまっている。挨拶句かもしれないが、このシャッポの脱ぎ方から、往時の名古屋雛市の豪華さ華麗さがしのばれる。雛市のときには、同時に旧家が自慢の雛を、道を通る人に見えるように自宅で公開したというから、そちらもさぞや見事だったはずだ。地元の人の句ではないだけに、説得力を持つ。『牧唄』(1914)所収。(清水哲男)


February 0822003

 寡作なる人の二月の畑仕事

                           能村登四郎

かな立春後の二月といえども、いまごろの「畑仕事」は少々早すぎる。と、これは昔の農業の話だけれど……。三十数年も前の新潮文庫『俳諧歳時記』(1968)で掲句を知ったときに、すぐに心に沁みた句だった。二月になると、思い出す。「寡作(かさく)」とは、最近は、才能に恵まれながらも少ししか作品を書かない作家や詩人などについて言われるが、元来は少ししか田畑を持てなくて、少ししか作物を作れなかった人の事情のことだった。掲句の「寡作」は、どちらとも取れるが、そんなことはどうでもよろしい。私が心に沁みたのは、子供のころの同じ集落に後者の意味での寡作の人がいたからである。とにかく、その人の畑仕事は極端と言ってよいほどに早めで、周囲の大人たちが半ば冷笑していたことを覚えている。見渡しても、まだ誰もいないところでぽつんと一人、その人は黙々と仕事をはじめるのだった。それが信念だったのか、あるいはそうしなければ仕事が間に合わなかったのか、それは知らない。いずれにしても、村の風(ふう)からすると、変わり者には違いなく、しかし、なんとなく私はその人が好きだった。大人たちが、またはじまったとばかりに憫笑していると、義憤すら覚えたものである。いわゆる他所者でもないのに、何故その人は、村のつきあいもほとんどせずに、超然としていられたのだろうか。その人と出会っても、小学生の私はぺこりとお辞儀をするだけで、ろくに口を聞いたこともない。が、いまだに、本名も家の場所もちゃんと覚えている。そんな個的な事情から、覚えて離れない句もあるということです。ところで、掲句が載っていた新潮社版歳時記は、絶版になって久しい。手元の文庫本もボロボロになってきた。再販を望んでおきたい。(清水哲男)


February 0922003

 薄氷に絶叫の罅入りにけり

                           原 雅子

語は「薄氷(うすらい)」で春。春先になって寒さが戻り、うっすらと氷の張っているのを見ることがある。そのうすうすとした氷に、作者は、これまたうっすらと「罅(ひび)」が入っているのを認めたのだった。途端に「絶叫」を感じたというのだから、ただならない。絶叫の主語は書かれていないので、読者には誰が何に対して叫んだのかは不明である。しかし、何かの偶然的な物理的理由で罅が入った氷を見て、絶叫のせいだと直覚した作者には、絶叫の主の見当はついていただろう。いろいろに考えられる。が、根本的には、作者が薄氷を見たときに抱いていた不安な心、怖れの心に由来したと読むのが順当だと思う。ちょっと背中でも突かれれば、たちまち大声を出してしまいかねないほどの緊張感を抱いていたがゆえに、単に自然物理的な原因による罅と承知はしていても、そこに誰かの絶叫を感じてしまったのだ。最初に読んだときには、なんてヒステリックな句だろうと思ったけれど、そういうことではなくて、いまだ作者自身は絶叫の手前にいるのだから、むしろ逆に強固な自己抑制の末の産物だと考え直した。と同時に、飛躍して思ったことがある。すなわち、折しもいまは、アメリカのイラク攻撃前夜である。作者のような精神状態にある人々は、数えきれないほど現実に確実に存在するのだ。そうした絶叫寸前にある人々の気持ちを思うと、この句は余計に心に沁みる。作者の本意がどこにあろうとも、掲句が生々しく感じられる社会に、いつだって私たちは生きてきたのだし、これからも生きていかなければならないのか。三読後に、暗澹とした気分となった。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


