2004N11句

November 01112004

 駅吊りの秋物語時刻表

                           渡邊きさ子

のところ、私にしては珍しく旅が多いので、しばしば「時刻表」とにらめっこをしている。仕事がらみだから行楽気分にはほど遠いけれど、時刻表を見ているうちに、目的地まで以外の路線を追っていたりすることがある。時間がもう少しあれば、ちょっと先の温泉地まで足を伸ばせるのになどと、埒もないことを考える。句の時刻表は「駅吊り」だから、作者は既に旅行中なのだろう。あるいは、これから出発なのかもしれない。いずれにしても駅の時刻表を見上げて、むろん自分だけのこれからの旅程を組み立てている。で、そのうちに気がついたことには、この同じ時刻表を眺めている人には、それぞれに自分とは別の目的や事情があるということだった。つまり、それぞれの人にはそれぞれの「物語」がある……。当たり前といえば当たり前だが、あらためてそう意識してみると、駅に吊られている単なる時刻表も、いろいろな物語の発端になったり展開点であったりするわけだ。そのような不特定多数の物語をひっくるめて、「秋物語」とくくったところが美しい。この句を知った後で駅の時刻表を見上げる人は、句の良さがいわば体感できるのではあるまいか。他ならぬ私は、週末に遠出する予定があります。私なりの「秋物語」はひどく散文的になりそうですが、それでも旅は旅。いくつかの楽しいことが待っているかもしれません。『野菊野』(2004)所収。(清水哲男)


November 02112004

 時計塔鳴り出で釣瓶落しかな

                           和田敏子

語は「釣瓶(つるべ)落し」で秋。秋の落日は、井戸の中に真っすぐに落ちていく釣瓶のように早い。旅先での句だろう。夕刻、不意に聞き慣れない打刻音が聞こえてきた。オルゴールの音色かもしれない。思わず振り仰ぐと「時計塔」が建っていて、そこから聞こえてきた音だった。時計塔の背後の空には、折りしも釣瓶落しの秋の日が……。これも旅情の一つである。この句の生命は「鳴り出で」の「出で」にあると思う。むろん音そのものが「出で」が第一義だけれど、同時にこれは時計塔が忽然と出現したような感じを含んでいる。たとえば「鳴り出し」と詠んだのでは、この感じは出てこない。ここらへんが、俳句表現の微妙なところだ。時計塔からではないが、昨秋故郷を訪ねた折りに人影の無い山道を歩いていたら、いきなりサイレンが聞こえてきて、ちょっとびっくりさせられた。時計を見ると午前11時50分で、それがお昼時を知らせるサイレンだと知れた。そういえば子供の頃に朝昼晩と役場のサイレンが鳴ったことを思い出して、まだ続いていたのかと二度びっくり。野良仕事や山仕事の人たちに時刻を知らせるサイレンなのだが、腕時計などが高価だった昔ならばともかく、いまでもそんな必要があるのだろうか。携帯ラジオだって、あるのに。野の仕事なので腕時計を嵌めて働くわけにはいかなくても、携帯の方法はいろいろあるだろう。と、首をかしげながら友人宅を訪れ、サイレンが何故必要なのかを聞こうと思っているうちに、他の話にまぎれてしまった。『光陰』(2002)所収。(清水哲男)


November 03112004

 色刷りの朝刊多し文化の日

                           小路智壽子

和二十年代も後半の句だろう。いまでこそ新聞の写真や絵が「色刷り」になっていても珍しくはないけれど、当時は元日などの特別な日しかカラーは使われなかった。コストが高くついたのと、印刷技術がまだ未熟で鮮明に色彩を表現できなかったせいだ。アタラシもの好きの私などは、それでもワクワクして眺めたものである。あまりに実際の色とかけ離れた写真とわかっても、いつもひいき目で見ては、凄いなアと感激していた。掲句は駅売りスタンドの新聞各紙を眺めたときの感想だろうが、これぞ文化であり「文化の日」にふさわしい光景だと心を暖かくしている。「文化」という言葉それ自体に、人々がまだ希望の灯を感じていたころの実感なのだ。文化包丁だとか文化鍋だとか、とにかく「文化」の名をつけてあればありがたいような気になった時代だった。文化湯なんて銭湯もあったっけ。さしずめ「長髪アタマを叩いてみれば、ブンカブンカの音がする」という時代だった……。それが、いまではどうだろう。「文化」は横文字の「カルチャー」にすっかり席をゆずり、今日が「文化の日」だよと言われても、なんだかピンと来なくなってしまった。遠からず「カルチャー・デー」なんて呼ぶようになる日が来るのかもしれない。とまれ、戦後文化は人間の上っ面だけをなぞったような平板なものだった。名称が改変されたとしても、誰もカルチャー・ショックなど受けないだろう。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 04112004

