2004N7句

July 0172004

 傷兵の隻手汗拭ふ黒眼鏡

                           加藤楸邨

語は「汗」で夏。「傷兵」は「傷痍軍人(しょういぐんじん)」のことだが、若い人はもはやこの言葉すら知らないだろう。戦争で傷つき帰還した兵士のことで、日露戦争の頃から、こうした人々には恩給が出ていた。ところが先の大戦後にGHQが恩給廃止命令を出したために、多くの傷兵たちが生活に困窮し、やむなく盛り場など人通りの多い場所や電車の中で「白衣傷痍軍人募金」をはじめたのだった。その募金光景を詠んだ句だ。私の実見した範囲では、たいていは二人一組になっていて、両手を使える者がアコーディオンを弾き、「隻手(せきしゅ)」などの人は歌をうたっていた。彼らの前には募金箱が置かれており、そこに募金してもらう仕組みだったが、募金という口当たりの良い言葉とは裏腹に、物乞いというイメージのほうが強かったのは何故だろうか。お国のために戦い傷ついて、やっとの思いで帰ってきた故国での生活が、これである。彼らの胸中は、如何ばかりだったろう。見ていると、通行する多くの大人たちは明らかに彼らを避けていた。募金する人も、箱に小銭を放り込んで逃げるように立ち去っていくのだった。傷兵と同世代の人たちの気持ちには、運が悪ければ自分も彼らの一員だったという自覚もあったろうし、一方では早く戦争の悪夢を忘れてしまいたいという願いもあっただろう。「あいつらは偽の傷痍軍人だ」としたり顔につぶやく大人もいて、それが募金に応じない逃げ口上のように思えたこともある。もとより作者も複雑な気持ちで傷兵を眺めているわけで、しかし、その確たる存在から目を逸らしていないところに、人としてのぎりぎりの心の持ちようが感じ取れる。「黒眼鏡」は失明のためだろうが、残った片手でぐいと顔の汗を拭った元兵士の姿は、戦争を糾弾し社会の矛盾を無言のうちに告発している。私たちは、もう二度と戦争の愚を犯してはならないのだ。『加藤楸邨句集』(2004・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


July 0272004

 野外劇場男と女つと立ちて

                           岩淵喜代子

語は見当たらないが、「野外劇場」で催しをやっているのだから、夏と解しておいてよいだろう。近所の井の頭公園に野外音楽堂があるので、ああいうところを連想した。時刻も不明ながら、涼しくなってくる夕暮れ時以降だろうか。作者が催し物を観ていると、目の前あたりに坐っていた「男と女」が「つと」唐突に立ち上がったと言うのである。この「つと」というたった二文字の副詞が実によく効いていて、記憶に残った。「つと」立ったということは、お互いがあらかじめ立つことを示し合わせていたということになる。催しがつまらなかったりして、立とうかどうしようかと逡巡した様子は見えない。示し合わせた時間になったので、催しとは無関係にすぱりと立ち上がったのだ。その上に、この「つと」は二人の関係も暗示しているようである。誰か知っている人に見とがめられると困る関係。いや、二人で見物しているところは見られても構わないのだが、中座するところを見られると困るという事情がある。そんな関係。二人はなるべく早くその場から立ち去りたいので、互いに無言で「つと」立って足早に暗いほうへと消えてゆく。ミステリーめかして言え添えれば、彼らの野外劇見物はアリバイ作りだったのかもしれない。作者はむろん、そんなことをいろいろと思い巡らしたわけではないのだが、「つと」立った「男と女」の後ろ姿に、一瞬自分にも周囲の観客にもなじまない特異な雰囲気を感じて、こう書きとめてみたのだ。あまりにも互いの呼吸が合い過ぎた動作は、秘密裡のそれと受け取られやすく、かえって人目を引いてしまうということになろうか。『かたはらに』(2004)所収。(清水哲男)


July 0372004

 手花火や再従兄に会はぬ二十年

                           片山由美子

語は「(手)花火」で夏。夏の風物詩と言われるものも、だんだんに姿を消しつつあるが、花火だけは昔と変わらず健在だ。我が家でも孫がやってくると、水を入れたバケツを用意して、近所のちっぽけな公園で楽しむ。作者は通りがかりにそんな光景を見かけたのか、あるいは自分で楽しんでいるのか。闇に明滅する火の光りを見ているうちに、ふと長い間会っていない「再従兄(はとこ)」のことを思い出した。昔はいっしょに花火でよく遊んだものだが、数えてみると会わなくなってからもうかれこれ二十年も経ってしまった。元気にしているだろうか。花火には、そんな郷愁を誘うようなところがある。二十年という歳月感覚は微妙で、三十年ならば完全に疎遠になっているということだし、十年ならばまだ交際が切れているとは言えないだろう。しかし二十年くらいの隔たりだと、あまり思い出すこともなくなるが、思い出しても、このまま一生会うことがないかもしれぬと淋しくなったりする。そのような微妙な感覚が、手花火の光りのはかない生命によく照応している。ところで、再従兄は親が従兄同士である子と子の関係を指す。またいとこ、とも。はじめからかなり遠い親戚筋の関係にあるわけで、親の親戚付き合いがよほどこまめでないと、なかなか再従兄同士が知り合う機会は得られない。私の場合を考えてみたが、それと自覚して再従兄に会ったことはないと思う。再従兄どころか従兄にすら、三十年も前の叔父の法事の席で会ったのが最後になっている。遠い親戚より近くの他人。昔の人はうまいことを言ったものだ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