February 1022003

 風光る馬上の少女口緊めて

                           長嶺千晶

語は「風光る」で春。馬場で、乗馬の練習をしているのだろう。馬上のきりりとした少女の姿に、早春のやや尖ったような光る風が、よく似合っている。「口緊(し)めて」に着目したところが、いかにも現代的だ。というのも、この国の戦後の少女たちは、いつの頃からか、日常的に口をあまり緊めなくなってきたからである。半開き、というと大袈裟だが、総体的な印象として、口元がかなりゆるやかだ。少なくとも、句の馬上の少女のように、口をちゃんと結んだ表情には、なかなかお目にかかれない。だから、同性の作者にして、はっとするほどに新鮮に写ったというわけである。嘘だと思ったら、古い映像を見てください。戦前はもとより、写真にしろ映画にしろ、戦後しばらくの間までの少女たちは、自然に口元が緊まっていた。きりりという感じがした。それがいつの間にかゆるやかになってきたのは、何故だろうか。誰かひまな人に、ぜひ文化的考察を加えてもらいたいと思う。昨今のテレビに映る発展途上国の少女の口元が、みな緊まっていることを考えると、一つには経済事情と関係がありそうだが、よくわかりません。「目は口ほどにものを言い」ではないけれど、無言の口元だって、目ほどに何かを表現しているのだ。私の独断と偏見によれば、役柄とは無関係に、自然に口元が緊まっていた最後のスクリーンの上の少女は、デビュー当時の薬師丸ひろ子であった。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997)所載。(清水哲男)


February 1122003

 退屈なガソリンガール柳の芽

                           富安風生

語は「柳の芽」で春。一項目別建ての季語であることから、古来、その美しさを愛でる人々の多かったことが知れる。さて、わからないのが「ガソリンガール」だ。なんとなくガソリンスタンドに派遣された石油会社のキャンペーン・ガールを想像して、調べてみたら、単なる可愛い娘ちゃん役だけではなかったようだ。新居格(にい・いたる)という人の昭和初期の文章に、こんな件りがある。「ガソリン・ガールには、わたし達は直接に何の交渉もない。汽船の給水におけると同様、ガソリン・ガールは自動車に活力を與へる重要な任務をもつ。/わたしは内幸町を歩いてゐた。そこへ一臺のオートバイがガソリンを詰替るべくかけつけた。生憎、ガソリン・ガールは休んでゐた。/「何だ、居ないのか」さういつて疲れ切つたオートバイを引張つて行つた青年のがつかりした姿が、ありゝゝと目に残つてゐる。/わたしは目じるしの、シエルと英字で書いた街頭のガソリン供給の小舎に近づいた。管理人×××子その人は休日でゐなかつた。/街頭のまん中に黄色のポンプ、その前に小舎。小舎は小さい交番にもたぐへられる。/ガソリン・ガールの居所らしい小舎だ。窓の小いのも女らしい小舎の表現である。屋根の色、小舎の色。思ひ做しか何となく物優しい色に思へる。それに春の夕日が照り添つてゐる。ほの白い薄明のなかに「火氣嚴禁」がハツキリと浮かんで見える。/管理人のガソリン・ガールの休みの日だ。どんな人だか知る由もなかつたけれど、どうも、その人が知的美の持主で聰明さうに思へてならなかつた」。看板娘の意味合いもあったかもしれないが、実質的には給油から管理までを担当する「職業婦人」だった。芽吹く柳のかげに、客待ちで退屈しきったモダンな職業の女。これはそのまま、昭和モダンの一景として絵になっている。ちなみに、新居格は左翼の評論家として出発し、戦後は杉並区長に当選したという変わった経歴を持つ。「モガ(モダンガール)」という言葉を流行させたのも、この人だったらしい。『十三夜』(1937)所収。(清水哲男)


