3武装組織が「イラク全土に攻撃拡大」と共同声明。彼らは降伏しない。自衛隊は退け。




2004N1115句(前日までの二句を含む)

November 15112004

 虎河豚の毒の貫禄糶られけり

                           富永壽一

語は「河豚(ふぐ・ふく)」で冬。「糶(せ)られ」は「競られ」と同義で、市場でセリにかけられること。河豚のなかでも「虎河豚」は最も美味とされているが、高価だからなかなか庶民の口には入らない。私も、本場の下関で一度友人にご馳走になったきりだ。その最高級の河豚が競りにかけられている。テレビでしか見たことはないけれど、下関市場の競りは「袋競り」という独特なものだ。黒い腕カバーのような布の袋に競り人と業者が手を入れあって、何やらドスの利いたかけ声をかけながら、値段を決めてゆく。お互いの指先で値段のサインを送りあうのだという。掲句は、その値段の基準となるものを「毒の貫禄」に見ているところが面白い。いかにも毒性が高そうに見える奴ほど、高値がつくということだろう。何の「貫禄」でもそうだけれど、これは感覚的な言葉であって、実体が伴うわけではない。だからセリ人も業者も、長い経験のなかから、いわばカンで貫禄を嗅ぎ当てることになる。といっても実際にはもっと実体に添った客観的な基準があるのかもしれないが、作者には直感的にそう見えたということで、ちゃんとした句になった。なかなかに切れ味の良いセンスだ。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第403号・2004年11月5日付)所載。(清水哲男)


November 14112004

 紅葉の真ッ只中の力うどん

                           川崎展宏

天好日。全山紅葉。峠の茶屋(というのは、ちと古いか)のようなところで一休みして、うどんを食べている。食べるうどんは何でも構わないようなものだが、この場合はやはり「力うどん」がいちばん良く似合う。「キツネうどん」や「タヌキうどん」だと、いささか「力」不足。どこかひ弱な感じがしてしまう。真っ白なうどんに、真っ白な餅。いかにも盛り盛りと「力」が湧いてきそうではないか。「真ッ只中」という強い言葉に、少しも負けずに張り合えるのは「力うどん」しかないだろう。いつも思うのだが、町のうどん屋の店内はどうしてあんなに暗いのだろうか。西洋風レストランみたいな明るさのうどん屋には、お目にかかったことがない。あれはきっと、うどんの白を強調するための策謀じゃないかと思ったりするのだけれど、同様にそば屋だって暗いのだから、この推論は残念ながら間違いだ。でも、見た目も味の一部なのだから、何かもっともな理由がありそうである。そんなところで食べ慣れているうどんを、たまたま句のように明るい戸外で食べることがあると、東京辺りの真っ黒い(!)汁も意外に薄くて丼の底まで透けて見えるほどだ。となれば、うどん屋の照明はうどんの色を際立たせるためではなくて、むしろ汁の色加減に関係しているのだろうか。などと、埒もないことを考えるのも、俳句を読む楽しさにつながっている。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


November 13112004

 霜除のあたらしく人近づけず

                           田中裕明

語は「霜除(しもよけ)」で冬。霜除というと、いまの北国の都会の人は、車のウィンドウのそれと反応するかもしれない。朝、出かけようとして、すぐに動かしたくても霜で前がよく見えないことがあるからだ。でも、句の場合は野菜や花などの霜除だ。強い霜がおりると、根の浅い宿根草は霜で株がもち上がって枯れてしまう。これを防ぐにはいろいろな方法が開発されているようだが、いちばん良いのは、昔ながらの藁(わら)を使うやり方だろう。たいていが今年穫れた新藁をかぶせていくから、かなり目立つ。なるほど、句のようにちょっと近寄りがたい雰囲気になる。同様に道の泥濘化を避けるために、昔は藁を敷き詰めることもやつた。こちらは踏んで通るために敷かれたわけだが、あれには何となく踏みづらい感じがあったことを思い出す。汚してはいけないという意識がどうしても先に出てきて、躊躇してしまうのである。正月には「福藁」(季語)といって、門口などに新藁を敷く地方があるが、あれを踏むのと同じ感覚だ。「福藁や福来るまでに汚れけり」(中条角次郎)と、昔の人はやはり気にして詠んでいる。それはともかく、霜除の藁は春になるころには腐葉土になる。霜除には藁が良いという大きな理由の一つだ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)




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