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February 0922003

 薄氷に絶叫の罅入りにけり

                           原 雅子

語は「薄氷(うすらい)」で春。春先になって寒さが戻り、うっすらと氷の張っているのを見ることがある。そのうすうすとした氷に、作者は、これまたうっすらと「罅(ひび)」が入っているのを認めたのだった。途端に「絶叫」を感じたというのだから、ただならない。絶叫の主語は書かれていないので、読者には誰が何に対して叫んだのかは不明である。しかし、何かの偶然的な物理的理由で罅が入った氷を見て、絶叫のせいだと直覚した作者には、絶叫の主の見当はついていただろう。いろいろに考えられる。が、根本的には、作者が薄氷を見たときに抱いていた不安な心、怖れの心に由来したと読むのが順当だと思う。ちょっと背中でも突かれれば、たちまち大声を出してしまいかねないほどの緊張感を抱いていたがゆえに、単に自然物理的な原因による罅と承知はしていても、そこに誰かの絶叫を感じてしまったのだ。最初に読んだときには、なんてヒステリックな句だろうと思ったけれど、そういうことではなくて、いまだ作者自身は絶叫の手前にいるのだから、むしろ逆に強固な自己抑制の末の産物だと考え直した。と同時に、飛躍して思ったことがある。すなわち、折しもいまは、アメリカのイラク攻撃前夜である。作者のような精神状態にある人々は、数えきれないほど現実に確実に存在するのだ。そうした絶叫寸前にある人々の気持ちを思うと、この句は余計に心に沁みる。作者の本意がどこにあろうとも、掲句が生々しく感じられる社会に、いつだって私たちは生きてきたのだし、これからも生きていかなければならないのか。三読後に、暗澹とした気分となった。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


August 2582004

 ひとめぐりするたびに欠け踊の輪

                           原 雅子

句で「踊(おどり)」といえば盆踊りのこと。秋の季語。句は輪踊りが「ひとめぐりするたび」に、だんだん踊り手の数が欠けてくる様子を詠んでいる。だいぶ夜も更けてきて、踊りのピークが過ぎようとしているのだ。見物していると、そこはかとない哀感を覚えるシーンであり、なんだか名残り惜しいような気持ちもわいてくる。とりわけてたまに帰省した故郷の盆踊りともなると、この感はひとしおだ。子供の頃からなじんだ場所で、組まれた櫓も同じなら唄も同じ、踊り方も同じなら踊り手の数も昔と似たようなものである。帰省子が、一挙に故郷に溶け込めるのが盆踊りの夜だといっても過言ではないだろう。踊る人々の輪のなかに、懐かしい誰かれの姿を見出してはひとり浮き立っていた気分が、しかし時間が経つに連れだんだん人が欠けてくると、少しずつ沈んでくる。懐かしいとはいっても、親しく話すような間柄ではない人も多いし、顔は知っていても名前すら知らない人もいるわけだ。つまり踊りの輪から欠けていった人とは、それっきりなのである。もう二度と、見かけることはないかもしれない。そうした哀感も手伝って、掲句の情景は身に沁みる。私の田舎では、踊りが終わると、すぐそばの川に灯籠を流した。川端は真の闇だから、もう誰かれの顔は見えない。『日夜』(2004)所収。(清水哲男)


September 2292011

 勉強の灯かと見て過ぐ秋黴雨

                           原 雅子

走台風の影響か、ここ数日雨が続いている。「秋黴雨」は「あきついり」曇りがちで小雨がじとじと降る梅雨のような長雨を言うが、俳句以外ではあまり出会わない言葉かもしれない。秋めいてくると夕暮れが短くなるが、雨の降る日はいっそう暗くなるのが早い。近所の家の一隅に電気がついている。そういえば元気よく外で遊んでいたあの子も受験の頃、早々と灯された部屋に思いをはせているのだろう。煌々と照らした塾に通うのが今風かもしれないが、昔は試験勉強や受験勉強は、孤独な作業だった。眠たい目をこすりながらいつまでも消えない同級生の勉強部屋の窓の灯が気になって仕方がなかった。遠い歳月の彼方に自分も点した「勉強の灯」。ちらっと見やった眼差しに暖かさが感じられる。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)


September 2492011

 ぽんとトースト台風は海へ抜け

                           原 雅子

さに台風が駆け抜けた今週だった。台風一過にしては暑さが残ったが、空は秋、翌日早朝の鰯雲に小さな月が漂っていた。文字通り海に抜け、やがて消えてしまう台風だが、あっけらかんと晴れるその感じが、ポップアップトースターの、ぽん、にぴたっと来る。今はオーブントースターが主流だけれど、昔は我が家でもトーストはぽんと飛び出ていた。楽しいし、食パンをトーストすることに特化している分、断然おいしいというポップアップ式。こんがり焼けて飛びだしてきたトーストでなくては、こんな句も生まれない。『束の間』(2011)所収。(今井肖子)


January 0512012

 声のして達磨の中の達磨売

                           原 雅子

起物の達磨を売るのが達磨市だが、西日本に住んでいたときにはあまりお目にかからなかったように思う。縁起ものの達磨を身近に置いたこともなく、達磨に目を入れるのは選挙や受験合格の特別イベントだと思っていた。川越の喜多院、群馬の高崎を尋ねたときに白目をむいた大小様々の達磨が山と積まれて売られているのに圧倒された。赤い達磨の中から威勢のよい達磨売りの声が響く。高崎では眉が鶴、髭が亀にデザインされたものが人気のようだ。今日が仕事始めの方も多いだろう。今年一年平穏無事に働けて、一つでも多くの達磨に黒々と大きな瞳が入れられることを願わずにはいられない。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)


April 1442012

 廊ながく花の盛りに間に合はぬ

                           原 雅子

報では週半ば、東京は花散らしの雨になるというから、週末の土曜日はもう花は終わっているだろう。しかし今年の桜は、時ならぬ嵐に耐えて咲き始め花冷の日が続いたからか、なんだか我慢強く、満開になっても少々の風では散らないので、逆に散り時を失っているかもしれない。そんなことを思いながら掲出句を思い出した。この桜は、順当に暖かくなっていよいよ咲き満ちてきた桜。昨年句集を拝読したのは初秋だったが、この句を目にして思わずにっこり、それから一気に花時のはやる心がよみがえり、一緒に気分は小走りになりながら、見るうちに咲きふえてゆく桜が目の前に広がるような気がしたのだった。年ごとに違うからまたおもしろい、まさに束の間の花時である。『束の間』(2011)所収。(今井肖子)




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