 秋暑し五叉路を跨ぐ歩道橋

                           比田誠子

の上の秋は今週でお終い。七日は、はや「立冬」だ。しかし、動くと汗ばむような陽気の日がまだしばらくは断続的にあらわれる。「秋暑し」の掲句はドカンと「歩道橋」を据えてみせ、それも五叉路を跨いでいるのだから、想像するだに暑そうである。身体的にも暑そうだが、それ以上に神経的にこたえる。夏の暑さなら覚悟しているので身体的な反応ですむけれど、秋の暑さの中だとむしろ余計に神経に障るので、辛いものがある。したがって、「秋暑し」の感覚がよく生かされている作品だと思う。実際、五叉路くらいの分かれ道を跨ぐ歩道橋をわたるのは、厄介だ。東京の飯田橋駅前の歩道橋を思い出したが、あそこは五叉路だったか何叉路だったか、とにかくよく注意してわたらないと、とんでもない所に下りてしまう羽目になる。たまに出かけると、必ずといってよいほどに間違える。まったく神経によろしくない歩道橋だ。それに歩道橋は、車優先思想の先兵みたいなものだから、まったくもって人間に失礼な建造物なのである。日本で最初に歩道橋ができたのは、たしか大阪駅前だったと記憶する。その昔の新幹線のキャッチコピーに「ひかりは西へ」というのがあった。これに習って言えば「失礼は西から」だ。なんてことを言うと、大阪人に張り倒されるかしらん(笑)。俳誌「百鳥」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


November 05112004

 霧の灯に所持せるものを食べをる人

                           中村草田男

語は「霧(きり)」で秋。昔は春の霞(かすみ)も霧と言ったそうだが、現在は秋のみ。霞に比べると、霧にはどこか冷たい印象がある。「霧の灯」とあるから、戸外の情景だ。街灯だろうか、霧にかすんだ灯の下で、何か食べている「人」がいる。夜間工事の人とも考えられるが、私には浮浪者のように写る。作句は昭和十九年、かつての大戦たけなわの頃だ。浮浪者といっても、だから空襲で焼けだされて帰る家を失った人なのかもしれない。食糧難時代だったので、そういう人は本当に大変だったろう。食べているのは、何だろうか。握り飯かパンか、それとも芋の類だろうか。などということは、作者の眼中にはない。何でもよいけれど、とにかく彼は大切に「所持せるもの」を肌寒い道ばたで食べているのであって、あたり気にせずのその一心不乱な様子が、すれ違ったときの印象として心に深く焼き付けられたのである。あの時代ほどに「人は食わなければ生きていけない」と、誰もが肝に銘じたことはなかっただろう。そんな頃だったから、食べ物に向かったときのおのれ自身もまた彼と同じようなものだと、作者はつくづく「人」というものの哀れに感じ入っているのだ。「霧の灯」にロマンチシズムのかけらもなかった時代が、この国の現実としてあったということを、掲句はかっちりと証言している。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


November 06112004

 無人駅牛乳瓶に草の花

                           本宮哲郎

語は「草の花」で秋。名も知れぬ野草の花々。ちなみに「木の花」と言えば、春季ということになっている。ローカル線沿線の無人駅。人気(ひとけ)もなくひっそりとしたホームの片隅に、でもあろうか。「草の花」を挿した「牛乳瓶」がぽつねんと立っている。誰が置いたのだろう。ほんの茶目っ気からだったのかもしれないが、こんな辺鄙な土地まで訪ねてきた旅行者の粋な心持ちが伝わってくる。牛乳瓶のあたりだけが、ぼおっと明るんでいるようだ。格別に新味はない句にも見えるけれど、この句自体が無人駅のように人(作者)の気配をどこか感じさせない詠みぶりがあって、そこに惹かれた。これまでに私がいちばん印象深かった無人駅は、昔の山口線の長門峡あたり(だったと思う)にあったそれで、この駅はほとんど農家の庭先にあるような感じだった。汽車の窓から見たかぎりでは、土を盛って作られたホームを降りていくと、鶏などが遊んでいる庭を通って、それから道路に出て行く順路に思われた。つまり、この家では自宅の庭先に汽車が停まるわけだ。汽車が発するであろう騒音などのことよりも、そちらのほうに気を奪われて、ただただ羨ましいなと思ったことだった。子供時代に夢中になった電車ごっこの魅力の源泉が、そのままの現実としてそこにあったからである。「俳句研究」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


November 07112004

 百姓に花瓶売りけり今朝の冬

                           与謝蕪村

語は「今朝の冬」で冬。「立冬」の日の朝のことだ。この句には、何らかのエピソードが背景にありそうな気もするのだが、よくわからない。蕪村は物語の発端を思わせる句を多く作っているから、その流れにあるとして解釈してみる。以前から近隣の「百姓」に欲しいとしつこく請われていた愛用の「花瓶」を、熱意にもほだされて、ついにある朝手放してしまった。「売りけり」とあるから売ったわけだが、そのときの蕪村は手元不如意でもあったのだろう。が、いくら生活のためとはいえ、およそその花瓶は無風流な百姓にはそぐわない品と思われ、どうせ手放すのなら、もっとふさわしい人があったろうにと悔やんでいる。花瓶のなくなった床の間は、やけに寒々しい。そういえば、今日は「立冬」である。これから、長くて暗い季節がやってくるのだ。うつろな心でぽっかりと空いた空間を見つめる作者の姿には、既に暗くて寒々しい冬の気配が忍び寄っている。あまり自信はないけれど、大体こんなところでどうだろうか。自然界の動きに立冬を感じるのではなく、花瓶を売るという人為的なそれに感じているところが、面白いといえば面白いし、少なくとも斬新な思いつきだ。ちなみに掲句は、編者が蕪村の佳句のみを選んだという岩波書店版「日本古典文學大系」には載っていない。(清水哲男)


