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August 0582004

 缶詰の蜜豆開ける書斎かな

                           下山田禮子

語は「蜜豆」で夏。読書中か、あるいは何か書き物をしているのだろうか。ふっと蜜豆が食べたくなって、冷蔵庫に冷やしておいた「缶詰」を出してきた。人によりけりではあるが、書斎でお八つを食べたりするときには、しかるべき器に入れたり盛ったりしてから食べるのが普通だろう。作者もまた、通常はそうしている。でも、このときにはそれをしないで、書斎で缶詰を開けたのである。つまり、大仰に言えば厨房の作業を書斎に持ち込んだのだ。よほど忙しいのか、ずぼらを決め込んだのか。とにかく日頃とは違う作業を書斎ではじめてみると、やはり違和感を覚えてしまう。汁が飛び散ってはいけないとか、ましてやひっくり返しては大変だとか、つかの間のことにしても、厨房とは違った配慮も必要だからだ。そうすると、いつもは何とも思っていなかった書斎空間が、これまた大仰に言えば異相を帯びて感じられることになった。それが、作者をして「かな」と言わしめた所以であろう。このときの缶詰は、いまどきのように蓋をすっと引き開けるものではなくて、缶切りで開けるタイプのものがふさわしい。食べるのも、器に移し替えずにそのままスプーンで掬うほうが、句にはよく似合う。缶特有の匂いが、ちょっと蜜豆のそれに混ざったりして……。『恋の忌』(2004)所収。(清水哲男)


March 0832010

 子猫かなパルテノンなる陽だまりに

                           下山田禮子

外詠は難しい。定住者ならばまだしも、観光の旅などの短期間での見聞は、現場での興奮もあってなかなかその地を客観化できないからだ。写真についても、同じことが言えるだろう。作者に同行していない読者には、何を詠んでいるのか、そのポイントがつかみにくい作品が多い。そのあたり、国内の句ならば、季語を通じることにより、知らない土地のことでもかなりの程度の理解は可能だ。そこにツールとしての季語の利点がある。掲句の季語は「子猫」だけれど、このように日本でも身近な動物が詠まれると、異国の光景もぐっと親しく感じられてくる。悠久の趣を持つパルテノン神殿とまだ足元のおぼつかない子猫との取り合わせには、生きとし生けるものとしての私たちを微笑させると同時に、どこかにふっと無常観を誘い出されるようなところがある。時間を超越した宮殿と有限の時間しか生きられないこの子猫、そして作者も私たちも……。俳句の装置がそう思わせるわけだが、彼地でのこの光景は珍しいものではない。ギリシアはいわば犬猫天国ゆえ、法隆寺の庭に猫がいるのとはわけが違い、これは極めてありふれた光景なのであり、ありふれていないのはこれを句として切り取った作者の目であることに留意して読む必要はある。私がアテネに行ったのは、もう三十数年も前のこと。ほとんど変わらないのだろうな、あの頃と。『風の円柱』(2009)所収。(清水哲男)




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