July 262003
桔梗や男に下野の処世あり大石悦子季語は「桔梗(ききょう・きちこう)」。秋の七草に入っているので秋季に分類されてきたが、実際には夏の花だろう。関東地方などでは、もうとっくに散ってしまったのではなかろうか。歯切れよく咲くという感じ。凛然として鮮烈に花ひらく。一見そんな花の様子にも似て、世の「男」は潔く「下野(げや)」していくようには見えるが、実はその裏側で、ちゃっかりと「処世」の計算を働かせてのことなのだと手厳しい。官僚の天下りなどは典型だろう。後進に道をゆずると言えば格好はよろしいが、なあに、早い話が退職金をたんまりせしめて今よりも楽な仕事に就き、できるだけ遊んで暮らそうという魂胆なのだ。官僚にかぎらず、定年退職するサラリーマンでも、職場での地位が高い連中に多く見られる。「ま、当分はオンボロ子会社に籍だけ置いて……」などと、悠長にして姑息なことを言う。オンボロだろうが何だろうが、働きたくても働き口のない人で溢れている現代でも、一方ではこうした「処世」術のまかりとおる連中がいるのだ。……というようなことをよく知ってはいても、実は男はあまりそのようなことについて指摘したり指弾することを好まない。少なくとも、私はそうである。この野郎とは思っても、そんな連中に何かを言い立てれば言い立てるほど、自分が惨めになる気がするからだ。だから掲句を見つけたときには「よくぞ言って下さいました」と一も二もなく賛同はしたのだったが、ここに書くまでには相当の時間を要した。おのれのひがみ根性があからさまになるようで、ずうっと躊躇していた。もはや世間的な対面なんぞはとっくに捨てたはずなのに、いつまでも駄目なんだなあ。それこそ「桔梗」のように凛としてみたいよ。『百花』(1997)所収。(清水哲男) July 252003 西からのドミノ倒しに夏怒濤島本知子季語は「夏(怒)濤」だが、当サイトでは「夏の海」に分類しておく。打ち寄せる大波の高まっては崩れていく様子を、「ドミノ倒しに」と言ったところが新鮮だ。テレビでときどきドミノ倒しの模様を見かけるが、なるほど、あの行列の高まりやうねりは波のようである。同じような言い方で「将棋倒し」があるけれど、波に「将棋倒し」は似つかわしくない。ドミノ倒しが前進していくエネルギーを感じさせるのに対して、こちらは共倒れと言うか、挫折していくイメージの濃い言葉だからだ。「倒」の字が、ドミノではアクティブに、将棋では逆の意味で使われている。だから倒れる現象は同じでも、掲句では「将棋倒し」とは言えないのである。そして、この二つの相反する「倒」のイメージの差は、元はといえば、それぞれのゲームの本来の遊び方の差から来ているのだと愚考する。将棋はもちろんだが、ドミノもまた、並べて倒す遊びのために開発されたものじゃない。両者ともが知的なテーブルゲームであり、それぞれの駒はそれぞれのゲームのなかで、一つ一つに意味や価値が付与されている。決して同質同価値ではない。したがって、それぞれの駒にしてみれば、同質同価値として並べて倒されるなどは不本意だろう。それはともかく、両者のゲームの大きな違いは、ドミノがお互いの駒をつないでいくことに力点があるのに対して、将棋は相手の駒の関係を切断するところに勝負のポイントがある点だ。ドミノはつなげる、将棋は切る。この本質的なゲームとしての差が、同質同価値に並べて倒すときのイメージにも関わってくるという点が、実は回り回って掲句の解釈にも「つながって」くるのである。「俳句」(2003年8月号)所載。(清水哲男) July 242003 葛桜雨つよくなるばかりかな三宅応人季
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