February 1222003

 春一番縁の下より矮鶏のとき

                           半谷智乗

ちゃぼ
語は「春一番」。立春後の強い南風を言うが、元来は壱岐の漁師の用語だったという説。なるほど、風と生活が結びついた仕事ならではの言葉だ。それがいつしか海風と切り離されて使われるようになったのは、どこかの新聞が現在の意味で書いて以来というのが有力な説。マスコミおそるべし。したがって、この季語は比較的新しいものだ。句は、強い風が吹いているので、吹き飛ばされかねない小さな体の「矮鶏(ちゃぼ)」は、「縁の下」にもぐってしまった。でも、かくれながらも、そこは雄鶏らしく勇ましそうに「とき」を告げているというのである。実景としては見えていない矮鶏の愛らしさが伝わってきて、微笑を誘われる。子供のころに矮鶏を飼ってほしいと親にせがんだ記憶があるが、飼ってもらえなかった。他の鶏たちとは違い、卵も売れなければ肉食にもならない。生活の足しにならなかったからだ。あくまでも愛がん用というわけで、飼っている家を思い出すと、みな比較的裕福だった。最近ではとんと見かけないけれど、動物園などにはいるらしい。狭山市立智光山公園こども動物園のサイトから、矮鶏の解説を引いておく。図版も。「江戸時代初期、ベトナムの占域(チャンバ)より渡来したことから、「チャボ(矮鶏)」と名付けられました。小さい体、短い脚など、どこか品位のある可愛らしさは世界的に人気が高く、各国で『チャボクラブ』などの愛好団体が結成されています。また、日本鶏で最も内種が多く、現在25種に達しています」。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


February 1322003

 梅咲いてまたひととせの異国かな

                           ジャック・スタム

文は、
plums blossom
another year
another country  Jack Stamm

作者は、ニューヨークと東京を行き来していたコピー・ライターだった。江国滋さんと親しかったので、かつて私が担当していた TOKYO FM の朝番組の新春句会に、一度ご登場願ったことがある。宗匠役には、金子兜太さんに坐っていただいた。もう十数年も前の話で、江国さんもスタムさんも鬼籍に入られてしまったが、当時のスタムさんは東京に腰を据えられているという印象だった。そんな印象があるので、掲句は余計に心に沁みる。「またひととせ」の「異国」生活か……。桜や他の花ではなくて、梅花だからこその孤独感が漂っている。いくら日本語が堪能で東京に慣れているとはいっても、異国で暮らしていると、私などには想像もできない原因で、淋しさに襲われることがあるだろう。英語の句のぶっきらぼうで乾いた調子が、日本語の句よりも、それを告げていると思った。「biossom(咲く)」だけが動詞で、あとはブツ切れ。いかにも俳句的な技法といえばそれまでだが、英文には「かな」の切れ字がないだけに、それだけまっすぐに気持ちが伝わってくる。スタムさんの句は、どちらかの言語で書いた句を、どちらかの言語に翻訳したものではない。両方ともに、それぞれの言語で創作したものだ。したがって、二つの句の微妙な味わいの差は、そのまま作者の言語生活の微妙な差として現象している。思えば、貴重な存在の「俳人」であった。『俳句のおけいこ』(1993・河出書房新社)所収。(清水哲男)


February 1422003

 バレンタインの消えない死体途中の花

                           鈴木六林男

語は「バレンタイン」で春。新しい歳時記を見ると、たいてい「バレンタインの日」として登録されている。ご存知ではあろうが、まずは能書きを。「2月14日。後顧の憂いを絶つため遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したバレンタイン(ウァレンティノス)司祭が処刑された270年2月14日の記念日と、この季節に木々が芽吹き小鳥が発情することとが結合した風習といわれる。初めは親子が愛の教訓と感謝を書き記したカードを交換する習慣だったが、20世紀になって、男女が愛を告白して贈り物をしたり、とくに女性が男性に愛を告白する唯一の日とされるようになった」(佐藤農人)。数々の句が作られているが、掲句のように、たとえ「死体」であれ「バレンタイン」その人を詠んだものは珍しい。「途中の花」とは、まだ完全には咲ききってはいない花。すなわち、若い男女を指しているのだろう。このときに、作者の思いのなかには、たぶん世阿弥の「時分の花」や「秘すれば花」があったのではなかろうか。いつの時代にも「途中の花」が存在するかぎり、いつまでもバレンタインの死体は消えない。生々しくも、作者には彼の死体が見えるというのである。これから先の解釈は、いろいろにできるだろう。が、敢えて私はここで止めておく。ごつごつした句だけれど、いや、それゆえにか。かつて一読、強い印象を受けて、毎年バレンタインの日が来ると、思い出してしまう。『桜島』(1975)所収。(清水哲男)


February 1522003

 汗くさき青年歌集明日ありや

                           清水哲男

青年歌集
年に一度の自句自戒(!?)の日。いったい、あのただならぬ熱気は何だったのか。私がもぞもぞと学生運動に関わった1950年代後半ころの「歌声運動」のフィーバーぶりは……。いまでも鮮かに思い出すのは、一回生の初夏に、奈良での闘争を支援すべく、京都府学連が大挙して電車で向かったときのことだ。一般乗客は我々を避けて、他の車両に移動したのだったろう。貸し切り状態の車内で、私たちは歌いっぱなしであった。各国の革命歌をはじめ、「原爆許すまじ」「国際学連の歌」などの反戦歌やロシア民謡はわかるとして、不思議なことに日本民謡やシャンソンなども。がり版刷りの歌詞も用意されていたが、気のきいた奴は『青年歌集』を携帯していた。表紙に名前の見える関鑑子は、いまの東京芸大を出て、戦前には日本プロレタリア音楽家同盟で活躍した人。戦後はじめて開催されたメーデーの中央壇上で歌唱指導をし、「三十万人の群衆に対しては、どんな優れた音楽家でも一人よりは百人の合唱隊の方が必要だ」と述べている。表紙は、普通の農家の人々が楽しそうに歌っている写真だ。これは今で言うヤラセの図だとは思うけれど、当時の雰囲気としては、ありえない光景だなどとは言えないほどに、歌声運動は浸透していたのだ。告白しておけば、私は歌声運動が好きじゃなかった。デモの先導車でマイクを通して歌ったこともあるけれど、みんなで声を合わせるのが性に合わないのだった。「革命」運動に歌なんていらない……という気持ちもあった。それでも必要なので、何冊かの『青年歌集』は持っていた。京都を離れるときに、歌声喫茶の歌集とともに、みんな捨ててしまった。それにしても、あの頃の歌へのすさまじい熱気は、何だったのだろうか。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


February 1622003

 みえねども指紋あまたや種袋

                           小宅容義

語は「種袋(たねぶくろ)」で春。春先になると、花屋や駅構内などの片隅のスタンドに、草花の種の入った紙袋がいっせいに並べられる。けっこう人気があるようで、いつも何人かの人が見ている。私が買うのは、もう少し経ってからの朝顔の種くらいのものだが、ついでに他の花の「種袋」をついつい引き抜いて見ることが多い。おそらくは、みんなもそうしているのだろう。だから、いちばん手前の種袋は、たしかに「みえねども指紋あまた」であるはずだ。その「あまた」に、作者は春本番間近な人々の自然な気運を察して、喜びを感じている。他で、そういうことが気になるのは、たとえば書店で平積みになっている雑誌や本を買うときだろう。ここでもまた「指紋あまた」であることは間違いなく、たいがいの人はいちばん上のものは避けて買っていく。「指紋」というよりも、見ず知らずの人の「あまたの手垢」を感じるからだろう。ところで元雑誌編集者としては、この平積みのいちばん上の雑誌や本を見るのが、いまでも辛い。売り物にならないサンプルというふうには、なかなか割り切ることができないのだ。中身は同じなんだから、上から順番に買ってくれよ、そんなに乱雑に扱うなよ。書店にいると、そこらへんの誰かれに言いたくなってしまう。だから、よほどヨレヨレになっていないかぎりは、いちばん上の「指紋あまた」(のはず)のものを買うことにしている(ただし、パソコン雑誌のCD附録つきのものは別)。出版界へのささやかな私流仁義なのです、これは。でも、種袋となると、いくつかを取っ換え引っ換えし軽く振ってみて、なんとなく重量感のありそうなものを買う。すみませぬ。『俳句研究年鑑・2003年版』所載。(清水哲男)


February 1722003

 世の中よ蝶々とまれかくもあれ

                           西山宗因

者・宗因は、言わずと知れた江戸期談林派の盟主。とにかく(「とまれかくもあれ」が「とまれかくまれ」に言い掛けてある)、「世の中」なんてものは、深刻に考えだしたらキリがない。「蝶々」が花から花へ止まったり移ったりするように、すべからく我々も好き勝手なことをして生きるべきだ(「かくもあれ」)と呼びかけている。「そんなことを言われても無理……」という読者の反応も、ちゃんと計算済みの句だ。というよりも、本人がいちばん「無理」を承知の上での作句なのだろう。この句から自然に思い起こされるのは、誰もが知っている「ちょうちょう」という子供の歌だ。♪ちょうちょう ちょうちょう/菜の葉に とまれ/菜の葉に あいたら/桜にとまれ……。作詞は明治期の野村秋足という人だが、もしかすると、掲句を踏まえているのかもしれない。と思えるほどに、内容が酷似している。こんな享楽思想を、いたいけない子供たちに吹き込んでよいものだろうか(笑)。蛇足ながら、「ちょうちょう」のメロディは日本製ではない。原曲がスペイン民謡であることは、知る人ぞ知るところ。さて、また新しい一週間のはじまりですね。今週もお互いに、「とまれかくまれ」掲句なんぞは忘れて(!?)がんばりましょうや。(清水哲男)