July 0472004

 駆け落ちをしての鮨屋や鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)の皮」で夏。鱧といえば関西だ。最近は東京あたりでも出す店が増えてきたが、本場には適わない。鱧がないと、夏のような気がしないという。身は天ぷら、蒲焼き、蒸し物などにし、皮も強火であぶったり二杯酢にして食べる。作者は徳島の人だけれど、鱧を珍重することでは徳島も関西と変わらないのだろう。行きつけの鮨屋で注文もしないのに、箸休めとして、鱧の皮が出てきた。主人からの粋な夏の挨拶なのである。彼は「駆け落ちをして」この地にたどり着き、苦労の末にこの店を開いた男だ。近隣の噂話でか、あるいは問わず語りに聞かされたのか、作者は知っており、彼は苦労人であるがゆえに客への気配りは申し分がない。季節ものをいち早くすっと無言で出すところなども、大いに気分がよろしい。「夏は来ぬ……か」と、作者は微笑しつつ箸を付け、ちらりと主人の顔を見て、彼の来し方に思いを巡らせたことだろう。まるで短編小説のような味わいのある句で、「駆け落ち」と「鱧の皮」との取り合わせが、東京とはまた違った人情の世界を浮かび上がらせている。ご年配の方ならば、この句から上司小剣の代表的な短編小説『鱧の皮』を連想された方もおられるだろう。句とはシチュエーションも違うが、男女関係に発する人情に触れているという点では共通している。この小説でも実に鱧の皮がよく効いていて、田山花袋が絶賛したというのもうなずける。なかに「『あゝ、「鱧の皮を御送り下されたく候」と書いてあるで……何吐(ぬ)かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。/『鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。』」という会話が出てくる。俳誌「航標」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


July 0572004

 紫蘇畑を背にして父の墓ありぬ

                           神保千恵子

語は「紫蘇(しそ)」で夏。「墓がある」などの言い方ではなく「墓ありぬ」だから、作者ははじめて父の墓を訪れたのだ。実家とは遠く離れたところで暮らしているので、葬儀のときはともかく、納骨時には帰れなかったのだろう。ようやく時間が取れたので、父の墓に詣でることにした。どんな墓なのか、どんなところにどんなふうに建てられているのか。あれこれと思いを巡らしながら来てみると、「紫蘇畑を背にして」ひっそりとそれは建っていた。「背にして」はむろん拒絶の姿勢ではなく、単なる位置関係を示している。墓の前にはたとえば海が開けている(ちなみに、作者は新潟県出身)のかもしれず、あるいは何かが展望できるはずなのだが、あえて作者が墓の背景を詠んでいる点に注目しよう。それも名山名刹やモニュメントの類ではなくて、その土地ではさしてめずらしくもないであろう平凡な紫蘇畑である。が、作者の意識には、それがいかにも父に似つかわしく感じられたのだった。生前の父が、紫蘇畑を背にして立っている。そんな光景を作者は何度も目撃していたと言おうか、父がいちばん父らしくある風景として脳裏に刻まれていたにちがいない。どのような人柄だったのかは書かれていないけれど、読者にはその人の人柄までもが伝わってくるような句だと思う。青紫蘇にせよ赤紫蘇にせよ、煙るような独特の風合いの広がりを背に建つ墓の前から、作者はしばし去りがたい思いで佇んでいたことだろう。『あねもね』(1993)所収。(清水哲男)


July 0672004

 ずつてくる甍の地獄蜀葵

                           竹中 宏

語は「蜀葵(たちあおい・立葵)」で夏。ふつう「葵」と言うと、この立葵を指すことが多い。茎が真っすぐに伸びるのが特長で、そういうことからか、「野心」「大望」などの花言葉もある。「甍(いらか)」は瓦葺きの屋根のこと。♪甍の波と雲の波……の、あれです。句の表面的な情景としては、瓦屋根の住宅の庭に「蜀葵」が何本か、すくすくと成長して例年のように花を咲かせているに過ぎない。たいがいの人は、この季節の風物詩として観賞し微笑を浮かべるだけだが、作者はちょっと違う。無邪気に天に向かって背を伸ばしている蜀葵の身に、何か不吉な予感を抱いてしまったのだ。この天真爛漫さは危ない、と。しっかりと頭上を見てみよ。何が見えるか。そうだ、甍だ。気がついていないだろうが、あの甍は時々刻々わずかながらも少しずつ「ずつて」きている。このままいくと、やがては甍が頭上から一気にずり落ちてくるんだ。君らの上にあるのは「甍の地獄」なのだぞ。とまあ、簡単に言えばそういうことで、むろん作者は甍の落下が現実化するなどとは思ってもいないのだけれど、あまりに無防備な蜀葵の姿に接して、逆に不安を感じてしまったというところか。黒いユーモアの句であるが、事象の表面だけからではとらえられない現代の様相の怖さを示唆した句でもある。そしてこの句はまた、木を見て森を見ない態の句が氾濫する俳句界への批評と受け取ることもできるだろう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


July 0772004

 おとうとをトマト畑に忘れきし

                           ふけとしこ

語は「トマト」で夏。フィクションととらえてもよいし、かつて実際にあったこととしてもよい。この句の良さは、実に的確に「おとうと」のありようが把握されているところだ。彼の年代は、学齢前のちょこまかと動き回るころだろう。お姉ちゃんの行くところには、どこにでも就いてきたがる。就いてくるのはよいのだが、なかなか言うことは聞かないし、自分の関心事にすぐに没頭して座り込んだりと、世話が焼ける。そしてときには、ぷいと断りもなく帰ってしまったりして、面倒を見きれないとはこのことだ。今日も今日とて、近くのトマト畑に就いてきた。お姉ちゃんはトマトをもぎに来たわけだが、彼は彼で勝手に畑を動き回っている。いつものことだから勝手にさせておき、さて帰ろうとして見回すと姿が見えない。小さいからトマトのかげにいるのかと少し探してみて、名前を呼んでもみたけれど、どうももう畑にはいないようである。また先に帰ったのだと軽い気持ちで家に戻ってみると、まだ帰ってはいないという。昼間だから、別に真っ青になる事態ではない。「まったく仕様がないなあ」。幼き日の作者であるお姉ちゃんは、ぷんぷんしながら迎えに行かなければならなかった。日盛りのトマト畑に来てみると、小さな麦わら帽子が揺れていた。遠い遠い思い出だ。でも、いまとなってはとても懐かしい。そんな郷愁を呼ぶ佳句である。実際の出来事だとしても、むろん大人になった「おとうと」は覚えていないだろう。よくあることだが、そこがまた作者の郷愁をいっそう色濃いものにするのである。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


