2004N10句

October 01102004

 鉢植に売るや都のたうがらし

                           小林一茶

語は「たうがらし(唐辛子)」で秋。真紅に色づいた唐辛子は、蕪村の「うつくしや野分の後のたうがらし」でも彷佛とするように、鮮やかに美しい。だが、蕪村にせよ一茶にせよ、唐辛子を飾って楽しむなどという発想はこれっぽっちも無かっただろう。ふうむ、「都」では唐辛子までを花と同格に扱って「鉢植」で売るものなのか。こんなものが売れるとはと、いささか心外でもあり、呆れ加減でもあり、しかしどこかで都会特有の斬新なセンスに触れた思いも込められている。むろん現在ほどではないにしても、江戸期の都会もまた、野や畑といった自然環境からどんどん遠ざかってゆく過程にあった。したがって、かつての野や畑への郷愁を覚える人は多かったにちがいない。そこで自然を飾り物に細工する商売が登場してくるというわけで、「虫売り」などもその典型的な類だ。戦後の田舎に育った私ですら、本来がタダの虫を売る発想には当然のように馴染めず、柿や栗が売られていることにもびっくりしたし、ましてやススキの穂に値段がつくなどは嘘ではないかと思ったほどだった。でも一方では、野や畑から隔絶されてみると、田舎ではそこらへんにあった何でもない物が、一種独特な光彩を帯びはじめたように感じられたのも事実で、掲句の一茶もそうしたあたりから詠んでいると思われた。(清水哲男)


October 02102004

 生きて会ひぬ彼のリュックも甘藷の形り

                           原田種茅

語は「甘藷」で秋。「さつまいも」のことだが、句では「いも」と読ませている。戦後も間もなくの混乱期の句だ。消息のわからなかった同士が、偶然に出会った。食料難の時代、作者は食べ物を求めて農村に買いだしに出かけた帰途とうかがえる。背負ったリュックには、やっとの思いで手に入れた甘藷が詰まっているのだ。したがって会った場所は、電車の中か、それとも駅頭あたりだろうか。お互いに相手を認めての第一声は、「久しぶりだなあ」というよりも「おお、生きてたか」というのが、当時の自然な挨拶だろう。よかったと手を取りあわんばかりの邂逅にも、しかし、ちらりと相手のリュックに目が行ってしまうのは、これまた当時の自然の成り行きというものだ。どうやら彼のほうも甘藷を手に入れたらしいことが、リュックの「形り」(「なり」と読むのかしらん)でわかったというのである。これで彼のおおよその暮らし向きもうかがえ、どうやら似たようなものかと思う気持ちは、平和な時代には絶対にわいてこなかったものである。その哀れさと苦さとが、会えた喜びの陰に明滅していて、何とも切ない。この後、二人の会話はおそらく弾まなかったろう。そそくさと連絡先を伝えあうくらいで、それぞれが家族の待つ我が家へと急がねばならなかったからだ。この世代も、若くて七十代後半を迎えている。甘藷もそうだが、ただ飢えをしのぐためにだけ食べた南瓜など、見るのもイヤだという人もいる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 03102004

 ぬす人に取りのこされし窓の月

                           良 寛

寛といえば、なんといっても歌と詩と書だ。俳句(発句)は入らない。良寛作と伝えられる句はたかだか百句程度だが、そのなかにもオリジナルかどうか疑わしいものがかなりあるという。図書館で見つけた新潟市の考古堂から出ている『良寛の俳句』(写真と文・小林新一)を開いたら、良寛の父親は名の知れた俳人(俳号・以南)であったが、良寛にとって俳句は遊びだったと村山砂田男が書いていた。「芭蕉を俳聖とするならば、一茶は俳人というべきであり、良寛は他の芸術同様、枷(かせ)のない無為の境地において俳句を楽しんだ俳遊である」。さて、その「無為な境地」の人の家に泥棒が入った。前書に「五合庵へ賊の入りたるあとにて」とあるから、入られたのは良寛が五十代を過ごした草庵だ。昨年の初夏に八木忠栄の案内で大正初期に再建された五合庵を見に行ったけれど、そのたたずまいからして、またそのロケーションからして、およそプロの泥棒がねらうような庵ではない。落語なら「へえ、泥棒に入られたのか。で、何か置いていったか」てな住居なのだ。村山さんは蒲団を持っていかれたと書いているが、何か根拠があるのだろうか。が、何にせよ奪われた側の良寛は、さすがの泥棒も「窓の月」だけは盗みそこねたなと、呑気というのか闊達というのか、とにかく恬淡としている。ここらへんが、良寛と我ら凡俗の徒の絶対の差であろう。句の味としては一茶に似ている感じがするが、一茶と良寛とは全くの同時代人だった。それにしても、泥棒に入られて即一句詠むなんぞは、やはり「俳遊」と呼ぶしかなさそうである。(清水哲男)


October 04102004

 銀木犀文士貧しく坂に栖み

                           水沼三郎

語は「(銀)木犀」で秋。木犀は、ある日突然のように香りはじめる。我が家の近辺でも、一昨日から芳香を放ちはじめた。何故か、そぞろ郷愁を誘われる香りだ。秋、それでなくとも感傷的になりがちな季節に咲くからだろうか。暗くなるとよく匂うので、夕暮れから夜にかけてのイメージと結びつく人が多いと思う。句の「文士」が誰を指すのかは知らないが、私は文芸誌の編集者だったこともあったので、しみじみと心に沁み入ってくる。いまどき「文士」は死語に近いが、四十年ほど前には文士としか言いようのない作家や詩人がたくさんおられた。一種の豪邸に暮らしていた何人かの人には、当時としても文士と呼ぶのははばかられたが、他方で吉田一穂や木山捷平などはその呼称にふさわしかった。「貧しく」かどうかは別にして、小さな一軒家を構え、どこか世俗に超然と構えたところがあり、それでいて私のような若造にもていねいにつきあってくださった。お宅を辞するときは、たいていが宵の口だ。どこからか木犀の香りが漂ってきて、仕事の話が順調ではなかったにしても、いま辞してきたばかりのお宅でのあれこれが、既に懐かしいような感じにすらなるのであった。そう、文士とは恐らく存在それ自体が懐かしいような人のことを言ったのではあるまいか。句は直接そういうことを言っているのではないけれど、そこに通じる繊細なセンスが感じられて好もしい。「住み」ではなく「栖み」が効いている。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