November 08112004

 柿博打あつけらかんと空の色

                           岩城久治

語は「柿博打(かきばくち)」で秋。忘れられた季語の一つ。私も、宇多喜代子が「俳句」に連載している「古季語と遊ぶ」ではじめて知った。要するに、柿の種の数の丁半(偶数か奇数か)で勝負を決めた賭博のことだ。種の数は割ってみなければわからないから、なるほど博打のツールにはなる。しかし、柿まで博打のタネにするとはよほど昔の人は博打好きだったのだろうか。とにもかくにも季語として認知されていたわけだから、多くの人が日常的にやっていたに違いない。たしかマーク・トゥエインだったと覚えているが、メキシコ人の博打好きをめぐって、こんなことを書いていた。彼らの博打好きは常規を逸していて、たとえば窓ガラスを流れ落ちてゆく雨粒でさえ対象にする。どちらの粒が早く落ちるかに賭けるのだ……。これを読んだときに思わず笑ってしまったけれど、どっこい灯台下暗しとはこのことで、我ら日本人も柿の種に賭けていたとはねえ。メキシコ人を笑えない。句の博打は、宇多さんが書いているように、退屈しのぎみたいなものなのだろう。勝っても負けても、ほとんど懐にはひびかない程度の賭けだ。だから「あつけらかん」。快晴の秋空の下、暇を持て余した人同士が、つまらなそうに柿を割っている様子が見えるようで、微笑を誘われる。「俳句」(2004年11月号)所載。(清水哲男)


November 09112004

 かく隙ける隙間風とはわらふべし

                           皆吉爽雨

語は「隙間風」で冬。戦後住宅空間の大変化の一つは、隙間風が入らなくなったことだ。もはや、ほとんどの住居は密閉され、外気と遮断されている。昔は十一月ともなれば、夜の隙間風が心細いばかりに身に沁みたものだ。戸や障子の細い隙間から、鋭くて冷たい風が吹き込んできた。子供の頃の我が家では、壁の隙間からも風が入ってきた。あれは細い隙間から入ってくるので「隙間風」なのだが、掲句の場合には「かく隙ける」というくらいに細くはないところから、吹き込んできている。よほど建て付けの悪い家なのだ。「わらふべし」に漢字を当てれば「嗤ふべし」で、自宅だったら自嘲になるし、他家であれば怒りになる。いずれにしても、呆れるほどの隙間に癇癪を起こしている作者を想像すると、なんとなく可笑しい。これも俳味というものだろう。建て付けが悪いといえば、独身時代に住んだアパートはかなりのものだった。北向きの大きな窓が、どうやってもきちんと閉まらない。いつも、上か下のほうが少し開いたままなので、まさに隙間風様歓迎風の恰好であり、あまり寒い日には部屋でコートも脱がなかったことがある。ちゃちな電気炬燵くらいでは、背中に来る風の冷たさは防ぎようもなかった。で、ある朝目覚めると枕元に白い帯状のものが見えるので、何だろうと思ったら、寝ている間に隙間から吹き込んだ雪がうっすらと積っていたのでした。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 10112004

 花嫁の菓子の紅白露の世に

                           吉田汀史

語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)


November 11112004

 金借りにきて懐手解かぬとは

                           ねじめ正也

語は「懐手(ふところで)」で冬。和服の袂や胸元に手を入れていること。手の冷えを防ぐ意味もあるが、句の場合には腕組みの意味合いが濃いだろう。「金借りに」きたくせに、なにやら態度が尊大だ。人にものを頼むのであれば、せめて「懐手」くらい解いたらどうだと、作者は内心で怒っている。それが、相手は貸してくれて当たり前みたいな、のほほんとした顔をしている。失礼な奴だ。と、表面的には解釈できるし、それでよいのかもしれないが、もう少し突っ込んでみることもできそうだ。つまり、作者は金を借りる側の気苦労を思っている。たぶん相手は旧知の間柄だろうから、こちらに弱みを見せたくないのだ。素直に頭を下げるには、プライドが許さない。だから無理をして、すぐにでも簡単に返済できる感じをつくろうために懐手をしてみせている。「解かぬとは」、逆に辛いだろうな。というように相手の心中が手に取るようにわかるので、作者もまた辛いのである。借金とは妙なもので、返済できるメドがついている場合には、少々まとまった額でも気軽に申し込むことができる。反対にたとえ少額でも、アテがないと、なかなか借してくれとは言いにくい。こうした知己の間の金の貸し借りに伴う心理的負担を無くしたのが、街の金融機関だ。心理的な負担よりも、高利を選ぶ人が多いということである。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


November 12112004

 近海へ入り来る鮫よ神無月

                           赤尾兜子

日から陰暦十月、すなわち「神無月」。この月には、諸国の神々が出雲に集い会議を開くのだという。したがって、出雲では逆に「神有月」となる。議題はいろいろとあるらしいが、重要なものには人の運命を定めるというものがある。なかでも、誰と誰を結婚させるかについては議論が白熱する由。ただしこれは俗説で、「な」を「の」の意味にとって「神の月」とするのが正しいなどの諸説がある。それはともかく、神が不在ととれば、さして信心深くない人にも漠然たる不安感が湧いてくることもあるだろう。何となく心細いような意識にとらわれるのだ。そんな不安感を、いわば神経症的に造形してみせたのが掲句である。神の留守をねらって、獰猛な鮫が音もなく侵入してきつつある。それももう、すぐそばの「近海」にまで入り込んできたようだ。むろん陸地から鮫の姿を認められるわけではないが、そうした目で寒々と展開する海原を眺めれば、不気味さには計り知れないものがある。そんなことは夢まぼろしさと笑い捨てる読者もいるだろうが、ひとたび句の世界に落ちた読者は、なかなかこのイメージから抜け出せないだろう。妙なことを言うようだが、風邪を引いたりして心身が弱っているときなどに読むと、この句の恐さが身に沁みてくるのは必定だ。作者もおそらくは、そんな環境にあったのではあるまいか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 13112004

