2003N12句

December 01122003

 古書街に肩叩かるる歳の暮

                           皆川盤水

二月に入った。毎年感じることだが、この一ヵ月は飛ぶように過ぎていく。まさに「あれよあれよ」が実感だ。そう言ってはナンだけれど、この多忙な月の「古書」店は、さして商売にならないのではあるまいか。ゆっくりとウィンドウや棚を見て本を選ぶ時間的な余裕など、たいていの人にはないからである。句の「古書街」は、おそらく東京・神田だろう。あのあたりにはオフィスもたくさんあるので、年末でも人通りは普段とあまり変わらないかもしれない。でも、古書を求めて歩く人は少ないはずだ。そんな街を、作者は明らかに本を探しながらゆっくりと歩いている。めぼしい店の前で立ち止まりウィンドウを眺めているときに、後ろからぽんと肩を叩かれた。振りむくと、知った顔が微笑している。この忙しいのに、お前、こんなところで何やってるんだ。そんな顔つきである。だが、どうやら彼も同じように本を求めてやってきたらしい。一瞬でそうわかったときに、お互いの間に生まれる一種の「共犯者」意識のような感情。この親密感は、やはり「歳の暮」に特有なものである。私は若い頃に、大晦日には映画を見に行くと決めていた。正月作品を、ガラ空きの映画館で見られたからだ。もちろん私も他の客からそう思われていたのだろうが、大晦日に映画を見る人々は、よほどヒマを持て余しているか、家にいられないだとか何かの事情がある人たちに違いない。そういう時空間では、お互いに見知らぬ同士ながら、なんとなく親密感が漂っているような雰囲気があったものだ。ましてや掲句の場合には知りあい同士なのだから、その密度は濃かっただろう。きっと、そこらで一杯というくらいの話にはなったはずである。『寒靄』(1993)所収。(清水哲男)


December 02122003

 牛鍋は湯気立て父子いさかへる

                           湯浅藤袴

語は「牛鍋(ぎゅうなべ)」で冬。ボーナスが出たのか、何か良いことがあったのか。今夜は特別の夕飯である。だが、せっかくのご馳走を前にして、父と子が言い争いをはじめた。まわりの家族も食べるに食べられず、成り行きを見守るのみ。そんなことにはお構いなしに、目の前の「牛鍋」はおいしそうな湯気を盛んに立てている。愉しかるべき夕餉が、これでは目茶苦茶だ。家庭に限らず、忘年会などでもこういうことはたまに起きる。人間の駄目なところ、寂しいところである我欲が剥き出しになり、我欲の前では食欲も減退してしまう。たとえいさかいの原因が他愛ないものだとしても、我欲のパワーはあなどれない。不愉快な情景だが、句は的確にその場の雰囲気を伝えていて巧みだ。ところで、ご存知の方も多いとは思うが、「牛鍋」は江戸東京の料理である。同じ牛肉主体でも、関西では「鋤焼(すき焼き)」と言って料理調理法が若干異る。句にも「湯気立て」とあるように、牛鍋が肉を煮るのに対して、鋤焼は文字通りに焼く料理だ。簡単に手順を示すと、鋤焼ではまず脂身をひいて肉を焼いてから野菜などを加え、醤油や砂糖で味付けをしていく。牛鍋では肉や野菜などを、あらかじめ作っておいた割り下(ダシ)で最初から煮る。鋤焼のほうが、だんぜん手間がかかる。最近では鋤焼と称して牛鍋を出す店も多いけれど、本来はこういうことだった。家人が関西の出なので、我が家ではずっと鋤焼だったが、だんだんお互いに面倒になってきて、いつしか牛鍋風になってしまった。二つの調理法をめぐって、それこそいさかいになる新婚夫婦もあると聞く。これから結婚する人はご用心。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 03122003

 暖房や生徒の眠り浅からず

                           村上沙央

つらうつら、こっくりこっくり、なんてものじゃない。机に俯せて気持ちよさそうに、もう完全に眠っている。こうなると、下手に起こしては可哀想だと思えてくるから不思議だ。作者は、微笑しつつ見て見ぬふりをしたのだろう。実際、ほど良く暖房がきいた教室での眠りは気持ちが良い。教師の声が、まるで子守歌のように聞こえてくる。私の高校時代は、スチーム式の暖房だった。あのまろやかな暖かさは、疲れている生徒にはたまらない。眠れ眠れと、催眠術をかけられているようなものである。教師の声のトーンが一定で単調であればあるほど、術はよく効く。声の催眠性といえば、自分の声のせいで自分が眠くなることがある。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、しばしば私は、ラジオのスタジオで経験した。生放送中に、どうしようもなく眠くなってくるのだ。ゲストがいるときにはまさか眠りはしないが、ひとりで長時間放送していると、自分の声が子守歌みたいになってくる。ひとりのときは、声がモノトーンにならざるを得ないので、余計にそう聞こえるらしい。それに普通の場所で話すのとは違い、スタジオではイヤホーンをつけて自分の声を自分で聞かされているわけだから、そのせいもある。冬のスタジオは暖かいし、静かこの上ない空間だし、ひとたび眠くなってくると回復するのが大変だ。首をまわしてみたり背伸びをしてみたりする程度では、立ち直れない。そんなわけで、短い時間ながら、半分以上は自分で何を言っているのか定かではない放送をしたこともあった。私だけかと思って聞いてみると、アナウンサーの何人かが、眠りつつしゃべった経験があると言った。ほっとした。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 04122003

 マラソンの余す白息働きたし

                           野沢節子

語は「白息(しらいき)・息白し」で冬。そろそろ、連日のように吐く息が白く見えるようになる。いわゆるリストラの憂き目にあった人の句ではない。「余す白息」から、作者の健康状態のよくないことがすぐに読み取れる。健康な人であれば、「余す」の措辞はなかなか出てこないだろう。せいぜいが「吐く白息」くらいだろうか。ところが作者には、走りすぎるマラソン・ランナーの吐く白い息が、羨ましくも生きていくエネルギーの余剰と写ったのだ。自分には到底、あんなふうに「白息」を「余す」ようなエネルギーはない。いくら働きたくても、私には余すエネルギー、体力などないのだから無理だろう。しかし、みんなと同じように私も身体を使って働きたいのだ。切実にそう思う作者の目に、ランナーの白息がどこまでもまぶしい……。このように、句は作者の境遇を何も知らなくても読むことができるが、少し付言しておく。句は、作者の二十数年来の宿痾であったカリエスがやっと治癒した後に書かれたものだ。一応名目的な健康は取り戻したものの、むろんそう簡単に体力がつくわけのものではない。病気から解放された信じられないような嬉しさと、しかし人並みの体力を持ちえない哀しみとの交錯する日常がつづいていた。このとき、作者は既に三十八歳。一度も働いたことはなく、あいかわらず両親の庇護の下にあった。焦るなと言うほうが無理だろう。なりたくて、病気になる人は一人もいない。しかし不運としか言いようのない境遇のなかにあって、作者と同じく多くの病者が俳句をよすがとし、その世界を更に豊饒なものとしてきた。俳句が今日あるのは、社会的弱者の目に拠るところが実に大きいのである。『雪しろ』(1960)所収。(清水哲男)


