2004N9句

September 0192004

 二通目の手紙大切いわし雲

                           ふけとしこ

語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


September 0292004

 鬼やんまとんぼ返りをして去りぬ

                           田代青山

語は「やんま」で秋。「蜻蛉(とんぼ)」に分類。蜻蛉のなかでも、近年とくに見かけなくなったのが「(鬼)やんま」だ。全国的な都市化、環境破壊のせいである。たまに見かけると、「おっ」ではなく「おおっ」と思う。掲句にはまた別の意味で「おおっ」と思った。「とんぼ返り」といえば歌舞伎でのそれを指したり、「♪とんぼ返りで今年も暮れた」などと用いる。むろん誰もがこの言葉が蜻蛉の生態から来ていることは知っていようが、普通にはこれら比喩的な表現のほうが主となっていて、もはや本家のほうは忘れられているに等しい。「とんぼ返り」と聞いて、蜻蛉の姿を思い浮かべることはないのである。ところが作者はこれを逆手に取って、蜻蛉(鬼やんま)そのものにとんぼ返りをさせている。つまり、言葉の本義をそっくり元通りに再現してみせたわけだ。当たり前じゃないか、などと鼻白むなかれ。当たり前は当たり前だとしても、実際にこうして本物のとんぼ返りを確認したときに、ふっと湧いてくる新鮮な心持ちのほうに入り込んで読むべきだろう。そしてまた、当たり前が見事に当たり前であるときに感じる可笑しさのほうにも……。あっけらかんとした詠みぶりも良い。鬼やんまの生態に、ぴしゃりと適っている。『人魚』(1998)所収。(清水哲男)


September 0392004

 よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり

                           和田耕三郎

刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。「俳句」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


September 0492004

 ひるがほに紙の日の丸掛かりをり

                           吉田汀史

語は「ひるがほ(昼顔)」で夏。ちなみに「朝顔」は秋。まだ近所には咲いているが、そろそろ「昼顔」もお終いだろう。育てる人がいない野生の花だけに、いつの間にか咲き始め、いつの間にか終わってしまうという印象が濃い。典型的な路傍の花である。そんな打ち捨てられたような花に、これまた打ち捨てられた「紙の日の丸」が掛かっている。夕刻になれば紙くずのようになってしまう昼顔と、もはや紙くずと化した日の丸と。もちろん昼顔に掛かっているのは偶然だが、この取り合わせは哀れを誘う。何かの催事に使われた紙の旗が吹き寄せられてきたのだろうか、それとも子供が捨てた手製の旗だろうか。何にせよ、すぐにくしゃくしゃになってしまうもの同士が、こうしてしばし身を寄せ合っているのかと見れば、哀れさは一入だ。ましてや、片方はチラシ広告や新聞の切れ端などではなくて国旗である。ある程度以上の年代の人にとっては、現在の国旗観がどのようなものであれ、路傍に放棄された姿には一瞥チクリと来るものがあるにちがいない。単なる紙くずとは思えないのだ。だから掲句は、読む者の世代によって哀れの色彩がかなり異なるとは言えそうだ。「紙の日の丸」と、わざわざ「紙の」と表記したところにも、作者の年代がおのずから浮き上がっている。俳誌「航標」(2004年9月号)所載。(清水哲男)


September 0592004

 銀シャリてふ眩しき死語や今年米

                           岡田飛鳥子

語は「今年米」で秋。新米のこと。「死語」と言われれば、なるほど「銀シャリ」という言葉が聞かれなくなって久しい。「シャリ」は今でも鮨屋が使うが、一般的には特別に「銀」を冠する理由がもはや無くなってしまったからだ。しかし作者は、新米の季節になる度にこの言葉を眩しく思い出し、同時に隔世の感に茫となるのである。それほどに、何も混ぜていない米だけで炊き上げたご飯への渇望は、とりわけて戦中戦後に強かった。このことについての私の体験は何度も書いたので、今回は弦書房(九州)のサイトにある原弘「昭和の子」というコラムから、該当部分の一部を引用しておく。「玄関横の六畳間に新婚の映写技師夫婦が間借りすることになった。映画は戦後の最大の娯楽だった。どこの映画館も、どんな作品がかかっても超満員のようで、当時の映写技師は格段に羽振りがよかった。『支配人や館主よりも映写技師が威張っている』と言われる時代だった。/日暮れ時、表で遊んでいると、その映写技師の六畳間から銀シャリの炊ける何とも言えない香ばしいかおりが流れてきた。空腹と銀シャリへの憧れを抱いていた僕は、その香りに吸い寄せられるようにたまらず勝手知ったる映写技師の部屋に忍び込んでいた。/電熱器のうえの鍋では、ご飯が炊きあがったばかりのようで、部屋中に香ばしいかおりが充満していた。気がついたときには手近の杓子で、顔にまとわりつく湯気を払いのけるようにしてまじっりっ気のない真っ白いご飯をすくいとって口にしていた。/しかし、久しぶりに味わった銀シャリの味は記憶にない。一瞬後、自分のやったことに気づいて愕然とし、僕はあわてて逃げだした。……」。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 0692004

 台風の去つて玄界灘の月

                           中村吉右衛門

者は初代の吉右衛門。俳号は秀山、虚子その他の文人と親交があった。台風一過。というと、たいていの人は白昼の青空をイメージするのに、あえて夜の空を詠んでみせたところがニクい。おぬし、できるな。それも、普段でも波の荒いことで知られる玄界灘だ。台風が去ったとはいっても、真っ暗な海はさぞかし大荒れだろう。その空にぽっかりと上がった煌々たる月影。さながら芝居の書割りのごとくに鮮明で、しかるがゆえに壮絶にして悲愴な情景と写る。句に、嫌みはない。「玄界灘」と聞くと、私はうろ覚えながら戦後の流行歌の一節を思い出す。「♪どうせオイラは玄界灘の波に浮き寝のカモメ鳥」というフレーズがあって、メロディだけは全部覚えている。この歌は、親友の兄貴が好きだった。彼は下関港から出漁する漁師だったが、実家のある私たちの村にやってきたときに、当時はやった素人のど自慢会などに出ては、この歌を陶酔したような表情で歌ったものだった。美男にして美声だったから、村の若い女性に人気があったようだ。ずいぶん年上の人に見えていたけれど、おそらく二十歳そこそこだったのだろう。友人も、そんな兄貴を誇らしく思い自慢していた。が、彼は嫁さんももらわないうちに、それこそ玄界灘で船が転覆して、あっけなくこの世から去ってしまった。訃報の季節は覚えていない。もしも彼が生きていたら、この句の月の見事さを陶酔したような表情で語ってくれそうな気がする。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0792004

 何がここにこの孤児を置く秋の風

                           加藤楸邨

浮浪児
のページを八年ほど書いてきて、その折々の選句を振り返ってみると、結局私の関心やこだわりは先の大戦と敗戦以降の数年間に集中していることがわかる。年代でいえば、少年時代だ。たとえ時世に無関係なような花鳥風月句でも、どこかであの時代の何かに関わっている。いつまでも拘泥していてはならじと、時にジャンプしてはみたものの、またあの頃にいつしか回帰してしまっている。偶然に生き残った者のひとりとしての私……。この意識からは、何があってももう抜け出せないだろう。昨日、話題の『華氏911』を見に行ってきたけれど、いまひとつ入りきれなかったのは、マイケル・ムーア監督の位置がブッシュ大統領と同じ超大国の地平上にあったからだ。この映画は超大国の長としてのブッシュを実に痛快に告発しているのだが、弱小国イラク民衆の「何がここに」の呟きのような疑問に応える姿勢はさして無いと言ってよい。いや、理念としてあるのは認められるが、映像的には希薄だったとするほうが正確か。敗戦国の一国民たる私は、その点にいささかの消化不良を起こしたのだった。ま、しかし、これはあくまでも「アメリカ映画」なのである。掲句は、戦後一年目くらいの東京・上野の光景だ。引用した林忠彦の同時期の写真を見れば、戦争を知らない人でもいくばくかは作者の苦しい胸の内がおわかりいただけるだろう。この二人、その後はどうしたのだろうか。いまでも元気でいるだろうか。『野哭』(1948)所収。(清水哲男)


September 0892004

 台風直撃肺活八〇〇で怺えんとす

                           名取 等

年の日本列島は、うんざりするほど台風に見舞われつづけている。直撃を受けた地方の人は「うんざり」どころではないのだが、あまり直撃されない東京などでも、通過中は大気全体が異常な湿り気を帯びていて、体調にも少しく影響してくる。ましてや作者のように「肺活(量)八〇〇」程度で、しかも「直撃」されたとあってはたまるまい。強風に抗してただ呼吸をするだけでも、大変な苦しさなのだ。しかし、仕事には出かけなければならず、激しい雨風のなかに「怺(こら)えんと」出てゆく決意の句だ。自然の猛威にさらされるのは、いわゆる健常者ばかりではない。作者のような人もいるし、他のハンデを背負った人もいる。ニュースで報道される被害者のなかには、そういう人たちも当然含まれているのだろうが、そうした個人的事実は伝えられない。受け取るほうも、つい「ワン・オブ・健常者」と思ってしまい、そこまでは考えが及ばないのである。作者の意図はともかく、掲句はそうしたことを私たちに認識させてくれるという意味でも、貴重な一句ではなかろうか。ちなみに、それこそ健常者(18歳以上の成人)の肺活量の推測正常値は次の通りだ。男性={27.63−(0.112×年齢)}×身長。女性={21.78−(0.101×年齢)}×身長。作者の「八〇〇」は、なんと小さく、か細い数字であることよ。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