July 0872004

 明易き人生ああ土根性は

                           小川双々子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。夏の夜が明け易いように、人生もまた明け易い。光陰矢の如し。時間ばかりが、どんどん過ぎてゆく人生……。夏の早暁に目覚めた作者の実感的連想だろう。人生に欠かせないキーワードはいろいろあるが、あえていまどき流行らない「土根性(どこんじょう)」を持ちだしたところが面白い。戦後の日本人総体のありようを振り返ってみれば、なんだかんだと言ったって、この「土根性」という曖昧な精神力でがむしゃらに驀進してきたような気がする。猛烈サラリーマン、それが飛び火したスポ根ものの隆盛。そんな時代が、確かにあった。このときに句の「ああ」という詠嘆は、複雑だ。土根性いま何処でもあれば、いまこそその残り火を掻き立てよ、でもある。そしてまた「ああ」には、早暁の夢の醒めぎわで、「土根性」などという自分でもびっくりするような、思いがけない言葉が出てきてしまったことへの苦笑も含まれているだろう。妙なことを言うようだが、この句を目覚めのときに思い出すと、けっこう床離れがよくなる。「明易き人生」で意識は静かに覚醒してくるが、次の「ああ」以降を復唱するととても寝てはいられない気持ちになってくる。跳ね起きてしまう。一瞬、忘れていた(土)根性がよみがえり、わけもない焦燥感にかられるからだろうか。お試しあれ。俳誌「地表」(第434号・2004年5月刊)所載。(清水哲男)


July 0972004

 シャツ雑草にぶっかけておく

                           栗林一石路

季句だが、明らかに夏の情景だ。猛烈な炎天下、もうシャツなんて着てはいられない。辛抱しきれずにしゃにむに脱いで、そこらへんの雑草の上に、かなぐり捨てるように「ぶっかけておく」。まるで「ファィトーッ、イッパーツ、○○○○○○ !」みたいなシーンを思う人もいるかもしれないが、句の背景はあんなに呑気なものじゃない。工事現場でツルハシを振っているのか、荒地でクワを振っているのか。いずれにしても、生活をかけた過酷な労働を詠んだ句である。「ぶっかけておく」という荒々しい表現が、酷暑のなかの肉体労働者の姿を鮮明に写し出し、理不尽な社会への怒りを露にしている。失うものなど、何もない。そんなぎりぎりのところに追いつめられた労働者の肉体が、汗みどろになって発している声なき声なのだ。戦前のプロレタリア俳句運動の代表句として知られるこの一句は、現在にいたるもその訴求力を失ってはいない。これが俳句だろうかだとか、ましてや無季がどうしたのとかいう議論の次元をはるかに越えて、この力強く簡潔な「詩」に圧倒されない人はいないだろう。そして詩とは、本来こうあるべきものなのだ。根底に詩があれば、それが俳句だろうと和歌だろうと、その他の何であろうが構いはしないのである。くどいようだが、俳句や和歌のために詩はあるのではない。逆である。『栗林一石路句集』(1955)所収。(清水哲男)


July 1072004

 花二つ紫陽花青き月夜かな

                           泉 鏡花

明過剰とも見えるが、二三度読むうちにしっとりと落ち着いてくる。いかにも鏡花らしい句と思うからだろうか。先入観、恐るべし。「花二つ」が、句の生命だ。一つでは寂しいだけのことになり、三つ以上だと「月夜」にはにぎやかすぎて「青」が浮いてしまう。二つという数は関係の最小単位を構成するから、二つ咲いているのは偶然だとしても、人はその花と花とに何らかの関係を連想するのである。梅雨時の月光ゆえ、秋のそれのようには冴えてはいない。そんな光の中に、二つの紫陽花がぼおっと灯るように咲いている。お互いに寄り添うように、心を通わせるようにと、作者には思われたのだろう。この句については、鏡花の姪(のちに夫人の養女)である泉名月が次のように書いている。「十歳代の頃は、濃緑色の短冊の、この句を眺めると、月夜に咲く、二つの紫陽花の花を思い浮かべていた。幾年も星霜を重ねて、年月が経った今日この頃、花二つの紫陽花の意味は、一つの花は詩情、一つの花は画情をさすのであろうかと、こう、思いめぐらすようになってきた。それとも、二つの花は、人と花、芸と人、恋人二人、現実と浪漫、、それとも、そのほかの、さまざまな深い思いが、花二つの中に、込められているのかも知れないと思ったりする」。と、いろいろに読める句だ。今年も、そろそろ紫陽花の季節が終わろうとしている。『父の肖像2』(2004・かまくら春秋)にて偶見。(清水哲男)


July 1172004

 學徒劇暑し解説つづきをり

                           後藤夜半

十数年ほど前の句。ちょうど私が「學徒(学生)」だったころの話だから、思わず苦笑させられた。たしかに理屈っぽかったなあ、あのころの学生は……。演劇のことはよく知らないが、スタニスラフスキー・システムがどうのと、演劇部の連中はよく議論してたっけ。チケットを売りつけられてたまに見に行ったけど、能書きばかりが先に立って、よくわからない芝居が多かった。作者もまた、そんな演劇を見ている。はじまる前に解説があって、それがヤケに長いのだ。当時のことゆえ、学生が借りられるような会場に冷房装置はないのだろう。長く七面倒くさい解説にはうんざりさせられるし、暑さはますます厳しいし、何の因果でこんなものを見に来る羽目になったのかと、我が身が恨めしい。どうやら、まだまだ解説はつづくようだ。やれやれ、である。いまどきの学生演劇でこんなことはないと思うが、演劇に限らず、昔の学生の文化活動には、どこか啓蒙臭がつきまとっていた。無知なる大衆の蒙を啓こうとばかりに、ときには明らかな政治的プロパガンダの意図を持って、さまざまなイベントが展開されていた。傲慢といえば傲慢な姿勢ではあるが、しかし一方で自分たちの活動に純粋な信念を持っていたのも確かだ。このことの是非は置くとして、作者ならずとも、心のうちでは文句を言い、大汗たらたら、団扇ぱたぱたで、しかし大人しく(!!)開幕を待つ人たちの姿が彷彿と浮かんでくる一句だ。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