 霜除のあたらしく人近づけず

                           田中裕明

語は「霜除(しもよけ)」で冬。霜除というと、いまの北国の都会の人は、車のウィンドウのそれと反応するかもしれない。朝、出かけようとして、すぐに動かしたくても霜で前がよく見えないことがあるからだ。でも、句の場合は野菜や花などの霜除だ。強い霜がおりると、根の浅い宿根草は霜で株がもち上がって枯れてしまう。これを防ぐにはいろいろな方法が開発されているようだが、いちばん良いのは、昔ながらの藁(わら)を使うやり方だろう。たいていが今年穫れた新藁をかぶせていくから、かなり目立つ。なるほど、句のようにちょっと近寄りがたい雰囲気になる。同様に道の泥濘化を避けるために、昔は藁を敷き詰めることもやつた。こちらは踏んで通るために敷かれたわけだが、あれには何となく踏みづらい感じがあったことを思い出す。汚してはいけないという意識がどうしても先に出てきて、躊躇してしまうのである。正月には「福藁」(季語)といって、門口などに新藁を敷く地方があるが、あれを踏むのと同じ感覚だ。「福藁や福来るまでに汚れけり」(中条角次郎)と、昔の人はやはり気にして詠んでいる。それはともかく、霜除の藁は春になるころには腐葉土になる。霜除には藁が良いという大きな理由の一つだ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


November 14112004

 紅葉の真ッ只中の力うどん

                           川崎展宏

天好日。全山紅葉。峠の茶屋(というのは、ちと古いか)のようなところで一休みして、うどんを食べている。食べるうどんは何でも構わないようなものだが、この場合はやはり「力うどん」がいちばん良く似合う。「キツネうどん」や「タヌキうどん」だと、いささか「力」不足。どこかひ弱な感じがしてしまう。真っ白なうどんに、真っ白な餅。いかにも盛り盛りと「力」が湧いてきそうではないか。「真ッ只中」という強い言葉に、少しも負けずに張り合えるのは「力うどん」しかないだろう。いつも思うのだが、町のうどん屋の店内はどうしてあんなに暗いのだろうか。西洋風レストランみたいな明るさのうどん屋には、お目にかかったことがない。あれはきっと、うどんの白を強調するための策謀じゃないかと思ったりするのだけれど、同様にそば屋だって暗いのだから、この推論は残念ながら間違いだ。でも、見た目も味の一部なのだから、何かもっともな理由がありそうである。そんなところで食べ慣れているうどんを、たまたま句のように明るい戸外で食べることがあると、東京辺りの真っ黒い(!)汁も意外に薄くて丼の底まで透けて見えるほどだ。となれば、うどん屋の照明はうどんの色を際立たせるためではなくて、むしろ汁の色加減に関係しているのだろうか。などと、埒もないことを考えるのも、俳句を読む楽しさにつながっている。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 15112004

 虎河豚の毒の貫禄糶られけり

                           富永壽一

語は「河豚(ふぐ・ふく)」で冬。「糶(せ)られ」は「競られ」と同義で、市場でセリにかけられること。河豚のなかでも「虎河豚」は最も美味とされているが、高価だからなかなか庶民の口には入らない。私も、本場の下関で一度友人にご馳走になったきりだ。その最高級の河豚が競りにかけられている。テレビでしか見たことはないけれど、下関市場の競りは「袋競り」という独特なものだ。黒い腕カバーのような布の袋に競り人と業者が手を入れあって、何やらドスの利いたかけ声をかけながら、値段を決めてゆく。お互いの指先で値段のサインを送りあうのだという。掲句は、その値段の基準となるものを「毒の貫禄」に見ているところが面白い。いかにも毒性が高そうに見える奴ほど、高値がつくということだろう。何の「貫禄」でもそうだけれど、これは感覚的な言葉であって、実体が伴うわけではない。だからセリ人も業者も、長い経験のなかから、いわばカンで貫禄を嗅ぎ当てることになる。といっても実際にはもっと実体に添った客観的な基準があるのかもしれないが、作者には直感的にそう見えたということで、ちゃんとした句になった。なかなかに切れ味の良いセンスだ。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第403号・2004年11月5日付)所載。(清水哲男)


November 16112004

 露店の子落葉を掃いて帰りけり

                           久松久子

語は「落葉」で冬。最近は、とんと働く子供の姿を見かけなくなった。むろん、一般的にはそのほうが好ましい社会と言える。子供の頃に働いた経験のある人なら、誰もがそう思うだろう。この季節になると、井の頭公園の文化園前に車でやってくる焼き芋屋がいる。売り声は、小学校高学年くらいの女の子の声だ。いつ行っても「焼き芋〜、石焼き芋〜っ」とスピーカーから流れてくる。テープに仕込んであるわけだが、日曜などには声の当人とおぼしき少女がいることもある。けなげな顔つきだ。掲句の子も、おそらくそんな顔をしていたのではないだろうか。店を仕舞うときに、自分たちのために汚れたところをきちんと掃いて帰るのだ。落葉の季節には、それがまるで落葉掃きのように見えるので、作者はこう詠んだ。たとえメインの仕事は親がやっても、手伝う子供にも、ちゃんと後始末をさせる。これを常識では躾けと言うが、こうした躾けは働く現場がなくては身に付かない。といって、この句はべつに遠回しに教訓を垂れているのではなく、黙々と当然のように後始末をしている子のけなげな姿に、作者が特別ないとおしさを感じているということだ。それはまた、作者の小さかった頃の自分や友だちの誰かれの姿を思い出させてくれるからでもあるのだと思う。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)


