u@N句

October 31102004

 紅葉見のよりどりの赤 絶交

                           志賀 康

近「絶交」という言葉を聞かなくなった。それほどみんなが仲良くなったというのではなくて、そもそも絶交宣言するような深い交わりの相手がいなくなったからではなかろうか。ほどほどの付き合いには、絶交などあり得ない。また、男女の別れに絶交とは言わないようだから、相手はすべて同性だ。よほどのことがないかぎり、同性の友人と決別する気持ちにはなりそうもないから、絶交のほうが男女の別れよりも大事(おおごと)かもしれない。さて、どういう謂れからかは知らないけれど、昔から絶交状は「赤」で記すことになっている。掲句は、そのことに引っ掛けてある。それにしても「紅葉」を見ながら「絶交」を思うとは、意表を突かれた。実感句ではなく、言葉の面白さをねらった作だと思うが、なかなかの飛躍ぶりである。たしかに「よりどりの赤」であり、どの色で奴に絶交状を書いてやろうかしらんと、どこか舌なめずりをしているような感じもあって、第三者にはユーモラスに写る。つまり絶交状にもスタイルがあるし、そこには相手に馬鹿にされないよう、恋文とはまた違った意味での細心の注意を必要とするわけである。幸いにして書いたことはないけれど、いざとなるとこりゃ難しそうだ。『山中季』(2004)所収。(清水哲男)


April 1342006

 吹かれつつ柳は発と極を吐き

                           志賀 康

語は「柳」で春。「発」は「ほつ」と読ませている。この人の句には意表をつかれることが多いが、この句もその一つだ。柳の意外な表情を見せられた思いがする。「柳」と「風」といえば、常識では「柳に風と受け流し」のように、柳は風に逆らわないことになっている。風の吹くままに枝や葉をなびかせて、抗わないことで身の安全を守るというわけだ。だが掲句では、そんな柳があまりの強風にこらえかねたのか、ついに「発と極を」吐いたというのである。いや、強風とは書いてない。適度な春風かもしれないのだが、いずれにしても柳が吐くという発想は尋常ではないし、それこそ「発」とさせられる。そして、このときに「極」とは何だろうか。よくは掴めないけれど、おそらくは柳という生命体にある芯のようなものではあるまいか。外側から眺めただけではわからない柳の持ついちばん固い部分、人間で言えば性根のようなもの、それを吐いたというのだから、この柳はよほど環境に適応できなかったか、あるいは嫌気がさしていたのか。となれば、この状況は作者の心情を柳に託したとも読めてくる。これ以上の深読みはやめておくが、わかりにくいこの句を読んでよくわかることは、作者がいかに世の常識による物の見方を嫌っているかだ。いわゆる反骨精神の上に築かれたインスピレーションだなあと、私はひとり納得したことであった。俳誌「LOTUS」(第五号・2006年4月)所載。(清水哲男)


September 2292008

 木守柿万古へ有機明かりなれ

                           志賀 康

の実をすべて採らずに一つだけ残しておく。来年もよく実がなりますようにという願いからか、あるいは全部採ってしまったら鳥たちが可哀相だからか。これが「木守柿」。木のてっぺんに一つぽつんと残された柿は、なかなかに風情があるものだ。作者はこれを一つの灯のようにみなし、蛍光のような有機の明かりとしてではなく、ほの暗い自然のそれとして、「万古(ばんこ)」すなわち遠い昔をいつまでも照らしてくれよと祈っている。私はこの句から、シュペルヴィエルの「動作」という詩を思い出した。草を食んでいる馬がひょいと後ろを向いたときに見たもの。それは二万世紀も前の同じ時刻に、一頭の馬がひょいと後ろを向いて見たものと同じだったというのである。この発想を生んだものこそが、木守柿の明かりであるなと反応したからである。つまり、揚句における木守柿は、シュペルヴィエルにおける詩人の魂だと言えるだろう。魂であるからには、有機でなければならない。作者もまた、かくのごとき詩人の魂を持ちたいと願い、その祈りが木守柿に籠められている。近ごろの俳句には、なかなか見られない真摯な祈りを詠んだ句だ。他の詩人のことはいざ知らず、最近の私は無機の明かりにに毒され過ぎたせいか、この句を読んで、初発の詩心を忘れかけているような気がした。詩を書かねば。『返照詩韻』(2008)所収。(清水哲男)




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