October 05102004

 秋草の思ひ思ひに淋しいぞ

                           島村 元

日、若い友人で文芸評論家の小笠原賢二君が亡くなった。以下、「東京新聞」の電子版より。「小笠原賢二氏(おがさわら・けんじ=文芸評論家)4日午前8時40分、肺がんのため東京都立川市の病院で死去、58歳。北海道出身。自宅は東京都日野市南平1の23の8。葬儀・告別式は6日午後2時から東京都台東区下谷2の10の6、法昌寺で。喪主は妻かず子(かずこ)さん。/短歌を中心として現代社会と文学の問題を論じた。著書に「終焉(えん)からの問い」「拡張される視野」など」。かつては「週刊読書人」の優れた編集者であり、私たちの野球チーム「ポエムズ」の仲間でもあった。野球をやめてからは一度も会う機会がなかったが、常にひたむきな表情の似合う男であった。念願かなって某大学で講座を持つ矢先の入院だったと聞いていたし、これから書きたいこともたくさんあったろうにと思うと、早すぎた死ゆえに胸が痛む。まこと掲句のように、私は私なりに「淋しいぞ」とつぶやくことになった秋である。生きていてくれさえすれば、たとえ会わなくたって淋しくはないのだ。寿命と言えばそれまでながら、とにかく年下の人に死なれるのは辛い。これまで、もう何人の若い友人知己と別れてきただろう。いやだなあ……。暮れかけた庭の「秋草」を、冷たい雨が濡らしているのが見えている。合掌。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 06102004

 青電に間に合ふ星の別れかな

                           伊丹竹野子

語は何だろうか。字面だけからすると、無季句である。が、句意に添って情景を想像すれば、「星の別れ」とは「星空の下の別れ」であり、星空が最もきれいな季節である秋の「星月夜の別れ」と読めなくもない。よって、当歳時記では異論は承知で「星月夜」に分類しておく。ところで私がこの句に目を止めたのは、もはや死語ではないかと思われる「青電」が使われていることにもよる。車体の青い電車のことじゃない。昔の市電などで、行先を示す標識を青色の光で照明したところからそう呼ばれたもので、最終電車である赤電(車)の一つ前の電車を言った。もう、若い人にはわからない言葉だろう。帰宅を急いで運良く最終電車の前の電車に乗れると、何となくほっとする。赤電は切なく侘しいが、青電にはそれがない。後続の赤電との時間差がたいして無いのだとしても、とにかく青電に乗ると、得をしたような気分になるものだ。まだそんなに遅い時間じゃない、もっと遅く赤電で帰る人もいるのだから……。と、とくに句のように別れがたい人と別れてきた後では、不意に散文的な現実に呼び戻されて、自己納得するというわけだ。「星」の幻想と「青電」の現実。私たちは両者の間を、行ったり来たりしながら暮らしている。俳誌「ににん」(16号・2004年9月30日刊)所載。(清水哲男)

[訂正します]数人の読者から「星の別れ」は季語「星合(七夕)」の項目にあるとのご指摘をいただきました。ありがとうございます。後出しジャンケンみたいですが、実はそれも考えました。でも、「電車」ゆえ「実際の人の別れ」ととったほうが面白いと思って書いたわけです。しかし歳時記にある以上、私の解釈は強引すぎたかと反省しています。よって、「間違った」解釈はそのままに、掲句を「七夕」の項に移動させることにしました。


October 07102004

 柚子味噌を載せてをります飯の上

                           吉田汀史

語は「柚(子)味噌」で秋。味付けをした味噌のなかに、柚子の表皮をすって混ぜ合わせる。その昔、ものの弾みから、本格的なふろふき大根をつくったことがあり、そのときにはむろん「柚子味噌」もちゃんとつくった。たまたま美味かったけれど、以後は良い大根もなかなかないし、何よりも面倒臭いので、それっきりになっちゃった。かれこれ二十年も前の話である。という具合に、ふつう柚子味噌は料理の調味料に使うものだ。それを作者は「飯の上に載せて」いると言うのである。つまり、ご飯のおかずというのか、ご飯を美味しく食べるためにそうしているのだ。こりゃ、いいなあ。と、すぐに思った。というのも、戦後の混乱期に何もおかずがなかったとき、仕方なく味噌や塩を「飯」といっしょに食べた体験があるからだ。単なる味噌に比べれば、柚子味噌は上等中の上等だから、当時を思い出して咄嗟にそう反応したのだった。作者にも同様の体験があるのだろうが、しかし、句の書き方はどこかでちょっと照れていて微笑ましい。飽食の時代に、わざわざ粗食を選んだのではない。おそらく君たちは知るまいが、これは別に奇異な食い方じゃないんだ、本当に美味いんだからと、いささか開き直り気味の照れ隠しと読んだ。詠めそうで、詠めない句。その前に、誰もなかなか、こういう句を詠もうとはしない。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