September 0992004

 一足の石の高きに登りけり

                           高浜虚子

暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1092004

 月白をただぼんやりと家族かな

                           伊藤淳子

語は「月白(つきしろ)」で秋。月の出に、空がほんのりと白く明るんでくること。「月」に分類。今宵も東の空が白みはじめて、そろそろ月の上ってくるころになった。でも、「家族」は「ただぼんやりと」しているだけだ。とくに風流心を起こすわけでもないし、第一「月白」の空に気づいているのかどうかすらもわからない。漫然と、いつもと変わらぬ家族の時間が流れているのみである。つまり、日常的にこういう「ぼんやりと」した時間を共有しているのが家族というものだ。作者は、そう言っているのだろう。家族間に大事でもない限り、家族として過ごす時間はさして意識されることがない。月の出程度の現象に、いちいち鋭敏に反応したりなどはしないのである。最も心安い間柄とは、最も鈍い感覚や感情に安んじることが許されるそれではないだろうか。私の高校時代に、田中絹代が唯一度監督した『月は上りぬ』という映画があった。奈良で暮らす老夫婦と娘二人の平凡な家族の物語だ。うろ覚えだが、たしかラストシーンは、老夫婦が縁側でしみじみと古都に上ってくる月を見上げる場面だったと思う。この場合に家族はぼんやりとしていないわけだが、それは姉娘の結婚話がやっとうまくいったという「大事」があったからである。何事も無ければ、この家族もまた句のように「ただぼんやりと」していただけだろう。そんなことを、ふっと思わされた。『夏白波』(2003)所収。(清水哲男)


September 1192004

 海苔巻を添へし見舞の山の柿

                           児仁井しどみ

句集より。作者は三年前に癌で亡くなっている。季語は「柿」で秋。「海苔巻『に』」ではなく「海苔巻『を』」であることに注目した。つまり、見舞の品のメインは「山の柿」であって「海苔巻」ではないのである。長期病床にある作者に、贈り手は新鮮な外気の感じられる山の幸を届けてきた。たぶん、枝葉のついたままの柿だろう。食べてもらうためというよりは、見て楽しんでもらうためだ。しかしこれからが嬉しいところで、贈り手は何の手もかけていない柿だけではぶっきらぼうに過ぎると考え、せめてもと手作りの海苔巻をいくらか添えたのだった。このときに柿は贈り手の病者に対するいたわりの表現であり、海苔巻は「これでも食べて元気を出せ」という励ましの表現とも言える。作者にはその暖かい心遣いがよくわかったので、「に」ではなく「を」と、嬉しくも素直に表現したのである。またぞろ昔話で恐縮だが、昔の見舞の品や贈答品には、しばしばこうした配慮がなされていたことを思い出す。単なる貰い物のお裾分けにしても、何か自分が手をかけたものを添えたりしたものだ。添えるものが何もないときには、口上などの言葉を添えた。なかには釣れすぎた魚を黙って突き出すように置いていく人もいたけれど、あれはあれで、その照れたような表情が立派な口上になっていたのだと思う。このぎすぎすした世の中に、まだそんな奥床しさが残っていたとは。句を読んで、しんみりと嬉しくなってしまった。『十一番川』(2004・私家版)所収。(清水哲男)


September 1292004

 地芝居のお軽に用や楽屋口

                           富安風生

語は「地芝居」で秋。「地」は「地ビール」の「地」。土地の芝居という意味で、土地の人々による素人芝居だ。「お軽」は言わずと知れた『仮名手本忠臣蔵』の有名な登場人物である。舞台では沈痛な顔をしていたお軽が、用事を告げにきた人と「おお、なんだなんだ」と気軽に応対しているところが、いかにも村芝居ならではの光景だ。これが「一力茶屋の場」の後だったりしたら、派手な衣装がますます芝居と現実との落差を感じさせて面白い。この稿を書いているいま、遠くから祭り太鼓の音が聞こえてくる。昨日今日と、三鷹や武蔵野など近隣八幡宮の秋祭なのだ。ひところは担ぎ手を集めるのに難渋した神輿人気も復活し、大勢の人出でにぎわうのだけれど、私などにはやはり「地芝居」の衰退は淋しいかぎり。子供の頃の秋祭最大の楽しみといえば、顔見知りの人たちが演ずる芝居であった。でも、難しい忠臣蔵なんて舞台はなかったと思う。たいていが国定忠次とか番場の忠太郎とかのいわゆるヤクザもので、まあ長谷川伸路線だったわけだが、その立ち回りは早速翌日にはチャンバラごっこに取り入れたものである。「ハナ(寄付金)の御礼申し上げまーす」。幕間には必ずこのアナウンスがあって、寄付した人たちの名前が読み上げられた。多くは地域共同体の義理で寄付していたようだが、しかし私の父親の名前は一度も読み上げられることはなかった。生活保護家庭で口惜しい思いをしたことはいろいろあるけれど、これもその一つである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1392004

 これは何これは磯菊しづかな海

                           川崎展宏

語は「磯菊(いそぎく)」で秋。野菊の一種なので「野菊」に分類。海岸の岩地や崖などに群生する。ただし、咲くのは関東南部から静岡県御前崎の海岸あたりまでというから、名前は何となく知っていても、実物を見たことが無い人のほうが多いだろう。作者もその一人だったようで、はじめて見る花の名前を「これは何」と土地の誰かに尋ねたのである。で、すぐ返ってきた答えが「これは磯菊」だった。そうか、これが話に聞いていた磯菊か……。あらためて見つめ直す作者の周辺には、秋の「しづかな海」がどこまでもひろがっている。「これは何これは磯菊」と歯切れの良い調子で出ているだけに、一見平凡な「しづかな海」という表現が生きてくる。それまでのやや性急に畳み掛けるような調子を、大きくゆったりと受け止める効果が生まれるからだろう。そして「しづかな海」はただ波の静けさだけを言うのではなく、夏の間のにぎわいが引いて行った雰囲気を含んでいる。私は読んだ途端に、流行したトワ・エ・モアの『誰もいない海』を思い出した。♪今はもう秋 誰もいない海……。この後につづく歌詞はいただけないけれど、内藤法美の曲はけだし名曲と言ってよい。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