February 1822003

 電文のみじかくつよし蕗のたう

                           田中裕明

語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。電報が届いた。みじかい「電文」だが、実に簡潔で力強い。読者には祝電か弔電かはわからないが、たとえ弔電にしても、作者は大いに励まされている。折りしも、早春の候。いち早く萌え出た「蕗のたう」のように、その電文は「みじかくつよし」と写ったというのである。「蕗のたう」は電文のありようの比喩であると同時に、作者の心のなかに灯った明るい模様を示していて、説得力がある。それにしても、最近は電報を打つことも受け取ることも少なくなった。昔は冠婚葬祭向けにかぎらず、急ぎの用件には電報を使った。例の「カネオクレタノム」の笑い話が誰にも理解できたほどに普及していたわけだが、いまではすっかり電話やメールに座をあけわたしている。電報代は安くなかったので、頼信紙の枡目とにらめっこしながら、一字でも短くしようと苦労したのも今は昔の物語。若い人だと、電報を打ったことのない人のほうが、圧倒的に多いだろう。……と思っていたら、最近では「キティちゃん電報」なるものが登場して、女の子の間ではけっこう人気があるのだそうな。そしてこのところ、もう一つ増えてきたのは、ヤミ金融業者が「カネカエセ」と発信する督促電報だという。たとえ電話代より高くついても、連日夜中に配達させると、近所の人たちの好奇心をあおることにもなるので、心理的な効果が大きいと睨んだ企みだ。いくら簡潔な電文でも、こいつだけは「蕗のたう」とはまいらない。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


February 1922003

 春萱に氷ノ山その氷のひかり

                           友岡子郷

ずは、句の読み方を。「はるかやにひょうのせんそのひのひかり」。「氷ノ山(ひょうのせん)」という珍しい読みの名の山は、ずいぶんと有名らしいが、掲句ではじめて知った。この山の名をこよなく愛するという作者によれば、「兵庫、鳥取二県の接点にそびえる高岳で、厳冬のころは風雪に荒(すさ)ぶ険しさがあるゆえ、この名が付いたにちがいない。人界から離れて、きびしい孤高を保っているかのような山の名である」。調べてみたら、中国山脈の山のなかでは、大山についで二番目の高さだという。早春。名山を遠望する作者の周辺には、すでに「萱(かや)」や他の野の草が青々と芽吹いており、本格的な春の訪れが間近いことを告げている。だが、彼方にそびえ立つ氷ノ山にはまだ雪が積もっていて、厳しい「氷(ひ)のひかり」を放っている。このコントラストが、非常に美しい。このとき、作者に見えているのは、おそらく山頂付近だけなのではあるまいか。場所にもよるだろうが、絵葉書の富士山のように、すそ野近くまでは見えていないのだと思う。したがって、ますますコントラストが際立つ。「ひ」音を畳み掛けた手法も、実景そのものにくっきりとしたコントラストがあっての上での、必然的なそれだろうと読んだ。『日の径』(1980)所収。(清水哲男)


February 2022003

 母情より父情がかなし大試験

                           田島 澪

語は「大試験」で春。明治のはじめころには、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったので、この季語が生まれたようだ。が、掲句のそれは、現今の入学試験のことだろう。受験生のいる家庭では、母親がなにくれとなく世話をやき、父親はたいていが黙っていて、何もしてやらない。仕事が忙しいということもあるけれど、母親のように親密に子供に接することができないので、何もして「やらない」のではなくて、何もして「やれない」のが実情だと思う。その「父情」が「かなし」と詠んだ作者は、俳号から推すと女性だろうが、自身が受験生であったときに、かつての父親の自分に対するもどかしげな感情を、敏感に察知していたということになる。あるいは、作者は既に受験生の母親であり、その立場から見ていて、自分よりも夫のほうがよほど子供のことを心配する「情」を持っていると実感しているのかもしれない。いずれにせよ、不器用な「父」への思いやりに溢れた句だ。読者は自分が受験生のころのことを思い出したり、または現に受験生の親であることを自覚したりと、掲句に接しての思いはいろいろだろう。その「いろいろ」を引っ張り出す力を、この句は持っている。「かなし」の根源は、受験制度そのものにあるなどと、ここで正論を述べ立ててもはじまらない。受験生を抱えた父も母もが、そんな理屈とは別次元のところで、同じように「かなし」なのだ。だが、いちばん孤独で「かなし」なのは、当の受験生であることを、この句は言外にくっきりと示しているとも思えた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 2122003