July 1272004

 百日紅鮮やかヘルンの片眼鏡

                           藤本節子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏。これを書いている窓からは、咲き始めた紅い花が見えている。「ヘルン」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)で、当人は「ハーン」の「ー」の音を嫌い「ヘルン」を好んでいたそうだ。子供の時に左目を失明し、右目も極度の近視だった。写真を見ると右顔しか見せていないが、たぶん左の義眼を苦にしていたのだろう。ところで、句はどんな情景に発想したのだろうか。松江の旧居や記念館には行ったことがないので、百日紅があるのかどうかは知らないが、あるとしたら松江の夏を詠んでそれこそ「鮮やか」だ。だが、もう一つまったく別の情景を想像することも可能である。八雲が没したのは、今からちょうど百年前の九月二十六日。葬儀は市ヶ谷の寺で執り行われ、寺の庭には百日紅が勢いよく咲いていたという証言が残っている。となると、これは追悼句であり、遺品の「片眼鏡」を通してのヘルン哀惜の情が、これまた鮮やかに浮かんでくる。私の好みでは後者に与したいけれど、どうだろうか。ただ、ヘルンは片眼鏡をあまり使わなかったらしい。珍しく使った例を、親しく謦咳に接した廚川白村が書いている。ヘルンは西洋人を嫌い、とくに女性を毛虫のように嫌っていた。ところがある日、彼の講義に、断りもなく西洋の女性教育家たちが参観に来た。「殆ど視力の利かなかつた小泉先生でも、この思ひ掛けない闖入者(イントルウダア)のあるのには氣附かれたものか、滅多に用ゐられない例のあの片眼鏡(モノクル)を出された。それを右の目に当てがつて女どもの方を凝視すること三四秒。また直ちにそれを衣嚢に収めて講義を続けられた。/其瞬間、思ひなしか、先生の面には不快の色が現はれた」。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1372004

 寝ころぶを禁ず寺院の夏座敷

                           田宮真智子

語は「夏座敷」。句を読んで、ふと京都嵐山の禅寺・天龍寺の大方丈を思い出した。四十八畳敷きという広さだ。学生時代に一人で気まぐれに訪ねて、しばし寝ころんでいたことがあった。たしか暑い盛りだったと思うが、観光客の影も見えず、まさに唯我の境。あまりにも気持ちがよかったので、もう一度あそこで寝ころんでみたいと思いつつ、果たせずに四十数年が経ってしまっている。でも、もう駄目だろうなあ。句のように、おそらくは「寝ころぶを禁ず」となっているに違いない。お寺さんも、近年は野暮になってきた。拝観料という名の入場料は取るし、撮影は禁止とくるし、あれしちゃいけない、これもいけないと、こんなのはみな仏の道に反するのではあるまいか。寝ころぶなどは、禁じなくともよいのではないか。何か不都合があるのかと考えてみたが、思い当たらない。寝ころぶどころか昼寝をしたい人がいれば、自由にさせてあげる。それくらいの広い心がなくて、なんの「寺院」だろう。作者は別にいきどおっているわけではないけれど、この寺のたたずまいなどを詠まずに貼り紙を詠んだところに、寺側の現世への俗な執着をうとましく思う気持ちが滲んでいる。せっかくの広々とした「夏座敷」のすずやかな印象も、一枚の貼り紙で減殺されてしまった。現代ならではの皮肉を含んだ句だが、そんな現代が作者とともに恨めしい。『小鳥来る』(2004)所収。(清水哲男)


July 1472004

 百年の井戸を埋め終へ夕端居

                           寒川雅秋

語は「(夕)端居(はしい)」で夏。俳句に親しんでいる人以外には、もはや死語と言ってもよい言葉だ。「端」は縁先や窓辺を指していて、家の中の暑さを避けて涼気を求めること。扇風機もなかったころ、夕刻や宵の口の「端居」はくつろぎの一刻だった。作者は、代々「百年」あまりも使ってきた井戸を埋め終えて「端居」している。句集によれば、台風で大きく損壊したので、思い切って埋めてしまったようだ。もう使っていない井戸だから、日常的に不自由することはないのだけれど、三代か四代かの生命生活を支えてくれた井戸を潰すのには、やはり相当の覚悟が必要だったろう。埋めるといっても、単に土砂を放り込むのではなく、その前に長年の水神の恩に感謝し災い無きことを祈ってお祓いをしてもらう。そうした手順をきちんと踏み、埋めてくれた作業の人も帰った夕刻、ひとり作者は今朝まであった井戸のあたりを見つめている。ほっとして見つめながらも、しかし一方で、果たしてこれで良かったのかという思いも湧いたに違いない。残しておいたとしても、さして邪魔になるわけでもなかったしと、ちらりと悔いの念が走ったかもしれない。百年の井戸埋めは作者の個人的な体験だとしても、他の体験で、似たような思いをした人は多いだろう。役立たずになったからといって簡単に破棄や放棄できないものは、たくさんある。この思いと「端居」の「端」とが静かに響き合っていて、心に沁みる一句となった。『百年の井戸』(1999)所収。(清水哲男)