September 1492004

 障子貼る母の手さばき妻の敵

                           草間時彦

語は「障子貼る」で秋。といっても障子貼りは冬支度だから、もう少し先、晩秋の季語だ。当歳時記では便宜上、紙を貼る前の「障子洗ふ」に分類しておく。これはまた、言いにくいことをずばりと言ってのけた句だ。二世代同居の家庭では、嫁と姑の微妙な心理的確執はなかなか避けられまい。両者とも表面的には仲が良さそうに見えても、内実は大変なのだという句である。障子を貼る母には、おそらく何の屈託も無いだろう。見事な「手さばき」で手際よく次々に貼っていく。息子の作者としても、見惚れるほどの巧みさなのだ。だがしかし、妻には欠けているこうした見事な技術が、実は「妻の敵」として「母」を位置づけてしまう哀しさがある。障子貼りに限らず、気にしはじめればキリがないほどに、こういうことが日常的にいろいろと起きている。妻がまさか義母を「敵」などと言うはずもないのだけれど、はっきり言えばそういうことだと、作者は憮然としているのである。しかも上手な解決法などありはしないから、一つ一つをやり過ごしてゆくしかないのだ。子供の頃から母は自分の「味方」であり、現在は妻もむろん「味方」である。だからといって気楽なものだと言えないところに、この句の苦さがある。ぼんやりしているようでいて、男だってけっこう細かいところを見て感じているということだ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 1592004

 大欅祭に晴れて小鳥来る

                           小林之翹

語は「小鳥来る」で秋。当歳時記では「渡り鳥」に分類。最近、森澄雄さんからいただいた随想集『俳句遊心』(2004.ふらんす堂)に載っていた句だ。この句について、森さんは次のように書いている。「原句は『祭日晴れて』であった。『祭日』は単なる祝日ではなく、その地方の祭りの日ととって『祭に』とした。そうすることによって、祭りの日の好晴とともに大欅の姿もはっきりするし、一句の空間も豊かになると考えたからだが、作者の意図は祭日を祝日の一日として、この率直な表現の明るさにも心ひかれ、なお忸怩たる想いも残っている。作者及び読者はいずれをよしとされるだろうか」(「臍峠」)。句としては、私は森さんの「添削句」のほうが格段に良いと思った。「祭日晴れて」でも悪くはないが、いささかピントが甘いからだ。ただし、「祭日晴れて」と「祭に晴れて」では、まったくシチュエーションが違うので、添削句は作者の意図を歪曲していると言わざるを得ない。私は文芸作品への添削それ自体を認めないが、百歩譲っても、添削は作者の意図を生かす方向でなされなければならないだろう。掲句の場合、作者が地元の祭りを詠んでいないことは明らかだ。したがって添削を受けた作者にとって、この句はなんだか他人の作のように感じられるはずである。森さんの「忸怩たる想い」も、おそらくはそのあたりから来ているのだと思う。当サイトの読者諸兄姉は、それこそ「いずれをよしとされるだろうか」。(清水哲男)


September 1692004

 新宿の炸裂もせず秋ひでり

                           正木ゆう子

書林から『正木ゆう子集』(セレクション俳人・20)が出た。かねてから読みたいと思っていた第一句集『水晶体』(1986・私家版)から全句が収録されているので、私的にも嬉しい刊行だ。この句も『水晶体』より選んだ。「秋ひでり」は「秋日和」ではなく、むしろ残暑厳しい「秋暑し」の謂いだろう。当歳時記では「残暑」に分類しておく。まったくもって新宿という街は、いつ出かけても雑然を越えて猥雑であり、田舎の友人などは頭が痛くなるから嫌いだという。「地鳴り」という言葉があるが、新宿には「人鳴り」とでも言うべき独特の喧噪がある。街全体がうわあんと唸っているかのようで、風船のようにどこかをひょいと突ついてやれば、確かに「炸裂」してもおかしくはない雰囲気である。だが、この街は炸裂しない。猥雑な空気の中にもどこか忍耐強い緊張感があって、何が起きてもどどっと崩壊したりはしないのである。この句は、そんな街の緊張感を描いていて秀逸だ。「秋ひでり」はなおしぶとく暑く、しかしその暑さに捨て鉢になる寸前でじっと耐えているような新宿の空気のありようを、一息に伝える力を感じた。「炸裂」という抽象的な言葉もよく生きているし、作者の青春性も漂ってくる。ついでに言えば、渋谷や原宿、六本木などという繁華街ではこうはいくまい。これらの街はまだまだ薄っぺらで、新宿のような多重層的とでも言うべき緊張感はないからである。(清水哲男)


September 1792004

 秋の暮大魚の骨を海が引く

                           西東三鬼

とに有名な句だ。名句と言う人も多い。人影の無い荒涼たる「秋の暮」の浜辺の様子が目に見えるようである。ただ私はこの句に触れるたびに、「秋の暮」と海が引く「大魚の骨」とは付き過ぎのような気がしてならない。ちょっと「出来過ぎだなあ」と思ってしまうのだ。というのも、若い頃に見て感動したフェリーニの映画『甘い生活』のラストに近いシーンを思い出すからである。一夜のらんちきパーティの果てに、海辺に出て行くぐうたらな若者たち。季節はもう、冬に近い秋だったろうか。彼らの前にはまさに荒涼たる海が広がっていて、砂浜には一尾の死んだ大魚が打ち上げられていたのだった。もう四十年くらい前に一度見たきりなので、あるいは他の映画の記憶と入り交じっているかもしれないけれど、そのシーンは掲句と同じようでありながら、時間設定が「暮」ではなく「暁」であるところに、私は強く心打たれた。フェリーニの海辺は、これからどんどん明るくなってゆく。対するに、三鬼のそれは暗くなってゆく。どちらが情緒に溺れることが無いかと言えば、誰が考えても前者のほうだろう。この演出は俳句を知らない外国人だからこそだとは思うが、しかしそのシーンに私は確実に新しい俳味を覚えたような気がしたのである。逆に言うと、掲句の「暮」を「暁」と言い換えるだけでは、フェリーニのイメージにはならない季語の狭さを呪ったのである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


September 1892004

 包丁に載せて出されし試食梨

                           森田六合彦

語は「梨」で秋。俳句を読んでいると、ときたま懐かしい光景に出会うことがあり、これもまた俳句の楽しさだ。俳句の文芸的な味わいはもとより大切だが、一方で時代のスナッブ写真的機能も大切である。この句は、私の少年期を思い出させてくれた。作者のいる場所などはわからないが、懐かしいなあ、初物の梨などはこうやって「どうだ、食べてみな」と大人が食べさせてくれたものだ。一般的に刃物を人に向けるのはタブーではあるが、皿に盛るほどのご馳走ではないし、量も少ないのでくるくるっと剥いてざくっと切って、「お一つどうぞ」の感じで「包丁」に載せて差し出したものだ。とくに梨のように水分の多い果実は、手から手へ渡すよりも、包丁に載せて出したほうがより新鮮で清潔な感じがあったためだと思う。まさに「試食」ならではの光景である。まさかねえ、こういうことが俳句になろうとは露ほども思ったことはなかったけれど。たぶん作者は、包丁に載せて差し出されたのがはじめての体験だったのではなかろうか。だから、ちょっとぎくりとして、作句したのに違いない。「試食」という状況説明をつけたのが、その証拠だ。私たちの世代なら、試食と言われなくてもそう思うのが普通だからである。ま、そんなことはどうでもよろしいが、とにかくとても美味しそうですね。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1992004

 鳥渡る旅にゐて猶旅を恋ふ

                           能村登四郎

語は「鳥渡る」で秋。登四郎最晩年八十九歳の句、死の前年の作句である。若い身空で旅にあっても、ときにこういう感興を覚えることがあるが、老いてからのそれは一入だろう。澄んだ秋空を渡ってくる鳥たちを見上げていると、その元気さ、その自由さに羨望の念を覚え、旅先であるのに猶(なお)さらなる遠くへの旅を「恋ふ」気持ちがこみ上げてくるのだ。もはや渡り鳥のようには元気でもなく自由もきかない我が身にとっては、今度のこの旅が最後になるかもしれない。そうした懸念とおそれがあるので、なおさらに鳥たちの勇躍たる飛翔が目にまぶしく感じられる。同じころの句に「啄木鳥や木に嘴あてて何もせず」があり、こちらは何もしないでいる「啄木鳥(きつつき)」に老いた我が身を重ねあわせたものだ。あのいつも陽気で騒がしい鳥にも、じっと黙して動かない時間がある……。一見ユーモラスではあるけれど、何か名状しがたい苦さがじわりと読み手に沁み入ってくる。高齢者の句には総じて淡白なものが多いように思うが、見られるように登四郎の句にはなお作品的な色気がある。人によりけりなのではあろうけれど、妙な言い方をしておけば、登四郎には最後まで読者を意識したサービス精神があったということだ。その道のプロは、かくありたいものだ。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


September 2092004

 われらただのぢぢばばながら敬老日

                           新津香芽代

、そういうこってすな。先日居住している三鷹市の健康福祉部高齢者支援室なるところから、高齢者生活実態調査なるアンケート用紙が郵送されてきた。65歳以上の市民のなかから、無作為に選んだ一万人を対象にしたという。封筒を開けたら色違いの二通の調査票が入っていて、一通は本人が答えるもの、もう一通は家族が答えるものだった。これにはちょっとショックだったが、なるほど高齢者の場合には本人だけの回答では「実態」が客観的に把握できない可能性も高いのだろう。やむを得ないことながら、「ただのぢぢばば」というだけで、人はかくのごとくに世間から不信の目を向けられているのである。つくづく「トシはとりたくねえな」と思った。ちなみに、本人向けにはこんな質問が……。(1)金銭管理は一人でできますか。(2)買い物は一人でできますか。(3)内服薬の管理は一人でできますか。(4)食事の用意は一人でできますか。(5)掃除や洗濯は一人でできますか。さらには「あなたは、趣味のグループ、町内会、自治会、住民協議会、老人クラブ、またはその他のあつまりに何回くらい参加していますか」等々、質問の背後から自治体の考える理想的な老人像がほの見えてきて、答えているうちにだんだん憂鬱になってしまった。結局、アンケートには応じなかった。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


September 2192004

 秋風やたためば小さき鯨幕

                           松崎麻美

夜か葬儀の後片付けだろう。「鯨幕(くじらまく)」は、黒と白の布を一幅おきに縦に縫い合わせ、上下に黒布を横に渡した幔幕(まんまく)のことだ。広げて吊るしてあるときには大きく見えるけれど、「たためば」意外にもずいぶん小さかったという実感句である。書いてあるのはそれだけだが、ここにはむろん人の生命のはかなさへの感懐が込められている。故人の死を悼み悲しむというよりも、あっけらかんと掻き消えてしまった生命の意外な小ささに胸を突かれたのだ。したがって吹く秋風が感傷を誘うというよりも、むしろ空虚空爆の世界へと作者を連れて行ったのではあるまいか。「鯨幕」で思い出したが、子供の頃には「鯨」のつく道具や品物がいろいろとあった。和裁で使う「鯨尺(くじらじゃく)」などはたいていの家庭にあったし、昼夜帯を意味した「鯨帯(くじらおび)」とか、「鯨身(くじらみ)」は芝居で使う刀のことを言った。本物の鯨の肉は戦後の食糧危機をある程度は救ってくれたし、それほどに鯨と日本人の関係が密だった証拠だろう。それが昨今では周知のように鯨が遠い存在になり、連れて鯨のついた物の名前も忘れられつつある。誰でも見知っている句の「鯨幕」にしても、ちゃんと名前を知っている人は、もうそんなに多くないのではなかろうか。『射手座』(2004)所収。(清水哲男)


September 2292004

 灯火親し英語話せる火星人

                           小川軽舟

語は「灯火親し(む)」で秋。そろそろ、この季語が似合う季節になってきた。本意では本を読むための「灯火」とは限らず、一家団欒などの灯でもよいのだが、読書を詠むときによく使われてきた。掲句も、読書の句だ。いわゆるSFものを読んでいるのだろう。最初は何気なく読み進めていたのだが、そのうちにおやっと気がついた。登場してきた火星人が、当たり前のように「英語」を話しているではないか。ここで読者には作者が英語の小説を読んでいることが知れるが、考えてみれば確かに変である。小説だから仕方が無いと言えばそれまでだけれど、いかに優れた知能の火星人とはいえ、一度も地球上で暮らしたことが無い者に、地球人の言葉が話せるはずは無い。言葉とは、そういうものだ。火星人に地球人と同じような構造の言葉があるわけはないし、仮に話すというコミニュケーション手段があるとしても、地球人同様の環境と生来的に備わった五感とがなければ話は通じないだろう。十数年前にコンピューター雑誌で、宇宙人との交流手段を真剣に研究している人の論文を読んだことがある。彼は、むろん地球人的な意味での言葉の概念を捨てるところから出発していた。当然である。それはともかく掲句の作者は、そうしたことに気づいてにやりとしたのだ。苦笑でもあるが、しかしそこがまた楽しいなという微笑でもある。これからは夜が長くなりますね。ENJOY! 『俳句研究』(2004年10月号)所載。(清水哲男)


September 2392004

 をさな子はさびしさ知らね椎拾ふ

                           瀧 春一

語は「椎(の実)」で秋。ドングリの一種と言ってよいと思うけれど、椎は生でも食べられる。でもとにかく色合いが地味なので、それだけに淋しい感じのつきまとう実である。椎の木の生えている場所自体、陰気な感じのするところが多かった。そこらあたりの雰囲気を巧みに捉えたのが、虚子の「膝ついて椎の実拾ふ子守かな」だ。秋も日暮れに近いのだろう。けなげな「子守」の淋しくも哀れな様子が、目に浮かぶようだ。掲句もまた、椎の実にまつわる寂寥感を詠んでいるのだが、しかし虚子のように直球を投げてはいない。かなりの変化球だ。「さびしさ」を知らない「をさな子」が一心に椎の実を拾っている。しかしそれが単純に微笑ましい図かというと、そうではなくて、作者はどこかに淋しさ哀れさを感じてしまうと言うのだ。「知らね」は「知らねども」の略として良いと思うが、純粋無垢の幼児のひたむきな行為を見ていると、身につまされるときがある。かつての自分もこうであったはずだが、やがて物心がつき自我に目覚め、人生の喜怒哀楽を知り始めると、とても純粋ではいられなくなる道程を知っているからだ。無心の幼児。このころが結局いちばん良い時期かもしれないなあと思うと、涙ぐましくなってくる。その感情を、幼児の拾う椎の実の淋しさが増幅するのである。センチメンタリズムを詠ませると、この作者はいつも格別な才気を発揮した。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


