2004N12句

December 01122004

 植木屋の妻の訃知りぬ十二月

                           沢木欣一

頃は寡黙な出入りの「植木屋」が、珍しく話しかけてきた。「妻の訃(ふ)」を告げて、おそらくは年末年始の挨拶を遠慮させてもらうと言ったのだろう。「十二月」ならではの光景である。作者も彼女にはいささかの面識があり、驚いて問い直すと、今年亡くなったとはいっても、もうだいぶ前のことだったらしい。それを黙ったままで普段通りに仕事にやってきていた彼の姿が、目に浮かぶようではないか。思い返してみれば、長年のつきあいである。お互いに歳をとったものだなと、そのことにも作者はあらためて感じ入っているのだ。シチュエーションは違うけれど、例年十二月になると、多くの人が何人かの訃報を受け取ることになる。「喪中につき」年末年始の欠礼を知らせる葉書が届くからだ。既に私のところにも何葉か届いていて、同世代の友人からのものだと、亡くなった方が親の場合、享年は八十代後半以上の方々ばかり。葉書を見ながらずいぶんと長生きされたなとは思うのだが、この方々はみなかつての戦争で苦労された世代である。詩人の北村太郎が「長生きしたからといって大往生などと言うな。死んだことも無いくせして……」と言ったように、とくにこの世代の死については、安易にそんなことは言えないだろう。楽しかるべき青春も知らずに、ただ苦労するためだけに生まれてきたような人たちだからである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 02122004

 寒牡丹撮るとき男ひざまづく

                           折戸恭子

語は「寒牡丹(かんぼたん)」で冬。藁でかこって育て、厳冬にも花を咲かせる。花の写真撮影を趣味にする人は多い。近所の神代植物公園に行くと、薔薇の季節などはカメラの砲列状態だ。デジカメではなく、ほとんどが三脚を立て、フィルムを装填した高価そうなカメラで撮影している。が、寒牡丹のように背丈の低い花は、脚を立てるわけにはいかないので、句のように手持ちで撮らざるを得ない。このときに、どれだけ撮影に熱中しているかが、撮影者の姿勢にあらわれるのだ。ついでにこの花もちょっと押さえておこうくらいの軽い気持ちの人は、適当にかがんで撮る。だが、熱くなっている人はまさに「ひざまづく」のである。地面の冷えやズボンが汚れるなんぞは何のその、この姿勢のほうが手ぶれを最小限にとどめられるし、かがむよりもよほど被写体に肉薄できる。気がつけば、知らず知らずにそんな姿勢になっていたということだろう。作者にはその様子が、何か「男」が神々しいものに「ひざまづく」かのようにも重なって見えたというのである。むろんカメラの男にそんな気はないはずだけれど、人の熱中している姿には、たしかに敬虔な心映えといったものを感じさせられる。「ひざをつく」としなかった作者の目は、確かだ。ピュアであることは美しい。ピュアだけでは生きられない人間社会だからこそ、そうなのである。俳誌「街」(2004年12月号)所載。(清水哲男)


December 03122004

 廚の灯おのづから点き暮早し

                           富安風生

語は「暮早し」で冬。年の暮れのことを言うのではなく、冬時の日暮れの早さを言う。「短日」の傍題。句のミソはむろん「おのづから点(つ)き」にある。いかにも言い得て妙。「廚(くりや)の灯」が「おのづから」点くことなどないわけだが、まだこんな時間なのにもう灯が点いているという小さな驚きが、それこそ「おのづから」口をついて出てきた恰好だ。昔の食事の仕度にはかなりの時間を要したので、どの家でもたいがいは台所から点灯されたものである。それに、台所自体が昼でも薄暗い構造の家が多かった。めったに使わない客間などを明るく作ったのは、いったいどんな考えからなのだろうかと、いまどきの若い人なら訝しく思うに違いない。が、現代的なダイニング・キッチンの意識が定着してから、かれこれ三十年くらいだろうか。こうした俳句の味が実感的にわかる人は、まだたくさんおられるけれど、いずれは難解句になってしまいそうだ。あたりがある程度の暗さになると、本当に電気が「おのづから」点く装置(我が西洋長屋の廊下には、何年も前から取り付けられている)も、そのうちに普及してくるだろうし、そんなことを考えると掲句の寿命も目の前である。古い日本の抒情の池も、急速に干上がってきつつあるということだろう。(清水哲男)


December 04122004

 おでん煮る玉子の数と頭数

                           奥村せいち

語は「おでん」で冬。「煮込み田楽」の略称(って、ご存知でしたか)。昔の関西では「関東だき」と言っていたけれど、いまではどうだろうか。句意は明瞭。どこの家庭でも、おでんの大きな具は人数分だけ煮る。当たり前と言えば当たり前だ。が、ここに着眼して詠んだ作者の気持ちには、この当たり前を通じて、庶民の暮らしのつつましさ全体を表現したいという意図がある。おそらくは、かつての食糧難時代を経験された方だろう。いまでこそ食べようと思えばいくつでも食べられる玉子だが、当時はとても高価で、なかなか口に入らなかった。現在「頭数」分だけ煮るのは、むろん食糧難を思い出してのことではないけれど、しかしどこかに過剰な贅沢に対する躊躇の意識があって、そうしていると言えなくもない。食糧難の記憶は、体験者個々人のそれを越えて、社会的なそれとして残存しているような気がする。だからまず現在の家計にはほとんど影響しない玉子でも、依然として一人一個ずつなのではなかろうか。作者のような目で生活を見つめてみると、他にも同じようなことが発見できそうだ。個人が忘れ去ったこと、あるいは体験しなかったことでも、社会が代々受け継いで覚えているという証が……。掲句に、そういうことを考えさせられた。俳誌「航標」(2004年12月号・「今年の秀句五句選」欄)所載。(清水哲男)


