面倒で先延ばしにしてきたことを片づけはじめた。ヒマになったということ。




2004年2月13日の句(前日までの二句を含む)

February 1322004

 全身にポケットあまた春の宵

                           坪内稔典

宵一刻直千金。昔は「千金の夜」などという季語もあったそうだが、これはどうもガツガツしているようでいただけない。「春の宵」はそんな現世利益をしばし忘れさせるほどに、ほわあんとしている感じが良いのだ。ほわあんとすると、なんだか甘酸っぱい感傷に誘われるときもあるし、掲句のように、当たり前といえば当たり前のことに気がついたり感じ入ったりすることもある。言われてみれば、なるほど男の衣服の「ポケット」の数は多い。まさに「全身」がポケットだらけだ。しかし「こりゃ大変だ」というのでもなければ「何故なんだ」というのでもない。「ふうむ」と、作者はひたすらに感じ入っている。そこらへんが可笑しいのだが、この可笑しみは他の季節の宵には感じられない、やはり春ならではのものだろう。くすぐったいような、作者の例の甘納豆句の「うふふふふ」のような……。句にうながされて、外出時の自分のポケットの数を勘定してみた。コートに五つ、ジーンズの上下に九つ、合わせて14個もついている。スーツだったら、もっと多いはずだ。ポケットの中に、またポケットがついていたりする。で、これらすべてを使っているかというと、半分も使っていない。第一、全部使うほどにたくさんの小物を持って歩くことはない。たまに紛失してはいけないメモなどを、ふだんは使わない内ポケットにしまい込むこともあるが、飲み屋でそんなことをするとエラい目にあう。翌朝、朦朧たる意識のうちに、そんなメモがあったことを思い出してポケットを探るのだが、いつも使うところには無いので、一瞬青ざめるのである。逆に、冬場になってはじめてコートを着たときに、何気なくポケットに手を入れると千円札が入っていたりして、一瞬雀躍するのである。『百年の家』(1993)所収。(清水哲男)


February 1222004

 蔦の芽の朱し女は五十から

                           平石和美

語は「蔦(つた)の芽」。春になると、葉の落ちた黒い蔓から赤い芽や白い芽がふき出てくる。生長も早い。そのたくましい活力を称揚して、他の草木の「ものの芽」と区別する一項目として立てられたのだろう。ちなみに、芍薬や菖蒲の芽なども別項目立てである。掲句の中身は、そうした季語の本意によく適っている。見かけたのは偶然にしても、蔦の芽の「朱」を目にしたときに、こだわっていた何かが嘘のようにふっ切れたのだ。赤い小さな芽から、いわば生きていく勢いをもらったのである。とても素直に、そうだ「女は五十から」なんだと納得できたのだった。単純に解釈すればこういうことだが、むろんこの心境を得るまでには、それまでの気持ちの葛藤の整理がほぼなされていなければならない。ただもう一歩踏み出しかねているところもあって逡巡するうちに、蔦の芽ぶきに出会い、一気に整理がついたということだろう。いや、整理をつけたと言うべきか。自分で自分の葛藤に決着をつけるときには、すでにほとんど気持ちの方向は固まっていても、掲句のように何かのきっかけや弾みによって最終的に決めることが多い。人間の面白いところだ。句だけでは、作者の思い惑っていたことが何であるかはわからない。「五十」とあるので、年齢に関係する生活設計上の何かなのだろうが、それが何であれ、読者も作者同様に素直に「女は五十から」という断言に賛成できる。そこが、掲句の手柄である。「蔦の芽」の生命力が、まっすぐに断言の後押しをしているからだと思う。『桜炭』(2004)所収。(清水哲男)


February 1122004

 挿木する明日へのこころ淡くして

                           能村登四郎

語は「挿木(さしき)」で春。枝などを切って土や砂に挿し、根を出させて苗木をつくる。時期的にはまだ早く、すっかり暖かくなった春の彼岸ころに行われることが多い。若き日の寺山修司が好んだフレーズに、「もしも世界の終わりが明日だとしても、私は林檎の種を蒔くだろう」というのがあった。誰の言葉かは忘れた。種蒔きでも挿木でも同様だが、この作業は「明日」があることを前提にし、それも植物が生長を遂げるのに十分な時間の幅を持った明日である。むろん生長を見守る自分も、充実の時には存在していなければならない。だから、世界が明日破滅すると決まっていても林檎の種を蒔くという行為には、矛盾がある。しかし大いなる矛盾があるからこそ、このフレーズには、どんな状況においても希望を捨てない若々しいロマンチシズムがみなぎっているのだ。前置きが長くなったが、掲句は一見、このフレーズの淡彩版のようにも読める。というのも「明日へのこころ淡くして」挿木する作者を若者だとみるならば、心弱き日の感傷的な行為と受け取られ、立ち上がってくるのは甘酸っぱいようなロマンチシズムの香りである。だが、実際に作者が詠んだのは、最晩年の九十歳の春だった。そのことを知ると、句は大きく様相を変えて迫ってくる。すなわち、「明日」がないのは世界ではなくて、我が命のほうなのだ。挿している植物が生長するまで、生きていられるだろうか。その心もとなさを「こころ淡くして」と詠み、みずからの明日の存在の不確実性は真実こう詠むしかないわけであり、ここには微塵のロマンチシズムも存在しないのである。我が身の老いを完全に自覚したときの孤独感とはこのようなものなのかと、粛然とさせられた。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)




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