July 1572004

 片蔭をうなだれてゆくたのしさあり

                           西垣 脩

語は「片蔭(かたかげ)」。夏の日陰のことで、木陰などより町並みや家々の陰を指す。読んだ途端に、あれっと引っかかる句だ。元気な若者には、理解しにくい句境だろう。といって、私もちゃんと理解している自信は無いのだが……。「うなだれてゆく」のが、何故「たのしさ」に通じるのか。あまりの日照りに、作者は片蔭から片蔭へと道を選んで歩いている。もうそれ自体が、日差しに昂然と抗するように歩いている人に比べれば、実際の姿勢はともかく、精神的には「うなだれて」いることになる。そのことを、まず作者は自覚しているのだ。そして、いくら日陰を選って歩いているからといっても、暑さから逃げ切ることなどはできない。大汗をかきながら、トボトボとなお「うなだれて」歩きつづける。で、そのうちに、身体の疲労感がいっそう増してきて、頭がぼおっとなりかけてくる。そのあたりの感覚を「たのしさ」と詠んだのではなかろうか。自虐趣味ともちょっと違うが、そこに通じていく回路のトバグチ付近に、作者は立っているようである。暑さも暑し、へたばりそうになる我が身を引きずるように歩いているうちに、いつしか疲労感が恍惚感と入り交じってきて、一種の隠微な「たのしさ」すら覚えるようになるときがある。あえて平仮名を多用したところに、人の心理と生理との不思議な交錯状態をたどたどしく描こうとする作者の意図を感じた。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1672004

 妻に供華ぽとんと咲かす水中花

                           細見しゆこう

語は「水中花」で夏。コップや瓶などに水を入れ、その中に圧縮した造花を入れて花を咲かせる。昔はよく玩具屋や夜店などでも売られていたが、最近では手に入れるのがなかなかに難しくなってきた。私は刮目すべき発明品だと思ってきたけれど、もはや時代が受け付けなくなったということか。句の「供華(くげ)」は仏前に花を供えること、あるいはその花を言う。べつに作者は、生花の代わりに水中花を供えたのではあるまい。おそらくは、亡くなった奥さんが、この季節になると好んで咲かせていたのだろう。当時の作者は「またか」と一瞥をくれた程度だったかもしれないが、亡くなられてみると、妙に水中花が懐しくいとおしい。たまたま売っているのを見かけて買い求め、仏前にいま供えている。開く様子を眺めているうちに、うっすらと涙を浮かべている様子は、「ぽとんと咲かす」の表現から容易に想像がつく。と同時に、作者の孤独な暮しようが目に浮かんでくるようだ。そういえば、東京あたりでは今日は早くもお盆(新暦)の送り火である。日本の夏は盂蘭盆会もあるし、原爆忌や敗戦日も重なっているので、どうしても死者のことをいろいろと追想する季節となる。そんな日本の夏に「ぽとんと咲かす水中花」は、その意味からも哀切きわまりない心の響きを増幅して読者の胸に迫ってくる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 1772004

 昼寝する我と逆さに蝿叩

                           高浜虚子

の夏の生活用品で、今では使わなくなったものは多い。「蝿叩(はえたたき)」もその一つだが、句は1957年(昭和三十二年)の作だから、当時はまだ必需品であったことが知れる。これからゆっくり昼寝をしようとして、横になった途端に、傍らに置いた蝿叩きの向きが逆になっていることに気がついた。つまり、蝿叩きの持ち手の方が自分の足の方に向いていたということで、これでは蝿が飛んできたときに咄嗟に持つことができない。そこで虚子は「やれやれ」と正しい方向に置き直したのかどうかは知らないが、せっかく昼寝を楽しもうとしていたのに、そのための準備が一つ欠けていたいまいましさがよく出ている。日常生活の些事中の些事でしかないけれど、こういう場面を詠ませると実に上手いものだと思う。虚子の句集を見ると、蝿叩きの句がけっこう多い。ということは、べつに虚子邸に蝿がたくさんいたということではなくて、家のあちこちに蝿叩きを置いておかないと気の済まぬ性分だったのだろう。それかあらぬか、娘の星野立子にも次の句がある。「蝿叩き突かへてゐて此処開かぬ」。引き戸の溝に蝿叩が収まってしまったのか、どうにも開かなくなった。なんとかせねばと、立子がガタガタやっている様子が浮かんできて可笑しい。いやその前に、父娘して蝿叩きの句を大真面目に詠んでいるのが微笑ましくも可笑しくなってくる。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 1872004

 蟻歩む直に平にこの世あり

                           加藤耕子

語は「蟻」で夏。私に限らず、昔の子供はよく道端などにしゃがんで蟻の行列を見ていたものだった。「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」(三好達治「土」)。句の「直に」を何と読むのか、少し迷った。垂直の「直」と解して「ちょくに」と読んでみたが、どうも坐りが悪い。そこで「じかに」と読み直してみたら、なんだか急に自分が蟻のようになった感じがしてきて、こちらに決めた。たしかに蟻は、二本足で立って歩く私たちとは違って、ほとんど「直に」地面に身体が触れるようにして歩いている。しかも小さいから、行く手に多少のアップダウンがあろうとも、いま歩いている場所はいつもほぼ「平(たいら)に」感じられるのにちがいない。すなわち、蟻にとっての「この世」とは「直に平に」、どこまでも広がっているということだ。もちろんこれは人間の尺度から見た世界認識ではあるが、こんなアングルから蟻の歩行を捉えた作者は、このときに人間の傲慢不遜を思っていたのだろう。蟻には蟻の厳然たる「この世」があるのであって、そういうことを思ってもみない人間は何様のつもりなのだろうかと……。作者にそこまでの人間糾弾意識はないとしても、ここには小さな生き物に対しての敬虔の念がある。一読ハッとさせられ、やがてしいんとした内省意識に誘われる読者は多いだろう。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


July 1972004

 夏休み生徒の席に座りみる

                           中田尚子

者は中学教師だ。夏休み中に、仕事で学校に出かけた。誰もいないがらんとした教室で、ふと気まぐれに「生徒の席に」座ってみたというのである。それだけのことなのだが、そこで作者の感じたことは「それだけのこと」を大きく越えていただろう。生徒の席から見えるものは、教壇からのそれとはだいぶ異る。たった数メートルの位置の差しかないのだけれど、目をやる方向が逆になることによって、目線も低くなるし、同じ教室とは思えないような雰囲気に囲まれる。「それだけ」でも新鮮な発見だったろうが、このときに作者に更に見えてきたのは、いつも教壇に立って教えている自分自身の姿だったはずである。生徒たちには、いったい自分がどんなふうに見えているのか。こうやって生徒の椅子に座ってみて、はじめてわかったような気持ちになれたに違いない。ちらっと想像してみるくらいでは、こういうことは案外にわからないものだ。むろん、生徒側においても然りである。昨日の加藤耕子句の蟻ほどではないにしても、それぞれの日常的な位置や空間のありようにしたがって、それぞれの世界がおのずと形成されてきてしまう。面白いものである。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