December 05122004

 反論のありて手袋はづしけり

                           西村弘子

語は「手袋」で冬。これは、ただならぬ雰囲気ですぞ。喧嘩ではないにしても、その寸前。と、掲句からうかがえる。作者自身のことを詠んだのかどうかは知らねども、句を見つけた俳誌「鬼」(2004/No.14)に、メンバーの野間一正が書いている。「弘子さんは、意見をはっきり述べ納得するまで自説を曲げない。一方、頭脳明晰、理解早く、後はさばさば竹を割ったようなさっぱりとした性格の、大和撫子である」。いずれにしても、こういうときの女性特有の仕草ではあるだろう。男が「手袋」をはずしたって、別にどうということはない。ほとんど何のシグナルにもならない。しかし、女性の場合には何かが起きそうな気配がみなぎる。状況としては、相手と一度別れるべく立ち上がり、手袋をはめたのだが、立ち上がりながらの話のつづきに納得できず、もう一度坐り直すという感じだ。周囲に知り合いがいたら、はらはらするばかり。知り合いが男の場合には、口出しもならず、ただおろおろ。決して喧嘩ではないのだけれど、私も周囲の人として遭遇したことは何度かあって、疲れている場合には内心で「いい加減にしろよ」とつぶやいたりしていた。でも、女性がいったんはめた手袋をはずすだけで、その場の雰囲気が変わるのは何故だろうか。それだけ、女性と装いというのは一心同体なのだと、いかにも知ったふうな解釈ですませてもよいのだろうか。ううむ。『水源』(2004)所収。(清水哲男)


December 06122004

 手術同意書に署名し十二月

                           中岡毅雄

まれた月が「十二月」だから、句になっている。他の「十一月」や「十月」では句にならない。こういうところが、俳句の面白さだ。一年の最後の月なので、普段の月にはない雑事をこなさなければならないのだが、もう一つには一年を無事に締めくくりたいという意識も頭をもたげてくる。家内安全、無病息災……。今年一年を何事もなく、つつがなく全うしたい。全うして年を越したい。もう少しで、それを完遂できる。単なる時間経過の一標識にすぎない十二月ではあるけれど、心的にはそうした意識が、いわば伝統的に植え付けられており、むずむずと動き出す。だから、風邪でもひくと他の月よりも嫌な感じがする。それでなくとも多忙な仕事などに差し支えることもあるが、それよりも無事越年願望に障るからだ。だが年末であろうと、風邪を含めて病気は待ってはくれない。借金取りとは違うのである。ましてや「手術」ともなれば、その緊急性と病院のシステム上の問題もあるので、年明けまでずらすことはできない。病気は仕方がないとしても、選りに選って十二月に手術とは……。みずからの不運を突き放してはみるものの、なおそれがこの月に降り掛かってきたのは口惜しい。作者の心のうちでは、「手術同意書」を書くことによって、今年をスムーズに乗り切れないことへの諦念のようなものが、ようやく定まったかもしれない。逆に、余計に口惜しさが募ったかもしれない。句の表面的な変哲のなさが、かえって読者の心を騒がせる。「俳句研究」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


December 07122004

 ケータイのあかりが一つ冬の橋

                           坪内稔典

ましたっ。パソコンを詠んだ句は散見するようになったが、携帯電話の句はまだ珍しい。俳人には高齢者が多いので、装置そのものを持っていないか、持っていても若者のように頻繁に使ったりはしないからだろう。要するに、あまり馴染みがないのである。加えて、携帯電話を「携帯」と略すことにも抵抗がある。句に「携帯」と詠み込んだだけでは、厳密に言えば何を携帯しているのか、意味不明になってしまう。そこで作者は「携帯」とせずに、片仮名で「ケータイ」とやった。この表記だと、読者にも当今流行のアレだなと見当がつく。さて、寒くて暗くて長い「冬の橋」。人通りも少なく、閑散としている。作者は、その橋を少し遠くから眺めている恰好だ。と、そこへ「ケータイ」を持った人が通りかかった。男か女かもわからないけれど、小さな液晶画面のバックライトだけが、明滅するかのように動いてゆく様がうかがえる。いったい、こんなところでこんな時間に、誰が何のために何を発信しているのだろうか。蛍の光ほどの淡い「あかり」のゆっくりとした移動を見ているうちに、しかし作者は持ち主である人間のことを次第に忘れてしまい、なんだか「あかり」だけが生きて橋を渡っているかのように思えてくるのだった。これぞ「平成浮世絵」の一枚だなと、読んだ途端に思ったことである。『俳句年鑑・2005年版』(2004・角川書店)所載。(清水哲男)


December 08122004

 鰤にみとれて十二月八日朝了る

                           加藤楸邨

語は「鰤(ぶり)」で冬。「十二月八日」は、先の大戦の開戦日(1941)だ。朝市だろうか。見事な鰤に「みとれて」いるうちに、例年のこの日であれば忸怩たる思いがわいてくるものを、そのようなこともなく過ぎてしまったと言うのである。平和のありがたさ。以下は、無着成恭(現・泉福寺住職)のネット発言から。「私はその時、旧制中学の2年生でした。校庭は霜で真白でしたが、その校庭に私たち千名の生徒が裸足で整列させられ、校長から宣戦布告の訓辞を聞いたのでした。六十二年も前、自分がまだ十五才の時の話ですが、十二月八日と言えば、私が鮮明に思い出すのはそのことです。お釈迦様が悟りをひらかれた成道会のことではありません。今、七十五才ぐらいから、上のお年の人はみんなそうなのではないでしょうか。加藤楸邨という俳人の句に『十二月八日の霜の屋根幾万』というのがありますが、霜の屋根幾万の下に、日本人私たちが、軍艦マーチにつづいて『帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ』という放送を聞いた時、一瞬シーンとなり、そのあとわけもなく興奮した異常な緊張感が、この句には実によくでていると思います。あのとき味わった悲愴な感慨を、六十二年後、十二月八日から一日遅れた、十二月九日に味わうことになってしまいました。それは小泉純一郎首相による自衛隊の『イラク派遣基本計画閣議決定』の発表です。私はこれを六十二年前の宣戦布告と同じ重さで受取り、体がふるえました。こういうことを言う総理大臣を選んだ日本人はどこまでバカなんだ」(後略)。『加藤楸邨句集』(2004・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


