RNY句

May 1052003

 自販機にしやがむ警官栗の花

                           佐山哲郎

語は「栗の花」で夏。まだ、花期には少し早いかな。句の眼目は「警官」を「しやが」ませたところにある。警官もいろいろだが、いわゆる「お巡りさん」だ。何か飲み物でも買ったのだろう。「自販機」だからしゃがまざるを得ないのだが、こういうところを見かけないかぎり、警官はいつも表では立っている存在だ。職業柄とはいえ、常に人を疑うという緊張感は相当なものだろう。しかし、疲れたからといって、しゃがんでいたのでは仕事にならない。まず、自分の姿勢が無防備に見えてはならない職業なのだ。そんな警官が、ふっとしゃがんだ。一瞬、無防備な姿勢になった。そこを見逃さずに詠んだ作者の観察力は、なかなかに鋭い。でも、栗の花との取りあわせの妙味はどこにあるのだろうか。ちょっと考えさせられた。おそらく、高いところで咲く花の形状ではなくて、あの独特の匂いを詠み込んだのではなかろうか。甘いような青臭いような匂いは、たとえれば女の匂いではなく、男の匂いである。普段はさして性を感じさせることのない警官に、作者はこのとき、不意に男臭さ、人間臭さを感じたのだと思う。人はたぶん、無防備なときにこそ、いちばん人間臭さやその人らしさを発散するのだろう。ちなみに、作者は浄土宗の住職である。こっちは警官とは逆に、坐っているイメージの強い仕事ですな。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


July 2072003

 扇子の香女掏摸師の指づかひ

                           佐山哲郎

ろん「掏摸(すり)師」は立派な犯罪者だ。ただ空巣や強盗とは違って、昔から変な人気がある。というのも、常人にはとても真似のできない指技を、彼らが習得しているからだろう。フィクションの世界では、美貌の女掏摸師がよく活躍する。時代物では、擦れ違った瞬間に目にもとまらぬ早業で掏摸取った懐中物を手に、艶然と微笑する姿が定番でもある。犯罪者ではあるけれど、正義の味方の味方だったりする役どころはフィクションならではだが、これもやはり芸術的な指技を惜しんでの作者の人情からではあるまいか。掲句の女掏摸師ももとよりフィクションだけれど、そんな掏摸師に「扇子」を使わせたところが面白い。なるほど手練の掏摸師ともなると、扇子のあおぎようにだって微妙な指技が働くにちがいない。したがって、送られてくる「扇子の香」にもまた普通とは違うものがあるだろう。この句は、かつての都電の情景を系統別に詠んだ「都電百停」のなかの一句(33系統 信濃町)だから、いわば現代劇の一シーンだ。私の若い頃、ロベール・ブレッソン監督の映画『掏摸』(1960)を見た後の何日かは、街にいると、誰も彼もが掏摸に思えて仕方がなかったようなことがあった。その映画には、掏摸の手口が具体的に生々しく公開されていたので、余計にそんな気分にならされたと思うのだが、作者のこの発想も、何らかのフィクションに触発されてのことかもしれない。作者は単に、走る都電の中で扇子を使う女性客を見かけただけだ。それをあろうことか掏摸師に見立てたせいで、おそらくは俳句にはじめての女掏摸師が登場することになった。そんな自分だけの想像のなかの相手に、ちょっと身構えているようなニュアンスもあって可笑しい。でも、これからの行楽シーズン、本物の掏摸にはご用心を。我が家の短い歴史のなかでも、これまでに二度、芸術的な指技の餌食になっている。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


May 1852004

 顔面の蚊を婦人公論で叩く

                           佐山哲郎

が出はじめた。油断して網戸を開けておくと、どこからともなく、部屋の中にプーンと入ってくる。この音を聞くと「もう夏なんだなあ」とは思うが、べつに特段の風情を感じるわけじゃない。作者は顔面にとまった蚊を、たまたま読んでいた「婦人公論」で叩いたのだ。雑誌を傍らに置いてから叩いたのでは逃げられてしまうので、緊急やむを得ず雑誌で打ったということだろう。寝転んで読んでいたのかもしれない。ただそれだけのことだが、なんとなく可笑しい。可笑しさを生んでいるのは、むろん「婦人公論」という固有の雑誌名をあげているからだ。単に雑誌で叩いたと言うのとは違って、変な生々しさがある。妙な抵抗感もある。事もあろうに、何もよりによって(ではないのだけれど)「婦人公論」で叩くことはないじゃないか。と、読者はふっと思ってしまう。というのも、この雑誌が持っている(どちらかというと)硬派のイメージが、蚊を叩くというような日常性べったりの行為にはそぐわないからなのだ。しかも、叩いたのは「顔面」だ。インテリ女性がいきなり男の顔を平手打ちにしたようなイメージも、ちらりと浮かぶ。だから、よけいに可笑しい。これが例えば「女性自身」や「週刊女性」だったら、どうだろうか。やはり可笑しいには違いないとしても、その可笑しさのレベルには微妙な差があるだろう。俳句は、名所旧跡神社仏閣あるいは地方名物などの固有名詞を詠み込むのがお得意である。掲句は商標としての固有名詞を使っているわけだが、その意味からすると俳句の王道を行っていることになる。そのことを思うと、またさざ波のように可笑しさが増してくるのは何故なのだろう。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


August 0882011

 西瓜喰ふ欠食児童のやうに喰ふ

                           佐山哲郎

んなふうに食べようが勝手とはいうものの、西瓜を上品にスプーンですくって食べている人を見ると、鼻白む。あれで美味しいのだろうか。句のようにかぶりついたほうが、よほど美味いと思うんだけど。ところでこの句は、現代だからこそ成立する句だと思った。そこらじゅうに「欠食児童」がいた時代だったら、洒落にもならないからだ。もはや思い出のなかにしか存在しない「欠食児童」。西瓜にかぶりつきながら、苛烈な空腹を微笑とともに追懐することができるから、句になっているのである。私も学校に弁当を持っていけない子だった。弁当の時間に何人かの「欠食児童」といっしょに校庭に出て、ただぼんやりしていた時間は忘れられない。大人になってからのクラス会で、そんなぼくらに自分の弁当をわけるべきかどうかと悩んでくれていた友人がいたことを知った。「でも、オレは分けないことにした。きみらのプライドが傷つくと思ったからね」。こう聞かされたとき、私は思わず落涙した。お前はなんて優しくて偉い奴なんだ…。傷ついていたのは、欠食児童の側だけではなかったのだと、深く得心したのだった。今日立秋。「西瓜」はなぜか秋の季語である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(清水哲男)


August 2582011

 朽ち果てしその蜩の寺を継ぐ

                           佐山哲郎

がカトリックだった私は寺にはまったく縁がない。それ以上に生まれ育った神戸という街そのものに寺が少なかったように思う。そのせいか、東京の谷中から上野、浅草あたりを歩いたとき、その寺の多さに驚いた。それぞれの寺には卒塔婆の乱立する古い墓地があり、寺を継ぐというのは何基あるかわからない墓の管理とその檀家の法事の一切を引き受けることと思えば気が遠くなる。考えれば武田泰淳から永六輔、植木等まで寺の息子というのはけっこう多いようだ。「朽ち果てし」という上五と蜩の声はぴったりの侘び具合であるが、「その日暮らし」という語も仕掛けられているのは言うまでもない。題名そのものも人を食った味わいがあるが、少しうらぶれた下町の情緒と、洒落のめしたナンセンスが混然一体となった句集である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


January 2412013

 その息の白いたましひつぽいかたち

                           佐山哲郎

の冷たい空気に吐く息が白っぽく見えるのは冬ならではの現象。その息の形が魂っぽく見えるってどんな形だろう。漫画の吹き出しのようでもあるが、はぁーと全身でため息をついて脱力したのかもしれない。そういえば昔、少年雑誌のグラビアに掲載されていた心霊写真にエクトプラズマ現象を写したものがあり、男の人の口から魂がとろーんと出ていて、おどろおどろしく怖かった。「その息」と限定しているわけだから、特定の人の白息がよっぽど太く、白く見えたのだろう。タバコで吐きだす煙にも。愛煙家によって個性があるように白息にも人によって特徴があるかもしれない。今日は出勤時に駅のプラットホームで電車を待つ人が吐く息に注目してみよう。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


May 0252013

 ウーと出てマンボと続く潮干狩

                           佐山哲郎

ういう俳句の良さを伝えるのは難しい。まず「ウー、マンボ!」とマラカス両手に軽快に身体を揺する曲の出だしを知らないと、このワクワク感が読み手に伝わらないだろう。頭の中で鳴り響くマンボのリズムにのって熊手とバケツを提げ、ズボンをまくり上げて海に入ってゆく。開放感にあふれた気分に青い海と空が眩しい。映画の1シーンとして背後にこの曲を流してみれば昔懐かしい日本映画と言った雰囲気。これから潮干狩りを思うたび私の中ではこの曲が流れそうである。「マンボ五番「ヤア」とこどもら私を越える」川柳の中村富二の句にあるが、こちらも同じ曲を主題にしていると考えられる。いずれもレトロな昭和の記憶を引き出す句である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)




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