X@句

March 2032004

 朧より少年刃の目もて来る

                           大森 藍

年同士は、まず時候の挨拶などは交わさない。「暑い」だの「寒い」だのと言い交わすことはあるけれど、あれは挨拶ではない。一種の自己確認なのであって、独り言みたいなものである。一方の少女はというと、時候の挨拶まではいかなくても、わりに小さいころから挨拶めいた会話をはじめるようだ。挨拶は世間的なコミュニケーションの潤滑油として働くから、一般的に少年よりも少女のほうが早く世間に目覚めると言ってよいだろう。良く言えば少年は精神性が高く、少女は社会性に敏感なのだ。回り道をしたが、句はそういうことを言っている。春「朧(おぼろ)」、上天気。作者がなんとなく浮き立つような気分でいるところに、「少年」がやってきた。子供が外出から帰宅したのかもしれない。ふと見ると、ずいぶんと険しい「刃の」ような目をしている。どきりとした。何かあったのだろうか。などと思う以前に、春うららの雰囲気に全くそぐわない「刃の目」を、しばし作者は異物のように感じたのだった。このことは、すなわち少年に挨拶性が欠落していることに結びつく。句は、少年の特質を実に正確に描破している。つまり、少年は人に挨拶することはおろか、周囲の環境に対しても挨拶することをしないのである。作者は大人だから「朧」にいわば挨拶して機嫌よくいるわけだが、少年からすれば「朧」への挨拶などは自身の精神性にとって何の意味もない。そもそも「朧」という実体不分明な概念に、なぜ大人がふうちゃかと浮き立つのかがわからないのだ。飛躍するようだが、多くの少年が俳句を好まないのは、あるいは苦手にするのは、俳句の挨拶性が理解できないからである。俳句の挨拶にもいろいろあるが、なかで最もわからないのは季語が内包する挨拶性だろう。季語にはすべて、単なる事象概念を超えた挨拶としての機能がある。そして、この機能は常に一定の方向を指し示すものだ。たとえば「朧」は明るさに顔を向けるが、暗さを示す機能はないという具合に、である。変じゃないか。と、少年は素朴に思う。……これらのことに関しては長くなるので、いずれ稿を改めたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


November 23112004

 黄落や寮歌でおくる葬あり

                           大森 藍

語は「黄落(こうらく)」で秋。銀杏などの葉が黄ばんで落ちること。東京辺りではこれからだが、もうはじまっている地方もあるだろう。黄落がはじまると、いよいよ寒くなってくる。作者は葬儀に列席したのか、あるいは偶然に見かけたのだろうか。いずれにしても、ありそうでいて、なかなかな無い「葬」(「とむらい」と読むのかしらん)風景ではある。故人は、おそらくかつての旧制高校で青春期をおくった人なのだ。当時の寮の仲間数人が参列していて、出棺のときに誰かひとりが歌いだすと、あとの何人かも唱和して歌いだした。若い作者にははじめて聞く歌なのだが、歌う高齢の男たちの様子から彼らの遠い青春時代が思われて、心がしいんとなった。帰らざる青春……。そんな言葉も、胸をよぎる。折りから、黄色くなった木々の葉もほろほろと柩に降りかかっている。人は必ず死ぬ。そんな思いをあらためて確認するのは、こういうときだろう。寮歌といえば、私は学友であり詩友であった佃学から叩き込まれた。彼が若くして死んだときに、私は声にこそ出せなかったけれど、通夜の席の胸の内で歌ったことを思い出す。彼が愛していた五高寮歌だ。「武夫原頭(ぶふげんとう)に草萌えて/花の香(か)甘く夢に入り/竜田の山に秋逝いて/雁が音遠き月影に/高く聳ゆる三寮の歴史やうつる十余年」と、この世界は詩人・佃学の初期の抒情詩にとてもよく似ている。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


December 16122004

 ゆきひらに粥噴く大雪注意報

                           大森 藍

行平鍋
日も北国のどこかでは、こういう情景がありそうだ。「ゆきひら」といっても、実物を使っている人ですら、もう名前を知らない人のほうが多いかもしれない。「行平鍋」の略。在原行平が須磨で、海女に潮をくませて塩を焼いた故事にちなむという。陶製の平鍋で、把手(とって)、注口があり、蓋をそなえたもの。金属製のものもある。子供が風邪でも引いたのだろう。何か食べやすく暖かいものをと、手早くゆきひらで「粥」を作ってやっている。煮えてきて威勢良く噴き上がる様子を見ている作者に、テレビからかラジオからか、「大雪注意報」が聞こえてきた。大雪でも大雨でも、避けようもない自然現象に閉じ込められようとするとき、人と人との親和力は増してくるようである。自然の猛威のなかでは人は無力に近いから、お互いに寄り添う気持ちが高まってくるのだ。大人であれば保護者意識が高まり、子供は逆に被保護への気持ちが強くなるとでも言うべきか。見知らぬ人同士でさえ、なんとなく親しみを覚えたりする。作者の場合には、粥を食べさせる相手が病人だから、なおさらだ。といって、こうした意識には悲壮感はあまり無く、むしろ身近に保護すべき人がいることに安らぎの念すら湧いてきたりするものだ。粥は、そろそろ出来上がる。早く子供に出してやって、美味しそうに食べる顔を見てみたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)




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