November 17112004

 初雪も肉体もまだ日の匂い

                           柴崎昭雄

者は青森在住。青森地方気象台によれば、今年の初雪は10月27日だった。平年よりも、少し早めだろうか。ちらちらと、今年はじめての雪が舞いはじめた。空も風景も灰色に染まってはいるけれど、でも、どこかにまだ秋の名残りの明るさも感じられる。真冬のまったき鈍色の世界ではない。それを「日の匂い」と、臭覚的に捉えたところがユニークだ。雪にも日の匂いが感じられ、あまり雪らしくはなく、同時に人々の「肉体」にも、まだ雪に慣れない感覚が優先している。戦後の一時期に、俳句の世界で「身体」なる言葉が流行したことがあるけれど、あれは多分に精神性を含んだ肉体の意であった。が、掲句の場合には「カラダだけは大事にしろよ」などというときの「カラダ」の意に近いだろう。私の住む東京の人などと違って、雪国の人はみな、降雪現象に対する一種の諦念が自然に備わっているのだと思う。ジタバタしてもはじまらない、降るものは降るのだから……という具合にである。このときに、頼りになるのは「カラダ」だけなのだ。その「カラダ(肉体)」に「まだ日の匂い」を感じ取るというのは、そうはいっても「初雪」だけは別物だからに違いない。降るものは降ると覚悟を定める前の微妙な心の揺れが、この表現には滲んでいるようだ。いわば身体から肉体へと重心を移動させるときの、束の間の逡巡が巧みに詠まれていると感じた。『少年地図』(2004)所収。(清水哲男)


November 18112004

 口論は苦手押しくら饅頭で来い

                           大石悦子

語は「押しくら饅頭」で冬。例の「押しくら饅頭押されて泣くな、泣き顔見せたら嫌われる」である。昔の子供の遊びだったわけだが、いまの子供らは、もうやらないだろう。まず、見かけたことがない。だが、言葉だけはしっかりと生きていて、いろいろな場面で使われている。さて、掲句。作者の気持ちはよくわかりますね。口ではかなわないので、力づくで「来いっ」、と……。でも、その力づくが「押しくら饅頭」というのだから、可愛らしい。男同士だったら、さしずめ「表へ出ろ」の場面だけれど、押しくら饅頭では相手が女性でも戦意喪失、へなへなとなってしまうに違いない。いさかいをユーモラスに回避するには、このテの発想に限る。考えてみれば、たしかに力は使うとしても、あれは競技でも、ましてや喧嘩の変形でもない。ただ単に身体同士をぎゅうぎゅう押し合うだけで、勝ち負けは問題外の、お互いに暖まろうという知恵が生んだ冬の遊びだろう。それでも、小さい子は揉まれるうちに息苦しくなったりして泣いたものだ。泣かれると大きい子は困るので、「泣き顔見せたら嫌われる」と牽制しながら遊んだのである。まあ、子供にとってもほんの座興程度の遊びだった。それが証拠に、「押しくら饅頭」マニアになった奴などは聞いたことがない。『耶々』(2004)所収。(清水哲男)


November 19112004

 物少し状ながながと歳暮かな

                           島田雅山

語は「歳暮」で冬。まずは、この句が載っていた歳時記より「歳暮」の定義を。「年中行事の一。歳末に際し既往の好誼を相互に感謝し合ふため贈物を交換したり、無異息災を祝ふために年忘れと称し親戚・知己・同僚間に酒宴を設けることをいふのだが、後に転じて物を贈ることのみを歳暮といふやうになつた。正しくは歳暮の礼である。酒・煙草・砂糖・新巻その他デパートの商品券などが用ゐられる」。したがって忘年会などのほうが、歳暮の本義に適っている。ところで物を贈るにしても、昔は掲句のように必ず「(書)状」を添えるのが礼儀であった。あくまでも、歳暮は「交流」を感謝するしるしだからである。他人のことは言えないけれど、いまでは大概の人がデパートから送りっぱなしにして済ませてしまう。句の意味は一見明瞭に見えて、実はそうでもない。添えられた手紙ばかりが長くて、なんだい「物」はたったのこれっぽっちか……。などと読むのは間違いだろう。この句の時代背景には、戦後の物資不足がある。この国全体が貧しかった時代だ。そんななかでも何とか工面して、律儀に歳暮を届けてくれた。相手は「物少し」を大いに気にして、せめて感謝の言葉だけでも丁重にと長々と書いて寄越したのである。それが作者には痛いほどわかるので、こう詠んだというわけだ。歳暮を通してのいわば社会風刺の句である。『俳句歳時記・冬』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 20112004