July 2072004

 川へ虹プロレタリアの捨て水は

                           原子公平

語は「虹」で夏。敗戦後、数年を経た頃の作と思われる。すなわち、まだ「川」が庶民の生活とともにあった時代だ。清冽な流れであれば飲食用にも使っていたし、そうでなくとも洗い物などを川ですませる人々は多かった。句はそんな誰かが、余って不要になった水をざあっと川に「捨て」たところだろう。見ていると、その人の手元から淡く小さな「虹」が「川へ」立ったというのである。失うものなど何もない「プロレタリアの捨て水」が、束の間の虹を描く光景ははかなくも美しいが、しかし、その虹は未来への希望にはつながらないのだ。「捨て水」という言葉には、単に水を捨てる写実的な様相と、他方には川をいわば心の憂さの捨て所と見る目がダブらせてあるのだろう。庶民であることのやり場の無い感情が、抒情的に昇華された絶唱である。既に新聞報道でご存知かとは思うが、作者の原子公平氏は一昨日(2004年7月18日)亡くなられた。八十四歳だった。一度も面識は得なかったが、当歳時記の最初の一句が氏の「悔しまぎれの草矢よく飛ぶ敗北なり」ということがあり、また何度かお手紙や句集をいただいたこともあって、残念な思いでいっぱいだ。抒情の魂を社会的に鋭くイローニッシュに開いてゆく氏の方法が、俳句のみならず、この国の詩歌に残したものは大きいだろう。慎んでご冥福をお祈りする。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


July 2172004

 天の川ナイルの尽くるところより

                           照井 翠

語は「天の川」で、最も美しく見える秋に分類する。天と地を流れる二つの川が、果ての果てではつながっている。もとより幻想句だが、実際に「ナイル」上空の天の川を仰げば、幻想はほとんど現実と同じように感じられるのではあるまいか。二つの川の圧倒的な存在感が、言葉の小細工など撥ね除けて、作者にかくも単純素朴な表現をとらせたのだろう。これが日本の川であったら、こういう句にはなりにくい。天の川と拮抗できるほどの大河がないからだ。芭蕉のように佐渡の「海」を持ってきて、ようやく釣り合うのである。ところで、倉橋由美子が天の川に行った男の話を書いている。その名も「天の川」(『老人のための残酷童話』所収)という短編で、中国では黄河と天の川がつながっていると信じられているが、それは俗説で、実際には別の秘密の水路があるという設定だ。で、足を踏み入れた天の川はどんなところだったか。「かつて経験したことのない寒さが骨の髄までしみこんできました。といっても凍傷ができるような寒さではありませんし、寒風が吹きすさぶわけでもありません。ここの空気は玲瓏として動かず、冷たい水の中、というよりも、水晶の中に閉じこめられているかのようです。慣れてくると、この絶対的な寒冷は、およそ汚れや腐敗とは無縁の清浄がもつ属性ではないかと思われました。……」。寒い上に怖いお話だから、真夏の読書には最適だろう。句は『翡翠楼』(2004)所収。(清水哲男)


July 2272004

 ダブルプレーに人生のあり極暑なり

                           馬渕結子

語は「極暑(ごくしょ)」で夏。読んで字のごとし、暑さの極みを言う。また今日22日は二十四気の一つ「大暑(たいしょ)」という日にも当たっており、暦の上でいちばん暑い日とされてきた。年によって「極暑」と「大暑」とは実感的にずれたりするけれど、まさに今年はどんぴしゃり。それこそ、私たちは鮮やかな「ダブルプレー」をくらったようなものである。句は、高校野球を詠んだものだ。私は野球を人生の比喩に使うことを好まないが、それでもたまには掲句のように思わされてしまうことはある。せっかく芽生えかけたチャンスが、ちょっとした失敗から元も子もなくなってしまう。そして、むしろ以前の状態よりも悪くなるのだから始末が悪い。こういうことは、一度ならず体験した。暑さも暑し、泣いても泣ききれない状況には、たしかに人生に通じる何かがある。プロ野球とは違って、明日無き戦いを強いられる高校野球ならではの苦い味である。作者の略歴を見ていたら、唱和二十年九月の項に「東京女専戦災の為中退」と短く記されていた。作者に限らず、当時学業半ばにして学園を去った人々は数知れないほどいただろう。こうなるともう「ダブルプレー」なんてものじゃない。野球的比喩などでは追いつけぬ無念の「人生」を歩んだ人々に、今年もまたあの極暑の日々がめぐってきた。『勾玉』(2004)所収。(清水哲男)


July 2372004

 天を航く緑濃き地に母を置き

                           野沢節子

語は「緑」で夏。はじめて飛行機に乗ったときの句だという。飛び立って上昇中に眼下を見渡すと、一面の「緑の地」がどこまでも広がっていた。緊急の用事か仕事での旅だろう。はじめて見る美しい眺めにも関わらず、ああ、あの緑の地のどこかに「母」を置いてきたのだという感懐が胸をかすめる。作者は長く病床にあり、いつも面倒をかけてきた母だったから、「置き」は「置き去り」に通じるところがあって切ない。この見事なランドスケープを、母にも見せてやりたかった。いっしよに見たかった……。どこかに書いたことだが、私は高所恐怖症なので、はじめての飛行機は怖かった。でも、仕事だったのでしかたがない。同乗者は作家の開高健で、奄美大島に住んでいた島尾敏雄を訪ねる旅だった。開高さんは私の恐怖症を知っていたから、窓側に座ってくれ、いよいよ出発という時に例の大音声でささやいた。「清水よ、下見たらあかん。絶対見たらあかんで」。言われなくとも下を見る度胸はなかったが、言われるとますます怖くなってきて、おそらく真っ青になっていたにちがいない。開高さんが、なにやかやと面白い話で気を紛らわせてくれようとしていたのは覚えているけれど、ろくに相づちも打てないほどに、私はカチンカチンなのだった。優しい人だったなあ。『飛泉』(1976)所収。(清水哲男)