September 2492004

 天高く事情聴取はつづきをり

                           櫂未知子

ういう想像力は好きですね。そこはかとない可笑しみが漂ってくる。天高しの秋晴れの下、散歩に出かけたりスポーツに興じたりと、そんな戸外の活動をイメージするのは当たり前のこと。当たり前が悪いのではないけれど、しかし、一方では掲句のように天気とは関係のない現実も厳然とあるのである。「事情聴取」とまではいかなくとも、ウィークデーだとむしろ天気の如何に関わらぬ仕事で室内に閉じこもっている人のほうが多いはずだ。私なども、ときたま快晴の窓の外を眺めては、思わずもふうっとため息を漏らしたものだった。会社にいわば拘束されていたわけだが、警察に拘束されていろいろと事情を聞かれるとなると、ため息どころではないだろう。「天高し」どころではない人が圧倒的多数だとは思うけれど、推察すれば、早く拘束をといてほしい気持ちは上天気のほうが強くなりそうだ。取り調べる側だって、早く決着をつけたい気持ちに駆られるだろう。その意味で、まったく無関係だとまでは言い切れまい。しかしなお、掲句では延々と事情聴取はつづいているのであって、せっかく晴れてくれた秋の空が機嫌をそこねかねない案配にまでなってきた。諧謔句と言ってよろしいかと思うが、作者が句の裏側で言っているのは、たぶん季語の常道に拘束されすぎるなということだ。それではどんどん俳句と俳人の世間が狭くなり、多面的多層的な現実を見失うことになりかねないよ。と、一言発言する代わりに、茶目っ気を見せてやんわりとひねってみたのだと思う。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)


September 2592004

 稲架かけて飛騨は隠れぬ渡り鳥

                           前田普羅

語は「稲架(はざ)」で秋。「渡り鳥」も季語だが、掲句では「稲架」のほうが主役だろう。刈り取った稲を干すためのもので、地方によって「稲木(いなぎ)」や「田母木(たもぎ)」など呼び方はいろいろだし、組み方も違う。私の田舎では洗濯物を干すように、木の竿を両端の支えに渡して干していた。この句の場合も、似たような稲架ではなかろうか。びっしりと稲を掛け終わると、それまでは見えていた前方が見えなくなる。すなわち「飛騨は隠れぬ」というわけだ。一日の労働が終わった安堵の気持ちで空を振り仰げば、折しも鳥たちが渡ってくるところだった。涼しく爽やかな風が吹き抜けて行く秋の夕暮れ、その田園風景が目に見えるようではないか。「落ち穂拾い」などを描いたミレーの農民讃歌を思わせる佳句である。この稲架も、最近ではほとんど見かけなくなった。ほとんどが機械干しに変わったからだ。昨年田舎を訪ねたときに農家の友人に聞いてみると、田植えや稲刈りと同様に、機械化されたことでずいぶんと仕事は楽になったと言った。「でもなあ、機械で干した米はやっぱり不味いな。稲架に掛けて天日で干すのが一番なんじゃが、手間を思うとついつい機械に頼ってしまう……」。自宅用の米だけでもとしばらくは頑張ったそうだが、いつしか止めてしまったという。そうぼそぼそと話す友人は、決して文学的な修辞ではなく、どこか遠いところを見るようなまなざしになっていった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2692004

 今年藁みどりほのかに新娶り

                           西島麦南

語は「今年藁(新藁)」で秋。新しい藁は、根元のほうにうっすらと「みどり」が残っている。独特な爽やかな香りがあるが、もう何十年も嗅いでいない。懐かしいなあ。稲刈りも脱穀も終わって、秋の農繁期が一段落したころの句だろう。農家での婚礼だ。昔は多く自宅で結婚式や披露宴を行ったので、今年藁が招待客の目に入ってもおかしくない理屈だ。新藁自体に収穫の喜びと安らぎとが感じられ、加えておめでたい婚礼なのだから、この取り合わせは効果的である。しかも「みどりほのかに」のイメージからして、派手な婚礼は想起されず、あくまでもつつましやかな喜びと祝福感が滲み出ている。作者の優しい寿ぎの心が、よく出ていて好もしい。いまどきのようなホテルや会館などでの婚礼には生活感がないけれど、往時のそれはこのように生活と密着していた。どちらが良いと即断はできないけれど、こうした味わいのある婚礼が見られなくなったのは、私にはなんとなく淋しい感じがある。私の親族のなかでは戦後に、農家ではなかったけれど叔父が大阪の自宅で婚礼をあげている。私はその家から東京に越してきたばかりの中学生だったので列席できなかったけれど、式の様子や披露宴の写真を見たときに、将来の自分もこんなふうに畳の上で式をあげるのかなと思ったことだった。が、実際には生活感皆無の場所を選ばざるを得なかった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2792004