 山風や雪女より北に棲み

                           馬崎千恵子

語は「雪女」で冬。作者は北海道在住。ああ、こういう発想は私などには思いもつかないなと感じ入った。まず、ちょっとした想像では出てこない。むろん「雪女」は想像上の人物ではあるが、この句はむしろ実感の産物なのだ。雪女は、いったいどこに住んでいるのだろうか。雪国以外の人は、ただなんとなく不特定の寒い地方にいるようだとしか思っていないけれど、実際に雪深い土地に暮らしていれば、彼女の住む環境をある程度は具体的に特定して考えられるのだと思う。具体的には、だいたいどこそこのような感じの山里だろうという具合に……。そもそも雪女の想像そのものが、そうした具体的な豪雪の地から生まれたものなのだからだ。しかるがゆえに、彼女よりもまだ自分は「北に棲(す)み」と詠んでも、すらりと自然体である。掲句を、北国の人が読めば、それこそすらりと作者の環境が思われて納得できるにちがいない。似たような話を、北海道出身の草森紳一に聞いたことがある。北海道人は意識と無意識との境目あたりで、「本土」の人よりも「上」の方にいると思っているようだという。正確には北方に住んでいるわけだが、日本地図からの影響で、イメージ的にそう発想してしまうらしい。そのときも面白い話だと思ったが、掲句を読んでなおさらに、環境による人間の先験的な発想の違いについて考えさせられた。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 21112004

 亡き友は男ばかりや霜柱

                           秋元不死男

語は「霜柱(しもばしら)」で冬。言われてみれば、私の場合もそうだ。「友」の範囲をそんなに親しくなかった同級生や同世代の知り合いにまで広げてみても、やはり「男ばかり」である。女性は長生きという定説が、私などの狭い交友範囲でも実証されている恰好だ。句の「霜柱」は、自分より早く死んで行った男友達の(散乱した)墓標に擬しているのだろうか。寒い朝にじゃりっと立っている彼らも、日が昇ってきてしばらくすると、あたりをべとべとにして溶けてゆく。すなわち、霜柱の消え方は決して潔くはない。この世に大いに未練を残して、いやいや消えて行くように思える。ここまで読む必要はない句なのだろうが、少なくともあのじゃりじゃりと凍った感じは、人の心をいわば毛羽立たせる。したがって、作者のような感慨も自然に浮かんできたのだろう。子供のころは、ときに長靴の買えなかった冬もあって、霜柱の道をゴム草履に素足で登校したこともある。私だけじゃない。そんな子は、たくさんいた。当時を振り返れば、しかし貧しかったことを嘆くよりも、元気だったなあと思う気持ちのほうが、いまは強い。「子供は風の子」というけれど、本当だ。子供の生命力は凄いんだ。そんなゴム草履仲間も、もう子供とは言えなくなった大人へのトバグチで、何人かが霜柱が溶けるように死んでいった。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 22112004

 兵庫県丹南町字牡丹鍋

                           平石和美

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。猪肉(ししにく)の料理、「猪鍋(ししなべ)」とも。関西で好まれ、肉を野菜と一緒に煮込み、味噌で味付けする。篠山、丹波などに多い。この句が作られたとき(1997)の「丹南町」は多岐郡に属していたが、五年前に篠山町などと合併して、現在は篠山市に属している。句は単に地名を並べたようでもあり、でもまさか「牡丹鍋」という地名はないだろうと思ったけれど、「牡丹」くらいはありそうだと調べてみて、どうやら牡丹以下はフィクションだとわかって、はじめて笑うことになった。つまり「字(あざ)」如何には勝手に当地の名物をくっつけちゃったわけだ。地名にしてよいくらいに、丹南町の牡丹鍋はポピュラーなのだろう。牡丹鍋をいただきながら、ふっとこの洒落を思いつき、心中にんまりしている作者が想像できて楽しい句だ。たまには、こういう遊びもよいだろうと、私もひねってみようとしたが、なかなかうまくいかない。以前住んでいた東京中野にちなんで、「東京都中野区丸井青井町」はどうだろうか。中野駅前には丸井本店があり、経営者は青井さんだ。現在の居住地だと、「東京都三鷹市キウイワイン地区」あたりになるのかな。三鷹市の名物はキウイであり、ワインも作られている。が、やっぱり牡丹鍋には負けるなあ。読者諸兄姉も挑戦してみませんか。『桜炭』(2004)所収。(清水哲男)


November 23112004

 黄落や寮歌でおくる葬あり

                           大森 藍

語は「黄落(こうらく)」で秋。銀杏などの葉が黄ばんで落ちること。東京辺りではこれからだが、もうはじまっている地方もあるだろう。黄落がはじまると、いよいよ寒くなってくる。作者は葬儀に列席したのか、あるいは偶然に見かけたのだろうか。いずれにしても、ありそうでいて、なかなかな無い「葬」(「とむらい」と読むのかしらん)風景ではある。故人は、おそらくかつての旧制高校で青春期をおくった人なのだ。当時の寮の仲間数人が参列していて、出棺のときに誰かひとりが歌いだすと、あとの何人かも唱和して歌いだした。若い作者にははじめて聞く歌なのだが、歌う高齢の男たちの様子から彼らの遠い青春時代が思われて、心がしいんとなった。帰らざる青春……。そんな言葉も、胸をよぎる。折りから、黄色くなった木々の葉もほろほろと柩に降りかかっている。人は必ず死ぬ。そんな思いをあらためて確認するのは、こういうときだろう。寮歌といえば、私は学友であり詩友であった佃学から叩き込まれた。彼が若くして死んだときに、私は声にこそ出せなかったけれど、通夜の席の胸の内で歌ったことを思い出す。彼が愛していた五高寮歌だ。「武夫原頭(ぶふげんとう)に草萌えて/花の香(か)甘く夢に入り/竜田の山に秋逝いて/雁が音遠き月影に/高く聳ゆる三寮の歴史やうつる十余年」と、この世界は詩人・佃学の初期の抒情詩にとてもよく似ている。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