December 05122003

 枯山の人間臭き新聞紙

                           鷹羽狩行

語は「枯山(かれやま)・冬の山」。全山枯一色の山道を歩いていたら、使いさしの「新聞紙」が無造作に丸めて捨てられていた。人と擦れ違うでもなく、およそ人間社会とは無縁のような山奥の道に落ちている新聞紙は、たしかに生臭くも人間臭い感じがするだろう。捨てた人はゴミとして捨てたわけだが、見つけたほうには単なるゴミを越えて、離れてきた俗世間へ一気に引き戻される思いがするからだ。そのあたりの機微がよく押さえられているが、この「人間臭き」の印象の中身は、読者によってさまざまであるに違いない。山歩きの目的にいささかでも厭人厭世的な動機が伴っている場合には、不快感を覚えてしまうだろう。作者はあるところで、「新聞もテレビ、ラジオのニュースもない場所を求め、深山幽谷に入ったつもりだったのに」と恨めしげに述べている。が、そうでない人にとっては、べつに拾って読むほどではないにしても、どこかでほっとした気持ちになるはずだ。私の場合はいつも世間が恋しい性格だから、旅に出て何日か新聞を眺めない日があったりすると、忘れ物をしたような気にさえなる。昨今の小さなビジネスホテルでは、まったく新聞の置いてないところもあって、何が「ビジネスかよ」と腹立たしい。外国に出かけても同じことで、昔出かけたアテネの街で、辛抱たまらなくなり新聞を買ったまではよかったが、悲しいことにギリシャ語ゆえ一字も読めず。でも、一安心の気分は日本にいるときと変わらなかった。いずれの印象を受けるにせよ、新聞の「毒」はまことに強力、その威力には凄いものがある。『誕生』(1965)所収。(清水哲男)


December 06122003

 この頃の漫画わからずひなたぼこ

                           やなせたかし

者は「あんぱんまん」などで知られる漫画家だ。その漫画家が、最近の漫画はわからないと言う。とうとう時代についていけなくなったかという哀感と、他方ではわけのわからぬ漫画への怒りの心情もある。その二つの気持ちがないまぜになって、ちょっと世をすねたような「ひなたぼこ(日向ぼこ)」とはあいなった。ただし、事は漫画に限らない。私は一応詩人のはしくれではあるけれど、しばしば「この頃の詩わからず」ということになってきた。たまに批評を求められたりすると、最初から「わかりませぬ」と言ってしまうこともある。そんなときには、句の作者と同じような気持ちになるわけだが、でも「わかりませぬ」ですませてよいのかという自問も絶えずつきまとう。多少の時代遅れは認めるにしても、そのせいだけでわからないとは限らないからだ。作者の漫画観はいざ知らず、私の場合は私のささやかな詩観に外れた作品を読むときに、どうも理解しようとする気力と努力に欠けてきているような気がしてならない。いつの頃からか「お歯にあわねえな」と、ぶん投げてしまう癖がついた。これでは初手から「わかろうとしない」のであって、「わからぬ」のとは別問題ではないか。俗に言う食わず嫌いと同義である。だから最近では、これではいけないと努力して読もうとはするものの、かなりの苦痛を覚えることは覚える。そのうちに、何も苦しがってまで読むこともないかと、やはりぶん投げてしまうことが多い。苦しさの原因は私の場合、本当は詩観の差異から来る部分はあまりなく、若い人の作品にありがちな気負いの生臭さに耐えられないあたりにあるようだ。そんなことに、やっと気がついた。すなわち、これがトシというものなのだろう。江國滋『続 微苦笑俳句コレクション』(1995)所載。(清水哲男)


December 07122003

 福助のお辞儀は永遠に雪がふる

                           鳥居真里子

しかに「福助」は、いつもお辞儀の姿勢でいる。多くの人が福助を知っているのは、人形そのものとしてよりも、関西の足袋屋から出発した下着メーカーの商標としてだろう。だから作者が福助を見ていて、(足袋から)雪を連想したのは心の自然の動きである。句はアダモのシャンソン「雪がふる」にも似て、私たちの漠然とした郷愁を誘う語り口だ。静かに降る雪を見ていると「永遠に」ふりつづけるようであり、目の当たりにしている福助のお辞儀も、また変わることなく永遠に繰り返されていくことだろう。このときに、読者は雑念からしばし解放され、真っ白な無音の世界へと誘われてゆく。福助といういわば俗っぽいキャラクターが、かえって静謐な時間を際立たせているところに注目。ところで、福助とはいったい何者なのだろうか。むろん足袋屋さんが作ったのではなく、江戸は吉宗時代からのキャラクターらしい。頭が大きく背の低い異形だが、実は大変な幸運をもたらす人物として創出されている。人は見かけによらぬもの。そうした教訓を含んでもいるので、あやかろうとする人々にも、濡れ手で粟のような後ろめたさがなかったと思われる。荒俣宏によれば彼は子供なのだそうだが、一方では女房子供のいるれっきとした大人だとする説もある。他にちゃんと愛人もいて、その名が「お多福」。ついでに母親の名が「おかめ」ときては、眉に唾をつけるよりも前に笑ってしまう。ちなみに、姓は「叶(かのう)」だそうな。願いが「かのう」というわけか。それからこれは本当の話だが、今年の梅雨のころに、福助が消えて無くなるかもしれない出来事があった。「福助」株式会社が、大阪地方裁判所に民事再生の適用を申請したからだ。商標が消えたからといって掲句の魅力に影響はないけれど、やっぱり消えるよりは存在していたほうがよい。ここで、ちらっと福助の動くお辞儀が見られます。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