 蘭の名はマリリンモンロー唇々々

                           山口青邨

モンロー
語は「蘭(らん)」。現代の歳時記では夏に分類しているほうが多いようだが、古くは馬琴の『栞草』のように秋の季語とした。同じく秋に分類している金子兜太編の歳時記によると、秋の七草の一つである「フジバカマ」を昔は「ラン」と言ったからだと書いてある。だから、芭蕉や蕪村の句の蘭はフジバカマのことかもしれないのだが、こればかりはもう確かめようもないだろう。ややこしいけれど、当歳時記では角川版歳時記の分類を基準としているので夏の部に入れておく。掲句は近着の「俳句」(2004年10月号)に載っていた大屋達治「山口青邨論」に引用されていたものだ。作句時の作者は九十歳を越えている。この句を味わうためには、なにはともあれどんな花なのかを知らなければならない。早速ネットで調べてみると、ときどき写真を借用してきた青木繁伸さんのサイトに鮮明なものがあり、縮小して掲載したが、なるほどねえと「納得々々」した次第だ。やはりモンローの顔を簡略化していくと、最後には「唇」が残るということか。アンディ・ウォーホールの版画を思い出したりした。ところで「唇々々」はどう読むのだろう。大屋さんは「くちくちくち」としているが、「しんしんしん」でも面白いかな。いずれにしても、青邨の茶目っ気は終生健在であったということだ。ユーモアも、文芸世界を支える大きな柱である。(清水哲男)


September 2892004

 月の雨ふるだけふると降りにけり

                           久保田万太郎

宵は十五夜。仲秋の名月だが、東京あたりの雲行きでは、まず見られそうもない。全国的にも今日は天気が良くなくて、天気図から判断すると、見られるとしても北海道や北陸の一部くらいだろうか。季語は「月の雨(雨月)」。雨降りで、せっかくの名月が見られないことを言う。雨ではなく曇りで見えなければ「無月」となる。しかし雨月にせよ無月にせよ、本義ではそれでも空のどこかが月の光りでほの明るい趣きを指すようだ。これには、楽しみにしていた十五夜が台無しになるのは、いかにも残念という未練心が見え隠れしている。そこへいくと掲句の雨は、もう明るいもヘチマも受け付けないほどのどしゃぶりだ。これほど降ればあきらめもつくし、いっそ気持ちがすっきりするじゃないかと、作者は言うのである。いわゆる江戸っ子の竹を割ったような気性が、そう言わせているのだろう。いつまでぐじぐじしていても、何も始まらねえ。早いとこ、さっさと布団を引っ被って寝ちまおうぜ。とまではさすがに言ってはいないけれど、そこに通じる一種被虐的な快感のような心持ちは感じられる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2992004

 広報の隅まで読んで涼新た

                           伊藤白潮

語は「涼新た(新涼)」で秋。「広報」は区や市など自治体の発行している広報誌のことだが、これを「(隅から)隅まで」読む人はなかなかいないだろう。購読紙に広告といっしょに挟まれて配達される地域が多いので、一瞥もされないままにビラと同じ運命をたどる「広報」も多いはずだ。それを作者は「隅まで」読んだというわけだが、特にその号に注目したというのではなく、おそらくは気まぐれで読みはじめ、ついつい最後までページをたどってしまったということのようだ。読んだのはたまたま手に取ったときの気分が良かったからであり、その気分の良さは猛暑が去った後の「涼」がもたらしたものである。つまり「新涼」の心地よさから読みはじめて、読み終えると、今度は何か普段では経験したことのない達成感が生まれて、そこでまたあらためて快適な「涼新た」の実感がわいてきたということである。「新涼」に誘われて行為した結果、なおのこと「涼新た」の感を深くした。そういう構成だと思う。だからこのときに「涼新た」と「新涼」は厳密には同義ではなく、「涼新た」には作者の読後という時間が投影されている。要するに既成の季語の概念に作者個人のアクションを加え重ねているわけで、なんでもないような句に見えるかもしれないが、作者が素知らぬ顔をして、実は季語と遊んでいるところに掲句の楽しさがあると読んだ。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


September 3092004

 菊膾淡き一夜の人なりし

                           佐藤惣之助

語は「菊膾(きくなます)」で秋。菊の花びらを茹で、三杯酢やからしあえで食べる料理。食用の菊は東北地方に多く栽培されており、はじめて山形に行ったとき、八百屋の店先で大量に売られているのを見て「なんだろう」と思った記憶がある。こういう句を作らせると、さすがは歌謡曲(「湖畔の宿」「人生の並木道」「緑の地平線」など)で名声を馳せた作者だけあって、実に巧いものである。「淡き」は「菊膾」と「一夜の人」両者に掛けられており、いま膳に出された菊膾を前にして、かつて愛した女性との甘美な思い出にしばし浸っている図だ。「一夜の人」とはまことに思わせぶりな言い方だが、そこが惣之助らしいところで、二人の間に何があったか無かったかなどという下衆のカングリは無用である。淡さも淡し、これ以上無い二人の浅きえにしが、菊膾の風合いを見事に言い当てている。それだけでよいのである。惣之助は少年期から俳句に親しみ、二十代で高村光太郎、福士幸次郎、千家元麿らと詩を書きはじめたが、現在では詩人としての評価はほとんど無いと言ってよい。象徴派の詩人であった西条八十がそうであるように、あまりにも大衆歌謡で有名になりすぎた結果だろうか。全集はおろか全詩集もないことを思うと、なんだか痛ましい気がする。ちなみに阪神タイガースの応援歌「六甲颪」も、この人の作詞だ。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます