近所の図書館から「AERA」以外の週刊誌が姿を消した。途端に閲覧室の人数が半減した。




2004N1126句(前日までの二句を含む)

November 26112004

 世の中も淋しくなりぬ三の酉

                           正岡子規

日は「三の酉」。十一月酉の日の鷲神社の祭礼だ。東京台東区千束の鷲神社の市が有名だが、他の社寺でも境内に鷲神社を勧請し、この祭を行う所が多い。参道には、熊手や縁起物を売る店が立ちならぶ。三の酉のある年には火事が多いというが、十一月も終わりころになると寒さが募り、暖をとるための火を使うようになるので、火事に警戒せよという言い伝えだろう。実際、三の酉と聞くと、寒い日の思い出しかない。気象的にも寒いのだけれど、社会的にも寒々としてくる。商店街などでは年の暮れモードに入り、仕事も年末年始を見据えてあわただしさが増し、句のようになんとなく「淋しく」なってくる。「世の中」は、気象的な条件を含んだ人間社会と解すべきだろう。どうという句ではないようにも思えるが、三の酉のころの人々の心持ちがよく出ていると思う。二十代の終わりのころに入り浸っていた新宿の酒場「びきたん」は、花園神社に近かった。ママのしいちゃんは毎年熊手を買いに行くのだが、店を開けてから客が増えてくると、なかの何人かを誘い、あとの客に留守を頼んで出かけていた。そんなときに私は、誘われても行かずに、いつも留守番役を志願したものだ。寒風のなかなんぞに出かけたら、せっかくの酔いが醒めるからというのが理由だった。思えば、若いのに「淋しい」男だったな、私は。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 25112004

 掃除機の捌き見事や足袋の足

                           泉田秋硯

語は「足袋」で冬。まずは和服姿の女性像が浮かんでくる。いまどきの家庭では、和服姿で掃除をする女性はいないだろうから、自宅ではなく、どこか出先での光景だろう。催し物会場の後片付けだとか、和風旅館の掃除だとか……。見るともなく見ていると、実に彼女の手際が良い。掃除機を自在に扱っている。それを「足袋の足」、つまり彼女の足さばきに集約して詠んだところが面白い。俳句ならではの言い止め方である。畳箒で掃いていた時代には、かなり掃き方の巧拙の差は目立ったものだが、なるほど「掃除機」のさばき方にも巧拙はある。私が下手なので、とてもよくわかる。どうしても箒時代の「四角い部屋を丸く掃く」みたいになってしまう。べつに手を抜いているわけじゃないのに、なんだか自然にそうなってしまうのだ。逆に、上手い人は子供のころから上手い。箒や掃除機に限らず、そういう人はどんな道具を扱わせても上手いのだ。人馬一体ならぬ人具一体とでも言うべきか。持って生まれた才能がそうさせるのだとしか、思いようがない。私などが日常的に悲観するのは、たとえば駅の券売機にコインを投入するときも、たいてい隣りの人よりももたもたしてしまうようなことだ。あんなものの扱いにだって、ちゃんと巧拙はあるのである。やれやれ、である。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


November 24112004

 寝酒おき襖をかたくしめて去る

                           篠田悌二郎

語は「寝酒」で冬。元来は寒くて眠れない夜に、酒で身体を暖め、酔いの力を借りて眠ったことから冬の季語とした。が、いまでは季節を問わず、習慣としての寝酒が必要な人も多いだろう。冬の夜、いつものように妻が寝酒を用意してくれ、いつものように書斎(でしょうね)に置いていった。で、「襖をかたくしめて去る」というのだが、ここが実はいつもとは違うのである。好人物の読者であれば、隙間風が入らないようにいつもの夜よりも「かたく」しめたと受け取るかもしれない。でも、妻の行為として「去る」の措辞ははいかにも不自然だ。二人の間に何があったかは知らないけれど、句は一種の神経戦の様相を描いたようにうかがえる。いつもの妻のつとめとして、寝酒だけは用意する。しかし、それはあくまでも義務を果たすというだけのことで、言葉ひとつかけるわけでもなく、完全によそよそしい態度なのだ。よそよそしくも念入りに、無言のまま襖を「かたく」しめるという意地の悪さ(としか思えない)。それでなくとも寒い夜が、作者には心底冷え冷えと感じられたことだろう。たとえ神経戦の中味は、作者の非が原因であろうとも、こうした陰湿なふるまいに、たいていの男はまいってしまう。むろん私にも同種の覚えがあることなので、こう読んでしまったわけだ。たぶん、正解だと思いますよ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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