July 2472004

 学生食堂冷し中華は売り切れて

                           平木智恵子

語は「冷し中華」で夏。上手な句とは言えないが、「学生食堂」の雰囲気はよく伝わってくる。昼時は混雑しているし、冷房もそんなには効いていない。あそこは食事を楽しむなどは二の次で、とりあえず空きっ腹を満たすためだけにあるような施設である。だから、簡便なメニューが好まれる理屈で、冷たくて安くて早く食べられる「冷し中華」などは人気があるのだろう。冷した麺を皿に盛り、胡瓜と錦糸卵と紅生薑をちょいちょいと乗っけて、ハイおしまい。神田の出版社に勤めていた頃は、手元不如意になると、近所の明大や中大の学生食堂に行った。この季節、冷し中華もよく食べたけれど、ときに麺がほぐれないままになっていたりして、お世辞にも美味いとは言えなかった。でも、編集者なんぞの昼食というものは学生と同じで、とにかく当面の空腹さえ免れればそれでよいというところがある。栄養士が聞いたら、目を回しそうな粗食や偏食ぶりなのだ。話はまた飛ぶけれど、知り合いの女性栄養士のお子さんが、ある日遊びにいった友だちの家から目を輝かせて帰ってきた。「お母さん、○○君ちのおにぎり、すっごく美味しかったよ」。聞いてみると、何のことはない。ごく普通のおにぎりだったのだが、彼女のおにぎりは子供の健康を考えて塩味抜きなので、その差が出たと言うわけだ。鮨屋で頑に醤油を使わないでいたら、握っていた大将に「そんなに不味そうに食わないでくれ」と叱られたのもこの人である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


July 2572004

 その色の少年夢二草苺

                           廣瀬直人

語は「草苺(くさいちご)」で夏。と言っても、もう実の盛りは過ぎているかもしれない。全体の姿が草のように見えるのでこの名があるが、れっきとしたバラ科の落葉低木で、いわゆる木苺の一種だ。小さな良い香りの赤い実がなり、甘酸っぱい味がする。「夢二(竹久夢二)」は、少年期を岡山県東南部の邑久郡邑久町で過ごした。句の前書きに「岡山小旅」とあるから、現地での作句のようだ。たまたま見かけた草苺の姿に、「少年夢二」を通い合わせている。「その色」の「その」はもちろん「草苺の」であるが、「色」には草苺の可憐な赤に象徴される夢二その後の人生や作品活動のありようをも滲ませてある。いささかセンチメンタルな思い入れではあろうけれど、この感傷はしかし上質のものだ。甘さに流れる寸前で句が踏みとどまっているのは、すっと「その色の」と出た力強さにあるのだろう。可憐ではかなくて……、夢二にはこうしたセンチメンタリズムがよく似合う。「泣く時はよき母ありき/遊ぶ時はよき姉ありき/七つのころよ」。明治四十三年の「中学世界」に載った夢二の歌である。ここにも句の「その色」が、そのまま通い合っているようではないか。俳誌「白露」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


July 2672004

 なつかしく炎天はあり晩年に

                           的野 雄

語は「炎天」で夏。ぎらぎらと焼けるような日盛りの空である。「なつかしく」とはあるが、作者の頭上に展がっているのはあくまでも現在ただいまの炎天だ。しかしそれが懐かしく思われるのは、炎天下にあるときに、その焼けつくような暑さが、同じ状態下の過去の記憶をいろいろと呼び覚ますからである。そうだ、あれもこれもがこんなふうに暑い日のことだった。という具合に、子供の頃からの夏の盛りの思い出のいくつかが、脈絡もなく蘇ってくるからである。ときにそれらは思い出と言うにはふさわしくない、何かぼんやりとした記憶の断片であったり、頭ではなく身体が覚えている猛暑への感覚的な反応であったりするだろう。そうしたことどもが身体をいわば通過していく状態を、作者は「なつかしく」と表現している。そしてそれが「晩年に」と止められたことで、句は一挙に抒情の高見へと飛翔してゆく。むろん誰にしても、おのれの晩年などわかりはしない。が、現在の自分の年齢的な位置づけをあえて晩年と表現する作者のまなざしには、いつか訪れる自分の死後の、いまと同じような炎天を見つめているような感じを受ける。晩年と言う表現は、ついに当人には関わらぬ、未来からの客観的なそれであるからだ。季節は繰り返し続いてゆくが、おのれにはただ一度きりの生命が与えられているにすぎない。このときに炎天といえどもが、限りなくいとおしくもなつかしい環境に思えるのはごく自然の認識だろう。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


July 2772004

 病む人に雪かと問はる灼け瓦

                           伊佐利子

語は「灼(や)け・灼く」で夏。「砂灼くる」「風灼くる」などの形でも用いられる。昨日(2004年7月26日付)の「朝日新聞」東京版「朝日俳壇」に載っていた句だ。金子兜太の選評に、こうある。「炎昼の光に照りつけられて、雪のように白い屋根瓦の見える病床。本当の雪かと見とがめる病いの人。情景の切りとり方が鋭く、劇のひとこまのごとし」。情景の切りとり方に触れて広げておけば、病いの人の寝ている部屋の様子までが見えるようだ。二階以上の高さにある部屋だろう。窓は、そんなに大きくはない。だから、いつも病人に見えているのは空と瓦屋根だけである。つまり家の周辺の草木など他の部分が見えないので、まさか夏に雪が降るわけはないと承知していても、ついぽろりと「雪か」と口から出てしまった。それほどに猛烈な光の照り返しなのだ。まさに「劇のひとこま」のようであるが、しかしそれが現実であるところに、猛暑のなかで寝ているしかない病人の焦燥感や孤独感までもが浮き上がってくる。看病している作者は「雪か」と問われて、むろん「そんな馬鹿なことが……」と軽く応えたのではあろうが、応えつつ病人の心の奥の深い傷みに触れた思いがしたにちがいない。「夏」と「雪」。なんとも意外な取り合わせが少しも意外を感じさせないで、読者の胸に自然にじわりと沁みいってくる。(清水哲男)