November 24112004

 寝酒おき襖をかたくしめて去る

                           篠田悌二郎

語は「寝酒」で冬。元来は寒くて眠れない夜に、酒で身体を暖め、酔いの力を借りて眠ったことから冬の季語とした。が、いまでは季節を問わず、習慣としての寝酒が必要な人も多いだろう。冬の夜、いつものように妻が寝酒を用意してくれ、いつものように書斎(でしょうね)に置いていった。で、「襖をかたくしめて去る」というのだが、ここが実はいつもとは違うのである。好人物の読者であれば、隙間風が入らないようにいつもの夜よりも「かたく」しめたと受け取るかもしれない。でも、妻の行為として「去る」の措辞ははいかにも不自然だ。二人の間に何があったかは知らないけれど、句は一種の神経戦の様相を描いたようにうかがえる。いつもの妻のつとめとして、寝酒だけは用意する。しかし、それはあくまでも義務を果たすというだけのことで、言葉ひとつかけるわけでもなく、完全によそよそしい態度なのだ。よそよそしくも念入りに、無言のまま襖を「かたく」しめるという意地の悪さ(としか思えない)。それでなくとも寒い夜が、作者には心底冷え冷えと感じられたことだろう。たとえ神経戦の中味は、作者の非が原因であろうとも、こうした陰湿なふるまいに、たいていの男はまいってしまう。むろん私にも同種の覚えがあることなので、こう読んでしまったわけだ。たぶん、正解だと思いますよ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 25112004

 掃除機の捌き見事や足袋の足

                           泉田秋硯

語は「足袋」で冬。まずは和服姿の女性像が浮かんでくる。いまどきの家庭では、和服姿で掃除をする女性はいないだろうから、自宅ではなく、どこか出先での光景だろう。催し物会場の後片付けだとか、和風旅館の掃除だとか……。見るともなく見ていると、実に彼女の手際が良い。掃除機を自在に扱っている。それを「足袋の足」、つまり彼女の足さばきに集約して詠んだところが面白い。俳句ならではの言い止め方である。畳箒で掃いていた時代には、かなり掃き方の巧拙の差は目立ったものだが、なるほど「掃除機」のさばき方にも巧拙はある。私が下手なので、とてもよくわかる。どうしても箒時代の「四角い部屋を丸く掃く」みたいになってしまう。べつに手を抜いているわけじゃないのに、なんだか自然にそうなってしまうのだ。逆に、上手い人は子供のころから上手い。箒や掃除機に限らず、そういう人はどんな道具を扱わせても上手いのだ。人馬一体ならぬ人具一体とでも言うべきか。持って生まれた才能がそうさせるのだとしか、思いようがない。私などが日常的に悲観するのは、たとえば駅の券売機にコインを投入するときも、たいてい隣りの人よりももたもたしてしまうようなことだ。あんなものの扱いにだって、ちゃんと巧拙はあるのである。やれやれ、である。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


November 26112004

 世の中も淋しくなりぬ三の酉

                           正岡子規

日は「三の酉」。十一月酉の日の鷲神社の祭礼だ。東京台東区千束の鷲神社の市が有名だが、他の社寺でも境内に鷲神社を勧請し、この祭を行う所が多い。参道には、熊手や縁起物を売る店が立ちならぶ。三の酉のある年には火事が多いというが、十一月も終わりころになると寒さが募り、暖をとるための火を使うようになるので、火事に警戒せよという言い伝えだろう。実際、三の酉と聞くと、寒い日の思い出しかない。気象的にも寒いのだけれど、社会的にも寒々としてくる。商店街などでは年の暮れモードに入り、仕事も年末年始を見据えてあわただしさが増し、句のようになんとなく「淋しく」なってくる。「世の中」は、気象的な条件を含んだ人間社会と解すべきだろう。どうという句ではないようにも思えるが、三の酉のころの人々の心持ちがよく出ていると思う。二十代の終わりのころに入り浸っていた新宿の酒場「びきたん」は、花園神社に近かった。ママのしいちゃんは毎年熊手を買いに行くのだが、店を開けてから客が増えてくると、なかの何人かを誘い、あとの客に留守を頼んで出かけていた。そんなときに私は、誘われても行かずに、いつも留守番役を志願したものだ。寒風のなかなんぞに出かけたら、せっかくの酔いが醒めるからというのが理由だった。思えば、若いのに「淋しい」男だったな、私は。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 27112004

 訣れきて烈火をはさむ火箸かな

                           神生彩史

時記編纂の立場だけから言うと、こういう句は実に困ってしまう。季語はないので無季句にははしておくが、それでよいのかという気持ちが吹っ切れない。どう考えても、この句の季節は冬だからだ。それはともかく、激しい気合いのこもった句である。「訣(わか)れきて」が「別れきて」ではないところに注目しよう。「訣」は「永訣」などというときの「訣」だから、作者は誰かと決別してきたことがうかがえる。憤然として帰宅し、その興奮が醒めやらぬままに、囲炉裏か竃か火鉢あたりの「烈火」を「火箸」で挟んでいる。「火箸かな」の「かな」は、火箸をつかんで怒りにぶるぶると震えている作者の「手元」を想像させ、俳句ならではの表現と言えるだろう。真っ赤に熾った炭火は顔面を焼くほどに強烈だし、普段ならおっかなびっくり慎重に火箸で挟んで移し替えたりするわけだが、このときの作者はがっちりと正面から烈火に向き合っている。訣れの際の、それこそ烈火のごとき感情を引きずっているので、これぞ人の勢いというものなのだ。たぶんフィクションだとは思うけれど、激しい怒りのありようを描いて卓抜である。神生彩史はかつての新興俳句の旗手的存在であり、その新鮮な詠みぶりは同時代の多くの俳人に影響を与えた。もっと広い世界で評価されてよい「詩人」である。『深淵』(1952)所収。(清水哲男)


November 28112004

 雨降つて八犬伝の里に柿

                           大串 章

存知『南総里見八犬伝』。曲亭馬琴が28年もの歳月をかけて書いた一大長編小説だ。ただ、どなたも題名はご存知なのだが、原文で読んだ人となるともはや寥々たるものだろう。かくいう私も、かつて子供向きの本で読んだにすぎない。「八犬伝の里」といえば、南房総は富山付近だろうか。普段は明るいイメージのある里に、今日は冷たい雨が降っている。雨に濡れた柿は淋しい感じのするもので、ここが八人の剣士の大活躍したところだと思うと、往時茫々の感を禁じ得ないのだ。このときに作者は、雨中に鈍く光っている柿の玉から、八剣士たちを結びつけた「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の霊玉を連想したかもしれない。強者どもが夢のあと、昔の光いま何処と、作者の感傷は少しく深まった。この小説はいわゆる勧善懲悪ものだが、江戸の人に人気があったのは、たぶんこれらの玉の出所に、まず謎めいたところがあったからだと思う。玉を持っていたのは里見氏城主の娘・伏姫で、彼女はわけあって八房という城主の愛犬と洞窟に籠った。その犬を許婚者が鉄砲で撃ち殺すのだが、既に姫は八房の気を感じて身ごもっており、彼女は許婚者に身の純潔を証明するため自害してしまう。このとき飛び散ったのが八つの玉という設定だ。すなわち、これらの玉には猟奇的な感じがつきまとう。説教小説にしては、初期設定が妖しすぎる。これなら今後どんな妖しいことが起きても不思議ではないと、当時の人々は成り行きに固唾を飲んだにちがいない。「俳句」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 29112004

 はしはしと杉燃えておりスキー宿

                           秋尾 敏

語は「スキー」で冬。火は冬のご馳走だ。雪の舞い散るなかを宿に着くと、大きな囲炉裏に威勢良く炎が上がっている。それだけでもう、誰の顔もパッと輝く。都会人のスキーの楽しさとは、こういうことも含んだそれだろう。句の眼目は「はしはしと」の擬声語にある。はじめて目にした言葉だが、語感からすると「杉」の「枝葉」の燃える様子を言っているのではなかろうか。幹の部分だと、こうは言えまい。子供のころの我が家の暖房は囲炉裏だったので、杉の枝葉もしばしば燃やした。その経験から言えば、これはまだ完全に枯れた枝葉ではなく、葉にはまだ少し青いところも残っているものだ。つまり、やや湿り気を含んでいる。火のなかに放り込むと、しばらくの間じゅうじゅうと鳴っていて、そのうちにぱちぱちと燃え上がってくる。「はしはしと」は、おそらく「じゅうじゅう」から「ぱちぱち」に移っていく過程の音だと思う。燃やす枝葉は頻繁に補給されるので、「はしはしと」は「じゅうじゅう」や「ぱちぱち」の音を抑えて、トータル的にはそのように聞こえるのである。さらに言えば音だけではなくて、杉葉の燃える独特の視覚的な様子も込められている。いつかまた囲炉裏端にある機会があったら、「はしはしと」燃える杉の様子をじっくりと楽しんでみたい。「俳句」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 30112004

 綿菓子の糸の先まで小春巻く

                           高井敏江

語は「小春」で冬。陰暦十月の異称で、まるで春のような穏やかな日和のつづくことから、小さな春と呼ばれるようになった。そんな日和の様子を捉えて、掲句は実に巧みだ。縁日か何かで綿菓子(わたあめ)を売っている。機械でくるくると巻かれていくのが、小春そのもののように、作者は感じている。それも、細い「糸の先まで」巻かれていくと言うのである。いかにも柔らかく繊細な小春のありようが、綿菓子との取り合わせにぴったりと溶け合っているではないか。こんな感受性を持っていたならば、さぞかし日常的にいろいろな発見ができて楽しいだろう。羨ましい限りである。またぞろ貧乏話で恐縮だが、私は子供のときに綿菓子を食べたことがなかった。村祭りの屋台には出ていたが、高すぎて買えなかった。いつかは食べてみたいと思いながら、実際に口にしたのは三十歳を過ぎてからである。子供がよちよち歩きをはじめたころに、町のお祭りで子供のために買うふりをしながら、実は自分のために手にしたのだった。どきどきしながら口にしたことを覚えている。正直言って美味いとは思わなかったけれど、持って歩いているだけで華やいだ気分になれることに満足した。どこのどなたの発明かは知らないが、あれはたいした発明である。さっき綿菓子機の値段を調べてみたら、ちょっとしたものでも十万円以上はしていた。一般家庭で、気軽に小春を巻くわけにはいかないようだ。『新版俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます