テ夫句

August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


May 2652008

 中肉にして中背の暑さかな

                           加藤静夫

の句、どことなくおかしい。「おかしい」と言うのは、変であり滑稽でもあるという意味だ。すらりと読み下ろせば、この「中肉にして中背の」形容は「暑さ」に掛かることになる。つまり、暑さを擬人化していると読める。しかしいくら擬人化しているとはいえ、中肉中背の暑さとは不可解だ。どんな暑さなのか。強いて言えば季節に頃合いの暑さと受け取れなくもないけれど、その暑さの程度はわかったようでわからない。でも読者は馬鹿じゃないから、ここで瞬時に読みの方角を転換して、中肉中背とはすなわち作者のことであり、その作者が感じている暑さのことだと頭を切り替える。が、そう読んでしまうと、さあっとシラける。せいぜいが肥満体にして長身の人の暑がっている姿などを想像し、それに比べれば楽そうだなどと思うだけで、句全体はさして面白くなくなるからだ。そこでまた馬鹿じゃない読者は最初の読みに戻り、いや待てよとばかりに次の読みに行き、そうこうしているうちに、この読み方の揺れ自体に句のねらいがありそうだと気付き、気付いたときには作者の術中にはまってしまっているのである。つまり前者と後者の読みが揺れながら重なったり離れたりすることで、この句はようやく精彩を発揮するというわけだ。そこらへんに、変であり滑稽であると感じさせる仕掛けの秘密があると読んだ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


July 0772008

 花火尽き背後に戻る背後霊

                           加藤静夫

える句だ。霊界にはからきし不案内だが、ネットで拾い読みしたところでは、背後霊は守護霊の子分みたいな位置づけらしい。どんな人にも当人を守る守護霊一体がついているのだが、守護霊一体だけでは本人の活動範囲全般にわたって効果的に守護することは難しいので、守護霊を補佐するような形で背後霊がついている。背後霊は二、三体いるのが普通で、たいていは先祖の誰かの霊なのだそうだ。この句では、それがあろうことか花火見物(手花火をやっているのかもしれないが、同じことだ)に来ている当人をさしおいて、背後から前面に出て見ほれてしまい、打ち上げが終わったところであわてて所定の位置である背後に戻って行ったと言うのである。背後霊は神ではないので、こんなこともやりかねない。花火に夢中になっている間に財布をすられるなんぞは、たいてい背後霊がこんなふうに持ち場を離れたせいなのだろう。しかし背後霊は先祖の誰かのことが多いのだから、あまり文句を言うわけにもいかないし……。作者は、ユーモア感覚を詠みこむのが巧みな人だ。こういう句を読むと、俳句にはもっともっと笑いの要素やセンスが取り込まれるべきだと思う。蛇足ながら、自分の背後霊を具体的に教えてくれるサイトがある。むろん先祖の名が出てくるのではないけれど、興味のある方はここからどうぞ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 2052013

 三十分のちの世恃む昼寝かな

                           加藤静夫

者によっては、大袈裟な句と受け取る人もいるだろう。「三十分のちの世」などと言っても、「現在の世」とほとんど変わりはないからである。たまには三十分の間に大きな地震が起きたりして、世の中がひっくり返るような騒ぎになるかもしれないが、そうした事態になることは稀である。私たちは三十分どころか二十四時間後だって、今と同じ世の中がつづくはずだと思っている。今も明日の今頃も、ずうっと先の今頃も、世に変わりはないはずだと無根拠に信じているから、ある意味で安穏に生きていけるのだ。しかし、だからこそ、なんとか三十分後の世が変わってくれと恃(たの)みたくなる気持ちの強くなるときがある。たとえば私などは原稿に切羽詰まったときがそうで、どうにも書きようがなく困り果てて、ええいままよとばかり昼寝を決め込むときがある。まさに三十分後の世に期待をかけるわけだが、たまには思わぬアイディアが湧いてきたりして、効果があったりするのだから馬鹿にできない。でも、よくよく考えてみれば、この効果は「世」が変わった結果ではなく、自分自身が変わったそれなのだけれど、ま、そのあたりは物は考えようということでして……。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


June 0762016

 突支棒はづれて梅雨に入りにけり

                           加藤静夫

雨の形容は、土砂降り、篠突く雨、バケツをひっくり返したような雨などなど。そしてあらたに「突支棒(つっかいぼう)がはずれたような雨」も掲句によって誕生した。それは、空のどこかにぶよぶよとした雨の袋が積まれていて、一本のつっかい棒で支えられているのだろう。おそらく天上にはつっかい棒を外す「梅雨棒外し」のような要職があり、うやうやしく棒を外す日などもあり、晴れて(晴れては変か…)棒が外されると、雨袋は我先にと地上へと転がり出ていくのだろう。つらつら考えてみると、梅雨の降雨量が夏の間の水を蓄えるわけで、天上から地下へ、水の固まりを移動させているだけではないのだろうか。雨の続く地表で、おろおろしている私たちがなんとも不格好で気の毒な生きもののように思われる。集中には〈遠足の頭たたいて頭数〉〈すでに女は裸になつてゐた「つづく」〉など、ニコリやニヤリが連続する一冊。『中略』(2016)所収。(土肥あき子)




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