 朝寝して名刺用なくなりにけり

                           緒方 輝

語は「朝寝」で春。春の朝の寝心地は格別で、うつらうつらとつい寝過ごしてしまう。そんな快適な心地も、よく考えてみれば、寝過ごしてはいけない立場の人のものだろう。作者は、定年退職後のはじめての春を迎えているのだと思える。以前と同じようにうつらうつらとしながらも、もはや「名刺用なく」なった身にとっては、うつらうつらにも従来とは違う感じが伴っているのだ。このまま、いつまでもうつらうつらしていてもよいのだと、誰に文句を言われるわけでなしと、うつらうつらする気分には、しかし、名状しがたい悲しさが付け加わる。私は定年どころか、二十代の後半で勤めた会社が三度も駄目になった体験があるので、定年退職の経験はないけれど、句の言わんとするところは少しはわかるような気がする。少しはと言うのは、私の体験は若い時代のものだったので、まだぼんやりと未来を見つめることができたからだ。が、多くの定年退職者には、再び名刺を必要とするような社会的な明日はないのが普通と考えてよい。当人の意志や思惑とは別に、社会のシステムは極めて冷厳に動いていくのだからである。江戸期の狂歌に「世の中に寝るほど樂はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く」というのがある。失職した当時の私は、こいつを壁に貼り付けて日々眺めていたっけ。この自嘲の歌を笑える「馬鹿」な人は、よほど我が身を幸せと思わなければいけないのである。とりわけて、いまどきの世相のなかでは。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


February 2222003

 春ながら野に南極の昏さあり

                           三宅一鳴

田蛇笏に『現代俳句の批判と鑑賞』という正続二冊の角川文庫があり、続(1954)のほうの目次から見つけた句。目次には採り上げた句と作者名のみが並んでいて、前書や添書は省略されている。実は前書のある句だったのだが、目次だけ見て心引かれ、蛇笏の鑑賞を読む前に、次のように解釈した。どこまでも明るい春の野が広がっている。まことに駘蕩たる気分だ。そんな気分に心を遊ばせているうちに、ふと気づいたことには、春の野は単に明るいばかりではないということだった。明るさのその奥に、何か昏(くら)いものが潜んでいる。見つめていると、ますますそれが実感として迫ってくる。この昏さは何だろうか。一瞬考えて作者は、直覚的に地球の極に思いがいたった。そうだ。はるか地の果ての極の磁力が、かすかに春の野に及んでいるがゆえの昏さなのだ……。眼前の何でもないような光景にも、常に全地球的な力が及んでいるという発見に、おそらく作者は興奮を覚えただろう。おおむねこのように読んで、さて蛇笏の鑑賞や如何にとページを繰ってみたら、句には次の前書があったのだった。「亜國ヴエノスアイレス市より智國サンチアゴ市まで飛行機にて約六時間を翔破す」。句景をてっきり日本の春の野と思い込んでいたので、読んだ途端にショックを受けた。実景だったのか。だったら、相当に解釈が異ってくる。蛇笏は、日ごろの作者の修練のおかげで、俳句が外国の景色の前でもたじろいでいない一例として、句を誉めている。ま、それはその通りなのかもしれないが、この前書さえなければ、もっと良い句なのになアと、いまの私は妙に意固地になっている。(清水哲男)