December 08122003

 軍艦と沈んでゐたる海鼠かな

                           吉田汀史

語は「海鼠(なまこ)」で冬。十二月八日と聞いて、なんらかの感慨を覚える人も少なくなってきた。かつての開戦の日だ。私の世代はまだ幼かったので、実感的に思い出せるのは七十代以上の人たちだろう。句は直接この日を詠んだものではないが、戦争の悲惨を静かに告発している意味で挙げておきたい。海深く沈没させられた軍艦の周辺に、物言わぬ海鼠が寄り添うように「沈んで」いる。多くの海鼠は陸地に近く棲息するから、句の海鼠は死んでいるのだろう。それはさながら、軍艦と運命をともにした兵隊たちの精霊のようでもあろうか。地上の人間からはとっくに忘れ去られた闇の世界に、いまなおゆらめく恨みをのんだ霊魂か。想像するだに、あまりにもいたましい情景だ。句で思い出されたのは、開戦後二年目(1943年)の今日の日付で封切られた映画『海軍』(田坂具隆監督・松竹)である。十数年前に、ビデオで見た。海軍報道部の企画で作られた映画だから、完全な国威昂揚を目的とした作品だ。鹿児島の雑貨屋の息子が家業のことを気にしつつも、お国のためにと海軍兵学校に進学する。無事卒業していまや中尉となった主人公は、十二月八日のこの日、特殊潜航艇に乗り組み、真珠湾近くの深海に身を潜めていた。作戦どおりにやがて静かに艇を浮上させ、潜望鏡で覗いた真珠湾には、空からの奇襲の被害を免れた敵艦の姿があった。ここで映画は終わる。いや、本当はこれから彼が華々しい戦果をあげるシーンがつづくのだが、戦後に米軍がこの部分のフィルムを没収して持ち帰り、行方不明というのが真相らしい。しかしここで終わっているほうが、むろん海軍情報部の意図には反しているけれど、戦争の悲惨を訴えるがごとき余韻が残る。史実はともあれ、奮戦の甲斐もなく潜航艇が大海の藻くずと化すシーンも、十分に暗示されていると思えるからだ。そこで私のなかでは、映画と掲句とが結びついた。勝手な連想でしかないことは承知だが、しばしば人のイマジネーションはこのように働く。加えて俳句の様式自体が、読者の自由な連想を喚起する装置として機能する以上、勝手な連想の居心地もよいというものだろう。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


December 09122003

 遠ざかる人と思ひつ賀状書く

                           八牧美喜子

度も書いているように、作句の要諦は読者に「なるほどね」と思い当たらせることだ。季語は、言ってみれば思い当たらせるための最も有効な補助線である。たとえば「雪」と書けば「冬ですよ」と季節を限定できることから、それだけ「なるほどね」と中身にうなずいてもらえる必要条件が整うわけだ。この条件を逆用して、あっと驚かせるドンデンガエシ句を作る場合もあるけれど、驚かすための布石としてはやはり当たり前の補助線を当たり前に引いているにすぎない。掲句はとても素直な補助線が引いてあるので、わからない人はいないだろう。なるほど、こういうことってあるよなあ。と、納得できる。ところが句を「暑中見舞書く」としたら、どうだろうか。大半の人は、共感しかねるに違いない。賀状だからこそ、納得がいくのだ。そして掲句には、その先もある。中身は一見平凡に写るが、読者を簡単に納得させたその先に、実は一つの疑問を提示していると読むべきだろう。すなわち、年賀状って、いったい何なのかという疑問だ。儀礼だとか虚礼だとかとは別な問題として、出す側をかくのごとくに拘束する力の不思議さ。「遠ざかる人」と思うなら、書かなければよいというわけにもいかない心理が、年賀状に限って働くのは何故なのだろうか。鋭く疑問を呈しているのではないけれど、読者が本当に思い当たっているのは、こうしたことが自分にも起きるという事実そのことではなくて、毎年のように自問しているこのような漠然たる疑問そのものであるはずだ。おそらくは出す相手の側も、作者と同じ心理を働かせながら、結局は書いている。そう思うと、なんだか滑稽でもあり、しかし笑い捨てることもできない変な気持ちにさせられた。2004年版『俳句年鑑』(角川書店)所載。(清水哲男)


December 10122003

 襤褸着て奉公梟に親のゐて

                           ふけとしこ

語は「梟(ふくろう)」。留鳥だから四季を問わないが、冬の夜に聞く鳴き声は侘しくもあり凄みもあるので、冬の季語として定まったらしい。絵や写真で見る梟はどことなく愛嬌のある感じだが、実際は肉食する猛禽だ。鼠なども食べてしまうという。句はそんな生態をとらえたものではなく、あくまでも遠くから聞こえてくる独特な鳴き声に取材している。「襤褸(ぼろ)着て奉公」とは、いわゆる聞きなしだ。昔から人間は、動物の声を地域や聞く立場の差異によって、いろんなふうに聞きなしてきた。梟の声も単にホーホーホホッホホーホーと聞くのではなく、句のように聞いたり、あるいは「五郎助ホーホー」「糊つけて干せ」、なかには「フルツク亡魂」なんて怖いのもある。それでなくとも寂しい冬の夜に、こいつらの声はなお寂しさを募らせる。作者はそれを「襤褸着て奉公」と聞き、ああやって鳴いている梟にも親がいて、お互いに離れ離れの身を案じているのだと哀れを誘われている。スズメやカラスなど日頃よく見かける鳥に親子の情愛を思うのは普通だけれど、夜行性の不気味な梟にそれを感じたのは、やはり寒い季節に独特のセンチメントが働いたからなのだろう。その働きを見逃さず書き留めたセンスや、よし。他の季節であれば、同じように聞こえても、親子の情までにはなかなか思いがいたらない。奉公という雇用形態が実体を失って久しいが、戦後の集団就職は奉公につながる最後のそれだったと思う。中学を卒業してすぐに親元を離れ、町工場などに住み込みで働いた。子供はもちろん送り出した親も、どんなに寂しく心細かったことだろうか。そんな苦労人たちもみな、いまや高齢者の域に入った。そうした人々が読んだとしたら、掲句はとりわけて身に沁み入ることだろう。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


December 11122003

 純白のマスクを楯として会へり

                           野見山ひふみ

語は「マスク」で冬。ぼつぼつ、マスクをしている人の姿が増えてきた。冬ですね。といっても、最近では花粉症の季節にもマスク姿をよく見かけるようになったから、この季語、将来はどうなるのかしらん。さて、作者は身構えて物を言わざるを得ない人に会いに行った。実際に風邪をひいていたのかどうかはわからないが、とにかくマスクを「楯(たて)」のようにして話したというのである。「純白の」に、相手に対する挑戦的な姿勢が強調されている。マスク一つで、心強くなれる人間心理は面白い。マスクに似た効果があるのはサングラスで、あれもかけ慣れると、なかなか外せなくなる。私は若い頃にいっとき、夜でもかけていた。礼儀上外したときなど、別に身構える相手ではないのに、なんだか自分が頼りなく思えて困ったものだった。古風な小説や映画に出てくる怪盗などがしばしばアイ・マスクをして登場するのは、一つには顔を見られたらいけないこともあるが、そのこと以上に、あれはまず自分自身を鼓舞するための道具なのではなかろうか。風邪のマスクに話を戻せば、SARS騒ぎの中国の街で、ほとんどの人たちがマスクをしている映像は記憶に新しい。あの場合はむろん自己鼓舞とは無関係だけれど、あれだけの人々がマスクをしていたら、それまでの人間関係が微妙に変化する部分もあったのではないかと思う。句が言うように、たかがマスクとあなどれないのである。『俳句歳時記・冬』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