December 09122004

 すき焼やいつもふらりと帰省の子

                           永井みえ子

語は「すき焼(鋤焼)」で冬。都会の大学に通っている息子が、この冬も「ふらりと帰省」してきた。帰ってくるときには、電話くらいしなさい。いつもそう言っているのに、今度もまた「ふらり」である。ちょっとまた小言を言ったものの、母である作者はとても嬉しい。さっそく、夕飯は「すき焼」のご馳走だ。そんな息子だから、肉をつつきながらもほとんど物は言わないのだろう。それでも、そわそわ浮き浮きとしている作者の顔が目に浮かぶ。照れくさいんだよね、久しぶりの我が家は……。牛肉、ねぎ、焼き豆腐、しらたき、春菊、白菜、稀には松茸等々。昔は、父親のボーナス日くらいしか、めったにお目にかかれない「大ご馳走」だった。だが、掲句に水をかけるわけではないけれど、最近の子供や若者には人気がないという。子供らにいたっては、マクドナルドのハンバーガーのほうが美味いと言うそうである。たしか、ねじめ正一が自分の息子たちを観察して、そんなことを書いていた。さも、ありなん。原因は、現代の肉の潤沢さにあるのだと思う。ちゃんとした牛肉は高価ではあるが、昔ほどではない。あのころは、大人も子供もとにかく肉に飢えていたので、目の色を変えて鋤焼をつついたものだった。鍋に残った肉汁を、いじましくもご飯にかけて食べもした。往時茫々。ならばいまどきの母親は、帰省してきた子に、何をもってご馳走とするのだろうか。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 10122004

 木枯やいのちもくそと思へども

                           室生犀星

語は「木枯」で冬。67歳(1956)の日記に「ふと一句」として、この句が書かれている。知人にも手紙で書き送っているが、もとより発表を意図したものではない。それだけに、かえって犀星の心境が赤裸々に伝わってくる。ヤケのやんぱち。どうにでもなりやがれ。とは思うものの……。と、心が揺れているのは、体調がすこぶる悪く、医者通いの日々がつづいていたからだ。何種類かの薬を常飲し、注射を打ち、血圧は午前と午後に二度計っている。このころの犀星は創作意欲にみなぎっていたと思われるが、如何せん、身体がついてきてくれない。そのことからくる焦りが、「ふと」掲句を吐かせたのだった。しかし、そうした肉体的な衰微と闘いつつ、この年に『舌を噛み切った女』、翌年には『杏っ子』、そのまた翌年には『わが愛する詩人の伝記』と、矢継ぎ早に秀作を発表しつづけた。当時リアルタイムでこれらを読んでいた私には、彼が人生的幸福の絶頂にあると感じていたけれど、しかし人のありようとはわからないものだ。いかに世俗的な成功をおさめようとも、そんなものが何になる。肉体の衰えを抱いていた犀星は、きっと孤独のうちに悶々としていたにちがいない。元気がなにより。これは凡人の気休めなどではなく、永遠の真実だと、最近の私はつくづく思う。(清水哲男)


December 11122004

 まだ使ふ陸軍毛布肩身さむ

                           平畑静塔

語は「毛布」で冬。句としてはどうということもないけれど、戦後生活のスケッチとして残しておきたい。「陸軍毛布」は、戦前戦中に陸軍で使ったもの。白っぽい海軍毛布とは違い、いわゆる国防色(カーキ色)だった。父が陸軍だったので、戦後の我が家では毛布のみならず飯盒や水筒にいたるまで、国防色だらけ。敗戦時に、それらを兵隊が持ち帰り、日常生活に使用していたわけだ。毛布と言っても、ふわふわしていない。極端に言えば、薄いカーペットみたいだった。だから着て寝ても、「肩身さむ」となるわけである。ふわふわの毛布が欲しくても、高価で買えない。我慢するしかない。その侘しさよ。句の発表時には、多くの人が思い当たり共感したことだろう。軍隊毛布のごわごわ・ごつごつは、むろん堅牢性耐久性を考えてのことだ。触ったことはないが、いまの自衛隊の毛布でも、相当なごわごわ・ごつごつではないだろうか。そういえば軍隊に限らず、プロ仕様の装備品や用具類は、現代の物でもたいていがごわごわ・ごつごつしている。たとえばプロ野球のユニフォームでも、草野球のそれなどとは大違いだ。数回すべりこんだら破れてしまうような、ヤワな出来ではないのである。現代の私たちはすっかりふわふわした物に慣れきってしまっているが、このことが心理的精神的にもたらしている影響は計り知れず大きいに違いない。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 12122004

 初雪は隠岐に残れる悲歌に降る

                           野見山朱鳥

語は「初雪」。724年(神亀元年)に、公式に流刑地として定められた「隠岐」島。以来、江戸時代末期まで1000年以上にわたり、主に身分の高い政治犯が流された。有名どころでは、小野篁(小野小町の祖父)、後醍醐天皇、後鳥羽上皇がいる。前二者がしぶとくも再起を果たしたのに対して、鎌倉幕府転覆に失敗した後鳥羽上皇は、数人の側近とともに再び京の都へ帰ることを強く望みながら、崩御するまでの19年間にわたって島暮らしを余儀なくされた。彼は歌聖とも呼ばれた歌作りの名手であったから、この間に多くの歌を詠んでいる。「眺むればいとど恨みもますげおふる岡辺の小田をかへすゆふ暮」。恨みと涙と諦念と……。それらの歌からは、いまにしても深い絶望感が伝わってくる。すなわち、悲歌である。そうした悲しい歴史を持つ隠岐に、初雪が舞いはじめた。灰色の空と海を背景に舞う白いものの情景を、ずばり「悲歌に降る」と言い止めた技倆は素晴らしい。これで、俳句の寸法が時空間に大きく広がった。作者自身が、このとき歴史の中に立ったのである。上皇が見たのと同じ初雪を感じているのだ。余談ながら現在の隠岐には、後鳥羽院の歌を集めた「遠島百首かるた」があるそうである。『幻日』(1971)所収。(清水哲男)