October 08102004

 運動会昔も今も椅子並ぶ

                           横山徒世子

語は「運動会」で秋。近所の学校の運動会を、よくのぞく。べつに知人の子や親戚の子が出ているわけでもないのに、つい徒競走スタートのピストルの音や歓声などに誘われて足が向いてしまうのだ。三十分くらい子供たちの元気な動きを見て、満足して帰ってくる。きびきびした身体の動きは、見いるだけで気持ちがすっきりする。が、掲句を読んで「はっ」と思ったことに、もしかすると私が運動会を見に行くのは、そのようなこともあるけれど、もう一つは郷愁を感じたいためかもしれないということだった。騎馬戦や棒倒しは危険なので止めようとかいった競技の変遷はあるにしても、「昔も今も椅子並ぶ」で、運動会ほどにデザインの変わらない学校行事は、他に無いのではあるまいか。入学式や卒業式のスタイルは大きく変わってしまったし、学芸会はほとんど姿を消し、遠足などもあまり遠くまでは歩かなくなった。残るは運動会のみというわけで、あの空間には誰もが子供だった頃の様子が、そのまま保存されていると言ってよいだろう。椅子の並べ方も同じなら、来賓のためのテントも同じだし、流れるマーチも昔と変わらず、運動場に引かれた白線だってそっくりだ。郷愁を誘われるのも、無理はない。この句は端的に、そのあたりの事情を述べている。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 09102004

 居ながらに骨は減りつつ新牛蒡

                           柿本多映

夏に収穫する牛蒡(ごぼう)もあるが、普通は春蒔きで秋に収穫する。秋の季語として「牛蒡引く」があるので、「新牛蒡」はこの項目に入れておく。中年くらいから年齢を重ねるにつれて、その化学的な成分は変化しないが、「骨(量)」は徐々に減ってゆく。とくに女性は閉経後に急に減少するので、骨粗鬆(こつ・そしょう)症になりやすい。まさにただ生きているだけ、それだけで「居ながらに」して減ってゆくわけだ。作者はそのことを、ふと意識の上にのぼせたのだろう。だが、なにしろ減少過程それ自体は自覚されないのだから、恐いと言えば恐いし、哀れと言えば哀れでもある。他方「新牛蒡」は成長途上で生命を絶たれた生物であり、むろん骨は無いけれど、その姿は減少した骨にも似て細く筋張っており、いまの作者の意識からすると哀れな感じを受けるのだ。生命あるものと、それを絶たれたものとが相似ていることの哀れである。もっともこういう句は、このような「何が何してナントやら」的な理屈で解釈しても面白みに欠けてしまう。パッと読んで、パッと閃くイメージや感覚のなかで観賞するのが本来だと思う。余談、一つ。三鷹の明星学園で教えていたころの無着成恭が、テレビで話していた。「いまの子は、実物のゴボウを見せても何なのかわからない。キンピラゴボウなら、みんな知ってるのに」。辞書や歳時記にも、そろそろゴボウの写真が必要だ。『粛祭』(2004)所収。(清水哲男)


October 10102004

 錵のごとくに秋雷の遠きまま

                           友岡子郷

て「錵(にえ)」とは何だろうか。「沸」とも表記する。句の成否は「錵のごとくに」の比喩にかかっているのだから、知らないと観賞できない。手元の辞書には「焼きによって日本刀の刃と地膚との境目に現れる、雲や粟(あわ)粒のような模様」と出ている。刀身を光にかざして見ると、細かいキラキラする粒が認められる。それが「錵」だ。学生時代に後輩の家に遊びにゆき、はじめて抜身の日本刀を間近に見せてもらった。父親の美術コレクションだったようだが、持ってみて、まずはその重さに驚いた。とても振り回したりはできないと思った。そして、なによりも刀身の美しさ……。息をのむようなという形容が陳腐なら、思わず居住まいをただされるとでも言うべきか。それまで胡座をかいていたのが、すうっと自然に正座してしまうほどだった。「(曇るので)息をかけないように」と言われたのにはまいったけれど、何の感想も漏らせないままに、ただただ見入ってしまったことを覚えている。掲句はそのときのことを思い出させてくれ、私にとっては遠い「秋雷」さながらに、しばし郷愁に誘われる時間を得た。自注によれば、作者は小学生のときに備前長船を叔父に見せてもらったそうで、この「遠きまま」には、距離の遠さと時間の遠さとが同時に表現されているわけだ。しかし、そうした作句事情は知らなくても、日本刀を手に取ったことがある人には、一読同感できる佳句として響いてくるだろう。『未草』(1983)所収。(清水哲男)


October 11102004

 夜長ふと見出しものに「肥後守」

                           中村草田男

語は「夜長」で秋。草田男にしては、大人しい句だ。署名がなければ、誰も草田男句だとは読めまい(思い出しますね、「第二芸術論」)。秋の夜長のつれづれに、引き出しの整理でもしていたのだろう。その昔、子供の頃に使った「肥後守(ひごのかみ)」が出てきた。何故こんなところに、こんなものが……。訝しく思いつつも、一挙に懐かしさに襲われて、刃を開いたり閉じたりしてみている。何か削るものはないかと、周辺を見回している作者の姿が想像されて、微笑ましい。「肥後守」は、明治期から昭和三十年代くらいまでにかけて使用された学童用の安価な和式ナイフである。といっても、ちゃんと刃文の出る本格的な刃物で、きちんと研いでやると相当によく切れた。ということは、錵もあったのだろう。主として鉛筆削りに使われたが、そこは子供のこと。それだけの用途ではすまされず、木や竹を削ったり果物を剥いたりと、いまで言うアウトドアでも大いに活躍した。だが、喧嘩に使われることはめったになかったと思う。そのあたりは刃物の何たるかを、肥後守を通じて知らず知らずのうちにわきまえていたのだ。危ないという理由からと、便利な鉛筆削り機が登場したことにより、学校から追放されてしまったけれど、それで良かったとは必ずしも言いがたい。刃物を持ったことがない者には、刃物の恐さがわからないからだ。ちなみに今回初めて知ったことだが、「肥後守」は「味の素」などと同様に普通名詞ではなく、れっきとした登録商標なんだそうである。『大虚鳥』(2003)所収。(清水哲男)