December 12122003

 丞相のことば卑しく年暮るゝ

                           飴山 實

近はあまり見かけない言葉だけれど、「丞相(じょうしょう・しょうじょう)」は昔の中国で、天子を助けて国政を行った大臣のことだ。転じて日本では大臣の異称として用いられるが、句の場合は総理大臣だろう。では、この「ことば卑し」き総理大臣とは、誰をさしているのだろうか。句集の出版年次から推して考えると、中曽根康弘か竹下登に絞られる。彼らの「ことば」の中身についての諸評価はあろうが、二人のうちのどちらが詠まれているにせよ、当たっているように思われる。彼らあたりから首相としての発言のレベルは下がり、品位も下落した。私は歴代総理の政策にはほとんど反対の立場であるが、いまにして思えば、大平正芳や鈴木善幸までは老獪さも含めて、まだマシだった。少なくとも、自分に恥じるような卑しい言葉はほとんど吐かなかった。作者は、一国の宰相ともあろう人物がここまで成り下がったのかと憮然としている。この調子では世の中がどんどん悪くなるだろうと、一年の来し方を振り返って慨嘆しているのだ。抒情句の名手であった作者にしては、出来の芳しくない作品だが、それをおそらくは自覚しつつも敢えて句集に収めた心情は見上げたものだ。俳句は庶民の文芸である。花鳥風月も大いに結構だが、やはり庶民の生活ベースを左右する事どもについても述べておくのは当然だろう。そんな作者の声が聞こてくるような気がする。もしも作者が存命ならば、彼は今回の自衛隊派遣をめぐる一連の小泉純一郎の「ことば」をどう捉え、どう詠んだであろうか。もはや「卑しき」程度のやわらかな形容ではすまさなかったはずである。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


December 13122003

 白に帰す雪合戦の逸れ玉も

                           泉田秋硯

近はあまり降らなくなったようだが、昔は山口県でも山陰側ではよく雪が降り、よくつもった。大雪で、学校が休みになることもあった。元日の学校の式典に雪を踏んで登校した覚えがあるから、この時期くらいから降り始めていたのではなかろうか。作者は島根県・松江市の出身だ。同じ山陰である。友だち同士での遊びとは別に、体操の時間にもさせられたと自註にあるが、これも同じ。いや、体操の時間以外にも、時間割が急に変更されて校庭に出たこともあったっけ。小学生のときに私はずうっと学級委員長をやらされていて、教師によく聞かれたから覚えている。「清水よ、次の時間は勉強がいいか、それとも雪合戦か」。すると、一瞬教室がしーんとなる。いまの子供ならワーワー言うところだろうが、当時の先生には権威があった。怖かった。教室で騒ぐなどもってのほかと言い含められていたから、勝手に発言しようものなら、せっかくの雪合戦がおじゃんになってしまう。しーんとしたなかで、みんなの期待が私に集まる。実は、私の本音は勉強のほうがよかったのだ。でも、勉強が好きだったわけじゃない。あんな寒いところは、往復二時間の通学路だけでたくさんだと思っていたからだ。といって、みんなが雪合戦をしたいというよりも、勉強をしたくない気持ちのほうが強いのもわかっていたから、いつも「雪合戦のほうがいいです」と答えざるを得なかった。思い返すに、あのころの教師が学級代表である私に時間割変更の同意を求めたのは、子供の意見を尊重したという言質を取っておく必要があったからに違いない。やたらと民主主義が叫ばれ、振り回された時代であった。雪合戦の「逸れ玉」は、落ちるとすぐに周囲の雪と見分けがつかなくなる。作者は、往時茫々の感をその様子に重ねている。私はそれにもう一つ、いつしかどこかに逸れてしまった戦後民主主義なる雪玉も加えておきたいと思う。自解100句選『泉田秋硯集』(2002)所収。(清水哲男)


December 14122003

 大根のぐいと立ちたる天気かな

                           原田 暹

練馬大根
語は「大根」で冬。収穫期から言う。大気は冷たいが快晴、すっきりとして気持ちの良い「天気」である。そんな冬の上天気を、大根畑の様子だけで描ききったところは見事だ。なかなか、こうは詠めない。畑を見たことのない人だと、「立ちたる」の状態がわかりにくいだろう。根菜の知識が災いして、根がすっぽりと地中に埋まっていると思ってしまうからだ。でもたしかに、大根は「ぐいと」立っている。品種にもよるけれど、根の白い部分が地表に出てくるのが普通で、いちばん出るものだと30センチくらいが見える。まさに「立つ」という言い方がふさわしい。作者は関西の人なので、どんな品種の大根だろうか。昨今は圧倒的に雑種が多いそうなので、特定は無理かもしれない。東京の有名な練馬大根も長年雑種に押しまくられていたが、ここのところ復活の動きが活発化してきた。見た目で言うと葉の広がりの大きいのが特徴である。何万年もの昔の富士噴火の灰が降り積もった関東地方の土(関東ローム層)の厚さは、深いところで七メートルほどもあるそうで、根菜類の生育に適している。大根を素材にした料理にもさまざまあるが、私の好物は素朴な味噌汁だ。繊六本に刻んだ大根以外には、何の具も入れない。小さい頃、母がよく作ってくれた。貧しかったので、他の具は入れようもなかったのだろうが……。寒い朝、ふうふう言いながらこいつを食べると、身体の芯から暖まった。写真は練馬区のHP「よみがえれ練馬大根」より借用。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


December 15122003

 てっちりや徹頭徹尾吉良贔屓

                           加古宗也

かりし由良之助。じゃなかった、遅かりし掲載日。昨日14日は赤穂浪士討ち入りの日だった(もっとも本来は旧暦での日付だから、一ヵ月ほど先の話だけれど)。ゆかりの赤穂市では、盛大に忠臣蔵バレードなどが行われたことだろう。一方、討たれた側の愛知県吉良町では、恒例の吉良上野介公毎歳忌がしめやかに……。季語は「てっちり」で冬、河豚汁に分類。「鉄ちり」と書き、江戸時代に河豚のことを鉄砲と言ったことから、河豚のちり鍋を言う。河豚は「当たれば死ぬ」ので、鉄砲。駄洒落である。さて赤穂浪士ファンは圧倒的に多いが、なかには作者のような熱烈な吉良ファンもいる。史実を引っ繰り返してみると、吉良は故郷に善政を敷き、庶民とも気楽に会話を交わしたなどの名君の面がある。他方、浪士が忠義立てをした浅野内匠頭はというと、切腹させられたときに地元の農民が赤飯を炊いて喜んだという話も残っている。内匠頭は良く言えば倹約家、悪く言えば大変なケチだったから、地元民に振る舞うようなことはしなかったらしい。句の作者は、吉良町に隣接する西尾市在住の人だ。昨夜あたりはおそらく「義士なんぞとは笑わせやがる」と浪士をボロクソにけなしつつ、旬のてっちりで一杯やったのではあるまいか。「てっちり」と「てっとうてつび」の音の並びが面白く、コト吉良贔屓においては頑固一途の作者像が浮かんでくる。何事につけ贔屓するには最初に動機があるわけだが、高じてくると動機の部分をはるかに越えて何から何まで「徹頭徹尾」好きになってしまいがちだ。あばたも笑窪になるのである。先日の忘年会で早乙女貢の講演を聞きに行ったという友人がいて、「吉田松陰も伊藤博文も大馬鹿呼ばわりボロクソやったで」と話していた。早乙女さんはたしか会津の出身だ。「徹頭徹尾」のクチだろう。(清水哲男)