December 13122004

 わが影を壁に見てゐる炬燵かな

                           大崎紀夫

語は「炬燵(こたつ)」。孤影。というと大袈裟になるが、深夜、ふっとおのれが一人きりになった感じを言い止めている。これがリタイアした高齢者の句だとさして面白みは無いけれど、このときに作者は四十代の後半だ。まさに、働き盛りである。日頃の仕事や雑事に追われて、自分を顧みる余裕などはなかなか無い。それが、自宅の炬燵でくつろいでいるうちに、いつの間にか壁に写った「わが影」を見ている自分がいた。これがオレなのか……。壁の影を見つめる行為には、鏡を見るのとは違って何の目的も無い。だからこそ余計に、さまざまなことに思いが至るきっかけになる。オレはいったい何をしているのか、何をしてきたのか……。自分の存在が卑小にも見え、心はかじかんでくる。明日になればケロリと忘れてしまう感慨ではあろうが、この種のひとりぼっちの実感を持つことは、その人の幅を育てるだろう。以下雑談だが、掲句から作者の部屋の炬燵の置かれた位置がわかる。かなり壁際に近い場所に置かれてないと、横の壁に自分の影は写らない。もちろん他の家具の配置との関係もあるが、たいていのお宅ではそのように置かれているのではあるまいか。そして来客のあるときだけ、真ん中辺に持ってくる。でも、部屋の真ん中にある炬燵は、何故か落ち着かないものですね。旅館などで真ん中に置かれていると、私は必ず壁際にずるずると移動させてからあたることにしています。貧乏性なのかなあ、とても殿様の器ではない。『草いきれ』(2004)所収。(清水哲男)


December 14122004

 冬夕焼しばしロスコが来てをりぬ

                           井田美知代

Rothko
語は「冬(の)夕焼」。冬の夕焼けは、たちまち薄れてしまう。そこを「しばしロスコ」が来ているかのようだと言い止めた。さもありなん。残念ながら私は実際の絵は見たことがないのだけれど、たしかに冬夕焼けは左の図版(ポスター)にあるように、ロスコの醸し出した雰囲気や色調によく似ている。ゴッホに似ているとかミレーに似ているとかと、しばしば私たちは現実の光景を画家の作品になぞらえて感じることがある。が、掲句では似ているという域を超えて、そこにあたかも画家自身が立っているようだと言っているわけだ。画家と一緒に夕焼けを仰いでいるのである。この束の間の共生感がとても鮮やかで、心に沁みた。マーク・ロスコ(Mark Rothko)は、日本ではあまりポピュラーとは言えないだろう。20世紀、ソ連出身のアメリカの画家だ。微妙な色彩、色面と色面を区切る茫洋とした線を特色とする画面は、「アクション・ペインティング」とも「ハードエッジ」の抽象画とも一線を画した、ロスコ独特のもので、不思議な詩情と崇高さを湛えている。アメリカでは、コマーシャル的な空間にも大作を描いている。日本には、千葉県佐倉市の川村記念美術館に、四面の壁に連作を掛け並べた「ロスコ・ルーム」があるそうだ。1970年に謎の自殺を遂げている。六十六歳だった。『雛納』(2004)所収。(清水哲男)


December 15122004

 惜別の榾をくべ足しくべ足して

                           高野素十

語は「榾(ほた)」で冬。囲炉裏や竃に用いる焚き物。枯れ枝や木の切れ端など。今宵限りで長い別れとなる友人と、囲炉裏端で酒を酌み交わしているような情景だろう。「くべ足し」のリフレインに、なお別れがたい心情が切々と響いてくる。囲炉裏の火勢が弱まると、それを潮に相手が立ち上がりそうな気がして、せっせと「榾」をくべ足しているのだ。惜別の情止み難く「まだ宵の口だ、もう少し飲もうじゃないか」と、口にこそ出さないが、くべ足す行為がそのことを告げている。くべ足すたびに強まる榾火に、友情が厚く輝く。詠まれたのは戦前だ。惜別に至る事情はわからないが、たとえば友人が外地に赴任するというようなことかもしれない。現在とは違い、外国に行くとなると、もう二度と会えないかもしれないという思いも強かったろう。なにしろ、交通の便がよろしくない。いまのように、ジェット機でひとっ飛びなんてわけにはいかない。多少の時間をかければどこにでも行けるようになった現今では、それに反比例して、惜別の情も薄くなってきたと言うべきか。この句が載っている処女句集の序文で、虚子は「磁石が鉄を吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。文字の無駄がなく、筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光である」と絶賛している。同感だ。「榾」で、もう一句。「大榾をかへせば裏は一面火」。顔面がカッと熱くなる。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


December 16122004

 ゆきひらに粥噴く大雪注意報

                           大森 藍

行平鍋
日も北国のどこかでは、こういう情景がありそうだ。「ゆきひら」といっても、実物を使っている人ですら、もう名前を知らない人のほうが多いかもしれない。「行平鍋」の略。在原行平が須磨で、海女に潮をくませて塩を焼いた故事にちなむという。陶製の平鍋で、把手(とって)、注口があり、蓋をそなえたもの。金属製のものもある。子供が風邪でも引いたのだろう。何か食べやすく暖かいものをと、手早くゆきひらで「粥」を作ってやっている。煮えてきて威勢良く噴き上がる様子を見ている作者に、テレビからかラジオからか、「大雪注意報」が聞こえてきた。大雪でも大雨でも、避けようもない自然現象に閉じ込められようとするとき、人と人との親和力は増してくるようである。自然の猛威のなかでは人は無力に近いから、お互いに寄り添う気持ちが高まってくるのだ。大人であれば保護者意識が高まり、子供は逆に被保護への気持ちが強くなるとでも言うべきか。見知らぬ人同士でさえ、なんとなく親しみを覚えたりする。作者の場合には、粥を食べさせる相手が病人だから、なおさらだ。といって、こうした意識には悲壮感はあまり無く、むしろ身近に保護すべき人がいることに安らぎの念すら湧いてきたりするものだ。粥は、そろそろ出来上がる。早く子供に出してやって、美味しそうに食べる顔を見てみたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


December 17122004

 天気図のみな東向く雪だるま

                           内田美紗

語は「雪だるま(雪達磨)」。正規の「天気図」ではなく、新聞などに載る天気予報図だ。天気の状態を晴天ならば太陽、曇天なら雲、雪なら「雪だるま」といった具合に、小さな絵をつけてわかりやすくしてある。その雪だるまが、みな「東」を向いているというのだ。もともとの画像が一つだから、何個並ぼうとも同じ方角を向いていて当たり前なわけだけれど、なんだかお互いが示し合わせて東を向いているように見えて可愛らしくもあり、可笑しくもある。と、ここまでの解釈で止めてもよいのだが、しかし、もう一歩進めてみるのも面白い。というのも、私の知る限り、この種の天気図で東向きの雪だるまを見たことがないからである。あらためていくつかの予報図を調べてみたが、みな正面を向くか、心持ち西を向いているものばかりだった。正面向きはよいとして、心持ち西向きなのには理由がある。日本全図で雪の多い地方は地図の東側(右側)にあるから、雪だるまマークは当然東側で多用される。したがって、雪だるまが東(右)を向いていると、みな日本各地にそっぽを向く感じになってしまう。そこでマークを描く際には、やはり秩序感覚からして西向きにしたほうが良いという意識が働くはずだ。だから私などは掲句を読んだ途端に、えっと思った。こりゃあ相当に偏屈なおじさんが作った図だなと感じたのだ。実際に東向きのマークを載せた天気図があるのだろうか、あるとすれば極めて珍しい。それとも、これは作者が素知らぬ顔で読者に仕掛けた悪戯なのだろうか。ご当人に聞いてみたい気がする。『魚眼石』(2004)所収。(清水哲男)


December 18122004

 クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

                           桂 信子

前の句だ。結婚して、何廻り目かの「クリスマス」。気がついてみたら、乙女時代のちょっと浮き浮きするような気分とは程遠くなっていた。結婚前には予測もつかなかった諸々の事情が身辺に生じてきて、もはやクリスマスをロマンチックに捉えることなどできない心境だ。その「かなしみ」。現代とは違い、昔の嫁は様々な社会的なしがらみにしばられていたので、精神的にも自由であることは難しかったろう。ましてや、クリスマスの頃は多忙を極める年の瀬だ。普段以上に何かと負担がかかり、ハッピー・ホリデーなどは完全に他人事でしかない。昔の「妻」が世間をはばからずに休めるのは、年も明けてからの女正月(「小正月」とも。冬の季語)くらいのものであった。ただ、当時は時局も戦争へと雪崩をうっていたので、女正月を祝う風習も形骸化していたのではあるまいか。掲句を詠んでからしばらくして、作者は夫に先立たれている。「夫逝きぬちちはは遠く知り給はず」。珍しい無季の句で、それだけに茫然としている様子が直裁に伝わってくる。また一方では、遠くにいる両親に早く知らせねばと、気丈な気遣いが芽生えているのが哀しい。作者は、一昨日(2004年12月16日)九十歳で亡くなられた。合掌。『月光』(1948)所収。(清水哲男)


December 19122004

 賀状書く心東奔西走す

                           嶋田摩耶子

語は「賀状書く」。私もそうだが、今日あたりは賀状書きに専念する人が多いだろう。そういう日に読むと、この句はまさにどんぴしゃりだ。「東奔西走(とうほんせいそう)」には、二つの意味が重ねあわされていると思う。一つは、賀状の宛先は全国各地に散らばっているので、それぞれの地域に束の間あわただしく思いを馳せての「東奔西走」である。もう一つは、賀状書き以外の年用意のことが気になってのそれだ。賀状書きも大事だけれど、新年を迎えるまでにやるべきことが他にもたくさんある。書きながら、ついつい他のあれもこれもと「心」が飛び回り、なかなか落ち着けない状態を言っている。むしろ後者の意味に、句の比重がかけられているような……。もっとも、最近は宛名をプリンターで刷りだしている人が増えてきたので、前者のような心持ちは薄れているだろう。私は宛先のみ、いまだに手書きだ。受け取る相手に失礼というよりも、どこかを手書きにしないと出した実感が残らないからである。手応えが無い。さて、今日は何枚書けるだろうか。年内の原稿仕事も何本か残っていて、しかも締め切り日が過ぎているのもあって、きっと「心」は大いに「東奔西走」することだろう(笑)。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 20122004

 集乳缶深雪を運び来て冷めず

                           中川忠治

人協会会員を対象にした「第11回俳句大賞」で、最高点を得た句。選考委員のなかで、この句を最も推したと思われる鈴木貞雄の選評は次のようだ。「山の牧場であろう。決まった時間に搾乳室で牛の乳を搾り、大きな集乳缶に入れて運んでくる。深雪をきしませ、白い息を吐きながら運んでくるのだ。しかし、集乳缶の中の乳は、搾った時のままの温さを保っている。深雪の中に生きる乳牛の命の温みが、伝わってくるようである」。解釈としては、この通りだろう。が、この句のいちばんのチャーム・ポイントを言うとすれば、もう少し付け加える必要がある。それは、句に二つの主体が出てくる点だ。すなわち「集乳缶」を運んでくる主体と「冷めず」と断定している主体とは、明らかに違う。前者の主体は牧場の人であり、後者のそれは作者である。もとよりこうした主体入れ替えの手法はさして珍しくはないけれど、一句のどのあたりで入れ替えるかがポイントだ。作者の、いわばセンスの見せどころとなる。掲句では、それが最後の三文字「冷めず」で適用されており、その唐突さによって読者への衝撃力が高まった。つまり内容的にはあくまでも暖かい句なのだが、手法的にはクールそのものである。この段差が、句を引き締めている。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第404号・2004年12月5日付)所載。(清水哲男)


December 21122004

 山国にがらんと住みて年用意

                           廣瀬直人

語は「年用意」で冬。新年を迎えるための諸支度。ミソは「がらんと住みて」だ。家の中が「がらんと」しているなどと使う「がらんと」であるが、それを「山国」全体に適用したところがユニークである。いかにも茫洋とした山国の空間を言った上で、なおゆったりとした時間の流れをも暗示している。平常はそんな時空間に暮らしている我が身でも、この時期になると、それなりの「年用意」でけっこう忙しい。大掃除や障子貼り、外回りの繕いや松飾りの手配などがあり、さらには正月用の買い物もある。平素は「がらんと住みて」いるがゆえに、それだけ余計にせわしなく感じられるということだろう。年中行事のあれこれについては、都会よりも田舎のほうが気を使う。都会では何の支度もせずに新年を迎えても、誰も何とも言いはしないけれど、田舎ではなかなかそうはいかない。あからさまに指摘はされずとも、村落共同体の目が、いつも厳しく光っているからだ。少なくとも表面的には、世間並みにつきあっていく必要がある。抜け駆けも許されないが、故意のドロップアウトも許されない。昔から、みんなで足並みを整えていくというのが、村落共同体の生き残る知恵であり、暮らしの条件なのであった。現代に至っても、その基調にはなお根強いものがあると思う。田舎の友人と話したりするとき、そのことをよく感じる。『矢竹』(2003)所収。(清水哲男)


December 22122004

 風邪引いて卵割る角探しをり

                           田中哲也

語は「風邪」で冬。どういうわけか、毎年この時期になると風邪を引く。昨年も引いたし、一昨年も引いた。そして、また今年も。寝込むほどではないのだけれど、それでなくとも気ぜわしい折りの風邪は鬱陶しい。句の作者は思いついて、風邪引きの身になにか暖かいもの、たとえば卵酒のようなものを作ろうとしているのだろう。ふだんから台所仕事をしていればこんなことは起きないが、たまに厨房に立つと、意外なところで戸惑ってしまうものだ。卵なんぞはそこらへんの適当な「角」で割ればよさそうなものだが、それがそうでもないのである。割りようによっては失敗することもあるし、打ち付けた調度の角を傷つけてしまうかもしれない。要するに卵を割るときの力の入れ具合(コツ)がわからないから、こういうことが起きるわけだ。鼻水をすすりながら、束の間あちこちに目をうろうろさせている作者の姿は滑稽でもあるが、私のように平生から台所に無縁のものからすると、大いに同情を覚える。ぼおっとした頭で「角」を探すのと同じ行為は、誰にでもその他の生活シーンではあることだと思う。ならば台所慣れしている人が何の角で割っているかというと、ほとんどが無意識のうちに割っているので、あらためて聞かれてもわかるまい。でも、台所に立てばきちんと割れる。頭で考えてから割るのではなく、身体が自然にそうしているのだ。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)


December 23122004

 師のたより待つ数へ日の数へごと

                           深谷雄大

語は「数へ日」。年も押し詰まって、残る日数が指を折って数えられるほどになった頃のこと。今年も、あと十日を切ってしまった。年用意などあまりしない私だが、それでもやはり少々焦ってくる。日に何度かは、あと何日とカレンダーで確認したりしている。句の作者は、そんな「数へ日」のなかで「師」から来るはずの「たより」を待っている。年末くらいまでという約束で、何かをお願いしているのだろう。依頼の中味は、早く届けば早いほど嬉しい性質のものに違いない。しかし、誰もが忙しい歳末だ。電話で催促がましい事を言うのもはばかられて、今日か明日かとただひたすら待つしかないのである。すなわち、「数へ日」のなかの別の「数へごと」にも心を砕いている……。年末の「数へ日」のなかに、いわば年末とは限らない日常的な「数へ日」が混在している恰好だ。言われてみればこういうこともありうるわけで、多く「数へ日」の句が年用意の多忙に焦点を絞って詠まれているなかでは、目のつけどころが面白い。しかも相手が「師走」の「師」とくれば、にやりとさせられた読者もいるのではなかろうか。ところで「数へ日」という季語が定着したのは、意外なことに三十年ほど前のことだという。まだ新しい季語なのだ。なるほど、手元の1950年代に刊行された角川版歳時記には載っていない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 24122004

 火が熾り赤鍋つつむクリスマス

                           小松道子

ち着くところ、このあたりが現代日本家庭でのクリスマスイブの過ごし方だろうか。「聖菓切るキリストのこと何も知らず」(山口波津女)でも、それで良いのである。家族で集まって、ちょっとした西洋風のご馳走を食べる。「赤鍋(あかなべ)」は銅製の鍋だから、句のご馳走は西洋風鍋料理だろう。「火が熾(おこ)り」、炎が鍋をつつむようになると、みんなの顔もぱっと赤らむ。ここで、ワインの栓を抜いたりする。TVコマーシャルにでも出てきそうなシーンだが、ささやかな幸福感が胸をよぎる頃合いである。その雰囲気が、よく伝わってくる。しかし私など、クリスマス行事そのものを小学校中学年で知った世代にとっては、こうした情景にまさに隔世の感を覚える。信じられないかもしれないが、私は十歳くらいまでサンタクロースを知らなかった。絵で見たこともなかった。物心つくころには戦争中だったので、少し上の世代ならば誰もが知っていた西洋常識とは、不運にも遮断されてしまっていたわけだ。そしてクリスマスのことを知ってからも、しばらくはイブというと大人たちがキャバレーなどで大騒ぎするイメージが一般的だった。キリスト者の景山筍吉が詠んだ「大家族大炉を囲む聖夜哉」というような情景は、ごく稀だったろう。「針山に待針植えて妻の聖夜」(原子公平)。いささかの自嘲が籠っている感じはするけれど、こちらが一般的だったと言える。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 25122004

 縄跳のこゑつづくなり泪ふと

                           藤田湘子

語は「縄跳(なわとび)」で冬。最近は、とんとお目にかからない。したがって「縄跳のこゑ」も、もう何年も聞いていない。いつごろの作かはわからないが、縄跳あそびが下火になってからの句ではあるまいか。珍しく、縄跳に興ずる女の子たちの声が聞こえてきた。聞くともなく聞いていると、飽きもせずに長い間、同じ歌を繰り返している。そのうちに「こゑ」に触発されて、昔よく見かけた縄跳の情景が思い返されたのだろう。そして思い返すのは、単に女の子たちが遊んでいた様子だけではなくて、その時期の自分の状況だとか家庭や周辺の事情などもろもろのことどもである。それで往時茫々の感が徐々に胸を突いてきて、「ふと」うっすらと泪ぐんだと言うのだ。いつまでもどこまでも単調につづく縄跳うた……。それだけに忘れられないメロディでもあり、哀感も入り込みやすい。「泪ふと」の措辞は、思いがけないことが自分に起きたことを短く言い止めていて絶妙だ。縄跳うたは各地にいろいろとあるようだけれど、私がよく覚えているのは「♪おじょうさん、お入んなさい……」と「♪郵便屋さん、はよ走れ……」の二つだ。ちょっと歌ってみたら、あやふやなところもあるが何とか歌えた。小声で歌っているうちに、泪こそしなかったが、心がしんとなってきた。みんな、どうしてるかなあ。なお、珍しい英語の縄跳うた(?)がここで紹介されています。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


December 26122004

 お返しは小燐寸一つ餅配

                           池田世津子

語は「餅配(もちくばり)」で冬、「餅搗(もちつき)」に分類。家で搗いた餅がまだ柔らかいうちに、あんころ餅、からみ餅などにしてご近所や親戚などに配ること。スーパーなどで簡単にパック入りの餅が買えるいまでは、餅搗きもしないので餅配りの風習もすっかり姿を消してしまった。私が子供の時分には、このちょっとしたお裾分けが楽しみでもあり、ああお正月がやってくるのだという実感がわいてくるのでもあった。句にあるように、配られる側は何か必ずとりあえずの「お返し」をしたもので、普段からこういうときのために、実はあらかじめ品物を用意しておく。といって、あまり大袈裟なお返しもはばかられるので、如何にもありあわせのものという印象を与えるような小物類である。「小燐寸」(マッチの小箱)だとか煙草だとか、気軽に渡せるものが適当で、子供が届けにきた場合には飴玉の類も準備されていた。母はよく小さなお返しでも「気は心」だと言っていたが、その通りだろう。味噌や醤油でも貸し借りのあった時代である。近所付き合いは持ちつ持たれつの関係が密だったから、こうした風習も根付いていたわけだ。デパートからポンと物を贈り、お返しもまたポンでは便利ではあるけれどあまりに味気ない。「気」が伝わらないのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


December 27122004

 十二月肉屋に立ちて男の背

                           正木浩一

の「十二月」は、年も押し詰まってきたころを思わせる。奥さんにでも、買い物を頼まれたのだろうか。ふだんなら主婦の姿しか見かけない「肉屋」の店先に、ひとり「男」が立っている。通りがかりの作者はオヤッと一瞥したに過ぎないが、彼の「背」からなんとなく躊躇しているような様子が読み取れてしまった。作者の直感は、まず間違いなく当っているだろう。こういうときの背中は雄弁なのだ。そしてこれも、微笑ましい歳末風景の一齣である。実際、慣れない場所にいる人というのは、表情を読むまでもなく、すぐにわかってしまう。日頃から人が集まる場所には、それなりに形成される自然の流れというものがあり、慣れない人にはその流れが身体でつかめないからだ。だから、動きがギゴチなくなる。広いスーパーマーケットであろうと、狭い肉屋であろうと同じこと。どこで、何をどうするか。頭でわかっているだけでは、身体をスムーズに流れに乗せることはできない。反対に慣れた空間では、頭よりも身体が先に動くという具合に行動できる。これはおそらく、慣れた場所では身体の各部に遊びがあるからに違いない。目的に向かって一直線ではなく、自然なふるまいというものは身体的な遊びが起こさせるのだと思う。どんなに良く出来たロボットでも、どこか動作がギゴチないのは遊びが足らないせいではなかろうか。すなわち、身体の無駄な遊びが無駄のない動きを作り出すということだろう。『正木浩一句集』(1993)所収。(清水哲男)


December 28122004

 古暦あへなく燃えてしまひけり

                           成瀬櫻桃子

語は「古暦」で冬。本当は昨年の暦のことだが、年も押し詰まって新しい暦を入手すると、これまで使用してきたものが古く感じられることから、今年の暦も指す。俳句では、たいてい後者の意で使われているようだ。昔の我が家でもそうだったが、暮れの大掃除があらかた終わると、裏庭などで焚火をした。燃やせるゴミは、そこで燃やしてしまおうというわけだ。燃やせないゴミは、穴を掘って埋めたりした。だが、ただどんどん燃やしていくのではなく、年の瀬の気持ちとしては「ねんごろに古きもの焼き年惜しむ」(森絢子)と、普段よりもていねいな燃やし方になる。とくに手紙やノートの類だとか雑誌などになると、その年の思いが籠っているので、より「ねんごろ」にならざるを得ない。むろん「古暦」についても同じことで、掲句の作者は同じ気持ちで燃やしたのだったが、予想以上に早く「あへなく」灰になってしまったというのである。もう少しゆっくりと燃えてくれればよかったのに、なんだか、この一年があっけなく終わってしまったような感じがしてくるじゃないか……。一般的に、雑誌などの紙の束はなかなかすんなりとは燃えてくれない。が、この時期の暦の場合はほとんど台紙だけになっているので、紙束を燃やすようなイメージを持って焼くと、意外にあっけなくて拍子抜けしてしまうほどだ。おそらく作者の場合も、そういうことだったに違いない。『風色』(1972)所収。(清水哲男)


December 29122004

 吹きたまる落葉や町の行き止まり

                           正岡子規

語は「落葉」。歳末風景とは限らないが、押し詰まってきたころに読むと、ひとしお実感がわく。どこか侘しくも淋しい雰囲気があって、それがまた往く年を惜しむ気持ちにふんわりと重なるからだ。今年の落葉は遅めのようで、我が町ではまだ銀杏の葉が盛んに散っている。よく行く図書館への道筋に、ちょうど「行き止まり」の場所があって、まさに掲句のような感じだ。日頃はボランティアで掃除をしている老人も、最近は寒いせいか見かけない。となれば落葉はたまる一方で、ときおり風に煽られてはかさこそと音を立てている。しかし私は、きれいに掃除された町よりも、落葉がたまっているような場所が好きだ。汚いと言って、眉をひそめる人の気が知れない。というよりも、そもそも落葉を汚いと感じる神経がわからない。最近では隣家の落葉に苦情を言いにいく人もいるそうで、いったい日本人の審美眼はどうなっちゃってるのだろうか。句に戻れば、この風情は今日(きょう)あたりからの「町」ならぬ「街」でも味わえる。潮のように人波が引いてしまった官庁街やビジネス街を通りかかると、あちこちに落葉が吹きたまっている。年末年始とも、長い間麹町の放送局で仕事をしていたので、そんな侘しい光景は何度も目撃した。たしかに侘しいけれど、なにか懐かしいような気分もしてきて、実は密かな私の楽しみなのであった。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


December 30122004

 搗きたての冬雲の上ふるさとへ

                           正木ゆう子

語は「冬(の)雲」。いまや「ふるさと」へも飛行機で一っ飛びの時代だ。帰省ラッシュは今日もつづく。句のように、弾んだ心で乗っている人もたくさんいるだろう。地上から見上げると空を半ば閉ざしている暗い冬の雲も、上空から見下ろせば、日の光を浴びてまぶしいほどに真っ白だ。そのふわふわとした感じを含めて、作者はまるで「搗きたての」餅のようだと詠んでいる。いかにも子供っぽい連想だが、それだけ余計に読者にも楽しい気分が伝わってくる。ただしこの楽しさは、私のような飛行機苦手男には味わえない(笑)。なんとも羨ましい限りである。話は句から離れるが、その昔、ぎゅう詰めの夜行列車に乗っていて、よくわかったことがあった。周囲の人の話を聞くともなく聞いていると、帰省ラッシュとはいっても、楽しい思いで乗っている人ばかりじゃないということだった。年末年始の休暇を利用して厄介な話し合いのために帰るらしい人がいたり、都会暮らしを断念して都落ちする人がいたりと、乗客の事情はさまざまだ。そんな人たちを皆いっしょくたにして、テレビ・ニュースは帰省の明るさだけを強調するけれど、あのように物事を一面的楽天的にとらえるメディアとは何だろうか。そこで危険なのは、私たち視聴者がそうした映像に引きずられ慣れてしまうことだ。何も考えずに、物事に一面的楽天的に反応してしまうことである。テレビは、生活のための一つの道具でしかない。その道具に、私たちの感受性をゆだねなければならぬ謂れは無い。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


December 31122004

 除夜の月機械に注連を張りおわる

                           飴山 實

うした「除夜」の光景も、そんなに珍しいことではなかった。1956年(昭和三十一年)の句。戦後も、まだ六年目だ。大晦日まで「機械」を稼働させて、暗くなってからやっと仕事が終わり、ともかくも新年を迎えるための「注連(しめ)」を張り終わった。いわゆる一夜飾りは良くないと知ってはいるものの、生活のためには、そんなことを言ってはいられない。張り終えてほっと安堵した目に、仕事場の窓を通して、冴えかえる小さな月が認められた。来るべき年にさしたる目算もないけれど、どうか佳い年であってくれますように……。そんな思いが、自然に湧いてくる。このとき、作者は三十歳。「俳句をつくっていく中で、歴史を動かす一モメントとしての自分の位置と力を探りだし、確かめていきたい」と書く。この気概、現代俳人にありや、無しや。話は変わるが、除夜といえば除夜の鐘。アメリカ流のカウントダウンなどとは違って、撞きだす時刻は特に定まってはいない。おおよそ午前零時近くになって撞くわけだが、これにはもとより理由がある。というのも、現代の私たちは一日を「朝から」はじまるととらえているが、昔の日本人は「夜から」はじまると考えていた。つまり、日暮れてくると、もうそこにはかすかに「明日」が兆してくるのである。だから、午前零時ぴったりで日付が変わるという観念は薄く、今日と明日とはグラデーションのように徐々に移り変わってゆく。したがって、鐘撞きの開始を時計に合わせる必要はないというわけだ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)




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