ドラフト会議、今年も波乱無し。ただ、鵜久森淳志外野手(済美)の8巡目指名は意外。




2004N1118句(前日までの二句を含む)

November 18112004

 口論は苦手押しくら饅頭で来い

                           大石悦子

語は「押しくら饅頭」で冬。例の「押しくら饅頭押されて泣くな、泣き顔見せたら嫌われる」である。昔の子供の遊びだったわけだが、いまの子供らは、もうやらないだろう。まず、見かけたことがない。だが、言葉だけはしっかりと生きていて、いろいろな場面で使われている。さて、掲句。作者の気持ちはよくわかりますね。口ではかなわないので、力づくで「来いっ」、と……。でも、その力づくが「押しくら饅頭」というのだから、可愛らしい。男同士だったら、さしずめ「表へ出ろ」の場面だけれど、押しくら饅頭では相手が女性でも戦意喪失、へなへなとなってしまうに違いない。いさかいをユーモラスに回避するには、このテの発想に限る。考えてみれば、たしかに力は使うとしても、あれは競技でも、ましてや喧嘩の変形でもない。ただ単に身体同士をぎゅうぎゅう押し合うだけで、勝ち負けは問題外の、お互いに暖まろうという知恵が生んだ冬の遊びだろう。それでも、小さい子は揉まれるうちに息苦しくなったりして泣いたものだ。泣かれると大きい子は困るので、「泣き顔見せたら嫌われる」と牽制しながら遊んだのである。まあ、子供にとってもほんの座興程度の遊びだった。それが証拠に、「押しくら饅頭」マニアになった奴などは聞いたことがない。『耶々』(2004)所収。(清水哲男)


November 17112004

 初雪も肉体もまだ日の匂い

                           柴崎昭雄

者は青森在住。青森地方気象台によれば、今年の初雪は10月27日だった。平年よりも、少し早めだろうか。ちらちらと、今年はじめての雪が舞いはじめた。空も風景も灰色に染まってはいるけれど、でも、どこかにまだ秋の名残りの明るさも感じられる。真冬のまったき鈍色の世界ではない。それを「日の匂い」と、臭覚的に捉えたところがユニークだ。雪にも日の匂いが感じられ、あまり雪らしくはなく、同時に人々の「肉体」にも、まだ雪に慣れない感覚が優先している。戦後の一時期に、俳句の世界で「身体」なる言葉が流行したことがあるけれど、あれは多分に精神性を含んだ肉体の意であった。が、掲句の場合には「カラダだけは大事にしろよ」などというときの「カラダ」の意に近いだろう。私の住む東京の人などと違って、雪国の人はみな、降雪現象に対する一種の諦念が自然に備わっているのだと思う。ジタバタしてもはじまらない、降るものは降るのだから……という具合にである。このときに、頼りになるのは「カラダ」だけなのだ。その「カラダ(肉体)」に「まだ日の匂い」を感じ取るというのは、そうはいっても「初雪」だけは別物だからに違いない。降るものは降ると覚悟を定める前の微妙な心の揺れが、この表現には滲んでいるようだ。いわば身体から肉体へと重心を移動させるときの、束の間の逡巡が巧みに詠まれていると感じた。『少年地図』(2004)所収。(清水哲男)


November 16112004

 露店の子落葉を掃いて帰りけり

                           久松久子

語は「落葉」で冬。最近は、とんと働く子供の姿を見かけなくなった。むろん、一般的にはそのほうが好ましい社会と言える。子供の頃に働いた経験のある人なら、誰もがそう思うだろう。この季節になると、井の頭公園の文化園前に車でやってくる焼き芋屋がいる。売り声は、小学校高学年くらいの女の子の声だ。いつ行っても「焼き芋〜、石焼き芋〜っ」とスピーカーから流れてくる。テープに仕込んであるわけだが、日曜などには声の当人とおぼしき少女がいることもある。けなげな顔つきだ。掲句の子も、おそらくそんな顔をしていたのではないだろうか。店を仕舞うときに、自分たちのために汚れたところをきちんと掃いて帰るのだ。落葉の季節には、それがまるで落葉掃きのように見えるので、作者はこう詠んだ。たとえメインの仕事は親がやっても、手伝う子供にも、ちゃんと後始末をさせる。これを常識では躾けと言うが、こうした躾けは働く現場がなくては身に付かない。といって、この句はべつに遠回しに教訓を垂れているのではなく、黙々と当然のように後始末をしている子のけなげな姿に、作者が特別ないとおしさを感じているということだ。それはまた、作者の小さかった頃の自分や友だちの誰かれの姿を思い出させてくれるからでもあるのだと思う。『青葦』(2004)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます