c@Y句

February 2022003

 母情より父情がかなし大試験

                           田島 澪

語は「大試験」で春。明治のはじめころには、進級試験を「小試験」、卒業試験を「大試験」と言ったので、この季語が生まれたようだ。が、掲句のそれは、現今の入学試験のことだろう。受験生のいる家庭では、母親がなにくれとなく世話をやき、父親はたいていが黙っていて、何もしてやらない。仕事が忙しいということもあるけれど、母親のように親密に子供に接することができないので、何もして「やらない」のではなくて、何もして「やれない」のが実情だと思う。その「父情」が「かなし」と詠んだ作者は、俳号から推すと女性だろうが、自身が受験生であったときに、かつての父親の自分に対するもどかしげな感情を、敏感に察知していたということになる。あるいは、作者は既に受験生の母親であり、その立場から見ていて、自分よりも夫のほうがよほど子供のことを心配する「情」を持っていると実感しているのかもしれない。いずれにせよ、不器用な「父」への思いやりに溢れた句だ。読者は自分が受験生のころのことを思い出したり、または現に受験生の親であることを自覚したりと、掲句に接しての思いはいろいろだろう。その「いろいろ」を引っ張り出す力を、この句は持っている。「かなし」の根源は、受験制度そのものにあるなどと、ここで正論を述べ立ててもはじまらない。受験生を抱えた父も母もが、そんな理屈とは別次元のところで、同じように「かなし」なのだ。だが、いちばん孤独で「かなし」なのは、当の受験生であることを、この句は言外にくっきりと示しているとも思えた。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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