February 2322003

 春愁や大旋回のグライダー

                           宮嵜 亀

ははなやかな季節だが、その反面、いずれの季節にもない寂しさに誘われる。歳時記で「春愁(しゅんしゅう)」の説明を読むと、たいていこんなふうに書いてある。この微妙な心象風景が季語として定着しているということは、春愁は誰にでも起きることであるのだろうし、たとえ今の自分に起きていなくても、他人の春愁に納得はできるということなのだろう。考えてみれば、不思議な季語だ。春愁なんて言葉を知る以前から、私は春先になると、どうもいけなかった。いわれなき、よるべなき寂しさに襲われては、苦しい時間を過ごすことが多かった。自分では完全に病気だと思っていたけれど、この季語を知ってからは、自分だけではないのかもしれないと気を取り直し、少しは楽になったような気がしている。だとしても、いわれなき寂しさにとらわれるだなんて、やはり一種の病気には違いないだろう。どなたか、専門家のご意見を切にうかがいたい。さて、掲句はそんなやりきれない状態に陥った作者が、大空を悠々と旋回するグライダーを見やっている図だ。春愁の不健康と「大旋回のグライダー」の健康とのミスマッチが、面白い効果をあげている。そのあたりを初手からねらった作句であったとしても、ことさらに企んだ形跡は残されていない。めったに見られないグライダーの飛行を持ちだしてはいても、少しも嫌みが感じられないのは、作者がよほどこの「病気」と親しいからだろう。親しくないと、一見突飛な取り合わせに仕立てておいて、実は突飛ではないところに落としこむ微妙なセンスは発揮できないと見た。なお、作者の名前「亀」は本名で「ひさし」と読む。『未来書房』(2003)所収。(清水哲男)


February 2422003

 やはらかに裾出して着る春のシャツ

                           土肥あき子

意は明瞭。変哲もない句と言えばそれまでだが、「やはらかに」と「春」の付き過ぎを承知の上での作句だろう。付き過ぎが、かえって春を喜ぶ気分を上手に増幅している。そこらへんに、作者のセンスの良さを感じさせられた。男だと、なかなかこうは作れない。よほどの洒落男なら別だけれど、基本的に男の服装は「着たきり雀」に近いからだ。いかにスーツやネクタイを取っ換え引っ換えしようが、服の着方にまでは、そんなにバリエーションがあるわけじゃない。冠婚葬祭の服装のあり方からはじまるドレスコード的に言っても、女性のほうが、コードの種類ははるかに豊富である。これにはもとより、歴史的社会的なさまざまな要因がからんでくるわけだ。思い出したが、いわゆる「裾出しルック」が流行しはじめたころに、こんな笑い話が本当にあった。会社の応接室に通された中年のおじさんが、お茶を入れてくれた女性の裾が出ていることに気づき、見かねてタイミングを見計らい、小声でそっとささやいた。「出てますよ」。言った途端に、彼女は憤然として、しかし小声でささやき返したという。「流行ってるんです、いま」。当時はシャツまでは下着という感覚が一般的だったので、おじさんが見かねた気持ちもよくわかる。このエピソードに触れて以来、私は女性がどんな服装や着方をしていようとも、「流行ってるんだな、いま」と思うことに決めたのだった。俳誌「鹿火屋」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


February 2522003

 仮の世をくしゃみの真杉花粉

                           汎 馨子

京あたりでも、そろそろ「杉花粉」が飛びはじめる。私の番組でも、来週から情報を入れることにした。幸い、私は花粉症にかからずに来たけれど、周囲では年々発症する人が増えているようなので、油断がならない。ひどい人の症状は、見ているだけで、こちらも苦しくなってくるほどだ。これからの季節、保健所は「外出を避けるように」と言うが、避けられるものなら、言われなくたって誰だって避けるさ。インフルエンザ流行のときにも同じことを言う。どうも保健所というところは、掲句ではないけれど、この世を「仮」と思い定めているようだ。さて、句の「真」は「まこと」と読む。この世を「仮」と思い定めてはいるものの、止めようにも止められない「くしゃみ」が、その強固な観念をもあっさりと裏切ってしまう。身体の調子が精神のそれを崩すという現象が、すなわち病気の一面であるわけだが、それも「くしゃみ」ごときにやられてしまうのだから、花粉症とは口惜しい病気だ。病状がまず「くしゃみ」となって現れるがゆえに、句は余計にアイロニカルに響いてくる。軽そうに見えて、しかし決して軽くはない苦い一句だ。お大事に。『未完童話』(2002)所収。(清水哲男)


February 2622003

 春の月上げて広重美術館

                           遠藤睦子

広重
とえば、古句に森川許六の「清水の上から出たり春の月」があり、現代句に小澤克己の「青き月上げて谷間の河鹿笛」があるなど、類想句は多い。要するに、天上の月に対して地上に何を配するかによって、句の生命が定まる仕掛けだ。前者は「清水(寺)」という京の名刹を置いて美々しさを演出し、後者は見えない河鹿のきれいな鳴き声を配して、近代的な寂寥感を詠んでいる。蕪村が天心の月に「貧しき町」を置いて見せたのも、同じ手法と言ってよいだろう。季節は異っていても、これらの句に共通するのは、月夜の美しさを言うことが第一であり、月の下に配するものは、あくまでも月の引き立て役ということだ。掲句の場合は、配するに「広重美術館」を持ってきた。広重を顕彰する美術館は全国に散在しているので、どこの建物かはわからないが、わからなくても差し支えはない。というのも、この句のねらいは、句それ自身の景色を広重の描いた数々の月の絵と呼応させているところにあるからである。平たく言うと、句の景色がそのまま広重の絵の構図になっている。その面白さ。論より証拠。図版は吉原の夜桜見物を描いているのだが、地上にさんざめく人々を消してしまうと、あら不思議、まさに掲句の構図が忽然と浮かび上がってくるではありませんか。『水の目差』(2001)所収。(清水哲男)


February 2722003

 うき友にかまれて猫の空ながめ

                           向井去来

語は見当たらないが、句の全体的な意味から「猫の恋」で春。「うき友」は「憂き友」。憎からずおもっていた相手に近寄っていったら、凄い剣幕で「か(噛)まれて」しまった。その後の猫の様子を詠んでいる。失恋だ。何が起きたのか、何故噛まれたのかもよくわからず、ぼおっと空を眺めている猫の姿は、どこか佃公彦あたりの漫画にも通じるようなユーモアを感じさせる。おおかたの現代人はこう読むだろうし、それでもよいのだけれど、生真面目な去来の本意としては、もう少し深刻に読んでほしいというところがあったかもしれない。というのも、本来「ながめ」とは遠くを見渡すことよりも、見つめながら「物思いにふけること」を一義としたからだ。「わが身世にふるながめせしまに」など。つまり、この猫は単に呆然と空を眺めているのではなく、失恋した人間と同じように物思いにふけっているというわけで、一歩も二歩も猫の内面に踏み込んでいる。さぞや苦しかろうと、作者は感情移入しているのだ。こう読んでみると、ユーモアよりもペーソスが滲み出てきて、句の姿はがらりと変わってしまう。となれば、この句、実は猫に託して自分のことを詠んだのではないか。うがち過ぎではあろうが、そんなふうに読んだとしても、いちがいに誤読だとは言えないと思う。『猿蓑』所載。(清水哲男)


February 2822003

 二月尽雨なまなまと幹くだる

                           石原舟月

語は「二月尽(にがつじん)」で春。といっても、独立させてこの項目を持つ歳時記は、めったにない。たいていは「二月」の項目に、附録みたいにくっつけてある。それというのも、「二月尽」が使われはじめたのは昭和の初頭くらいからで、かなり新しい季語だからだ。昔の人は陰暦で暮らしていたので、二月が終わることになっても、格別の情感は浮かばなかったろう。ちなみに、今年の陰暦二月の入りは陽暦三月三日だし、尽きる日は四月一日だ。梅も散って桜が咲くのが、昔の二月というわけで、もう仲春だった。ところが、明治初期に陽暦が採用されてからは、春は名のみの寒い月となり、明日から春三月と思うことに、特別な感情が徐々に加わるようになる。徐々にというのは、生活に陽暦感覚が定着するまでには長い時間がかかったという意味で、ようやく根づいたと言えるのは、この季語がおずおずと顔を出した昭和の初期ころだったと思われる。すなわち新季語「二月尽」には、本格的な春の訪れも間近だという期待が託されている。別の季語に翻訳すれば「春隣」に近いだろう。掲句のキーワードは「なまなまと」の措辞だが、そっけない寒期の雨とは違って、なまなましくも親しみを覚える雨である。陽春近しと微笑する作者の姿が、重なって見えてくる。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。本書は「二月尽」の独立項目を持つ。(清水哲男)




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