October 12102004

 梅干の真紅を芯に握り飯

                           中嶋秀子

語は「梅干」で夏。梅を干す季節から定まった季語だが、句のように「握り飯」とセットになると、夏よりもむしろ秋を思わせる。運動会の握り飯、遠足やハイキングの握り飯など、とりわけて新米でこしらえた握り飯は美味かった。当今のスーパーで売っているようなヤワな作りではなく、まさに梅干を「芯(しん)」にして固く握り上げたものだ。飾りとしか言いようのない粗悪な海苔なんかも巻いてなくて、純白の飯に真紅の梅干という素朴な取り合わせが、目の保養ならぬ目の栄養にもなって、余計に食欲が増進し、美味さも増したのだった。掲句は、そうした視覚的な印象を押し出すことによって、握り飯本来の良さを伝えている。昔話「おむすびころりん」のおじいさんが取り落とした握り飯も、きっとそんな素朴なものだっのだろう。ついでに引いておけば、明治時代の教科書には、こんな梅干しの歌が載っていたそうだ。「二月・三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日のたのしい時もゆめのうち。五月・六月実がなれば、枝からふるい落とされて、近所の町へ持ち出され、何升何合はかり売り。もとよりすっぱいこの体、塩につかってからくなり、しそにそまって赤くなり、七月・八月暑い頃三日三晩の土用干し、思えばつらいことばかり、それも世のため人のため。しわはよっても若い気で、小さい君らの仲間入り、運動会にもついて行く。まして腹痛のその時は、なくてはならぬこのわたし」。『玉響』(2004)所収。(清水哲男)


October 13102004

 赤い羽根つけてどこへも行かぬ母

                           加倉井秋を

語は「赤い羽根」で秋。厳密に言うと、募金期間は大晦日までなので冬の季語として使ってもよいわけだが、普通は賑々しい街頭募金の行われる秋に限定して使っている。句の「母」は明治生まれ。いわゆる職業婦人は別として、昔の専業主婦はめったに外出はしなかった。いや、できなかったと言うべきか。大正初期生まれの私の母も、よほどのことがない限り、いつも家にいた。そんな母が、赤い羽根をつけている。羽根は募金をした印なのだから、外出しなければ必要がない。意味がない。でも彼女は、「どこへも行かぬ」のに律儀に胸につけて家の中で立ち働いているのだ。愚直なほどに古風な女性像が浮かび上がってくる。たまにはお母さんも、家のことなど放っておいて外出すればいいのにと、優しく母を思いやる気持ちの滲んだ句だ。ここで理屈っぽい人なら、何故どこへも外出しない人が赤い羽根を所持しているのかと訝るかもしれない。回答は簡単で、彼女は各家庭をまわってくる募金ボランティアに応じただけの話である。派手な駅頭などでの募金は募金額の総体に比べればわずかなもので、主たる収入源は家庭や企業に訪問しての寄付募金だと関係者に聞いたことがある。単純に考えても、駅頭での募金額と玄関先でのそれとでは一桁は違ってきそうだ。ましてや相手が企業ともなれば、数桁の差は見込めるだろう。脱線しそうになってきたのでこのあたりで止めておくが、それにしても赤い羽根をつけて歩いている人をあまり見かけなくなってきた。今日もつけているのは、一部の国会議員くらいなものではなかろうか。『炎還・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


October 14102004

 秋の山遠祖ほどの星の数

                           野沢節子

語は「秋の山」。星が見えているのだから、夕暮れ時だろう。そろそろ山を下りようかというときに、澄んだ空を仰ぐと星が瞬きはじめていた。はじめのうちはぽつりぽつりと光っていたのが、時間が経つに連れてだんだんに数を増してくる。それらの星を「遠祖(とおおや)」、すなわち祖先のようだととらえた感受性を私は好きだ。そこらあたりは人それぞれで、なかには「金平糖」みたいだと感じたり「金貨」みたいだと思ったりとさまざまだし、さまざまで良いのである。が、黄昏時から徐々に数を増やしてゆく星たちの動的なありようは、私たちが祖先を思うというときに、まず両親の二人からだんだんに遡ってゆく過程に似ていて、句想の動きは的確だ。そして、遠祖の存在は確かに宇宙の星のように時間的空間的に遠いのである。いったい、私の祖先の数はどれくらいなのだろうか。この句を読んだ誰しもが、立ち止まって考えたくなるだろう。私たちはみな、太古の祖先から生き代わり死に代わりして、しかし脈々と血はつながって、いま、ここ現代の時空間に立っている。それは偶然の存在だし、また必然の存在でもある。澄んだ「秋の山」の大気のなかで、作者は遠い祖先の「数」に想いを馳せながら、粛然たる気分を得たにちがいない。『花季』(1966)所収。(清水哲男)


October 15102004

 唐辛子乾き一村軽くなる

                           塩路隆子

語は「唐辛子」で秋。「唐」とつくが、日本には南方からポルトガルの宣教師が持ってきたとされる。「唐」という言葉は中国とは無関係に、外来の意でも用いられた。句は、晴天好日の村の様子を詠んでいる。それぞれの家の軒先などに吊るされた唐辛子が、良い天気に乾いてゆく。その唐辛子のいかにも軽くなった感じから、村全体「一村」が「軽くなり」と大きく言い放ったところが面白い。あくまでも天は高く、あくまでも静かな村の真昼の雰囲気が、よく伝わってくる。私が子供だったころの田舎でも、あちこちに干してあったものだが、あれはいったい何のためだったのだろうか。最近になって、ふっと疑問に思った。家庭で香辛料にするのなら、あんなに大量に必要はないだろうし、薬用に使うという話も聞いたことがない。といって商売にしていたとも思えないから、謎である。他ならぬ我が家の場合にも、主として何に使用していたのかは記憶にない。大根などの煮物に入ってはいたけれど、あんなには必要なかったはずだ。冬の日、この干した唐辛子を悪戯で、教室の暖房用の大きな火鉢に放り込んだヤツがいて、ものすごい刺激臭を含んだ煙がたちこめ騒然となった。とても目が開けていられず、みんなで表に飛び出した。以来、悪ガキたちは妙に唐辛子に親近感を覚えたものだが、これは割に真っ当な(?)使い方だったようだ。というのも、日本では最初食用には使われず、朝鮮出兵の折りには毒薬(目つぶし用)として用いられたそうだからである。『美しき黴』(2004)所載。(清水哲男)


October 16102004

 司書ひとりこほろぎのごとキーを打つ

                           山田弘子

語は「こほろぎ(蟋蟀)」で秋。ここ何年か、パソコンの普及に伴って、パソコンに取材した句をちらほらと見かけるようになった。たいていは理屈っぽくて難しいとか、うまく「キー」が打てないとかと、当事者の句が多いなかで、掲句は他人とパソコンとの関わりあいの様子を詠んでいる。それだけ、客観素材としてもパソコンが定着してきたということだ。もう中学生あたりが打っていても、誰も驚かなくなった。「司書」とあるから、図書館での印象である。一心にタイピングをしている司書の様子が、なんだか「こほろぎ」みたいだと思ったところがユニークだ。言われてみればなるほど、一点を見つめて少し前屈みになった姿勢であるとか、タイプする音の軽やかにして単調な調子も蟋蟀の鳴き声に似ていなくもない。ここで私は司書その人の姿を想像してみて、ふっとディズニー・アニメにしばしば狂言まわしとして登場する中年の蟋蟀を思い浮かべた。ああした職務には忠実で熱心で、しかしどこか軽くて愛敬のあるキャラクターである。句の司書はパソコンを自在に打っているので、実際は中年には少し間のある年齢かもしれないが、ほとんど近未来のディズニー蟋蟀候補と思えば間違いないような気がする。いずれにしても、とうとうパソコンを操る人が、ごく普通に俳句のなかに溶け込んできたという意味で、私には記憶しておくべき一句となった。「俳句研究」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


October 17102004

 紙袋たたまれ秋の表側

                           上田睦子

暴にではなく、きちんと「たたまれ」た「紙袋」でなければならない。その姿を「秋の表側」としたメタフィジカルな比喩を面白く感じた。輪郭がはっきりとし、全容はくっきりと冴えて見えている。よく晴れた秋の日の万象の様子と、いかにも気持ちよく通じ合っている。このときに、秋の裏側とは長雨などの暗いイメージだろう。このように季節に表裏や奥行きというものを認めるとすれば、秋はまずどの季節よりも表側を見せて近寄ってくるのではなかろうか。はっきりと、くっきりと鮮明なイメージこそ、秋にふさわしい。これがたとえば春であると、鮮明度はおぼろにして低いと言えるだろう。春は季節の表側からではなく、少し内側から立ち現れると言うべきか。夏はと言えば、かっと燃えている奥の奥をあからさまにさらしてくる。人は常に身構えて迎えるのだが、しかしいつしか精魂もつきて崩れ落ちてしまう。冬には、少しややこしいが、すべての季節の裏側が表側だというイメージが濃い。雪はその代表格で、あらゆる物のエッジを削ぎ落とすように消滅させてしまう。伴って、人の心も内へ内へと食い込みがちだ。これらの季節はさながら回り舞台のように、私たちの目を見張らせ、心を動かし、さらには身体を支配してくる。今日もまた、ひそやかに少しずつ舞台は回っている……。秋の表側にも、だんだん裏側が透けて滲んでくる。『木が歩きくる』(2004)所収。(清水哲男)


October 18102004

 コスモスと少年ほかは忘れたり

                           藤村真理

語は「コスモス」で秋。いつ頃のことだったのか。その場所がどこであったのか。その少年は誰だったのか。さらに言うならば、あれは現実の情景だったのか、それとも夢だったのだろうか。ともかくコスモスの咲き乱れるなかに、一人の少年がぽつねんとたたずんでいた。それがこの季節になると、今も鮮やかな印象として蘇ってくる。しかし、その他のことは何も思い出せない。別にもどかしいというのではなく、むしろそのほうがすっきりとした気分だ。「忘れたり」の断言が、作者のそんな気分を物語っている。心理学的には説明がつく現象かもしれないのだが、こうした種類の記憶は誰にでもありそうだ。少なくとも私には、ある。このところ自分の過去を、言葉ではなく、なるべくビジュアルに表現することはできないものかと考えてみている。ほんのお遊びみたいなものだが、その過程で、あらためて記憶というもののキーになっているのは、ほとんどが映像だということに気がついた。言葉は、映像の周辺でうろうろしているに過ぎない。だから余計に掲句に反応したところもあると思うけれど、人間の得る情報の70パーセントは視覚からによるという説もある。いささか目が不自由になってきて、パーセンテージはともかく、見えること、見ることの大切さが骨身にしみてわかってきた。『からり』(2004)所収。(清水哲男)


October 19102004

 へちま水作る気なりと触れ回る

                           立松けい

語は「へちま(糸瓜)」で秋。昔の我が家にもぶらんぶらんとなっていたが、母が「へちま水」(化粧水)を作っていたかどうかは知らない。ただ名称は知っていたので、自宅で作っている人は多かったのだろう。ネットで調べてみると、作り方はかなり面倒くさそうだ。「へちまの実をとったあと、地上から50〜60cm位のところで茎をカットして一升瓶、もしくはペットボトルの口に茎の先端を差し込み,異物が入らないようにラップ等で固定します、茎の根本に水分を十分補給して1日後くらいに回収します」……。ここまではだいたい想像がつくけれど、回収した後で今度はフィルターで濾過し、雑菌処理のために煮沸しなければならない。となると、相当に時間のかかる作業だ。加えて、腐りやすいので防腐剤をどうするかなどの問題もあるようで、普通なら「買ったほうが安い」と思うのではなかろうか。そんなへちま水を、作者は自力で作ろうと思い立った。でも、途中で挫折するかもしれない。しかし、ちゃんと作ってみたい。ならばと一計を案じたのが掲句で、友人知己に「作る気なりと触れ回る」ことによって、後に引けない状況に自分を追い込んだというわけだ。句としての出来映えよりも、そうした手の内をさらしたところが面白く、作者の人となりにも好感を持った。俳句でないと、こういうことをさらりと言うのは、案外と難しいものである。『帆船』(1998)所収。(清水哲男)


