April 182003
チューリップ喜びだけを持つてゐる
細見綾子
季語「チューリップ」に名句なし。そう思っている。日本人好みの微妙な陰影が感じられない花だからだ。造花に近い感じがする。掲句は、そんなチューリップの特長を逆手に取っている。自註に曰く。「春咲く花はみな明るいけれども、中でもチューリップは明るい。少しも陰影を伴わない。喜びだけを持っている。そういう姿である。人間世界では喜びは深い陰影を背負うことが多くて、谷間の稀れな日ざしのようなものだと私は考えているのだが、チューリップはちがう。曽て暗さを知らないものである。喜びそのもの、露わにもそうである。私はこの花が咲くと、胸襟を開く思いがする。わが陰影の中にチューリップの喜びが灯る」。折しも、我が家の近くにある小学校のチューリップが満開だ。保育園や幼稚園にも、この花が多く植えられるのは、まだ人生の翳りを知らない子供たちによく似合うからだろうか。そう言えば、高校や大学ではあまり見かけない花だ。ところで、大人である掲句の作者はチューリップに「胸襟を開く思いがする」と述べている。ということは、むろん日ごろの心は鬱屈しているというわけだ。花そのものに陰影がないからこそ、花と作者との間に陰影が生まれた。名句とは思わないが、この着眼は捨てがたい。『桃は八重』(1942)所収。(清水哲男)
April 172003
人類の歩むさみしさつちふるを
小川双々子
季語は「つちふる」で春。「霾」というややこしい漢字をあてるが、原義的には「土降る」だろう。一般的には、気象用語で用いられる「黄砂(こうさ)」のことを言う。こいつがやって来ると、空は黄褐色になり、太陽は明るい光を失う。その下を歩けば、はてしない原野を行くような錯覚に陥るほどだ。そしていま、作者もその原野にあって歩いている。そしてまた、作者には「つちふる」なかを歩く人の姿が、個々の人間ではなくて「人類」に見えている。類としての人間。その観念的な存在が、眼前に具体となって現れているのである。下うつむいておろおろと、よろよろと歩く姿に、人類の根源的な「さみしさ」を感じ取ったのだ。太古からの人類の歩みとは、しょせんかくのごとくに「さみしい」ものであったのだと……。「人類愛」などと言ったりはするけれど、普段の私たちは類としての存在など、すっかり忘れて生きている。一人で生きているような顔をしている。が、黄砂だとか大雪だとか、はたまた地震であるとか、そうした人間の力ではどうにもならぬ天変地異に遭遇すると、たちまち自分が類的存在であることを思い知らされるようである。その意味で、掲句は「人類」と言葉は大きいが、実感句であり写生句なのだ。名句だと思う。愚劣な戦争を傍観しているしかなかった私の心には、ことさらに沁み入ってくる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)
April 162003
葉桜の下何食はぬ顔をして
大倉郁子
ははあん、何かやらかしましたね、何日か前の花見の席で……。調子に乗って飲み過ぎて、小間物屋を開いちゃった(←これ、わからない人はわからないほうがいいです)のかもしれない。実際はなんだかわからないけれど、とにかく失態を演じてしまったのだろう。それが、花が散って葉桜になり、風景も一変してしまったので、そこを通りかかっても「何食はぬ顔」をしていられる。「ああ、よかった」。もしも、桜の花期がずいぶんと長かったら、こうはいかない。そこを通るたびに、やらかしたことを思い出しては、自己嫌悪に陥るのは必定だ。酒を飲みはじめたころに、私も一大失態をやらかしたことがある。運の悪いことには、桜の下ではなくて、友人宅の部屋の中でだった。桜はすぐに散るけれど、友人の家はいつまでも同じ形で残っているので厄介だ。前を通るたんびに、表面的には何食はぬ顔をしているつもりでも、そのことを思い出さされて自己嫌悪に陥るので、三度に一度は回り道をしたほどだった。だから、句の作者の気持ちはよくわかるつもりだ。背景や光景や環境が変わりさえすれば、以前の失敗が絵空事のように思える。そういうことは、人生には多い。一見軽い句だけれど、この軽さに、読者それぞれの苦い風袋(ふうたい)がプラスされると、そんなに軽い感じを持たずに受け止める人も結構いるのではなかろうか。『対岸の花』(2002)所収。(清水哲男)
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