December 16122003

 一人身の心安さよ年の暮

                           小津安二郎

のとき(1932年)、小津安二郎満三十歳。『生れてはみたけれど』で映画界最高の名誉であったキネマ旬報ベストテン第一位に輝き、将来を大いに嘱望される監督になっていた。しかも「一人身」とあっては、家庭のあれこれを心配する必要もなく、年末なんぞも呑気なもんだ。我が世の春、順風満帆なり。そんな心持ちの句とも読めるけれど、実は自嘲の句である。いまでこそ三十歳独身などはむしろ当たり前くらいに受け取られるが、昔は違った。変人か能無しと思われても、仕方がなかった。私の三十歳のときですら、まだ同じような世間の目があったほどだ。生涯独身であった小津とても、人並みに異性には関心があった。同じ年の句に「わが恋もしのぶるまゝに老いにけり」があるから、片想いの女性が存在したようだ。が、自身日記に書きつけているように、どうも情熱一筋になれない性格であったらしい。すぐに、醒めた目が起き上がってきてしまう。まことに恋愛には不向きで厄介な気質である。そういえば小津映画は、いつもどこかで画面が醒めている。熱中して乗りに乗って撮ったのではなく、あらかじめ用意した緻密な設計図にしたがって撮った感じを受ける。でも実際には設計図にしたがったわけではなくて、天性の醒めた目に忠実にしたがった結果が独特の世界になったと見るべきだろう。あれが彼の乗っている姿なのだ。そんな醒めた目で自分を見つめるときに、落ち着き先は多く自嘲の沼である。年末なんてどうってことない、気楽なものさ。うそぶく醒めた目は、しかし家庭のために忙しく走り回っている人々を羨ましがっているのだ。都築政昭『ココロニモナキウタヲヨミテ』(2000)所載。(清水哲男)


December 17122003

 牡丹鍋力合せて食ひにけり

                           大串 章

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。イノシシの肉の鍋料理だ。食べると、身体がホカホカする。だいたいが関西から発した料理らしく、東京あたりでは店も少ない。イノシシの生息地と関係があるのだろう。いまでも六甲山麓一帯の住宅地などでは、たまに見かけられるという話だ。句の「力合せて」が上手い。なにせ、相手は全力で猛進してくるイノシシだもの。力を合わせなかったら、みんなぶっとばされちまう。というのは半分冗談だが、半分は本当だ。料理屋などの一人前という量は何を基準にしているのかよくわからないが、少なくとも高齢者の食欲を目安にはしていないだろう。かといって、食べ盛りの若者のそれでもない。あいだを取って二で割ったようなものだから、老人には多すぎるし、若者には少なすぎる。作者は、むろん後者の年代に入る。若い頃ならぺろっと食べられた量が、いまでは持て余すほどだ。いっしょに鍋を囲んでいる連中も、みな同じ。残したって構わないようなものだけれど、なんだかもったいない。とりわけて作者の世代は、敗戦後の飢えを知っている。もったいないと思う気持ちには、単なるケチというのではなく、残したものが捨てられるかと思うと、身を切られるような気がするのだ。そこで誰言うとなく、「よしっ、みんな食っちまおうぜ」ということになった。こうなると、もう味は二の次だ。ひたすら食うことだけを自己目的化して、食いに食いまくる。そして全部を食べ終わったときの満足感たるや、ない。そこから自然に立ち上がってきたのが、「力合せて」の実感である。この滑稽さのなかに漂っているほろ苦い隠し味……。俳誌「百鳥」(2003年3月号)所載。(清水哲男)


December 18122003

 屑買ひがみてわれがみて雪催

                           清水径子

語は「雪催(ゆきもよい)」。冷え込んできて、いまにも雪が降り出しそうな曇天のこと。さながら小津映画にでも出てきそうな情景だ。「屑買ひ」は、いまで言う廃品回収業者。昔は「お払い物はありませんかー」と呼ばわりながら、リヤカーで町内を回っていた。年の暮れは稼ぎ時だったろう。そんな屑屋さんを呼び止めて、勝手口で不要なもののあれこれを渡している図。代金として、なにがしかの銭を手渡しながらでもあろうか。「降ってきそうですねえ」と屑買いの男が空を見上げ、つられて作者も同じような方角に目をやる。いままで暖かい室内にいたので気づかなかったが、言われてみればたしかに「雪催」だ。二人同時に見上げたのではなく、まず「屑買ひがみて」、それから「われがみて」。そうわざわざ書いたところに、手柄がある。この順番は、すなわち寒空の下で仕事をしなければならない人と、そういうことをしなくても生活の成り立つ自分を象徴的に表現しており、しかし自分とても決してご大層な身分ではない。ぼんやりとそんな思いもわいてきて、そこにいわば小市民的な哀感が醸し出されてくる。屑屋さんが去ってしまえば、すぐに忘れてしまうような小さな思いを素早く書きとめた作者は、まぎれもない俳人だ。本当はその場でのスケッチではないにしても、こうしたまなざしが生きる場所としての俳句様式をよく心得ている。中身はなんでもないようなことかもしれないが、俳句に言わせればちっともなんでもなくはないのである。「俳句ってのはこういうものさ」。『鶸』(1973)所収。(清水哲男)