October 20102004

 台風の目の中しまりのない蛇口

                           大塚千光史

年は「台風」の当たり年だ。うんざりするを通り越して、げんなり、がっくりだ。とくに沖縄や九州など西日本の方々は、そうだろう。知人が宮古島にいて、台風なんか慣れてるさと豪語していたけれど、さすがに今年はげんなり、がっくりと来ているのではなかろうか。地球温暖化と関係ありとする説もあるようだが、そろそろ我らが星にもガタが出てきたのは確かなようだ。中南米も猛烈なハリケーンに襲われたし、こればっかりはブッシュでも小泉でもどうにもならない。掲句を読んで、一度だけ「台風の目の中」に入った経験を思い出した。半分だけの台風一過というわけだが、空はあくまでも青く高く、先刻までの激しい風雨が嘘のようにぴたりと止んだ。世界は、不気味なほどにしいんとしていた。ところが、作者には聞こえたのである。厨房か、風呂場か。とにかくぴちょっぴちゅっと「しまりのない蛇口」から水滴が滴っているのが……。なんという無神経、なんという呑気さ加減。人間が風雨に緊張して構えている間も、奴は知らん顔でだらしなく、ぴちょっぴちゅっと水を垂らしていたのだろう。蛇口に当ってみても仕方がないようなものだが、なんだか無性に腹立たしい。そんな可笑しさが、無理なく伝わってくる。この人の俳句は、総じてセンスがよい。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 21102004

 食べるでも飾るでもなく通草の実

                           岩淵喜代子

語は「通草(あけび)」で秋。いただき物だろう。むろん食べて食べられないことはないのだけれど、積極的に食べたいとも思わない。かといって飾っておくには色合いもくすんでいて地味だし、たとえばレモンのようにテープルを明るくしてくれるわけでもないので、困ってしまった。でも、せっかくいただいたものでもあり、先方の好意を無にするようなことはできない。さて、どうしたものか……。作者はさっきから、じいっと通草をにらんでいるのである。ふふっと思わず笑ってしまったが、こういうことは誰にでも経験があるだろう。昔の話になるが、小学生が修学旅行の土産に小さな筆立てをくれたことがある。私には小さすぎて使い物にならなかったのは仕方がないとして、筆立てに大書されていた言葉がいけない。「根性」だったか「努力」だったか。とにかくそんな文字がくっきりと焼き付けられていて、しばし机上に飾るというのもはばかられた。どうしようかと私もしばらくにらんでから、やむを得ず戸棚に保管することにしたのだった。が、句の通草の場合は、まさか戸棚にはしまえない。いったい作者はどうしたのだろうか。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


October 22102004

 にわとりも昼の真下で紅葉す

                           あざ蓉子

て、「にわとり」は「紅葉」しない。「昼間」には「真下」も真上もない。それを承知で、作者は詠んでいる。あえて言うのだが、こうした句を受け入れるかどうかは、読者の「好み」によるだろう。わからないからといって悲観することはないし、わかったからといって格別に句を読む才に長けているわけでもあるまい。何度も書いてきたように、俳句は説得しない文芸だ。だから、読みの半分くらいは読者にゆだねられている。そこがまた俳句の面白いところであり、どのような俳人もそれを免れることはできない。従って、掲句が読者に門前払いされても、致し方はないのである。でも、私はこの句が好きだし、理由はこうだ。まず浮かんでくるのは、しんとした田舎の昼の情景である。すなわち「昼の真下」とは、天高くして晴朗の気がみなぎる地上(空の「下」)の光景だろう。そこに一羽の老いた「にわとり」がいる。このときにこの鶏は、間もなく死に行く運命にあるのだが、その前に消えてゆく蝋燭の火が一瞬鮮やかな光芒を放つように、生き生きと生命の炎を燃やしているように見えた。その様子を周囲の鮮やかにしてやがて散り行く「紅葉」になぞらえたところが、私には作者の手柄だと写る。くどいようだが、この読みも当然私の好みのなかでの話であり、作者の作句意図がどうであれ、このように私は受け取ったまでで、俳句の読みはそれでよいのだと思う。俳誌「花組」(第24号・2004年10月刊)所載。(清水哲男)


October 23102004

 思ひ出してはあそぶポケットの団栗と

                           加藤楸邨

語は「団栗(どんぐり)」で秋。本来はクヌギの実のことを言ったようだが、一般的には似たような木の実の総称になっている。どこかに出かける途中で、気まぐれにいくつか団栗を拾ってポケットに入れた。出先でときどき「思ひ出しては」、ポケットに手を入れてまさぐりながら楽しんでいる。「あそぶ」とあるけれど、取り出して遊んだのではないだろう。たとえば会議中などに、大の男が素知らぬ顔で上着のポケットに手を入れ、懐かしい感触を楽しんでいる様子が想像されて微笑ましい。茶目っ気よりも、なんだかしいんとした情感を感じさせる句だ。「ポケットの団栗と」の「と」が、そう感じさせるのだ。ところで、ドングリは食べられる。縄文人の主食だったという説もあるくらいで、敗戦後の食糧難の時代には婦人雑誌などが盛んに奨励していたようだ。私も当時団子にした物を食べたことはあるが、飢えていたにもかかわらず、そんなに美味いものではなかったような気がする。いまでもたまに見かけるドングリのクッキーなどは、小麦粉の割合が格段に多いのだろう。ドングリの風味だけを味わうのならそうすべきで、100パーセントドングリ粉だけでは第一パサパサしてしまうし、とても風味だの風流だのとは言っていられないはずである。『加藤楸邨句集』(2004・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


October 24102004

 秋冷の竹を眺むるあとずさり

                           平林恵子

語は「秋冷」(「冷やか」に分類)。晩秋になると、朝夕は冷え冷えとしてくる。多くの植物が葉を落とし枯れてゆく季節でもあるわけだが、ひとり竹のみが青々と枝葉を繁らせる。「竹の春」という季語もあるほどで、若竹も生長してこの青に加わるから、竹山などは周囲を睥睨するが如きの存在感を示すようになる。私の故郷は竹の多いところだったので、子供の頃から実感していた。そんな竹林か竹やぶか、作者は凝視しようとして、思わずも「あとずさり」したというのである。あとずさりしたのは、全体をよく見ようという意識が働いたことにもよるだろうが、竹群れの圧倒的な存在感を前にして、むしろ精神的に後ろに退かされたという想いのほうが強いのだと思う。だから、実際にはあとずさりをしていないのかもしれない。しかも、季は秋冷の候だ。澄んだ大気の中でくきやかな竹たちは、ますます軒昂にくきやかさを増すようであり、折りからの冷えに縮みがちな作者の身体との取り合わせが絶妙だ。「秋冷」は「あきびえ」ないしは「しゅうれい」と発音できるけれど、この場合には凛とした竹の姿を思いあわせて、音読みの「しゅうれい」でなければならない。掲句は句集の表題作であり、そう思ってから奥付を見たら、やはり「しゅうれい」とあった。『秋冷の竹』(2004)所収。(清水哲男)


October 25102004

 廃校の下駄箱ばけつ秋桜

                           辻貨物船

語は「秋桜」。コスモスのこと。私は秋桜という命名を、イメージ的に違和感があるので好まないが、ま、いいでしょう。先日、福井県大野市の小学校で子供たちとの詩の集いがあり、出かけてきた。新しく建て直したと思われる校舎は立派だったが、比べて児童の少なさには驚いた。入り口の「下駄箱」を見たら、ぱらぱらっとしか靴が入っていない。広い運動場では体育の授業中だったけれど、そこもぱらぱらっなのである。集いには市内五つの学校の6年生(一部5年生を含む)全員が集まり、それでも80人ほどなのだから過疎化は確実に進行していると思われた。昨年のちょうどいまごろ、郷里の山口県の村を訪れたところ、我が母校は過疎の波に抗しきれずに「廃校」になっていたのを思い出し、その過程では大野の学校のような時期もあったろうと、気持ちが沈み込んだことである。掲句は決して上手とは言えないが、詩人・辻征夫(「貨物船」は俳号)が学校を想うというときに、何をもって郷愁の手がかりにしていたかがわかって興味深い。「下駄箱」は子供らのにぎやかさの象徴であり、「ばけつ」は義務づけられた作業のそれであり、そして「秋桜」はみんなを取り巻いていた環境のそれだろう。廃校となってしまった学校の跡には、いまはただコスモスが生えるに任せて雑草のように繁っていて、秋風に揺れているばかりなのだ。このときの詩人には、もはや幻となった下駄箱やばけつが淋しく見えていたに違いない。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


October 26102004

 胸さびしゆゑにあかるき十三夜

                           石原八束

語は「十三夜」で秋。陰暦九月十三日(すなわち本日)の夜の月のこと。仲秋の名月(十五夜)に対して「後(のち)の月、後の名月」などとも言う。十五夜の満月が陽性なのに比べて、どちらかと言えば今宵の月は陰性だ。四囲は枯れはじめ、虫の音も途絶えがちになる。しかも大気は澄んでくるから、ひとり月光のみが鮮やかで、句のように寂寥感を増幅する。掲句を見つけて樋口一葉に短編「十三夜」があったことを思い出し、読み返してみた。身分違いの家に懇望されて嫁いだものの、最近では旦那に冷たくされ罵倒され、ついに我慢しきれずに離婚を決意し、子供を置いて実家に戻ってくる女性の話だ。そうとは知らぬ両親は上機嫌で出迎えてくれる。「今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、……」。「舊弊なれど」とあるから、明治期の東京あたりでは、十三夜の月見の風習は廃れつつあったことがわかる。意を決して離婚の意思を両親に打ち明けた彼女は、しかし子供のために実家に戻るよう父親に説得され、涙顔を袖で隠して人力車に乗った。「さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえだえに物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、……」。ここから劇的なシーンになるのだが、関心のある方は原作でどうぞ。ともかく十三夜は、この句もそうであるように、こうした古風な情緒によく似合う月である。今宵晴れるか。『新俳句歳時記』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 27102004

 柿もぐや殊にもろ手の山落暉

                           芝不器男

語は「柿」で秋。「もろ手(双手)」で柿を取っている。つまり、片方の手で柿の木の枝を押さえ、もう一方で「もいで」いる図である。そうすると自然に双手は輪の形になり、双手の輪の中には遠くの山が囲まれて見えるわけだ。その山にはいましも秋の日が落ちていく(落暉)ところで、「殊(こと)」に鮮やかで美しい感じを覚えたというのである。間近な柿と遠くの夕陽との取り合わせ。色彩はほぼ同系統なので、お互いがお互いに溶け込むような印象も受ける。そして作者は、ひんやりとした秋の大気のなかにいる。が、もぐために上げた両手が耳のあたりに触れているために、頬のあたりだけがかすかに暖かい。そのかすかな暖かさが、束の間とはいえ、落暉の輝きをより鮮明にしていると言ってもよいだろう。不器男の生まれ育った土地は、四国は四万十川上流の広見川のつくる狭い流域の村落であった。そこで彼は、二十八年という短い生涯の大半を過ごしている。いわば峡谷の子だった。そのことを意識して不器男句を読んでみると、天と地、高所と低所の事象や事物の取り合わせがかなり多いことが知れる。「山のあなたの空とおく……」。峡谷に暮らす人たちの、ごく自然な意識の持ちようだと思う。『芝不器男句集』(1992・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


