acq句

June 1262004

 鶏小屋の近くに吊す水着かな

                           藺草慶子

し早いが、海辺の民宿の図を。夕暮れ時だ。泳ぎ終えて民宿に引き揚げ、洗った水着を干している。いや、きちんと干すのではなく、ただ「吊す」だけのことだ。そして、そこは「鶏小屋」の近くだった。景としてはこれで全てだが、言外にある心理状態はそんなに単純ではない。図式化すれば、水着が非日常的な生活の側面を表しているのに対して、鶏小屋は反対に生活の日常的な部分を示している。つまり作者は何の気なしに非日常を日常の場所に持ち込んでしまったわけで、こういうときに人の心は微妙に揺れるのである。民宿を営んでいるその家の、夏場以外の日常のありようをふっとかいま見てしまったような、あるいは見てはいけないものを見てしまったような……。この鶏小屋は、客に新鮮な卵を提供するためにあるのではなく、家族の食卓のためにあるのだ。鶏小屋独特のむっとするような臭いの傍で、こういうところに遊びに来ている自分が、ちらりと申し訳ないような気持ちになったかもしれない。そっちは商売なんだし、こっちは客なんだから。リゾートホテルならそうも言えるが、民宿ではこの理屈は通しにくいのである。鶏小屋の存在を知ってしまった以上、宿の人との会話にも影響が出てくる。私も何度も民宿の厄介になったことがあるけれど、鶏小屋に当たったことはないにせよ、その家の思わぬ日常性に出会わなかったことはない。とくに小さな子供がいたりすると、日常性の露出度は高くなるから、苦手であった。掲句は、そんな民宿のありようをシンプルな取り合わせで捉えていて、その巧みさに膝を打ちたい思いで読んだ。『遠き木』(2003)所収。(清水哲男)


August 3182006

 学校へ来ない少年秋の蝉

                           藺草慶子

日から二学期。子供の頃はこの日が嫌いだった。毎日のお天気マークはでたらめだし、宿題帳はほとんど白紙のまま。休み中逃げ続けた現実に直面するのが今日だった。この頃の学校は宿題が減っているようなので、そんな情けない思いをしている子は少ないかもしれない。それでも中には明日から始まる学校に不安を感じている子もいるだろう。とりわけ不登校の子供達はどんな気持で今日を過ごしているのか。夏休みの間は自分と同じように家にいて、ときどき近所で顔を合わせていた友達も明日から学校へ行ってしまう。学校へ行かない、行けない子供達にまた長いひとりぼっちの日々が始まる。「秋の蝉」は、夏過ぎても鳴いている蝉の総称。残暑の続くうちは声に勢いがあるけど、だんだん鳴き声も疎らに、細くなってゆく。「学校へ来ない」の措辞から考えると句は教師の立場から書かれたものだろう。平常の授業が始まったクラスにぽつんと空いた席。生徒ではなく「少年」と表現したことで、教壇から見下ろす視線ではなく、学校へ来ない彼の寂しい胸のうちを、秋蝉の声にだぶらせて思いやる心持ちが伝わってくる。『現代俳句最前線』(2003)所載。(三宅やよい)


July 2972008

 わが死後は空蝉守になりたしよ

                           大木あまり

いぶん前になるがパソコン操作の家庭教師をしていたことがある。ある女性詩人の依頼で、その一人暮らしの部屋に入ると、玄関に駄菓子屋さんで見かけるような大きなガラス壜が置かれ、キャラメル色の物体が七分目ほど詰まっていた。それが全部空蝉(うつせみ)だと気づいたとき、あまりの驚きに棒立ちになってしまったのだが、彼女は涼しい顔で「かわいいでしょ。見つけたらちょうだいね」と言ってのけた。「抜け殻はこの世に残るものだから好き」なのだとも。その後、亡くなられたことを人づてに聞いたが、あの空蝉はどうなったのだろう。身寄りの少なかったはずの彼女の持ち物のなかでも、ことにあれだけは私がもらってあげなければならなかったのではないか、と今も強く悔やまれる。掲句が所載されているのは気鋭の女性俳人四人の新しい同人誌である。7月号でも8月号でも春先やさらには冬の句などの掲載も無頓着に行われている雑誌も多いなか、春夏号とあって、きちんと春夏の季節の作品が掲載されていることも読者には嬉しきことのひとつ。石田郷子〈蜘蛛の囲のかかればすぐに風の吹く〉、藺草慶子〈水遊びやら泥遊びやらわからなく〉、山西雅子〈夕刊に悲しき話蚊遣香〉。「星の木」(2008年春・夏号)所載。(土肥あき子)


January 1212016

 もつと軽くもつと軽くと枯蓮

                           藺草慶子

あふれる蓮の葉、高貴で香しい蓮の花の時期を通り過ぎ、蓮の骨ともいわれる枯蓮は、耐えがたい哀れを詠むのが倣いである。ところが掲句は一転して、蓮は枯れることで軽くなろうとしているのだと見る。日にさらされ尽くした蓮は、風に触れ合う音さえも軽やかである。それはまるで植物としての使命を終えたのちに訪れる幸福な時間にも思われる。黄金色に輝く杖となった蓮の「もっともっと」のつぶやきは、日のぬくみとともに作者の胸の奥にも静かに広がっていることだろう。『櫻翳』(2015)所収。(土肥あき子)


April 0942016

 目つむれば何もかもある春の暮

                           藺草慶子

人的なことだがつい先日の旅先での母の話を思い出した。日々の暮らしの中では、明日は句会へ行くとかあれが食べたいとか牛乳を買ってきてとか電球が切れたとか、そんな会話で明け暮れるわけだが非日常の旅先では、たとえばドライブをしながら昔のことを話す。登場するのは、もう記憶の中でしか会えないたくさんの人々や、既に無くなってしまった昔家族で住んでいた家などなど。なにもかも今は存在していないが、少し目を閉じるときっと鮮やかに思い出されるのだ。それは、ただ懐かしい思い出とかありありとよみがえる記憶というよりまさに、何もかもある、であり生きて来た現実なのだろう。春の夕日を遠く見ながらそんなことを思った。〈花の翳すべて逢ふべく逢ひし人〉。『櫻翳』(2015)所収。(今井肖子)




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