December 19122003

 年の市何しに出たと人のいふ

                           小林一茶

語は「年の市」で冬。本来は毎月立つ市であるが、正月用品を扱う年末の市は格別に繁盛した。その賑わいの渦の中にいると、いやが上にも押し詰まってきた感じを受けたことだろう。年の市では、どんなものが売られていたのか。平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によれば、『日次紀事』に次のようにあるという。「この月、市中、神仏に供ふるの器皿、同じく神折敷台、ならびに片木・袴・肩衣・頭巾・綿帽子・裙帯・扇子・踏皮、同じく襪線・雪踏・草履・寒臙脂皿・櫛・髪結紙、および常器椀・木皿・塗折敷・飯櫃・太箸・茶碗・鉢・皿・真那板・膳組・若水桶・柄杓・加伊計・浴桶・盥盤、ならびに毬および毬杖・部里部里・羽古義板、そのほか鰤魚・鯛魚・鱈魚・章魚・海鰕・煎海鼠・串石決明・数子・田作の類、蜜柑・柑子・橙・柚・榧・搗栗・串柿・海藻・野老・梅干・山椒粉・胡椒・糊・牛蒡・大根・昆布・熨斗・諸般の物ことごとくこれを売る。これみな、来年春初に用ふるところなり」。ふうっ、漢字を打ち込むのがしんどいくらいに品数豊富だ。さぞや目移りしたことだろう。ただこれらの多くは所帯には必要でも、一茶のような一所不在の流れ者には必要がない。のこのこ出かけていったら、怪訝そうに「何しに出た」と言われたのも当然だ。しかし、何も買わないでも、行きたくなる気持ちはわかる。普通の人並みに、彼もまた年末気分を味わいたかったのである。したがって、「何しに出た」とは無風流な。苦笑いしつつも、一茶は大いに賑わいを楽しんだことだろう。虚子に「うつくしき羽子板市や買はで過ぐ」がある。冷やかして、通りすぎただけ。一茶と同じような気分なのだ。(清水哲男)


December 20122003

 世直しの大門松を立てにけり

                           藤平伊知郎

語は「門松立つ」。以前は今日あたりから立てはじめたものだが、最近ではクリスマス・ツリーに押しまくられた格好で、多くは二十五日以降に立てるようになった。作者は、暗い世相つづきの今年から脱皮して、来年こそは良き年にしたいという願いを込めて立てたというのである。「大門松」に、その意気込みのほどが感じられる。作者のことは何も知らないが、句の勢いからして、この門松は自分で立てたのだろう。山から伐ってきて二日ほど寝かせておいて、という古いしきたり通りに。そうではなくて職人頼みにしたのでは、せっかくの「世直し」への気合いが薄れてしまう。ほとんどの家が人頼みで立てるようになったのは、高度成長期以後のことだ。掲句の大門松をちりとでも贅沢に思った人は、何でも人頼みにする社会に毒されている。他人事ではなく、実は私も最初はそう思ってしまって反省した。ところで、我が集合住宅でも毎年人頼みで立ててもらっている。最初のうちは大人の背丈ほどの大門松だったものが、予算が一定だから、年ごとにだんだん小さくなってきた。止むを得ないことである。が、二年か三年前に、急に大門松が復活した。そこで一悶着が起きた。大きなのが立つやいなや、マンションの理事会に住民からの苦情が殺到したからだ。この不況下で門松の費用を増やすとは何事であるか、理事会の独断専行も甚だしいというわけだ。しかし増やした覚えはないから、理事連中も驚いた。さっそく依頼先に電話をしたのだが、先方は繁忙期とあって要領を得ない。結局は住民の苦情をよそに大門松は涼しい顔で立ちつづけ、取り払われてからやっと事の次第が判明したのであった。何のことはない、先方の単純ミス。むろん、例年通りの支払いで結構ということだった。以来、住民の間にはなんとなく単純ミスを期待する雰囲気があるようである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 21122003

 海鼠腸や予報は晴の明日へ酔ひ

                           小泉もとじ

語は「海鼠腸(このわた)」で冬。海鼠(なまこ)の腸の塩辛だ。これにウニとカラスミとを並べて、日本三大珍味と言う(人もいる)。いずれも酒の肴として親しまれてきた。アツアツのご飯に添えても美味いというが、私にはピンとこない味だ。いわゆる酒飲みではないからだろう。若い頃には何でも飲めたが、いつしか日本酒もウィスキーも、ワインすら飲めなくなった。いや、無理すれば飲めるし良い気持ちにもなったりするのだが、次の日がいけない。猪口に三杯くらい飲むと、翌朝は決まって頭が痛くなるのだ。したがって、ここ三十年ほどはビール専門。これだけはいくら飲んでも大丈夫なのだから、人間の身体とは不可解なものである。でも、それこそ海鼠腸などで日本酒をちびりちびりやっている人を見るのは好きだ。当方のソーセージにビールなんて取り合わせは、どうもガサツでガキっぽく感じられてならない。そこへいくと日本酒をたしなむ人たちには、男女を問わず、どこかに大人の風格というものがある。晦日ソバにお銚子一本なんて、粋なものです。私はソバもアレルギーで駄目だから、この取り合わせは見果てぬ夢だ。いつの暮れだったか、それでも友人たちと神田の有名なソバの店に出かけ、ひとりビールを舐めた侘しさを、きみ知るや。なんだか俳句が二の次になってしまい申し訳ないが、句のよさは「海鼠腸」ばかりか天気「予報」も肴になると言ったところだ。表で仕事をする人なのかもしれない。明日に何か特別に嬉しいことが控えているわけではないが、ただ晴れるというだけで気分がよくなる。こういう気持ちは誰にでもあるのだけれど、ここまできちんと句にした人は少ないだろう。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


December 22122003

 古暦ひとに或る日といふ言葉

                           長谷川照子

語は「古暦」で冬。昨年の暦という意味ではなく、年もおしつまり、来年の暦が用意されたころの今年の暦を言う。つまり、新しい暦に対する古い暦というわけだ。落語「桃太郎」は、夜遅くなっても寝ない息子の金坊に、親父が昔話をして寝かせてやろうという咄だ。ところがこの金坊はこましゃくれたガキで、いちいち聞き返してくる。「昔々」とやると「いつの時代?」、「あるところに」とつづければ「それどこの国、どこの町、何番地?」といった具合だ。同様に、句の「或る日」などという特定の日もあるわけはないのだが、しかし、「ひと」は「或る日といふ言葉」を持っている。それは、人生のほとんどが、記憶され特記されるに足らない凡々たる日々の繰り返しに過ぎないからだろう。昨日と今日を区別する必要がないのである。残り少なくなった暦に、過ぎ去った今年の日々のことを回想しつつ、作者はあらためて「或る日」としか言いようのない日の連続であったと感じているのだ。「ひと」のみが持つ「或る日」という観念の寂しさよ。にもかかわらず、「或る日」など一日もない暦を吊るして生きる不思議さよ。私の部屋の古暦は「JTB」カレンダー。新しい暦は、ラジオ局でもらった「TOKYO DISNEYLAND」カレンダーです。可愛らしすぎるけど。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 23122003