October 28102004

 毒茸月薄目して見てゐたり

                           飯田龍太

語は「(毒)茸」で秋。「薄目して」見ているのは、毒茸なのか月なのか。ちょっと迷った。どちらともとれるけれど、毒茸が見ているほうが面白いので、主語は毒茸として読むことにした。月夜の毒茸といえば、ツキヨダケだろう。残念ながら見たことはないのだが、夜間に白く発光するのだそうである。それだけでも不気味なのに、月など無視しているような顔をして、実は薄目を開けてじいっと様子を窺っているときては、ますます不気味さを増してくる。それも一つの毒茸だけではなくて、あちらでもこちらでも多くの薄目が鈍く光っているのだ。山の人・龍太の、いわば実感句と言ったところか。発光しているところを見たことがある人ならば、私の何倍もぞくりとするに違いない。日本人の茸中毒の大半はこのツキヨダケによると言われており、年間平均の重い中毒者は200人程度、この数字は明治以降ほとんど変わらないのだという。それほど、食べられるものとの見分けがつかないわけだ。山の子だった私たちは、いくつかの見分け方を言い伝えで知っていた。代表的なのは、茎が縦に裂けないものは食べられないということや、色が毒々しいものも駄目などであった。ところがこれはとんだ迷信で、そんな見分け方では役に立たない事例はいくつもあることを後年知って愕然としたことがある。なかには酒といっしよに食べるときだけ中毒する茸もあるそうで、要するに素人判断は止めておくに限るということでしょう。山本健吉『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川文庫)所載。(清水哲男)


October 29102004

 萱負うて束ね髪濃き山処女

                           星野麥丘人

語は「萱(かや)」で秋。ただし、萱という植物名はない。ススキやチガヤなどの総称で、ススキを指す場合がほとんどである。昔は茅葺きの屋根に使われたものだけれど、今ではさしたる実用性はなさそうだ。作者は田舎道で、背負子に萱の束を背負った土地の若い女性とすれちがった。「処女」は「おとめ」と読む。ずいぶんと重そうではあるが、しっかりとした足取りだ。少し前屈みになった女性の「束ね髪」は黒々として艶があり、「若さだなア」と作者は素直に感嘆している。と同時に、彼の胸にはふっとよぎるものもあったと思う。この地で生まれ育ち、生涯をこの地でつつましく生きていくであろう女性の宿命のようなものである。萱には、どこかそうした淋しさを想起させるところがある。萱それ自体というよりも、ものみな枯れてゆく山国の光景が、そうさせるからだろう。古歌に曰く。「七日刈る萱は我が身の上なれや人に思ひを告げでやみぬる」(『古今六帖』)。私の子供の頃にも、よく萱を刈った。学校に持っていくとナニガシかになった記憶があるが、あれはいったい何の役に立っていたのだろうか。萱の葉では、とにかくよく指を切ったっけ。痛いのなんのって……。そんな思い出と、あとは束ねた萱の良い匂いくらいしか覚えていない。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


October 30102004

 三日月ほどの酔いが情けの始めなり

                           原子公平

語は「(三日)月」で秋。長い酒歴のある人でないと、こういう句は詠めまい。『酔歌』という句集があるほどで、作者は無類の酒好きだった。「三日月ほどの酔い」とは、飲みはじめのころの心的状態を言っている。ほろ酔い気分の一歩手前くらいの心地で、酔っているとは言えないけれど、さりとて全くのシラフとも言えない微妙な段階だ。おおかたの酒飲みは、この段階でぼつぼつ周囲の雑音が消えてゆくことが自覚され、自分の世界への入り口にあるという気持ちが出てくる。すなわち、シラフのときには自制していたか抑圧されていて表には出さなかった(出せなかった)「情け」が動き「始め」るというわけだ。「情け」といっても、いろいろある。「情にほだされ」て涙もろくなることもあるし、逆に「情が高ぶって」怒りやいじめに向かうこともある。加えて、曰く言いがたい酒癖というものもある。だが、いずれにしても、「知」よりは「情」が頭をそろそろともたげてくるのがこの段階なのであって、飲み始めた当人にその情がどこに向かうのかがわかりかけるのも、この段階だ。作者は今宵もひとりで飲みながら、長年にわたる飲酒を通じて生起した様々な心的外的な出来事を振り返って、すべての「始め」はこのあたりにあったのだなと合点している。「情けは人のためならず」と言うが、酒飲みの情はその日その日の出来心によるから、人に情けをかけたとしても、必ずしも自分のためになるとは言いがたい。酒好きには、しいんと身につまされる一句だろう。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)


October 31102004

 紅葉見のよりどりの赤 絶交

                           志賀 康

近「絶交」という言葉を聞かなくなった。それほどみんなが仲良くなったというのではなくて、そもそも絶交宣言するような深い交わりの相手がいなくなったからではなかろうか。ほどほどの付き合いには、絶交などあり得ない。また、男女の別れに絶交とは言わないようだから、相手はすべて同性だ。よほどのことがないかぎり、同性の友人と決別する気持ちにはなりそうもないから、絶交のほうが男女の別れよりも大事(おおごと)かもしれない。さて、どういう謂れからかは知らないけれど、昔から絶交状は「赤」で記すことになっている。掲句は、そのことに引っ掛けてある。それにしても「紅葉」を見ながら「絶交」を思うとは、意表を突かれた。実感句ではなく、言葉の面白さをねらった作だと思うが、なかなかの飛躍ぶりである。たしかに「よりどりの赤」であり、どの色で奴に絶交状を書いてやろうかしらんと、どこか舌なめずりをしているような感じもあって、第三者にはユーモラスに写る。つまり絶交状にもスタイルがあるし、そこには相手に馬鹿にされないよう、恋文とはまた違った意味での細心の注意を必要とするわけである。幸いにして書いたことはないけれど、いざとなるとこりゃ難しそうだ。『山中季』(2004)所収。(清水哲男)




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