July 2872004

 水着の背白日よりも白き娘よ

                           粟津松彩子

ルコム・カウリー(アメリカの詩人、文芸評論家、編集者)著『八十路から眺めれば』(小笠原豊樹訳・草思社)は、老いを考えるうえでなかなかに興味深い本だ。文字通り八十歳を過ぎてから書かれていて、冒頭近くに「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」というリストが載っている。「骨に痛みを感じるとき」「昼下がりに眠気が襲ってきたとき」などに混じって、「美しい女性と街ですれちがっても振り返らなくなったとき」があげられている。つまり、異性への性的な関心が無くなってしまったことを、意識ではなく肉体が告げるときが来るということのようだ。カウリーに言わせれば、私のような六十代などはまだまだ「少年少女」の部類らしいから、こういうことはわからないままに過ごしていられる。「美しい女性」とは認めても、ちらとも肉体が反応しないのはショックなのだろうか、それともそのことにすら驚かなくなるのだろうか。掲句はまさに作者八十路での作句であるが、なんとなくカウリーと同じことを言っているような気がする。「白日よりも白き」背中の娘(こ)に、格別性的な関心を覚えてはいないようだからだ。ただ、水着姿の真っ白い背中がそこに見えた。一瞬目を奪われるが、それだけである。おそらく「白日よりも」という無表情な比喩が、この若い女性から色気を抜き去る方向に作用しているからだろう。『あめつち』(2002)所収。(清水哲男)


July 2972004

 嘆きとかアイスキャンデーとか湖畔

                           池田澄子

語は「アイスキャンデー(氷菓)」で夏。言葉には表情がある。「湖畔(こはん)」は「湖のほとり」や「湖の近辺」を意味するに過ぎないが、しかし「湖のほとり」と「湖畔」とでは明らかに表情が違うのである。湖畔はいわば雅語であり、あまり俗なことを言うときには似合わない。高峰三枝子の流行歌「湖畔の宿」ではないけれど、傷心の女が訪ねたりするのが湖畔なのであって、句の「嘆き」はそのあたりに通じさせてある。で、一方の「アイスキャンデー」は俗の代表みたいなもので、嘆きとセットでイメージしてみると、湖畔という言葉の持つ雅びな雰囲気はぶちこわしだ。第一、傷心の女がアイスキャンデーを舐めたのでは、絵にならない。でも掲句は、湖畔といっても「いろいろ、あらあナ」と皮肉っているだけではないだろう。人は言葉を操っているうちに、言葉それ自体についてまわっている一般的な表情を、はぎ取りたい欲望にかられるときがある。季語としての言葉などはその代表格で、何でもよろしいが、名句やら何やらがつきまとうが故の季語の表情に、イライラした経験を持つ人も多いだろう。だから私は掲句を、湖畔という言葉への皮肉ととる前に、言葉の表情への苛立ちをそのまま軽いジャブとして突き出してみせる作者の手つきのほうに惹かれた。俳誌「豈」(39号・2004年7月30日刊)所載。(清水哲男)


July 3072004

 帰省して蛍光燈を替へてゐる

                           田中哲也

語は「帰省」で夏。夏休みで、久しぶりに父母のいる実家に戻ってきた。早速、母親に頼まれたのだろうか。暗くならないうちにと、脚立に上って「蛍光燈を替へている」のである。それだけのことなのだけれど、帰省子の心情が、ただそれだけのことなので、逆に余計によく伝わってくる。私にも体験があるからわかるのだが、とくにはじめての帰省の時などは、遠慮などいらない実家のはずなのに、なんとなく居心地の悪さを感じたりするものなのだ。むろん客ではないが、かといって従来のような家族に溶け込んでいる一員というのでもない。互いに相手がまぶしいような感じになるし、気ばかり使って応対もぎごちなくなってしまう。肉親といえどもが、しばらくでも別々の社会に生きていると、そんな関係になるようだ。だから、こういうときに例えば蛍光燈を替えるといった日常的な用事を頼まれると、ほっとする。すっと、理屈抜きに以前の家族の間柄に戻れるからである。句の「蛍光燈を替へている」が「替へにけり」などではなくて、現在進行形であることに注目したい。いままさに蛍光燈を替えながら、やっとそれまでのぎごちない関係がほぐれてきつつある気分を、なによりも作者は伝えたかったのだと思う。替え終えて脚立から下りれば、もうすっかり従来の家族の一員の顔になっている。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)


July 3172004

 かの映画ではサイレント夏怒濤

                           依田明倫

前には、夏の海がギラギラと展がっている。むろん、激しく打ち寄せる波の音も聞こえてくる。が、作者はその「怒濤(どとう)」を、いつかどこかで見たようなと思い起こし、それが映画の一シーンであったことに気がついた。と同時に、映画の怒濤には音が付いていなかったことも……。このように現実を前にしながら、非現実の映像を重ねてしまうというようなことは、しばしば起きる。私も怒濤を目にするたびに、何故かかつての東映映画のクレジット・タイトルを思い出してしまう。あれも「サイレント」だったような気がするが、ひょっとすると作者もあのタイトルのようだと思ったのかもしれない。あるいはそのままに、昔見たサイレント映画を思い出したと読んでもよい。いずれにしても、現実と映像が自分のなかで交互に行き来する心的現象は、現代ならではのものだ。それが嵩じて、現実とフィクションの世界の区別がつかなくなる可能性も、無きにしも非ずだろう。だから危険だと言って、フィクショナルな表現に規制をかけようとする動きも出てくるわけである。いささか話が先走りすぎたが、作者は「かの映画」の怒濤を思い出したときに、それを見た頃の自分や生活環境などにも、ちらりと心が動いたにちがいない。思わぬときに思わぬところから、人は不意に郷愁に誘われるのでもある。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)




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