 落日をしばらく見ざり十二月

                           五味 靖

二月の特性を、物理的な面と心理的な側面の両面から浮き上がらせた佳句だ。十二月は冬至を含む月だから、一年中で最も日照時間が短い。夜明けも、そして日没も早い。だから、オフィスなど室内で仕事をしていると、仕事が終わるころにはもう日が暮れていて、「落日」は物理的に見られない理屈だ。加えてこの月は多忙なので、たとえ日没時間に戸外にいたとしても、悠長につきあう心理的なゆとりのないときが多い。したがって「しばらく見ざりし」いう思いが、たとえば今日のような休日にぽっとわいてくるわけだ。なんでもないような句だけれど、会社勤めの読者には大いに共感できる世界だろう。十二月の句には多忙を詠んだ心理的主観的かつ人事的なものが多いなかで、ちゃんと物理的な根拠も踏まえているところが気に入った。ちなみに、今日の東京地方の入日は四時三十二分だ。暗くなってから「まだこんな時間なのか」と、あらためて実感する人もいるだろう。そのものずばりの句が、岡田史乃にある。「日没は四時三十二分薮柑子」。季語である「薮柑子(やぶこうじ)」の赤い実は正月飾りに使われるから、これまた物理的心理的に押し詰まった感じをよく描き出している。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


December 24122003

 硝子戸に小さき手の跡クリスマス

                           大倉恵子

然に「硝子(ガラス)戸」についている子供の「小さき手の跡」を見つけた。よくあることだが、これを「クリスマス」に結びつけると、途端にある情景が浮かんでくる。サンタクロースの到着を待っている子供が、しきりに「まだかなあ、遅いなあ」と硝子戸の外の暗い夜空を見上げている。そんな情景だ。待ちきれないままに、子供はもうすやすやと眠ってしまった。そのときについたのであろう「小さき手の跡」を見て、作者は微笑しつつ、子供の純真をいとおしく思うのだ。サンタクロースが橇に乗って、世界中の子供たちにプレゼントを配ってまわる。どこのどなたの創案かは知らないが、すばらしいアイディアだ。一年に一夜だけ、夢を現実にかなえてやる。むろん、そのために逆に哀しい思いをする子供もいるわけだが、それもこれもをひっくるめて、このアイディアは子供たちに夢を描くことの喜びを教えてくれる。長じてサンタの存在を信じなくなっても、それは心のどこかに「小さき手の跡」のように残っていくだろう。サンタを商業主義の回し者みたいに言う人もいるけれど、私はそうは思わない。たしかにそうした一面がないとは言えないが、単なる商魂だけではカバーできない魅力をサンタは持っている。そうでなければ、多くがクリスチャンでもないこの国に、子供へのプレゼントの風習が定着するはずがない。新年のお年玉をねらう商魂がいまひとつ伸びを欠くのは、こうした夢の構造を持ち得ないからだろう。私が小さかった頃は戦争の真っ最中で、サンタのサの字もなかった。いまだに残念で仕方がない。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 25122003

 賀状書く痴呆かなしき友ひとり

                           細見しゆこう

状を書いているうちに、風の便りに痴呆が進んでいる友人宛のところで手が止まった。彼に、この年賀状が読めるのだろうか。読めたとはしても、差出人が誰かを理解できるのか。あんなに元気だった奴が何故……と、信じられない思いで暗く悲しい気持ちに沈みこむ。だが、やはり作者は例年のように彼に元気よく書いただろう。そう思いたい。たとえわからなくたって、それでよい。それが友情というものではないか。幸い、私には痴呆の友はいない(はずだ)。ただ、毎年のようにポツリポツリと亡くなる友人がいる。今年も、同級生ひとりと若い友人ひとりを失った。パソコンに入れた名簿を見ながら順番に書いてきて、亡くなった人の名前のところで筆が止まる。出そうか出すまいかの話ではなく、もう出してはいけないのだから、暗澹とする。そして元気だったころの姿を思い出すのだが、妙なもので、こういうときに浮かんでくるのは何故か些細なイメージばかりだ。よく赤いセーターを着ていたなとか、そういうことである。もう一つ、焦点が結ばない。そして最も辛いのは、もはや不要となった彼のアドレスを名簿から消去するときだ。パソコンでの操作だから、一瞬で消えてしまう。が、その操作には逡巡が伴ってなかなか踏ん切れない。あらためて電話番号などまで読み直して、それから思い切って消去ボタンを押す。そうすれば、見事に消えてなくなる。しかし、なんだかそのまま通りすぎるのも忍びなくて、また消去作業の取り消しボタンを押してみたりする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 26122003

 冬木立日のあるうちに別れけり

                           清水基吉

の句を読んで、すぐに師走の句だと感じた人は鋭い。というか、人情の機微によく通じている。実際にも十二月に詠まれているのだが、冬は冬でも押し詰まった時期の冬には、独特の人事的な意識が働く。つまり、自分はともかくとして、相手はみななにやかやと忙しいだろうと推測する意識だ。句の相手に対する作者の気持ちも同様で、わざわざ「日のあるうちに」とことわったのは、他の季節ならそんな時間には別れない人であることを示している。飲み友だちのような、気の置けない間柄なのだ。それがせっかく会ったのに、明るいうちに別れた。お互いに相手の多忙をおもんぱかり「ちょっと一杯」など言わないで、いや言えないで別れてしまった。ところがこのときに、おそらく作者には時間がたっぷりあったのだと思う。相手にだって、あったのかもしれない。別れてしまったあとで、やはり誘ってみるべきだったかなどと、ちょっとうじうじとした気分なのである。この気分が、すっかり葉を落した「冬木立」の淋しい風景に通じていく。さて、これから余った時間をどうしようか……。ところで、多くのサラリーマンは今日で仕事納めだ。だいたいの人が、それこそ日のあるうちに退社できるのだろう。私が勤め人だったころは独身のこともあって、明るいうちに同僚と別れるのはなんとなくイヤだった。帰宅しても、何もすることはない。かといって、忙しそうに見える人を誘うわけにもいかないし、結局はひとり淋しく映画でも見たのだったろうか。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)


December 27122003

 闘牛士の如くに煤を払ひけり

                           波多野爽波

語は「煤払(すすはらい)」。いまは神社仏閣などの年中行事は別にして、一般には年末の大掃除の意味で使われる。今日あたり、そんな家庭も多いことだろう。句の眼目はむろん「闘牛士の如く」にあるわけだが、いったいどんな格好でどんなふうに掃除をしたのだろうか。まさかマントを颯爽と翻してなんてことはあるまいから、「闘牛士の如く」はあくまでも作者の主観に属するイメージだ。周辺の誰が見ても、闘牛士には見えるはずもない。強いて感じることがあるとすれば、常になく張り切って掃除に励む作者の姿くらいなものである。だが、そんなことは百も承知で、イケシャアシャアと闘牛士を持ちだしたところに、爽波のサービス精神躍如たるものがある。本人だって、具体的なイメージがあるのではない。なんとなく闘牛士みたいだなと思いつつ、機嫌よく掃除ができたのである。で、その突拍子もない気分をそのまま書いて、あとのことは読者にいわば託したというわけだ。どんなふうにでもご自由に想像してくださいな、と。そしてここで重要なのは、作者が自分の滑稽な世界を提出するに際して、ニコリともしていないところだ。「払ひけり」と、むしろ生真面目な顔つきである。この顔つきがあって、はじめて滑稽さが伝わるのだと、ちゃんと作者は心得ている。三流のお笑い芸人がしらけるのは、彼らは滑稽なネタを笑いながら披露するからだ。自分の話に自分で笑うようでは、世話はない。サービス精神の何たるかを履き違えているのである。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


December 28122003

 電線の密にこの空年の暮

                           田中裕明

年も暮れてゆく。ぼんやりとでもそんな感慨を持つとき、私たちはたいてい空を見上げる。どうして空を見るのだろう。こういうときに、俯いて地べたを見る人はあまりいないのではなかろうか。不思議といえば不思議な習性だ。誰に教わったわけでもないと思うのだが、といって生得の気質からでもなさそうで、やはり知らぬうちに摺り込まれた後天的な何かからなのだろう。我が家の近所にも、電柱と電線が多い。普段でも、カラスがとまって鳴いていたりすると見上げることはしばしばだ。でも、そんなときには「電線の密」には気がつかない。というか、気にならない。おそらく、作者も同じような気持ちなのだろう。「年の暮」の感慨を持ったときに、はじめてのように見えたというわけだ。ああ、こんなにも電線が混みあっていたのか……。そこであらためて、まじまじと見てしまう。句の世界を敷衍して言えば、私たちが何かを見るというときには、自分の心持ちによって、見えるものと見えないものとがあるということになる。正確には、見えていても気がつかない物もあるのである。むろん、事は電線には限らない。今日あたり、日頃は気にも止めていない何かを、まじまじと眺める人も多いだろう。年末も年始も、物理的には昨日に変わらぬ今日の連続でしかない。が、年を区切るという人間の文化は、このように物の見方を変えてしまう力も持つ。面白いものである。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


December 29122003

 数へ日のともあれわたくしの居場所

                           土肥あき子

語は「数へ日」。♪もういくつ寝るとお正月。これである。今年もあれやこれやといろいろなことがあり、押し詰まったら詰まったであれやこれやと忙しい。それらあれやこれやのなかには、もちろん不愉快なこともあるわけだし、来年に持ち越さざるを得ない面倒なこともある。が、そんな「わたくし」にも「ともあれ」いまの「居場所」だけはある。もって瞑すべきではないのか。「わたし」ではなく「わたくし」とあらたまった表現に、作者の謙虚な姿勢がうかがわれる。そうなのだ。ともかくも自分の居場所があるということは、それだけで幸福と言うべきなのだ。句の「居場所」は家という意味か、あるいは家の中での自分の部屋の意なのか、それとももっと精神的な意味があるのか。それは受け取る読者にまかされている。年の暮れではなかったが、私には数ヵ月ほど物理的な意味での居場所がなかった時期があるので、過剰に掲句は心に響くのかもしれない。若かったから日銭を稼げたのはよいとして、毎夜帰るべき部屋がなかった。いかな呑気な性格でも、あの暮しは相当にコタえた。最初は友人宅に世話になっていたけれど、それにも限界がある。以後は山手線界隈の曖昧宿を転々とし、原稿はほとんど喫茶店や飲屋で書いていた。その日暮らしの金はあっても、アパートを借りるだけのまとまったものがなかったからである。幸い奇特な出版社に拾われて危機は脱したものの、いまだに夢に見る。「東京新聞」「中日新聞」(2003年12月27日付夕刊)所載。(清水哲男)


December 30122003

 注連賣の灯影のくらき店じまひ

                           宇佐美ふき子

語は「注連売(しめうり・飾売)」。近くの吉祥寺の街に、ハモニカ横丁と呼ばれる一画がある。戦後にバラック建てではじまったヤミ市マーケットの雰囲気が、いまでも残っている。通りは人二人がやっと擦れ違えるほどの狭さで、両側に小さな洋品店や雑貨店、食堂や飲屋などが軒を連ねている。普段はひっそりとしているが、年の暮れともなると、にわかに活気づく。昔ながらの「年の市」の雰囲気があるからだろう。お年よりの客が多いけれど、最近では若者の姿も目立つようになってきた。ここの飾り売りは、花屋の狭い店先だ。なんとなく値段などを眺めていたら、年配の女性がやってきた。「今夜は、何時までやってるの」。と、店のおばさんが「遅くまで」とぶっきらぼうに答える。「遅くったって、何時までよ」。「さあ、何時までにしようかねえ」。すると傍らの客が「まあ、おばさんが眠くなるまでだな」。そんな案配に、くだんの女性客は笑いながら「しょうがないのねえ。じゃ、いま買っとく。今日は大安だからね」。つられて私も「そうか、大安か」と思い、買うつもりもなかった輪飾りを買ってしまったのだった。なんのことはない、客のほうが商売しているようなものである。帰ってから、この句を読んだ。そして、あのおばさん、そろそろ「店じまひ」の頃かしらんと、吹き抜けの横丁の暗い寒さを思った。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


December 31122003

 晴れきつて除夜の桜の幹揃ふ

                           廣瀬直人

すがに蛇笏門。重厚な品格がある。こういう句は、作ろうと企んでも、なかなか出てくるものではない。日頃の鍛練から滲み出てくるものだ。専門俳人と素人との差は、このあたりにあるのだろう。句をばらしてみれば、そのことがよくわかる。「晴天」「除夜」、そして「桜の幹」と、これだけだ。いずれもが、特別な風物風景じゃない。よく晴れた大晦日の夜に、これから参拝に出かけようとして、たとえば桜並木の道に出れば、それで句の条件は誰にでもすべて整う。作者だけの特権的な条件は、一切何もないのである。しかし作者以外には、このようには誰も詠まないし、詠めない。まずもって目の前にあるというのに、「桜」に注目しないからだ。いわんや「幹」に、その幹が整然と揃って立っていることに……。何故なのかは、読者各位の胸の内に問うてみられよ。すっかり葉を落して黒々と立つ桜の幹には、何があるだろう。あるのは、来たるべき芽吹きに向かっているひそやかな胎動だ。生命の逞しい見えざる脈動が、除夜の作者の来春への思いと重なって読者に伝わる。「去年今年」の季語に倣って言うならば、さながら「今年来年」の趣がある。除夜にして既に兆している春への鼓動。それはまた、新しい年を待つ私たちの鼓動でもある。「木を見て森を見ず」ではないけれど、専門家はこのように「木を見て木を見る」ことができる。鍛練の成果と言う所以だ。少なくとも私なんぞには、逆立ちしてもできっこないと感心させられた。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)




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